二月×日

文字数 4,877文字

1日1冊、3年で1,000冊の本を読み、月産25万字を執筆し続ける小説家・斜線堂有紀。


謎めいた日常はどのようなものなのか――

その一端が今ここに明かされる。


毎月第一・第三月曜日、夕方17時に更新!

夕暮れどきを彩る漆黒の光・”オールナイト”読書日記が、本日も始まる。

前回の日記はこちら

二月×日

 前回の読書日記で書いた人間ドックの結果が返ってきた。ありがたいことに結果は何も問題無しで一安心。これからも定期的に人間ドックを受けていくぞ! という日記を書こうとしたのだが、返ってきた結果は恐ろしいほどにボロボロで、なんと八つくらいの異常が見つかってしまった。見つかりすぎだろ。


 作家諸氏のエッセイでこういう話題になった時は大抵「何も問題ありませんでした」というオチになっているので、私もそうなってくれると期待していたのだが……世の中はそう甘くないようだ


 特に問題なのが下腹部にあるそこそこの大きさの腫瘍で、なんとこのせいでお腹に水が溜まっているらしい。私はそれが異常だと思わず、腹筋を鍛え続けていた。お陰で腹の辺りはとても固くなったのだが、そのせいで余計に腫瘍が見つかりづらくなっていたらしい。


 この報告をした友人や担当さん達には口を揃えて「見つかってよかったね」と言ってもらったのだが、私はなんだかこの腫瘍が観測したが故に出来た腫瘍──所謂シュレディンガーの腫瘍なんじゃないか? という気持ちになった。衝撃を受けると、人は妙なことを考えるものだ。(ちなみに、生活習慣的なものは全てとても良い評価だった。運動と食事を丁寧にやっていた甲斐はある。それと病気は別の話だというのもわかる)


 こういう時に一番心の安寧を取り戻させてくれるのは本である


 というわけで、高野秀行「語学の天才まで1億光年」を読む。世界各地での取材の際に、その地の言葉を学習していった結果二十五個以上の言語を学んできた作者のエッセイである。この作者はアジア各国で独自発展を遂げた納豆の謎と起原を追う「謎のアジア納豆──そして帰ってきた」や、酒が禁止されているイスラム圏の密やかな飲酒事情を追う「イスラム飲酒紀行」など、とてもユニークな本を出していて、読む度にその行動力に感動していた。この本では、その行動力こそが言語取得の鍵になっていたことが明かされる


 私は元々外国語を中心に学ぶ学部にいたのだが、外国語の勉強が嫌いすぎて講義に参加しなくなり留年した人間だ。専攻していたはずのドイツ語は未だに「おはよう」と「おやすみ」しか言えない。自己紹介すら出来ないので、その出来無さは折り紙付きだ。とにかく文法を覚えるのも単語を覚えるのもまるで無理で、教授の喋っていることすら分からないので、自分が今何を言われているのかも定かではない有様だった。私に努力と熱意が足りないのはまあ前提として、一体他に何が足りなかったのか? この本を読んで分かった。「必要」だ


 元々、作者は天才的な才能で言語を取得したわけではなかった。むしろ勉強に関してはとてもスローペースで、その姿勢だけは私と似通っている。だが、彼は考古学とフィールドワークには強い興味を持っていて、外国に行きたいという気持ちはとても強かったのだ。そうして興味のままに訪れたインドで、彼はなんとパスポートから有り金までそっくりそのまま奪われてしまうのだ。日本に帰る一切の手立てを失った上に身ぐるみまっで剥がされた結果、彼は必死に英語で事情を説明する。事情聴取で何度も同じことを話し、泊まっていた宿の主人にも同じことを話し、とりあえず力になってくれそうな人にも片っ端から同じ話をする。英語が通じないと尻込みしている場合じゃない。喋れなかったら国に帰れず路頭に迷うのだ。必死にもなる。当然ながら、彼の英語はみるみる内に上達していく


 正直なところ、同じトラブルに見舞われたら私でも必死で英語を学ぶだろうと思う。泣きついて「日本に帰りたい」と言わなければ、一生事態が進展しないのだ。どうしたって必死にならざるを得ない。かといって、同じ目に遭いたいかと言われればそんなことはない。だが、この作者の凄いところはトラブルにより言葉が必要になれば言語を取得出来る──なら、トラブルを恐れずにどんどんその国へと飛び込んで言葉を覚えればいいという発想から、様々な形の体当たりを以て言語を取得していくところである。


 そこから、彼の各国訪問記と言語を巡る冒険が始まる。その数々のエピソードが、腹を抱えて笑ってしまうほど面白い。作者が言語の天才と認めた「宮澤」がペルーで身ぐるみを剥がされ、その結果アマゾンの行商人の下で奴隷のように働かされることとなった事件の顛末などは、あまりの話に呆然としてしまうほどだ。この時も、宮澤は必要に駆られて現地の人とまるで遜色の無いスペイン語を話すようになっている。もしかすると、一旦身ぐるみを剥がされるのが言語取得の一番の近道なのかもしれない……


 その中で一番興味深かったエピソードは、言語が通じるかどうかは文法や単語の正確さにもまして「言語のノリ」が大事である、という話だ。たとえば、タイ語はひたすら柔らかく上品に喋るとそれっぽく、ビルマ語は明るく優しく堂々と喋るとそれらしい。日本語はあまり口を開けずにぼそぼそと喋り、相手より自分を弱く見せることこそが礼儀正しさである──という意識が大事。一方で中国語はひたすら声を大きく出し、天気の話ではなく「もうご飯は食べたか?」という話をする。


 ここで「いや、喋り方はともかくとして話題はノリの範疇ではなくない?」と思われた方も多いだろうが、作者はそれも含めて言語特有のノリに数えている。この話題のノリについてもちゃんと根拠があり、作者が中国語の師として仰いだ王先生曰く「中国人は生活に関心ある。衣食住、これ大事です。だからご飯食べましたかとよく聞きます。天気の話、しない」だそうだ。


 それを読んで、私の方もすとんと納得がいった。確かに、言語というのはコミュニケーションの道具である。なら、言語とは文化に根ざしたものであるべきなのだ。考えてみれば、日本がやたら天気の話をするのは四季への関心が高いからだろう。そうしたノリを理解して、作者は更に言語を取得していくのだ。


 これを読み終えると、外国語を勉強するのは嫌だけれど、外国語を使ってコミュニケーションは取ってみたい、と思えて良かった。


 この本と同時に読んだのが三木那由他「会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション」だ。これは会話というものにマニピュレーション(操作の意図)の概念を持ち込むことで、人々がごく自然に行っている会話というものを解剖している本である。会話は単に情報を伝達するだけではなく、自分の意図通りに相手を操作したいという時に用いる役割もあるという話は、探り合いによって社会を発展させてきた人間の姿を垣間見ることが出来たようで面白い。帯ではかの有名な「うる星やつら」のラムとあたるの会話──「一生かけていわせてみせるっちゃ」「いまわの際にいってやる」という名会話を取り上げて、彼らは「好きだ」と言わないことで何を伝えているのか? と問いかけている。


 こうして抜き出して捉え直してみれば、この会話は意図の掴みにくいものだ。だが、私達はごく自然に二人が何を言わんとしているかを理解し、幸せな二人のシーンであると微笑むことが出来る。会話の意図は分かるが、そもそも私達は一体どうしてそれを理解出来るのか? というところにフォーカスした一冊は、そこにある奇跡を教えてくれるようでもある。(ちなみに、この本では先に挙げたラムとあたるの会話のような、フィクションにおけるテクニカルな会話の例を惜しみなく紹介しているので、その点でも贅沢な一冊である)



二月/日

 腫瘍の大きさを調べる為に、大きな病院でMRIを受けることになった。腫瘍が見つかってから血を抜いたり触診したり、何かを抜いたり何かをしたり色々やったのだが、最後にMRIで締めることになったらしい。「まあ、どんな形のどんな大きさの腫瘍だって、この感じだと取った方がいいんですけどね」とお医者さんに言われ、なんだか外れしか入っていないガチャを回させられているような気分になった


 子供の頃には何度となく入っていたはずのMRIだったが、大人になってからはとんとご無沙汰だった。事前の説明に書かれていることは三〇分くらいじっとしていなければいけないことだけで、どうしてそんなに時間が必要なのかもわからない。おまけに、MRIの一番の特徴であるだろう騒音についてはまるで触れられていなかった。私のMRIのイメージといえば、海堂尊「ジェネラル・ルージュの凱旋」に出てきた「がんがんトンネル」だった。がんがんと大きな音がして真っ暗でトンネルみたいだから、という理由で小児科の子供達がMRIをそう呼称するのである。私の知識の大半は本から得たものなのだ……私もあのがんがんトンネルに入れられるのだな……としみじみ思った


 そしていざMRIに入って驚いた。なんと、MRIはそこまで狭くなく、中はムーディーなやわらかい照明で満たされていたのだ! 勿論、ハンニバル・レクターばりの拘束と三〇分間の無の時間はあったのだが、それでも大分過ごしやすい空間だった。騒音はガンガンというよりはビビビビビビという小刻みな単音で、なんだか死にかけのセミのようだと思った。


 死にかけのセミの鳴き声を聞き、自分の身体の中に存在する異物を感じながら過ごす三〇分はなんとも言えない気分だった。そして予想していた通り暇だ。調子の良いときの阿津川先生はMRIに入りながらトリックを考えられるというが、私は頭の中が「暇だなあ……」で埋め尽くされてしまってまるで生産的なことが出来なかった。MRIの中がこんなに明るいのなら、本の一冊でも持ち込めたら嬉しいのにな……と思ったのだが、本に集中して患者が身じろぎしてしまうのはよくないのかもしれない。 


 待合室でロビン・スティーヴンス、シヴォーン・ダウド「グッゲンハイムの謎」を読む。これは前に読書日記で取り上げた「ロンドンアイの謎」の続編である。個性的な性格と感性を併せ持つテッドの魅力は今作でも健在で、ユニークな語り口で綴られる新たな謎には心が躍った。シヴォーン・ダウドの死によりロビン・スティーヴンスが引き継いだこの物語だが、テッドも姉のカットも、大切な親友のサリムもみんな前作と変わらず生き生きと物語の中で息づいていて、それだけで泣きそうになった。


 彼らの個性は変わらないけれど、テッドは間違いなく成長していた。彼はサリムと自分の関係や友情について考えて不安になったり、カットの夢について検討したり、グッゲンハイム美術館では芸術が何故芸術であるのかについて、自分なりに理解する。そんな成長したテッドが、絵画が盗難されるという難事件に挑むのだ。一つ一つの可能性を論理的に潰し、たった一つの正解を見つけ出すテッドの推理は今回も冴えている。最終的に、テッドの「絵画への理解」が推理を完成させる一手となるというのは、とても綺麗な構成だと思う


 良い小説は人を現実から上手い具合に離す。検査の結果は、次の読書日記の時には分かっているはずだ


「がんがんトンネル」発祥の物語はこちら


次回の更新は、3月20日(月)17時を予定しています。

Written by 斜線堂有紀 

小説家。2016年、第23回電撃小説大賞にて“メディアワークス文庫賞”を受賞。受賞作『キネマ探偵カレイドミステリー』でデビュー。著作に『詐欺師は天使の顔をして』(講談社)、『恋に至る病』(メディアワークス文庫)、『ゴールデンタイムの消費期限』(祥伝社)などがある。2021年、『楽園とは探偵の不在なり』(早川書房)が本格ミステリ大賞にノミネートされ、注目を集める気鋭の書き手。

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