〈８月９日〉　阿部智里

祖母(そぼ)の衣(い)桁(こう)


「お母(かあ)さん、これ何(なに)？」
　振(ふ)り向(む)いて、娘(むすめ)が引(ひ)っ張(ぱ)り出(だ)して来(き)た物(もの)に目(め)を見(み)開(ひら)く。
「懐(なつ)かしい！ それ、衣(い)桁(こう)だよ」
　鳥(とり)居(い)のような形(かたち)の木材(もくざい)は漆(うるし)塗(ぬ)りで、扇(おうぎ)型(がた)のクリップがついた房(ふさ)飾(かざ)りがついている。
「呉(ご)服(ふく)屋(や)さんとかで見(み)たことない？」
　ピンと来(き)ていない娘(むすめ)の顔(かお)を見(み)て、最近(さいきん)の子(こ)は呉(ご)服(ふく)屋(や)さんなんて早々(そうそう)目(め)にしないのだと思(おも)い至(いた)る。
「ちょっと待(ま)って」
　実演(じつえん)してみせたほうが早(はや)いと、箪笥(たんす)へ手(て)を伸(の)ばした。

　先月(せんげつ)、母(はは)が死(し)んだ。
　私(わたし)が幼(おさな)い頃(これ)に父(ちち)が亡(な)くなって以(い)来(らい)、女(おんな)手(で)一(ひと)つで私(わたし)を育(そだ)ててくれた苦(く)労(ろう)人(にん)だった。
　生活(せいかつ)を支(ささ)えていたのは和(わ)裁(さい)の腕(うで)で、特(とく)に「柄(がら)合(あ)わせ」の腕(うで)がピカ一だったそうだ。コツがあるのか訊(き)かれると、決(き)まって「うまく出(で)来(き)ると、着(き)物(もの)が喜(よろこ)ぶから」と答(こた)えていた。
　母(はは)はよく、手(て)がけた着(き)物(もの)をこの衣(い)桁(こう)に掛(か)けて、その出来(でき)を確(たし)かめていた。
　作(さ)業(ぎょう)台(だい)と針(はり)坊(ぼう)主(ず)、縦(たて)長(なが)の鏡(きょう)台(だい)に囲(かこ)まれた晴(は)れ着(ぎ)が、掃(は)き出(だ)し窓(まど)からの光(ひかり)でぼんやりと浮(う)かび上(あ)がる光景(こうけい)をよく覚(おぼ)えている。

　この古(ふる)いアパートは、近(ちか)く取(と)り壊(こわ)される。今日(きょう)は掃(そう)除(じ)のために戻(もど)って来(き)たのだが、もうすぐ中(ちゅう)学(がく)生(せい)となる娘(むすめ)も手(て)伝(つだ)うと言(い)ってついて来(き)たのだ。
　まともな着(き)物(もの)はすでに運(はこ)び出(だ)している。残(のこ)っているのはシミが出(で)ているものばかりだったはずだが、ふと箪笥(たんす)の底(そこ)に、たとう紙(がみ)が残(のこ)っていることに気(き)が付(つ)いた。
　取(と)り出(だ)して開(ひら)いてみると、きつい樟(しょう)脳(のう)の香(かおり)と共(とも)に、思(おも)いのほか鮮(あざ)やかな色(いろ)が現(あらわ)れた。
　上(じょう)品(ひん)な絹(きぬ)の光沢(こうたく)を持(も)った桃(もも)色(いろ)の地(じ)に、大(だい)小(しょう)さまざまな蝶々(ちょうちょう)が四(し)方(ほう)八(はっ)方(ぽう)に飛(と)び交(か)っている。
「わ、綺(き)麗(れい)！」
　後(うし)ろから覗(のぞ)き込(こ)んだ娘(むすめ)が感嘆(かんたん)の声(こえ)を上(あ)げた。
「――これ、七五三の時(とき)の着(き)物(もの)だよ」
「お母(かあ)さんの？」
「そう」
　母(はは)が吟(ぎん)味(み)して、手(て)ずから縫(ぬ)ってくれた宝(たから)もの。
　随分(ずいぶん)長(なが)いこと、忘(わす)れていた。
「じゃあおばあちゃん、ずっと大切(たいせつ)に取(と)っておいたんだね」
　娘(むすめ)の言(こと)葉(ば)に、何(なん)だか鼻(はな)の奥(おく)がつんと来(き)て、それを誤(ご)魔(ま)化(か)すように衣(い)桁(こう)へ小(ちい)さな着(き)物(もの)をかける。
　こうやって使(つか)うんだよと言(い)いかけた、その時(とき)だ。

　突然(とつぜん)、突風(とっぷう)が吹(ふ)いた。

　窓(まど)からではない。ぶわっと、温(あたた)かく、でも爽(さわ)やかで、甘(あま)い花(はな)の香(かお)りがする春(はる)の風(かぜ)が、着物の中から吹(ふ)き出(だ)して来(き)たのだ。
　その風(かぜ)に乗(の)るように、しゃらしゃらしゃら、と鈴(すず)のような軽(かろ)やかな羽(は)音(おと)を立(た)て、蝶(ちょう)が一斉(いっせい)に飛(と)び出(だ)して来(き)た。晩(ばん)春(しゅん)の雨(あめ)上(あ)がりにかかる虹(にじ)のように、淡(あわ)くとろけるような色(いろ)をした翅(はね)が、頬(ほお)をかすめて飛(と)んでいく。
　舞(ま)い散(ち)る鱗(りん)粉(ぷん)は光(ひかり)のかけらのよう。
　西(にし)日(び)が差(さ)し込(こ)み、いつの間(ま)にか明(あか)るい薄(うす)紅(べに)色(いろ)になった部屋(へや)の中(なか)を、七色(いろ)の蝶(ちょう)の渦(うず)が満(み)たしていく。
「ああ、いいね」
　ふと、耳元(みみもと)で母(はは)の声(こえ)が聞(き)こえた気(き)がした。
「着(き)物(もの)が喜(よろこ)んでる」

　我(われ)に返(かえ)ると、衣(い)桁(こう)には小(ちい)さな｜着(き)物(もの)が、何事(なにごと)もなかったかのように袖(そで)を広(ひろ)げていた。
　髪(かみ)をぐしゃぐしゃにしたまま、私(わたし)と娘(むすめ)は呆然(ぼうぜん)と目(め)を見(み)交(か)わす。
「……お母(かあ)さん。その着(き)物(もの)と衣(い)桁(こう)、私(わたし)にちょうだい」
　しばらくして、娘(むすめ)が言(い)った。
「いいけど……着(き)物(もの)、エコバッグにでもするの？」
　不(ぶ)器(き)用(よう)な私(わたし)と違(ちが)い、娘(むすめ)が先日(せんじつ)、家(か)庭(てい)科(か)の授(じゅ)業(ぎょう)で作(つく)って来(き)た作品(さくひん)は大(たい)したものだった。しかしそれを聞(き)いた娘(むすめ)は、「もったいない！」と叫(さけ)んだ。
「や、何(なに)に出(で)来(き)るかは分(わ)かんないけどさ。着(き)物(もの)のリメイクとか、ちょっと興(きょう)味(み)出(で)てきた」
　中(ちゅう)学(がく)に行(い)ったら手(しゅ)芸(げい)部(ぶ)もいいかもねと呟(つぶや)く娘(むすめ)は、私(わたし)より、私(わたし)の母(はは)と似(に)ている。


阿部智里（あべ・ちさと）
１９９１年(ねん)群(ぐん)馬(ま)県(けん)生(う)まれ。２０１２年(ねん)早稲田(わせだ)大学(だいがく)文(ぶん)化(か)構想(こうそう)学(がく)部(ぶ)在学(ざいがく)中(ちゅう)、『烏(からす)に単(ひとえ)は似(に)合(あ)わない』（文(ぶん)藝(げい)春(しゅん)秋(じゅう)）で、史(し)上(じょう)最(さい)年(ねん)少(しょう)の２０歳(さい)で松本(まつもと)清(せい)張(ちょう)賞(しょう)を受(じゅ)賞(しょう)し、デビュー。１７年(ねん)早稲田(わせだ)大学(だいがく)大学(だいがく)院(いん)文学(ぶんがく)研(けん)究(きゅう)科(か)修(しゅう)士(し)課(か)程(てい)修(しゅう)了(りょう)。デビュー作(さく)から続(つづ)く「八咫(やた)烏(がらす)シリーズ」は累計(るいけい)１５０万(まん)部(ぶ)を越(こ)える大(だい)ベストセラーとなり人(にん)気(き)を博(はく)す。ほかの著書(ちょしょ)に、八咫(やた)烏(がらす)シリーズの外伝(がいでん)『烏(からす)百(ひゃっ)花(か)～蛍(ほたる)の章(しょう)～』（文藝(ぶんげい)春(しゅん)秋(じゅう)）、『発現(はつげん)』（ＮＨＫ出(しゅっ)版(ぱん)）がある。２０２０年(ねん)９月(がつ)、八咫(やた)烏(がらす)シリーズの第(だい)２部(ぶ)『楽園(らくえん)の烏(からす)』（文藝(ぶんげい)春(しゅん)秋(じゅう)）の刊行(かんこう)を予(よ)定(てい)している。
八咫(やた)烏(がらす)シリーズ公式(こうしき)HP（文藝(ぶんげい)春(しゅん)秋(じゅう)） https://books.bunshun.jp/sp/karasu

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