あなたは必ず騙される!? 『叙述トリック短編集』序章&第1話(似鳥鶏)

文字数 23,855文字

現代ミステリの旗手・似鳥鶏が世に送る問題作『叙述トリック短編集』!


タイトルでネタバレしているけど大丈夫なのか!という心配はご無用。あなたもきっと、騙されます。


今回は序章と第1話をまるまる公開。 お楽しみください。

読者への挑戦状


 この短編集は『叙述トリック短編集』です。収録されている短編にはすべて叙述トリックが使われておりますので、騙されぬよう慎重にお読みくださいませ。



 しかしその前に、そもそも「叙述トリック」とは何か、という説明をしなければなりません。



 ミステリには「トリック」というものがあります。双子をすり替えたり氷でナイフを作ったりするあれです。そしてトリックには、いくつかの分類法があります。たとえば、



 ドアの鍵の掛け金に氷を挟んでおき、氷が溶けると掛け金が落ち、ひとりでに鍵がかかる。



 というのはいわゆる「密室トリック」です。


 一方、



 警察には「その時間は家でテレビを観ていた。番組の内容だって詳しく言える」と証言した。しかし実は、ワンセグやポータブルテレビを使って事件現場でテレビを観ていた。



 というのはいわゆる「不在証明トリック」です。


 また、



 ドアに内側から鍵をかけるためのつまみ(サムターンと言います)に糸を巻きつけておき、そのもう一方の端をドアの隙間から外に出す。外から糸を引っぱればサムターンが回り、鍵なしで外から鍵をかけられる。



 といったものを「物理トリック」と呼び、



 ドアの鍵を管理者に返した、と思わせておいて形が似た別の鍵を渡し、手元に残った本物の鍵を使って現場に出入りした。



 といったものを「心理トリック」と呼ぶ、という分類方法もあります。


 しかし、この本で毎回使われる「叙述トリック」は、それらとはちょっと違います。「叙述トリック」とは、小説の文章そのものの書き方で読者を騙すタイプのトリックです。たとえば、



 犯人は「事件の時に一人だった人間」である。主人公は事件の時、「松方」という人物と話していた。だから犯人ではない、と読者は思ったが、実は「松方」という人物は実在せず、主人公が作り出した妄想であった。つまり主人公は、客観的には事件時に「一人」だったのであり、犯人は主人公である。



 こういうやつです。この作品は主人公の視点で書かれており、「主人公にとっては松方は存在する」のだから、「松方が言った」とか書いても噓ではないわけです。そのかわりよく読んでみると、実は松方が主人公以外と会話をするシーンが一つも書かれていないので、注意深い読者なら「この松方って実在するのか……?」と気付くはず。どうだい? という感じのトリックが「叙述トリック」です。このため、叙述トリックは「作者が読者に対して仕掛けるトリック」という言われ方もします。


 ですが。……「注意深い読者なら」と言いますが、ほんとに気付けるでしょうか? これ。


 だってはっきり「松方はそう言った」とか書かれてるんですよ。松方、いないなんて誰も思わないじゃないですか。ミステリを読む人は毎回、そんなことまで疑いながら読まにゃならんのでしょうか。それはちょっと狡くないでしょうか。一般的な読者がしないレベルの努力(地の文に書かれたこともすべて、本当だという論理的確証が得られるまでは「真偽不明」として扱いながら読み進める)を要求し、それをしない読者を騙したところで、それは後出しジャンケン、または「1+1=?」「2」「ブッブー。田んぼの田でしたー」みたいなもんなんじゃないでしょうか。


 そもそも、もともと小説にはいくつもの約束事があるのです。「彼の心臓は動いていた」といちいち断らなくても、登場人物は心臓を持ち、動かして生きている。特に断りがないなら、主人公は「一般的な日本人」である(日本の小説では)。そのシーンの天気について何も書いていないなら「一応雨や雪は降っていない」ということにする。そういう約束事の方は暗黙の了解で乗ってもらったのに、「松方が実在するという客観的な記述がないのだから松方は実在しないかもしれないでしょ」と言いだすのはダブルスタンダードなんじゃないでしょうか。いますって。松方。松方はどこにでもいます。職場にも駅にもあなたの後ろにも。あなたの家の床下にも天井裏にも。あなたのいつも通る路地の側溝の蓋の下にもあなたの部屋のベッドの下にも松方はいるのです。植木鉢をどけると受け皿の中にいますし木のうろの中にもいますし便座を持ち上げると裏側にびっしり松方が張りついているのです。


 松方はさておき、そういう騙し方をするものだから、よく「叙述トリックはアンフェアだ」と言われてしまいます。これが叙述トリックというものの泣きどころです。そのためミステリ作家は叙述トリックを使う時、「アンフェアだけどそれでも面白い」小説になるように頑張るのです。


 では、アンフェアにならずに叙述トリックを書く方法はないのでしょうか?


 答えはノーです。一つだけ、方法があるのです。最初に「この短編集はすべての話に叙述トリックが入っています」と断る。そうすれば皆、注意して読みますし、後出しではなくなります。


 問題は「それで本当に読者を騙せるのか?」という点です。最初に「叙述トリックが入っています」と断ってしまったら、それ自体がすでに大胆なネタバレであり(そのため、叙述トリックが入っている作品はしばしば書評で「ネタバレ防止のため詳しくは書けません」という言い方をされます)、読者は簡単に真相を見抜いてしまうのではないでしょうか?


 そこに挑戦したのが本書です。果たして、この挑戦は無謀なのでしょうか? そうでもないのでしょうか? その答えは、皆様が本書の事件を解き明かせるかどうか、で決まります。


 まあ、別に謎を解こうとか思わずただなんとなく読んでいただいて一向に構わないというか、私も普段はけっこうそういう読み方をしているのですが。



 ちなみに、叙述トリックの成立はしばしば不自然な偶然に頼ることになる(たまたま一人称が「僕」の女性がいた、等)のですが、本書ではなるべくそういうことがないように頑張っています。そして話はなるべく、現実に起こりうる範囲で書いているつもりです。ただ一つ、



 一人だけ、すべての話に同じ人が登場している



 という点がありますが、そこはまあ、名探偵の登場する連作短編につきもののお約束としてご容赦ください。


 また、本書はとても親切なので、各話のトリックが分かりやすいよう、あらかじめヒントを出しておくことにいたしました。まあ最終話などはノーヒントで問題なく解けるでしょうが、その前の話では「それまでの話すべてを読み返してみる」とトリックに気付きやすくなるでしょう。さらにその前の話では「たくさんいる登場人物をどこかにメモして並べておく」ことが、その前の話では「最初のシーンがなぜ書かれたのか」、その前の話では「なぜ登場人物の名前がそれなのか」、その前の話では「なぜその形式で語るのか」が重要になります。書きすぎた上に太字にまでしてしまったのはやりすぎかもしれないと気付いたのでここまでにいたしますが、たぶん、このヒントがあっても、すべての話の真相を見抜ける方は稀であると思われます。


 というわけで。


 とにかく、騙されるお話です。真相を見抜いてやろうと挑戦するもよし、なんとなく読むもよし、どちらにしても楽しい時間をお届けできると信じております。


 それでは『叙述トリック短編集』開幕です。どうか最後までお付き合いいただけますように。

ちゃんと流す神様



 以前から思っていたのだが、英語の〝God〟を日本語の「神」と訳すのはどうかと思う。英語のGodは基本的にキリスト教の、つまり一神教の唯一神である。神と言えばそのお方しかおらず、全知全能絶対唯一、〝The One〟で通じる存在である。一方日本はというと確認されているだけでも八百万だという。地の神、水の神、牛の神田の神愛の神と大物ばかり挙げていってもせいぜい八百柱程度にしかならないわけで、もっと細かく「値札シールの神」「左膝半月板の神」「刺身に載っているタンポポの神」といった細かい方々もおわすのだろう。となれば英語圏の「あのお方」と日本の「神様」を同一の単語で表すのは何やらむこうに失礼になりそうな気がする。全知全能の主も「刺身に載っているタンポポの神」と同列に扱われてはかなわないだろう。それなら英語の〝God〟は聖書のように「主」と訳すべきであったと思えるが、今となってはあとの祭りである。一度普及してしまった言葉を言い換えるのは難しい。E電もチョモランマも母さん助けて詐欺も結局定着しなかった。


 唯一神の心配はさておくとして、つまり日本の「神様」というのは単体ではその程度のものなのである。だとすれば六反田女史の言う通り、当社つまり株式会社セブンティーズ本社の北棟二階総務課前にある女子トイレを担当する個別の「トイレの神様」がいるということも、確かにありえなくはない。若井篤彦はそう考えかけ、自分の考えの非現実性に気付いて慌てて首を振った。


「いや、別に神がかり的な何かがなくったって、勝手に流れるようになったりすることもあるでしょう。ただの詰まりなんだから」


 興奮気味で部屋に駆け込んできた六反田女史を落ち着かせようと思ってあえてゆっくり言ったのだが、彼女はますます興奮したらしく、でもだっておかしいわよと、マンボウの産卵のごとく大量の言葉を無駄にばらまく。「だってじゃあそれなら誰かがなんとかしたってことでしょう。じゃあそれならどこの誰がやったの? 詰まったの知ってるのはこの部屋の人くらいなのに誰もやってないって言うのよ。それじゃあ自主的にこっそりやってくれて、こぼれた水も全部掃除してくれて、やりましたよとも何も言わないで黙って仕事に戻ったってことでしょう。そんな偉い人いないわよ総務課には」


 随分な言い方だなと思うが当たってはいる。うちの会社の性質上なのか、総務課にはそういう殊勝な人間はあまりいない。


「羽海ちゃんとかじゃないですか?」


 部屋の隅のポットでお茶を淹れてくれている羽海ちゃんを振り返って言うが、彼女が視線に気付いて首をかしげるのと同時に六反田女史がいいえええと勝手に否定する。


「さすがに羽海ちゃんでも言うわよさっき業者呼んだの知ってるんだし。ねえ羽海ちゃん。羽海ちゃん女子トイレの詰まったの直してくれたりしてないわよね? そう。そこのトイレよ、トイレ」


 繁忙期を除けばなんとなく休憩タイムという雰囲気になる午後三時過ぎとはいえ、業務時間中に室内全域に響き渡る声でトイレトイレと連呼され、羽海ちゃんは急須を持ったまま驚いた顔で首を振る。向かいの席で好物の甘納豆をのんびり食べていた淵さんも顔をしかめるので、若井は就寝前の椋鳥のように興奮する六反田女史を掌で押しとどめる。「ちょっと、六反田さん。あんまりトイレトイレって」


「あっ、ごめんなさいねお食事中に」六反田女史は全く反省していない様子で淵さんにも話しかける。「ねえ、でも咲子ちゃんはどう思う? それとも本当に勝手に詰まりがとれたのかしら。だったら大きなウンチが詰まってただけ? でもウンチって水に溶けるのかしら」


「六反田さん。淵さん甘納豆食べてるから」


 いや「甘納豆」と具体的に指摘したらかえって連想をさせてしまうかもしれない、しかしまあ花林糖よりはましか、と小学生並みのことを考えながら若井が止めると、若井の言葉でやはり連想したらしく、淵さんは甘納豆の袋に視線を落として顔をしかめ、ぱたぱたと手を振った。しかし六反田女史はますます身を乗り出して淵さんに話しかける。「あら、でもどうなのかしらウンチって。溶けるっていうか崩れるって感じかしら? でも水を流したりかき混ぜたりしなきゃ崩れないでしょう、でも柔らかさによっては大丈夫なのかしら。バナナみたいな長あい一本じゃなくてポロポロした甘納豆みたいなのなら、あらごめんなさいね咲子ちゃんそれ甘納豆ね」


 もはや無神経を通り越してわざとやっているのではないかという領域だが、六反田女史はいつもこうで本人に悪気はないのである。それを知っている向かいの淵咲子さんも無言で俯くのみで、情況を察してやってきた羽海ちゃんがお茶を置いて彼女を慰めている。「あの、お口直しに」


 業務時間中に何をやっているのやらと、無遅刻時間厳守を信条にしてきた若井は思うが、「適当」「のんびり」「それなりに」を社風とする株式会社セブンティーズではさして珍しい光景ではない。加えて九月中旬の総務課はそれほど仕事がなく、室内の雰囲気はここ数日、随分とゆったりしている。淵さんは制服のベストを脱ぎ腕カバーを装着したいつものスタイルだが、これについては彼女自身が「この方が働いている感じが出るから」といいかげんな理由を挙げており、別に忙しいとか気合いを入れなければならないというわけではないのである。あるいはそんな雰囲気であるがゆえに、こんな些細な「事件」を六反田女史が話題にしているのかもしれなかった。年初月末ボーナス時といった繁忙期なら誰も話題にはせず、ただ「余計な手間が減ってありがたい」で流してしまっているだろう。なにしろ「詰まっていたトイレが、誰も何もしていないのに綺麗に流れるようになっているらしい」というだけの「事件」なのだから。


 若井は後ろを向いて壁の時計を見る。ことの起こりは一時間半ほど前になる。午後、ゆったり業務を開始してしばらくの後、部屋のすぐ前のトイレに入った六反田女史が「溢れてる。溢れてるのよ便器からドゥワァーッて」と妙に個性的なオノマトペで、女子トイレの一番奥にある個室の便器が詰まって水が溢れていることを報告してきたのである。今思えばわざわざ男の若井に報告しても何にもならない気がしなくもないのだが、とにかく若井は「じゃあとりあえず使用禁止にして、業者を呼んでは」と提案し、六反田女史はばたばた走って個室のドアに貼り紙をした。業者は来るまでに二時間程度かかるという話だったが、水が溢れ続けているわけでもなし、溢れた水も綺麗なただの水である。とりあえずそのまま待てばいいだけの、ほんの日常的なトラブルのはずだったのだが。


 しかし先程、状況確認のために女子トイレに入った六反田女史がいつの間にか便器の詰まりがとれ、床も綺麗になっていることを発見。「ねえ誰か女子トイレの人いる? 女子トイレの詰まり直してくれた人」と尋ねて回り、総務課の全員が首を振ったことから「北棟二階総務課前のトイレにはひとりでにトイレを直して掃除もしてくれるトイレの神様がいる」という話になってしまったのである。トラブルが起こったことではなく、解決したことが「事件」になるとはなんとも奇妙な話だが、しかし、確かに神の御業かと疑いたくもなる不可解な事態ではあった。


「もう不思議ねえ。ねえちょっと若井くん、あなたも現場見てみてよ不思議なんだから。本当に綺麗になっちゃってるのよ。神隠しみたいに」


 あまり例のない神隠しだ。「いえ女子トイレですから」


「いいのよそんなの全員ここにいるんだから誰も使ってないし。ていうか当社の女子は女子なんてもんじゃないんだから」


「六反田さーん……それはちょっと他部署で言わないでくださいね」


 お茶を持ってきた羽海ちゃんがたしなめると六反田女史は彼女を捕まえてすりすりすりと腕を撫でた。「あら失礼羽海ちゃんは『女子』よ? このお肌だもん。でもねえ」


 それはつまり私のことかという目で淵さんが睨む。若井はわかりましたわかりましたと六反田女史を宥めつつノートパソコンを閉じて立ち上がった。一応「ピカピカの新入社員」という立場のせいかこういう時に駆り出されるのは大抵若井であるが、どうせ課長は不在だし決裁書類も夕方まで出ては来まい。今日急いですべき仕事はもうないのだった。


 だが椅子の背にかけていたジャケットをばさりと着てスマホをポケットに入れた若井の肩を叩く者がいた。振り返ると、いつも通り洒落たネクタイとブランドスーツをびしっと着こなした男成常務が、両手でチョコレートの箱を差し出しつつ立っていた。


「や。若井君お一つどうぞ」


「常務」音を立てずにひとの背後に来るのは勘弁してほしいと思うが、ありがたく礼を言いチョコレートはいただく。「おっ、うまいですね。しかしこの名前はなんて読むんですか」


「『ダロワイヨ』。パリの老舗。あ、若井君はこっちのシュプレムモカの方がいいよ。君十二月生まれでしょ? 朝の占いでラッキーカラーがベージュって出てたから」


「恐れ入ります」この役員は毎朝占いをチェックし、従業員に今日のラッキーカラーだのラッキーアイテムだのを教えて回っている。重役出勤という役得を「自由が丘に寄って洋菓子を買ってから会社に来るため」に使ったりする、ありがたくも奇妙な常務である。


 菓子に目がない六反田女史もすぐさま反応した。「あらあ男成常務。いつもありがとうございます。どれにしようかしら。ねえ若井さんどれが一番おいしいの? ねえ咲子ちゃん、あなたも食べなさいよ太郎ワイヨ」


 今「太郎」とか何とか言ったなと思うが淵さんは甘納豆で満腹なのか首を振った。常務は六反田女史にいくつかを渡すと広い心で男性課員たちの間を回り、ダロワイヨを配りつつ誕生月を知っている者には今日のラッキーカラーとラッキーアイテムを教えて戻ってきた。従業員とのコミュニケーションと言っているが、「ここの雰囲気が一番のんびりしていて好きだから」という理由で普段から総務課にばかり入り浸っているから、実際のところはただ遊びにきているのだろう。


 しかし今、六反田女史と常務の組み合わせはまずいなあ、と若井が思うと、案の定常務は若井に笑顔を向けた。「ねえ、そういえば若井君。六反田君が何か『事件』って騒いでた気がするんだけど」


 六反田女史との会話を聞いていたらしい。危惧していたことだがこの二人が絡んだ以上ややこしくなるのだろうな、と若井は覚悟した。常務は二時間サスペンスが大好きで必ず録画している。


 そおうそうそうそう、と六反田女史がすり寄ってきた。「常務。不思議なんですよトイレの神様が出たんです。あらちょうどチョコレートだわトイレとチョコレート。連想ゲームみたい。あはは」


 こっちは食ってるんだぞと目で抗議するがそれには一切気付く様子がなく、六反田女史は常務に「トイレの神様事件」のことを言い募る。


 案の定常務は乗った。「面白いね。一体誰が何のためにトイレの詰まりを直し、しかも申告せずに黙っているんだろうね。ちょっと現場を見てみよう。ほら若井君も」


「女子トイレですが」


「そんなのいいって役員も一緒だし」


 それは関係ないだろうと思うがこの人にはかなわない。若井は口の隅に残るシュプレムモカの滑らかな甘さを味わいつつ、常務と六反田女史に続いて部屋を出た。後ろで羽海ちゃんが苦笑していた。





 そういえば女子トイレなるものに入るのは生まれて初めてかもしれない。この歳になってだ。それゆえに男子トイレとどこが違うのかといろいろ観察してみたい気が起こるが、女子トイレには女性特有の男性には見せたくない何かがあるのかもしれず、若井はとにかく六反田女史の指し示す個室の貼り紙だけに集中することにした。男子トイレとの違いは小便器がなく個室のドアだけがずらっと並んでいることぐらいしか発見できなかった。


「一時半頃でした。トイレに行った私はこの個室のドアの下から水が漏れてるのに気付いて、ドアを開けたらもう床がびしょびしょで。そうね、大ジョッキ一杯分くらいはこぼれてたわ」


 飲食物に喩えるのをやめていただきたい。しかし六反田女史は「現場」である一番奥の個室に進んでドアを示す。「あら、って思ったから私はとっさに水が溢れ続けてないことを確かめるとドアを閉めて、他の誰かがうっかり入っちゃったら大変なのでこの貼り紙をしたんですよ」


 たいしたことではないだろうに、六反田女史は武勇伝のように語る。ドアには本人のイメージとはあまり合わない丁寧な達筆で「使用禁止 総務課」とある。


「しかし今はこの通り綺麗だよ? 座敷童の仕業かな」


 常務がドアを開けて中に入り、便器を覗き込む。便器は普段通りの量の水が溜まっており、汚れも傷も、落ちている物もなかった。床は湿っているようだったが、溢れたはずの水も綺麗に掃除されている。何の異状もない「事件現場」。というより何の異状もないからこそ事件なのである。やはり少々、奇妙ではあった。


 しかし常務は楽しげに腕を組む。「なるほど、これは不可解だね。何かのきっかけで自然に詰まりがとれたっていうだけなら、床まで綺麗になっているはずがない」


「あら、そういえばそうね」六反田女史も頷く。「じゃあ、ますますトイレの神様ですね」


「そうだねえ。しかし、やはり誰かが自主的に掃除をしてくれたと考えるべきなんだろうけど」常務は廊下方向を振り返った。「そういえば、さっきまでそこに長林君と誰かがいなかったかな?」


「おりました」


 若井が答えると、常務はジャケットの裾をバッとはためかせて踵を返した。「では聞き込みをしてみよう。犯人を見ているかもしれない」


 犯人と言っても何も悪いことはしていないどころかどう見ても皆の役に立っている。そうまでして探すべきものなのかと思うが、常務はすっかり探偵気分、六反田女史も助手気分のようである。若井はとりあえず便器のレバーを押して水がちゃんと流れていくことを確認し、業者にキャンセルの電話を入れねばなと思った。常識的に考えて、まずすべきは聞き込みよりこちらだ。


 廊下にいたのは長林総務課長と同僚の千草である。課長がタブレットを出していたことからして、廊下で立ち話を始めてそのまま「立ち会議」になったのだろう。長林課長がよくやることであり、課員は皆慣れている。しかしそうなると、彼らに目をつけた常務の判断は正しかった。課長の「立ち会議」はしばしば一時間以上に及ぶからだ。


「長林君、ちょっと聞きたいんだけどいつからここにいた?」


「常務」課長はタブレットをしまい、腕時計を見た。「申し訳ありません。一時間半……弱も打ち合わせをしてしまったようで」


 千草も腕時計を見て時間の経過に驚いている。しかし常務は笑顔になった。「そう! それはよかった」


「はあ」課長はきょとんとしている。


 一方の常務は目を輝かせている。「そこの女子トイレが壊れてこの六反田君が使用禁止にしてたの、知ってるね?」


「ああ、そういえば」千草が先に答えた。「貼り紙持って入っていきましたね、六反田さんが。そのあと二回くらい入って……何か騒いでいたような」


「その間ずっとここにいたの? でかした」


「はあ」千草もきょとんとした。


「とすれば、君はこの事件の犯人、人呼んで『トイレの神様』の姿を見ていることになる」常務はジャケットの内ポケットから手帳とボールペンを出した。「六反田君が貼り紙を持って入ってから今まで、このトイレに誰が出入りしたか、覚えているかな? その中に犯人がいる」


「えっ。はあ。それは、まあ」女子トイレの目の前である。千草は課長と顔を見合わせ、しかし困惑しながらも言った。「ですが、そこの六反田さんと、それから淵さんと、あと羽海ちゃん……くらいですが」


 千草が確かめる様子で課長を見ると、課長も頷いた。「その三人だけです」


「間違いないね?」


「はい。見ましたから」課長は答え、それから六反田女史を見て慌てて手を振る。「いやいやいや別に覗いてたわけじゃありませんよ。ここにいたから見えた、というだけで」


 千草も手を振る。「見てませんよ女子トイレですから」


「容疑者は三人」常務は頷く。「その三人のうちの誰かがトイレを掃除してくれたみたいなんだけど、そういう気配はなかった?」


「はあ。掃除……ですか」なぜ質問されているのか分からないままの課長が困惑し続けながら答える。「しかし、みなさん入ってすぐに出てきましたよ。掃除している時間はなかったかと」


「すぐでしたね。……いやいや観察してたわけじゃないですよ?」千草も答え、あたふたと手を振る。


「私はすぐ出ましたよ。サッと入ってパッと」六反田女史が言う。「パッとね。風のように」


 そこで若井は「おや」と思った。常務も首をかしげている。


 おかしなことになってきた。貼り紙をしてからトイレに入った三人がすぐに出てきたというなら、犯人はいったいいつトイレの詰まりを直し、床を掃除したのだろう。


 常務が「ふむ」と頷き、再びトイレに入っていく。がたがたと何かを動かす音がするから何をしているのかと追いかけると、常務は入ってすぐのところにある掃除用具入れを漁っていた。


「あのう、常務」


「カメさん。見てくれこれを」


 誰がカメさんやねんと思うが、若井は常務が取り出したモップを見て気付いた。「……使用した跡がありませんね」


「そうなんだ」常務はすっかり刑事気取りでモップを掲げる。「こうなると、ますます不可解だよ。犯人は明らかに、ただ掃除をして黙っていた、というわけじゃない。道具までよそから持ってきて、初めからこっそりやるつもりで詰まりを直して掃除したっていうことになる。どうしてそんなことを?」


「……自分が詰まらせたからじゃないですか?」


「それなら余計なことをせず、ただ黙っていればいい。すでに業者を呼んでたんだから」


 それもそうである。そういえば業者が来てしまう前に早くキャンセルの電話を入れなければと思い出したが、それよりもこの奇妙さが気になる。


「業者を呼ぶとお金がかかりますし、大事にしたくなかったのでは? 犯人は『自分が詰まらせた』ということに責任を感じていたのでは」


 若井がそう言うと、常務はまた首を振った。「それなら業者を呼ぶ前か、呼んだ段階で『自分で直せないかちょっと挑戦してみます』と断ればいい話だと思わない? そう言ったからって別に自分が詰まらせた犯人だと疑われるわけじゃないし、責任を感じているならなおさら、自己申告すべきだと思うけどねえ。少なくとも、どこかから道具を持ってきてまでこっそりやる、というのは不自然だと思うけど」


 確かに、それもそうなのである。自分が詰まらせたなら素直に名乗り出るか完全に業者任せで黙るか、どちらかだろう。


 六反田女史が「やっぱりトイレの神様」と言いかけるのを制し、常務はさらに言う。


「それにもう一つ謎があるよ。長林君と千草君によると、紙が貼られた後、入った三人はすぐに出てきた。それならいつ、どこから入ってトイレの詰まりを直し、掃除をしたんだろう? この事件の犯人──人呼んで『トイレの神様』は」


 呼んでいるのは今のところ六反田女史だけだが、そこも不可解である。トイレの入口は一ヵ所しかない。そしてその前では課長と千草がずっと「立ち会議」をやっていたのである。たまたま二人の目を盗んでトイレに入り、さらにたまたま二人の目を盗んでトイレから出られた、などということは確率的にあり得ない。それよりは「勝手に詰まりが直り、かつ突然床が発熱して凄まじいスピードで溢れた水が蒸発したのだ」という可能性の方がまだあり得そうである。


 しかし、若井がこれはどういうことなのだろうと本腰を入れて考え始めた途端、たたたたたん、という軽やかな足音が階段の方から聞こえてきた。うちの課員にあんな軽やかな足音をたてる人間などいない。この時期に来客だろうかと思ったが、現れたのは明らかに「客」より「闖入者」という単語がふさわしい、怪しげな青年だった。ポール・スミスのカジュアルなジャケットを羽織って大人っぽい服装だが、背が小さく少年に見えるため総合的には年齢不詳である。


「あ、どうもこんにちは。みなさんお揃いで。お元気そうで何よりです」


「これはどうも」若井はとりあえずお辞儀をする。「総務課の者に御用でしょうか。ええと、失礼。以前どこかでお会いしましたでしょうか」


「いえいえ初対面です。私はただの通りすがりで、お手洗いをお借りしに上がらせていただいただけですから」


「はあ」エエーと言いたいのをこらえる。「ああ、お手洗いでしたら一階にも」


「そちらは生憎満員でして。私の直腸は現在、喩えるならポン菓子の袋程度の状態なものですから」


「うわ」若井と横にいた千草が慌てて道を空ける。「それはまずい。早くどうぞどうぞ」


「ちょっと貴方、食べ物に喩えるのはよくないわよ」


 六反田女史が言い、常務から「お前が言うな」の視線を向けられる。怪しい青年はこれは失礼という残響を置き土産にして男子トイレに消える。


「……変な奴だね」


 今度は常務が全員から「あんたが言うな」の視線を向けられるが、常務は気付かない様子で男子トイレを見ている。男子トイレの中からは何やら興奮気味の声が聞こえてきた。「おっ、これは凄い。個室のドアは普通の化粧板で鍵も角ラッチなのに便器はTOTOのネオレストNX! いいですねえこのローテクの中のハイテク! ネオレストシリーズの無駄を省いた曲線美と床タイルのS番モザイクのミスマッチによるマッチがまた」


「おい若井君。何だあいつは」


 課長が困惑気味に訊いてくるが無論若井も知らない。「変な人ですね」


 すでにポン菓子なんじゃないのか早く入らないのかと心配してそわそわする課長をよそに、常務は腕を組んで感心したように頷いている。「トイレマニアか。世の中にはいろんな好事家がいるものだねえ」


 変人は変人を知るのだろうか。しばらくして満面の笑みで出てきて「いやあいいお手洗いでした。洗面台の蛇口が経年により微妙にくすんでいるTENA型であの色合いとラインがまた」と続けようとする青年を遮り、真っ先に話しかけたのも常務だった。「君、トイレに詳しいの?」


「詳しい……というとどうでしょう。好きではあります。たとえばTOTO商品で言うなら最新のネオレスト・ピュアレストシリーズも美しいですが伝統のCSシリーズとSシリーズの組み合わせがコーナーに収まっている姿もやはり」


「分かった分かった。詳しいんだね。水回り関係の仕事を?」


「いえ、探偵です。あとフリーライターもやっています」


 まったく関係ないじゃないか。しかも怪しい。インターネットの記事で見たが、「名乗ると怪しい職業」のナンバーワンは「○○コンサルタント」で二位が「探偵」だった。しかし探偵にしてはこの男目立ちすぎるのではないか。探偵というのはもっとこう、運送業者に扮してオートロックを開けさせたりアンケートと称して身辺調査を入れてくるもので、目立ってはいけないのではないか。しかし常務は全く疑いを持たない様子で「フリーライターというと、何関係の雑誌に書いてるの?」「いろいろです。あ、名前は別紙です。お見知りおきを」「別紙ってどれ?」「いえ別紙という姓なんです。香川・徳島あたりの姓で」「ややこしいね何か」とやりとりしている。この人が監査役でなく取締役で本当によかったと若井は思った。


「でも、ねえ貴方。トイレお好きならちょっと訊きたいんだけど」


 六反田女史はさもいいことを思いついたという口調で別紙青年に話しかけ腕を取る。「ちょうどいいわ。ちょっとね見てもらいたいものがあるのよこっちの便器。トイレお好きなら分からない?」


「はあ。あのう、こちらは女子トイレでは?」


「いいのよ誰もいないんだから。ちょっとこっち。ほら入ってこの奥のドアの」


 別紙は六反田女史に引っぱられて女子トイレに連れ込まれた。事情を知らずにただ見たらなかなかにホラーな構図だな、と若井は思った。しかし、ただトイレを借りにきた青年まで巻き込んでしまっていいものだろうか。





「……ははあ。なるほど。それは確かに奇妙ですね」


 女子トイレに連れ込まれて五分。開け放された「現場」の便器を前に六反田女史から「トイレの神様事件」のあらましを聞いた別紙は洗面台横のハンドドライヤーを振り返って「なんと、これは初期型の三菱電機製『ジェットタオル』では? サイドオープン方式を世界で初採用した歴史的名機がまだ現役で」などといささか集中力のない状態ではあったが、一応状況は理解したらしかった。


「……確かに不可解ではありますが」別紙は便器を見る。「しかし神様ということではないかと。誰かがこっそりと掃除したんでしょう。いくらネオレストNXでも便器の外に溢れた水を自動洗浄してくれる機能はありませんから。そして何より、そこの窓の鍵だけ開いている」


 別紙が指さしたのは個室の前にある窓だった。曇りガラスの大きな窓で、閉まってはいるが確かにクレセント錠は開いている。


「おっ、本当だ」常務が窓を開け放す。


「上に換気扇もついています。換気のために開ける必要はそうそうないでしょうし、開けてしまったら外から丸見えになってしまいますし、普通はこの窓、開けたりしないのでは? とすると……あ、ちょうどいい。そこのあなた」


「はい?」


 振り返ると、さすがに騒ぎに気付いて見にきた様子で、淵さんと羽海ちゃんがトイレの中を覗き込んでいた。いきなり振り返った別紙に指さされた羽海ちゃんはぎくりと気をつけをしたが、別紙に「一階の女子トイレに行って、用具入れの清掃用具が少し前に使われた痕跡がないか確認してきてもらえますか?」と頼まれるとプリーツスカートをパラソルのように翻して華麗に駆け出した。たたたたたん、と階段から飛び降りる音を響かせると、ものの一分もしないで駆け戻ってくる。早いなあ軽やかだなあ若いなあ、と姓だけは若い若井は思う。


「どうでした?」


 ハンドドライヤーを撫で回しながら別紙が訊くと、羽海ちゃんが頷いた。「あの、確かにそうでした。一階のモップも使った跡がありましたし、ええと、あの、ゴムの、柄のついた、スッポンってやるやつも使った跡が……あれ、なんて言うんでしょうか」


「そういえばなんて言うのかしらね? スッポン? スッポン棒」


「『便所スッポン』だろう。俺が子供の頃はそう呼んでた」


「ラバーカップです」どうでもいいことで盛り上がる六反田女史と千草を制して別紙が言う。「ええと、あなたが羽海さん……ですよね。間違いありませんか?」


「えっ……はい」羽海ちゃんは自分の名前が知られているという時点ですでに困惑しているようである。「あの、ところで、当社の方ではないですよね。あなたは」


「お手洗いをお借りしにきた別紙といいます。占い師をしております」

 さっきと言っていることが違うじゃないかと思う。しかし別紙は周囲から降り注ぐ疑いの視線などお構いなしで皆を振り返った。


「これ、動かぬ証拠ですよね。犯人がどうやって、長林課長と千草さんに見られずにこのトイレを掃除したかも、これではっきりしたのでは」


 当然という顔をして別紙が皆を見回す。若井は開けられた窓を見る。確かに、会社で雇っている清掃員は午前中に仕事を終えていて、たまたま誰かがその後に一階の用具入れの道具を使った、というのは考えにくい。モップだけならともかくスッポン──ラバーカップとかいったか、あれまで使った跡があったとなると、使ったのはまず間違いなく犯人だろう。つまり、別紙が言っているのは。


 皆も沈黙していた。さっき来たばかりの淵さんと羽海ちゃんは一体何の話が進行しているのかと不安そうにしているが、常務は腕を組み、六反田女史は唸り、長林課長と千草は顔を見合わせている。


「でもね別紙君。ちょっと待って」常務が口を開いた。「君はひょっとして、犯人がそこの窓から出入りした、と言うつもり?」


 別紙は当然という顔で頷いた。


「出入口はこの窓とそちらの入口しかないわけですからね。そして入口の方は長林課長と千草さんがずっと張っていた。その間、ここにいる六反田さんと淵さんと羽海さんは現場に入ったということですが、全員すぐに出てきたんでしょう?」


 別紙の視線が女性三人を向く。六反田さんはええ、ええ、と激しく頷き、淵さんはどこか不満げに、羽海ちゃんはスカーフを直したりしてもじもじしながら頷く。三人とも、容疑者にされていることには気付いているようである。


 別紙は探偵小説に出てくる名探偵のごとく言う。


「それなら、他に考えられないでしょう。犯人は一階の女子トイレで掃除用具とラバーカップを拝借し、一階の女子トイレの窓から二階のそこの窓までよじ登って便器の詰まりを直し、掃除をし、また窓から出て一階の女子トイレに道具を返したんです」


「それはそうなんだけどね……」


 常務が若井をどかして窓から身を乗り出した。確かに真下が一階の女子トイレである。雨樋や室外機があるので、この窓まで上り、また下りることは不可能ではないのだが。


 常務は別紙を振り返り、皆を手で示す。「よく考えてほしいな。確かに足場なんかはあるけど、三メートルはよじ登らなきゃいけない。下りるのはもっと大変だよ」


 課長が急いで言い添える。「そうだよ。総務課員を見てくれ。できると思うかい?」


 別紙は周囲の総務課員たちを見回して頷きはしたが、すぐに言った。「しかし、容疑者は別に総務課員に限らないのでは?」


「外部の誰かが侵入したということ? それはないよ。トイレが詰まっていることを知っていたのは総務課員くらいのものだし、そもそもこのトイレ自体、総務課の人間以外はほぼ利用しないんだ。他の人間は無関係だよ」


 課長の言うことは事実である。当社は従業員三百人規模であるが総務部だけが離れのように突き出したこの北棟に入れられており、北棟には日がほとんど当たらなくて寒いため総務部への配置転換は陰で「シベリア送り」と言われている。北棟の二階には総務課員以外滅多に来ないから、つまりこのトイレは普段、ここにいる六反田女史と淵さんと羽海ちゃん、それに今日忌引きで来ていないもう一人の専用になっているのだった。

「窓から出入りするのは無理。入口も長林課長と千草さんが見ていたから無理」別紙は常務を見る。「……ということですか? しかしそれでは不可能犯罪……いや犯罪ではないので『不可能善行』になってしまいますが」


「……現時点では、そう考えるしかないんじゃないかな」


「もちろん、目撃証言が真実であるという証拠はありません。たとえば長林課長と千草さんの二人が結託し、噓の証言をしている可能性もありますが」


「いやいやいや」


「滅相もない」


 課長と千草は同時に首を振った。羽海ちゃんが言う。「でも話し声、ずっとしてましたよ」


 別紙はその反応を分かっているという様子で続ける。


「まあ、それも無理でしょう。そもそも現場が女子トイレですし、『犯人』が使用したのも一階の女子トイレの道具です。男性が犯人だとすると、その男性はまずこの現場に入って状況を確認し、さらに一階の女子トイレに入って道具を拝借し、またこの現場に入って掃除をし、一階の女子トイレにまた入って道具を返し、何食わぬ顔で部署に戻ったことになります。いくらなんでも女子トイレに入りすぎで、男性だと心理的にハードルが高すぎます」


 心理的なハードルだけではないなと思う。ここのトイレの入口は、中から廊下の様子が観察できない。こっそり入ることはできても、誰にも見られずに出るのは困難だ。かといって窓から出入りしたら建物全体をぐるりと回り込まねばならず、そちらの方がよほど目立つ。もちろん廊下に小型カメラを仕掛けて廊下の様子を中から見ることができるようにしていたとか、羽海ちゃんが聞いたのは犯人がスピーカーで流した偽の話し声だとかいう推理もあるにはあるが、そもそも元々の「トイレの詰まり」の方が突発事態だったはずで、犯人はそんな準備をする余裕などなかったと考えるべきだろう。


 つまり、犯人は女性なのである。それも普段ここのトイレを使う女性。犯行可能な人間はたった三人に絞られてしまう。しかし。


「……課長と千草さんの証言によれば、六反田さんも淵さんも羽海ちゃんも、入ってすぐに出てきたということでしたが」


 若井は言った。これはつまり、本当に「不可能善行」なのではないか。トイレの神様の仕業、いや御業なのではないか。それでいいという気もしてきている。


「あとは、そうだね……こういうのはどうかな?」常務はドア越しに便器を見る。「六反田君が見た『溢れた水』は実は水ではなくて、別の揮発性の液体だった。犯人は便器に詰まってしまった何かを溶かそうとしてその液体を流し込んだが、やりすぎて溢れてしまった。液体作戦は成功してひとりでに詰まりがとれ、溢れてこぼれた液体も揮発してなくなった」


「ほほう。それは面白いですね。筋も通っている」別紙は個室に入ると、便器の横にしゃがんで床のにおいを嗅ぎ始めた。「しかしそんなに大量の揮発性物質が使われたなら、第一発見者の六反田さんは何かしらのにおいを感じている、というより頭痛と目眩で危険な状態になっているのではないでしょうか。また、無臭かつ無色透明で人体に無害でさっと揮発し、なおかつ便器の詰まりを短時間でとるような便利な液体は、この世には存在しません。残念ながら」


 若井は常務に対しよく一瞬でそんなことを思いつくなと驚き、別紙に対してはよく女子便所の床を躊躇いなく嗅げるなと呆れていたが、別紙は平然として立ち上がった。


「となれば、結論はもう一つしかないでしょう」


 別紙は個室から出てきて言い、皆をぐるりと見回した。宣言というより、確認する口調だった。


「長林課長。あなたは二度『課員』という言葉をお使いになりましたが、なぜわざわざそういう言い方をなさったのでしょうか?」


 その言い方の不自然さは自覚していたらしい。課長は「うっ」と分かりやすく唸る。


 別紙は一つ頷いた。「私から見れば一目瞭然です。みなさんが立場上、その結論からあえて目を背けて遠回りせざるを得ないのも、まあ理解できるわけですが」


 皆がなんとなく、別紙から視線をそらしたり顔を伏せたりする。気がつくと若井もそうしていた。やはりそういう結論になるのか、と思った。


 犯人は女性。しかも皆がどうやら「その結論」を避けている、という時点で、真相は最初から明らかだったと言えなくもない。確かに、犯行可能な人間は一人しかいないのだ。若井も最初からその可能性をうっすら疑っていたが、おそらく皆も、途中から「その結論」に気付いて少しずつ後悔しているのではないか。


「彼女が犯人……というかトイレの神様だと仮定すれば、不可解な点がすべて解消できると思いませんか? なぜ業者を待たずにこっそりとトイレを直し、掃除して黙っていたのか。なぜそれを長林課長と千草さんに見られてはいけなかったのか。見られずにどうやってトイレに出入りしたのか」


「いや、しかしねえ」常務が言った。「そうだという証拠もないし」


「警察ではないので物証はまあ難しいですが、証言はとれますよ」別紙は課長と千草を指さした。「あちらの二人に、誰がいつ、どんな順番でこのトイレに入ったのかをちゃんと訊けば、それだけで犯人が推測できます」


 ああそうか、と若井は納得した。この別紙という青年、怪しいが、言うことは的を射ている。常務の方はまだ分かっていないのか、眉を寄せて沈黙している。


「では、伺ってよろしいでしょうか。長林課長」


 課長は証言台に立たされたように緊張した面持ちになった。別紙はそれに構わず質問する。「六反田さんが貼り紙をして出てきてから、誰が、どの順番でこのトイレに入りましたか?」


「それは……」


 課長は許可を求めるように常務を見た。外国人には不思議がられる日本人特有の生態だが、自分の発言が何か重大な結果を引き起こしそうな場合、無条件でその場にいる最も偉い人間に伺いを立てるのは勤め人の本能である。だが常務はその視線に気付かずに別紙を見ており、結局、課長は千草と顔を見合わせた後、ゆっくりと言った。


「……最初に六反田さんがまた入ってすぐ出てきました。これはただ見にいっただけかと。それからしばらくして羽海ちゃん。さらにしばらくして今度は淵さん……の順、でした。そしてその後、また六反田さんが入って『第一発見者』になった。他には、おりません」


 ちゃんと言いましたよ、知りませんよ、という顔で課長が言い、千草が「間違いありません」と頷く。


 別紙は満足そうに頷いた。「では、『トイレの神様』が誰なのかは明らかですね」





 誰も反応する者はいなかった。どうやら、別紙の言っていることがまだ分からないらしい。隣の男子トイレを使っている者がいるのか、壁越しにくぐもった水音が響いてくる。


 別紙は周囲を見回し、どうやら補足説明が必要だと判断したらしく、ばっさりと言った。


「犯人は羽海ちゃんさんです」


 なんだその言い方は、と思うが、別紙は羽海ちゃんと課長を見比べる。


「なぜなら、貼り紙がされてから今までの間で、二番目にトイレに入ったからです」


「二番目……?」常務が首をかしげる。「二番目なのが問題なの?」


「本件に関しては、最初でも最後でもない。二番目にトイレに入ることが重要なんです。仮にトイレに入った人数が全部で四人であっても五人であっても百億人であっても、二番目に入った人が犯人なんです」


 そんなにトイレに行くかそもそも地球上にそんなに人間がいるか、と思うが、別紙の言うことは当たっている。常務や課長は彼の言っていることが分からなかったようだが、羽海ちゃんは「あ」と声をあげた。彼女は理解したらしい。


「つまり、こういうことです。状況からして、犯人は一階の女子トイレで道具を借りて、ここの窓から入ったということは間違いがない。しかしその方法、一つ問題があるんです」別紙はなぜか恭しく手で窓ガラスを示す。「おっと、このYKK APW、いいですよねえ。熱貫流率1・4未満を実現した高い断熱性のアルミスペーサーと複層ガラス。従来のものより」


「あの、ガラスの説明は結構です」若井は急いで遮った。ひょっとしてこの男は手の込んだ飛び込み営業なのだろうか。「それより、なぜ二人目が犯人なのかという説明を」


「失礼」別紙はコホンとわざとらしく咳払いをした。「簡単なことです。窓から侵入しようにも、こんな大型の、女子トイレの窓なんて普通鍵をかけて閉めています。つまり犯人は犯行前、あらかじめ内側からこの窓の鍵を開けておかなければならない。したがって犯人はどうしても、犯行前に一度、この現場に入る必要があるわけなんです」


 課長が羽海ちゃんを気遣ってか言う。「しかし、現場に入ったのは羽海ちゃんだけでは……」


「さすが課長さん。適切なツッコミでプレゼンを円滑に進めてくださる」別紙はなぜか褒めた。「犯人は最初に入るわけにはいかないのです。なぜなら、もし自分以外にトイレに入る人間が誰もいなかったら、どう見ても自分が犯人だということになってしまうからです。現場のトイレはほとんど総務課の女性しか使わなかったといいますし、業者が来るまではたったの二時間。その間、他の人が一人もこのトイレに入らないまま、という可能性は充分に考えられます。現場になっているわけですしね」


 実際、ここまでの約一時間半で犯人以外に二人もトイレに行ったというのは、わりと多い方だと思う。まあ、うちの会社はトイレが近い者が多いのだが。


「したがって犯人としては、自分が『唯一トイレに入った人間』にならないよう、まず他の誰かがトイレに入るのを確認してから入りたいところです。かといって待ちすぎて『トイレに入った最後の人間』になってしまってもやはりまずい。自然、犯人は一人目がトイレに入ったすぐ後に、追いかけるようにトイレに入った二人目の人間、ということになります。まあそれでも自分が『最後の人間』になってしまう可能性はあるわけですが、真っ先に入るよりはましですからね」


 羽海ちゃんはすでに観念した様子で俯いている。


「つまり犯人はそこの羽海ちゃんさんということになるわけですが、しかし、どういたしましょうか。私はここのみなさんのお顔を拝見して、彼女がなぜこっそりトイレの詰まりを取り、掃除をしたのか、なんとなく予想ができています。個人的にはそれ、お話ししちゃっても特に問題ないかと思うのですが」


 羽海ちゃんは「いや、それは……」と困っている。「言わないでほしい」ではなく「言わないでやってほしい」という顔であり、どうも彼女自身が何かまずいことをしたわけではないようなのだが。


「いいかげん、頑張ってくれた羽海ちゃんさんも可哀想ですし、ばれてもどうということはない、と思いますが」別紙は言い、羽海ちゃんの後ろで俯いている淵さんに言った。「淵咲子さん……ですよね。いかがでしょう?」


 淵さんが何か関係しているとは思わず、若井は驚いて彼女を見た。六反田女史などはもっと露骨に「ええっ? 咲子ちゃん?」と声をあげて彼女を振り返っている。


「まあ、どう頑張っても今日中にばれると思います。なにしろあなたは、事件発生から一度も口を開いていないわけですから」別紙は言った。


 若井はどういうことだろうと考えかけ、すぐに気付いた。そういうことか。しかし別紙に対しては「そんなに大々的に発表しなくてもよかろうに」という気持ちと、「まあ別に、一般的には隠すようなことではないか」という気持ちが混ざり、褒めていいのかどうか分からない。


「ええ、まあ……そうです」淵さんは普段と全く印象の違う喋り方で口を開いた。「便器に詰まったの、私の入れ歯です。私、総入れ歯なのよ」


 それから恥ずかしそうに、皆に口を開けて見せる。歯がなかった。

「お弁当のゴボウが引っかかってる感じがずっとしててね。口の中をもごもごさせながら下を見たら、うっかり便器に入れ歯、落としちゃって。もう、恥ずかしくてねえ」淵さんは頰を赤らめる。「うろたえちゃって、とっさに流しちゃって、詰まっちゃったの」


「私、淵さんのあとに入ってそれに気付いたんですけど、どうしていいか分かんなくて。とりあえず私も流そうとしたんですけど、溢れちゃって」羽海ちゃんもうなだれて言う。「総務課の人で入れ歯ですって言ってる人、いないし、だったら『入れ歯落ちてましたよ』なんて報告しない方がよさそうだと思ったし、でも業者さんが来ちゃうし」


 別に総入れ歯は恥ずかしがることではないだろうと思うが、何を恥ずかしがるかはその人の美学の問題で、人それぞれである。歯がないまま甘納豆まで食べてみせたということは、淵さんにとっては絶対にばれたくないことだったのだろう。とにかく彼女は困ったわけだ。業者が来れば入れ歯が詰まっていたということは明らかになる。六反田女史などは大喜びで「入れ歯だってあはははは! ねえこれ誰の?」と騒ぎかねない。羽海ちゃんは、それはあまりに忍びないと思い、また自分が水を溢れさせて業者を呼ぶ流れになってしまったことの責任もあって、トイレをなんとかしようと考えた。しかし自分がやったとばれたら、「淵さんが入れ歯を落とした」ことを知っている、と淵さん自身に気付かれる。それもまた気まずいわけである。だから彼女は、自然に詰まりがとれたように見せかけるため、窓から入ってまでこっそりとトイレの詰まりを直した。課長と千草の「立ち会議」がなければ、普通に入口から出入りできたのだろうが。


「……床を掃除する必要まではなかったんじゃないか」


 若井が言うと、羽海ちゃんは「ですよね。つい……」とうなだれる。いい子だな、と思った。こんないい子が、どんな事情があって不登校になっているのだろうか。


 淵さんが「気を遣わせてごめんねえ」と言って彼女の背中を撫でている。課長たちもうんうんと頷いている。スーツと事務服の大人たちに囲まれて一人、学校のセーラー服姿の羽海ちゃんは、自然と皆の中心になる。


 役員の孫で、不登校で居場所がないためなんとなくこの会社に出入りするようになり、今では雑用を積極的にこなしてすっかり従業員のようになってしまった彼女は、課員全員の孫娘のような存在だった。男成常務の計らいで「あくまでポケットマネーから出したお小遣い」という形にして給料は出しているのだが、羽海ちゃんは本来、総務課員ではなく従業員でもない。長林課長が「課員」という言い方をして、なんとか彼女を容疑者リストから外そうとするのもまあ、宜なるかなといったところだった。


「窓から入った、という時点で、犯行可能なのは羽海ちゃんさんくらいだと思いましたが」別紙は常務を見る。「まあ男成常務さん。あなたは何かスポーツをやってらしたようにお見受けします。雰囲気もなんとなく乙女っぽいですし、あなたがお名前と違って女性だったら、あなたも容疑者になっていたわけですが」


「私も無理だよ、二階の窓によじ登るなんて。肩が上がらない」常務は右肩を押さえてみせた。「それに今年、七十八だよ? こんな歳で忍者ごっこをしようなんて思わないよ」


「あら常務。私なんて去年八十ですよ。咲子ちゃんはまだ六十九だけど」六反田女史が言い、細い手で口許を押さえてあははははと笑い、「ひとの歳をばらさないの、もう」とむくれる淵さんにつつかれる。


「それ言ったら俺も七十三だもん。忍者ごっこなんて無理無理」長林課長も笑う。「腰は痛いわ膝は痛いわ、胃も半分しかないし前立腺が、おっとセクハラかこれは」


「課長はまだまだですよ。私なんかまだ六十七ですが、昨年、棺桶に片足突っ込んでますから。今も心臓に太い管が入ってます」千草が言う。


 何やら病気自慢大会になってしまっているが、皆、この歳になれば無理もないことではある。しかし苦笑している若井にも千草が言う。「みんなツギハギみたいなもんだから。元気なのは若井くらいだろう。名前通り、うちじゃ君が一番若い」


「私も無理ですよ」別紙に釈明する意味もあって言う。「それに私だってもう六十一ですよ? 落っこちて怪我でもすれば即、寝たきりになる可能性がある。……いいですか別紙さん。人間、六十を越えると等しく崖っぷちなんです」


「そうよ。入れ歯に老眼鏡、腰のボルトに車椅子。現代人なんてみんなどこかがサイボーグよ」六反田女史がからからと笑い、淵さんの肩を叩く。「入れ歯くらい誰が気にするもんですか」


 淵さんは苦笑する。確かに、まだ十五歳の羽海ちゃんを除けば彼女がこの中で一番健康体なのだ。総務課だけではない。総務部、いや全部署を合わせても一番健康な方だろう。当社では。


 なにしろ株式会社セブンティーズは社名通り、従業員の平均年齢が七十二歳、最低が六十一歳で最高齢はなんと百四歳なのである。会社の方針として「定年なし・採用は六十歳以上」と決めている……というか、もともと高齢者が集まって何か会社をやりたい、という理由で始まったからだ。こんな変わった会社は世界にも例がない。もっともそれは、六十代七十代になっても「勤め人」でいたい、などと考えるのが日本人くらいのものだからなのだが。


 つくづく働くのが好きな国民だと思う。社長がこの会社を立ち上げた時、最初の目的は「年金支給開始年齢の引き上げに伴い、無収入状態で困窮する高齢者の救済」だったのだという。だが現在ではその意義は後ろに隠れ、単に「まだ働きたい。働かせろ」という仕事第一世代の男性と、「私も寿退社なんてせずに働きたかった」という専業主婦の女性が積極的に集まってきている。


 株式会社セブンティーズに就職した者は皆、定年退職制度にもやもやしたものを抱いていたのだった。若井も思う。これだけ働いてきたのに。会社のために身を砕き心を潰して奉公してきたのに。若い者たちについていこうと新しい技術だって必死で勉強してきたのに。なぜ六十代になったら問答無用で退職で、あとは運良くお情けで再雇用されるくらいしか働き口がないのか。俺たち年寄りはもう役立たずだというのか。確かに昨今の若い者たちの貧困を見れば、年寄りは高い給料を取らずにさっさと若者に働き口を譲れ、と言いたくもなるのかもしれない。自分たちは退職後数年間の無年金期間、という程度で済んでいるが、おそらく今の若い世代が俺たちくらいの歳になる頃には、年金支給開始年齢は七十にされ七十五にされ、もらえるまでに大部分が死んでいるだろう。それはひどいと思う。だが、だから俺たち年寄りはさっさといなくなれというのか。それはあまりに冷たくはないか。皆、いずれは年寄りになるというのに、自分が歳を取った時にそんな風潮のままでいいのか。


 嘆きはすれど、できることといえばせいぜい新聞に投書するとか選挙に行くことぐらいで、社会だの風潮だのといったものに対して何ができるわけでもない。少なくとも、株式会社セブンティーズができるまでは、若井もそう思っていた。


 社長がそれを打ち破ったのだった。定年を過ぎたらどこも雇ってくれなくなる。それなら自分で会社を創ればいいではないか。高齢者はGDPに貢献しないと言って邪魔者扱いしてくるなら、GDPに貢献してやろうではないか。同世代向けの商品やサービスをどんどん提供し、貯蓄率が高い同世代の財布からじゃらじゃら市場に金を流してやれば文句はあるまい。


 もちろん当初は苦労も多かったという。やはりどうしたって若い者の方が柔軟で、会社のやり方に合わせてくれるからだ。他社で定年まで勤め上げたような人間はプライドも高く、最初は烏合の衆だったという。だが社長は会社の理念を当時の従業員一人一人に説いて回り、時には強権を用いてなんとか皆をまとめた。なんとかまとまりさえすれば、社会経験が長く格安の給料で雇える上、唯一無二のこの会社がなくなったら大変ということで、当社の従業員は桁外れに愛社精神が高い。そして昨今ますます市場が広がっている同世代向けのサービスも商品も、同世代ゆえけっこう有利に発案できるのである。まあ死ぬ者、体を壊す者が通常の会社よりはるかに多いため保険関係では随分と苦労をし、取引先の信頼を得るのも大変ではある。だが従業員の体力を考えると長時間労働ができず、無駄な接待やピリピリした雰囲気は御免こうむるという風土ができたおかげで、かえって現在では、他社ではありえないほどワークシェアリングやテレワーク、スローワークといった理念が浸透しており、昨年などは若い社長の新興企業を差し置いて「新しい働き方」のモデル企業としてテレビに紹介された。これは痛快で、従業員一同腹を抱えて笑った。


 病気自慢大会で盛り上がる中、若井は思う。悠々自適の老後に憧れがないわけでもない。七十、八十になってまで会社に行くのか、と思う気持ちがないでもない。しかし、あくせく働く老後というのも日々、刺激があってなかなか悪くないのだ。我ながら働き蜂なことだと、若井はひそかに苦笑する。

★つづきは文庫版でお楽しみください!

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