『これから泳ぎにいきませんか』穂村弘/ここから書評がはじまる(岩倉文也)

文字数 1,580文字

本を読むことは旅することに似ています。そして、旅に迷子はつきものです。


迷えるあなたを、次の場所への移動をお手伝いする「標識」。

この「読書標識」はアナタの「本の地図」を広げるための書評です。


今回は詩人・岩倉文也さんが、書評『これから泳ぎにいきませんか』(穂村弘)について語ってくれました。

ぼくは中学時代の三年間を読書感想文を書くことに費やした。一年のときは太宰治の『人間失格』、二年のときはカミュの『異邦人』、三年ではドストエフスキーの『地下室の手記』。それぞれの作品を題材に、ぼくは傾け得るすべての力を使って感想文を書いたのだった。


今思えば訳のわからない情熱だったなと思う。夏休みに入る前から「あれで書こうこれで書こう」と思案をめぐらし、どの本を読めば効果的な感想文が書けるのか考えることに熱中した。そしていざ本を読みはじめれば、マーカーで線を引き付箋を貼り、ぼくの心を震わせる言葉を、一文字たりとも見逃すまいと血眼になった。読了し付箋まみれになった本は、まるで全身を矢で射ぬかれた兵(つわもの)のように、ぼくの前に横たわった。


原稿用紙五枚分の荒野が、ぼくの戦場だったのだ。


当時のぼくにとって、読書とは自分を傷つけるかもしれぬ戦いであり、感想文を書くとは、その戦いのなかでいかに自己が成長し変化したかを跡付ける辛い作業だった。

『これから泳ぎにいきませんか』は、そんなぼくの読書観、ひいては本との関わりをどう言語化するのかという問題について、新鮮な発見をいくつも与えてくれた。


本書には歌人・穂村弘の書評、文庫解説などが収められている。そしてへんな話ではあるが、それらの文章はどれも、本来の書評、文庫解説といった役割から少しだけ、どこか逸脱しているといった印象を受けた。


たとえば、本書を開いて最初に現れる書評の書き出しはこうだ。



海は、いつも予想以上に大きい。予想以上に大きいぞ、とあらかじめ心の準備をしていっても、実際に目の当たりにすると、おお、大きい、と思わされてしまう。

そうだ、これだった。これが海だよ。予想の皮がべろっとむけて、毎回、新鮮にそう感じる。目の前の現物の存在感が、常にこちらの心の容量を超えてくるところに凄さがある、と思うのだ。                                      



この文章だけを取りだして読めば、まさかここから書評がはじまるとは思えないだろう。しかし書評ははじまるのである。こうした書き出しに驚き、目を見張っている間に、ぐわと心をつかまれ、著者とともに本を読むことのきらめきを味わうことになる。


まだなにも読んでいないのに、ぼくはすでに感動している。なにか魔法にかけられたように、ぼくは本書を読みすすめる。


途中で、おや、と思う。まるで優れた掌編小説でも読むように、書評や解説をうっとり読んでいた自分に気がつく。これは変だぞ、と思う。だがそのときにはもう遅いのだ。


たぶん本書を読んだ後では、これまでと同じようには他の書評を読めなくなるだろう。他の書評があまりにも書評的であり、役割に忠実であることに疑問を抱かずにはいられなくなるからだ。


本書は、書評や解説といったものの、ひとつの可能性を示唆している。それは逸脱への欲求と言ってもいいかもしれない。ある本について語りつつ、その本から自由であること。それを徹底することで、ぼくたちは本との新しい関係を結べるのではないか。本書を読みながら、そんなことを思った。

岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。

Twitter:@fumiya_iwakura

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