腰がぎっくりいった話

文字数 1,469文字

 どうも、水沢秋生です。小説を書いている者です。
 実は年末に、ぎっくり腰になってしまいましてね、ええ。
 腰がイカれるのはこれが初めてというわけではなくて、遠い昔、まだ大学生だったある冬の雨の日に初めて経験して以来数えること十数回、今となってはベテラン黒帯の域に達しようとしているわけなんですが、何度やってもつらいものはつらいです。
 なにがつらいかと言えば「どう動いたら痛いか予想できない」というのがつらい。「予想できる痛み」というのは構えていれば、わりとまあ、耐えられるものです(限度はあるが)。しかし、ぎっくり腰の場合は仰向けに寝ていて「ちょっと背中がもぞもぞする」と身じろぎをしたとたん、激痛が走る。その激痛を緩和しようと元の位置に戻ろうとしてまた激痛。寝がえりでも打とうものなら超激痛。たぶん、骨盤の中を走っている細い筋肉がややこしいことになっているのでしょうが、そういう「身構え不可」の状態になってしまうと、次は「こう動いてまた痛かったらどうしよう」という恐怖が生まれるのですな。
 さらに、これがたとえば「腕もげた」とか「耳取れた」とか「眉間が割れて血が止まらん」とかいうことになると見た目からしても「あら大変」となるわけですが、こちとら、ただ仰向けに寝ている身の上。もし天井付近からのぞき見をしている人がいたとすれば、きっと「ああ、この人は寝正月なのだな」ぐらいに思ったことでしょう。でも内実はものすごく怖くてときどき猛烈に痛い。
 このエッセイを書いている時点では、ほぼ日常生活に不自由はなくなっておりますが、それでもちょっとした動作(靴を履くとか、床に落とした米粒を拾うとか、洋式トイレに座るとか)を行うときには「また痛くなるかも」という恐怖が心をよぎり、内心びくびくしています。
 一度こういう経験をすると、たとえ相手がものすごーく嫌な感じの人であっても、「この人ももしかすると、人知れず痛みや恐怖と戦っているのかもしれない」と、少しだけ優しい視線を向けられるようになるので、全人類、一度はぎっくり腰になってしまえばよいのに、とも思います。
 さて、何の話かといえば、このたび発売される『俺たちはそれを奇跡と呼ぶのかもしれない』という小説は思いっきり要約すると「目覚めるたびに違う外見になっている人」という、言い換えれば「どんな人も外から見ただけじゃわからないよ」というお話で、面白いから買ってね、ということです。
 我ながらこじつけっぽくなってしまいましたが、ひとつよろしくお願いします。
 それと、今回妙にラフでへんな文体になってしまったのは、「どうも、水沢秋生です」から原稿を書き始めたことが原因だと思われます。そういえば、ぎっくり腰のきっかけも、重いものを不用意に持ち上げたとかではなく、ごく普通に、いつものように、畳を拭こうとしたことでした。
 ちょっとしたことがきっかけでえらいことになってしまうというのは、世の中わりとあるようです。怖いですね。



水沢秋生(みずさわ・あきお)
兵庫県生まれ。出版社勤務などを経てフリーライターに。2012年、第7回新潮エンターテインメント大賞を受賞した『ゴールデンラッキービートルの伝説』でデビュー。著書に『ライオット・パーティーへようこそ』『カシュトゥンガ』『運び屋』『プラットホームの彼女』『わたしたちの、小さな家』『あの日、あの時、あの場所から』『ミライヲウム』がある。

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