〈4月23日〉 長岡弘樹

文字数 1,251文字

『選考会』


 わたしはいま、日本推理作家協会賞の選考委員を仰せつかっている。任期は四年間だ。二〇二〇年四月二十三日──この日、わたしは上京し、都内のホテルにて、任期最後の務めである選考会に臨むつもりでいた。
「試されるのは候補者ではなく選考委員の方である」などとよく言われる。だから毎年この時期になると、かなり緊張してしまう。しっかりと候補作を読み込み、推す作品を決める前に熟考を重ねなければならない。それを怠ったりしたら、選考委員として落選だ。
 ところが新型コロナウイルスの影響で、ほかの多くの行事と同じく、この選考会も延期になってしまったのだった。
 で、代わりに何をしたかというと、山形県内にある拙宅において「裁縫」である。もっと具体的にいうとマスク作りだ。
 わたしの家内は、マスク信者とでもいうべき人間である。混んでいるバスや電車に二人で乗ったりすると決まってすぐ、わたしの目の前には、口と鼻を覆う白い布が「着けな」の声と一緒に横からすっと差し出されてくる。そんなわけで、今回の入手困難という事態に際し、家内は早い段階から、自分でマスクを生産する作業に着手していた。つまり、わたしはその手伝いをさせられたのだった。
 ネットを覗けば、簡単にマスクを作る方法がいくつも紹介されている。キッチンペーパーを折り畳むだけで出来上がるものもあるようだ。その中から家内が選び出して自作していたのは「HKマスク」なるものだった。これは、香港のある化学博士が考案したものらしい。身近な材料だけで作ることができ、しかも機能は医療用マスクに近いレベルなのだという。
 作業手順はといえば、①ダウンロードして作った型紙を布に当てる。②ふちを色鉛筆でなぞる。③その線に沿って布をハサミで切っていく。④それらパーツを縫い合わせる、といった具合だ。
 我が家にはミシンがないため手縫いである。現在わたしは五十一歳。目のピントが手元に合わないから、針に糸を通すだけでも一苦労というありさまだった。
 裁縫をやったのは、おそらく中学校で家庭科の授業を受けて以来だから、指先が思うように動かない。だというのに「そこマチ針で止めて、あとは波縫い」などと、向かいに座った家内から指示がポンポン飛んでくるから焦ってしまう。それでも自作のHKマスクは、三時間ぐらいでどうにか完成した。
 わたしの苦心作にじっと視線を当てていた家内は、やがてひとこと呟いた。「落選」。


長岡弘樹(ながおか・ひろき)
1969年、山形県生まれ。筑波大学卒業。2003年、「真夏の車輪」で第25回小説推理新人賞を受賞。2008年、「傍聞き」で第61回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。2013年、『教場』が「週刊文春ミステリーベスト10」(国内部門)第1位に。近著に『救済 SAVE』『119』『風間教場』『緋色の残響』などがある。

【近著】

 

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