『首里の馬』高山羽根子/世界のほんのひと欠片(岩倉文也)

文字数 2,062文字

本を読むことは旅することに似ています。

この「読書標識」は旅するアナタを迷わせないためにある書評です。

今回は詩人の岩倉文也さんが、芥川賞受賞作『首里の馬』(高山羽根子)について語ってくれました。

ぼくは自分というフィルターを通して見た世界しか信じていない。たとえば本であればそれを読み、最終的にぼくの内部に留まったわずかな印象ないし感慨のみが、ぼくの興味の全てとなる。他のなんであれ同様だ。ぼくは自分の中にいったん取り込むという過程を経なければ世界に触れることができない。ぼくは純粋な外部、というものを全く信用することができないのだ。


だからぼくのスマートフォンのカメラロールには、外で撮った写真がほとんど入っていない。散歩をしていて美しい風景に出くわしても写真は撮らないし、また友達と観光地に出かけたときなども一枚の写真も撮らなかった。ぼくはぼくの中に降りつもる切れ切れの思い出さえあれば、それで十分だと思っている。


そうした不確かな思い出を材料につくられるぼくの作品が、果たしてどの程度の強度を持っているかは分からない。しかしそのようにして出力された作品だけがぼくにとってただひとつの確からしい現実であり、ぼくが存在することを証明してくれる数少ない記録なのだ。


沖縄に住む本書の主人公・未名子は、オンラインで遠くにいる見知らぬ人たちへクイズを出題する問読者(トイヨミ)という仕事をする傍ら、空いた時間に郷土資料館へ行き資料の整理を手伝うことを日課としている。


人付き合いが苦手で感情の起伏に乏しい未名子。そんな未名子が郷土資料のアーカイブ化に熱中していく様子がぼくにはとても興味深かった。

この資料館に通うようになってからも、未名子は自分のいる土地の歴史や文化にあまり強く興味を持つことはなかった。ただ資料館に積まれたものを見て、そこにあるいろんな事情を読み解くことは楽しかった。そのとき、人間というものに興味が持てないのだと思い込んでいた未名子は、でも、順さんの集めた資料を見ることで、自分のまわりにいる人たちや人の作った全部のものが、ずっと先に生きる新しい人たちの足もとのほんのひと欠片になることもあるのだと思えたら、自分も案外人間というものが好きなのかもしれないと考えることができた。

資料とは世界の断片だ。それ自体に価値があるのかも、また正確であるのかも分からぬ雑多な記録の集積。しかし未名子は、なにか大きな破壊や災厄が起こり、いまある景色がみんな消えてしまったとしても、アーカイブがあればそれを元通りにするよすがになると信じ、行動するようになる。


なにかを残す、とは、残酷な世界に対して人間の取りうる唯一の反抗だ。放っておけば、この世界にあるあらゆるものは劣化し、壊れ、忘れ去られる。それはある意味では救いなのかもしれない。でも人は、そんな救いに耐え得るようにはできていない。


未名子は資料の保存という形でその反抗を成し遂げようとした。ではぼくはどうなのだろう、とふと考えてしまう。


ぼくはぼく自身の言葉を残そうとする。ぼくはものを書く際、この言葉が五十年、百年先まで残ればいいと夢想する。ただそれは、ぼくの言葉だけ、あるいはぼくという存在の痕跡だけがぽっかりと浮島のように残ればいいと考えている訳ではない。ぼくが見たもの、感じたもの、影響を受けたもの、深く愛したもの、そうしたぼくの周りや内面を取り巻くあらゆるものを、まるごとどこかに留めておきたいと願うからこそ、後に残す、ということを強く意識するのだ。

これから毎日すべてのものは変わる。でもある一点までの、この周囲のすくなからぬ情報を未名子は持っている。どんなにか世界が変わったあとでも、この場所の、現時点での情報を自分であれば差し出すことができるという自信があった。このことを、未名子は誇らしく思う。…(中略)…まったくすべてがなくなってしまったとき、この資料がだれかの困難を救うかもしれないんだと、未名子は思った。

最初『首里の馬』を読んだとき、ぼくと未名子とはいろんな意味で正反対の人間だなと思った。未名子は資料館に集められたさして自分とは関係のない記録を、宝物のように保存していくことに決め、ぼくは自分の中にある極めて個人的な世界のみを、言葉として書き残そうとしている。


しかし本書を読み終えたときに感じたのは、不思議とただあたたかな共感だった。


未名子はそれが将来役に立つのかも分からない資料を、いやむしろ役に立たずに済むことを願いながら、必死に守ろうとした。


きっとぼくは、そんな未名子の姿を美しいと思ったのだ。

『首里の馬』高山羽根子(新潮社)
岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。

Twitter:@fumiya_iwakura

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