『メゲるときも、すこやかなるときも』レビュー/横田かおり

文字数 2,270文字

写真/アフロ

あれから、三年の月日が流れた。

突然のパンデミックにより日常に多くの規制がなされ、出るな、密になるなと窮屈な檻に押し込められたような日々に、心や体が「メゲた」と感じた人は多い。

友人や家族とのささやかな交流はいとも簡単に奪われた。

唐突に訪れた一人ぼっちの吐息が満ちる、密の空間に押しつぶされそうになっても、皆がそうだと分かっているから弱音すら容易くこぼせない。

孤独はウイルスよりも恐ろしい感染力で、私たちの内側をじわじわと蝕んでいった。


しかし、災厄の中、気高さとお姫様然を決して崩すことのなかった人がいる。

夫に逃げられ、親に欺かれ、周囲の人間に騙されてなお、自らを貫いた者がいる。

彼女はメゲなかった訳ではない。

すこやかなままでいられるはずもないくらいに困難は彼女のもとを次々に訪れた。

でも、彼女は何も変わっていない。

むしろそれ以前よりパワーアップする勢いで、今この時も物語の先を生きているだろう。


物語の主人公は松倉乃亜。

恵まれた家庭環境で学歴は高く、蝶よ花よと大切に育てられてきた箱入り娘は、波風の立たない穏やかな環境下で純粋培養されたまま、人を疑うことをついぞ知らない。

乃亜には幼いころから許嫁のような関係の男性がいた。父母公認のお婿さん候補ぶっちぎり№1のその人から熱心なアプローチも受けていた。

けれど、両親の反対を振り切る形で、乃亜は自らが選んだ男性と結婚を果たす。


雪男と書いてユキオと読む冗談みたいな名前の男性といるときの、自分が好きだった。

地位も名誉もお金も、なーんにも持ち合わせていなくても、彼の中からあふれ出る優しさと陽だまりのような温かさに、乃亜は心からの幸福を感じていた。

ところが、パンデミックが世界を席巻しだしたころ、夫のユキオは乃亜の前から突然姿を消したのだった。


〈捜さないでください。ごめんなさい。雪男〉


乃亜の父親が重役として鎮座する信用金庫を退職後、イマイチ軌道に乗らない――

いや、はっきり言おう。ダサさすら漂うオーガニックレストランを開いたユキオだったが、乃亜に愚痴を言うこともなく、何より出会ったときから寸分変わらぬ愛情を向けてくれるユキオの失踪理由が乃亜にはどうしても考えつかない。

ユキオの乃亜への唯一の要望により、乃亜は家事のほとんどをすることもなく、外へ働きに出ることもなかった。

少しの不満を飲み込めば、ユキオとの穏やかな生活は永遠に続いていくはずだった。

しかし――


最愛の夫がいなくなって追い打ちをかけるように、自分には何の能力もないのだという現実が突きつけられた。

残された大量の請求書の前で、両親に持たされたイザという時のための貯金は風前の灯だ。

学歴はあれど、社会経験は皆無。社会に出れば役に立たないどころかお荷物になった。

自身のことだけではない。

夫はどんな職場でどんな人々と働いていたのか。

何を憂い、どんな未来を思い描いていたのか。

何も知らぬまま、今この時まで生きてこられたのは、愛情が深すぎて重すぎる両親に守られ甘やかされ、与えられるばかりの人生だったからなのか。

ただこのまま、ぬくぬくと過ごしていくことは果たして本当のしあわせだろうか。


分からないから、飛び出した。

知らないから、疑うことなく手を取った。

露見した人々の悪に、自らの揺れる感情に乃亜は直面する。


ユキオがいなくなった場所で出会った人々は、それぞれ事情を抱えていた。

悪意を向けられていたのに全く気が付かなかったのは、乃亜がお人好し過ぎるから。

真相を知ったとしても憎み切れなかった。だって、胸の内を明かせるようになっていた。

ユキオと乃亜の再会に一役買ってくれたのは、彼女の最後のいじわるだっただろうか。


全ての諸悪の根源が乃亜への愛であり、それは自己愛を巧みに隠す隠れ蓑でもあった。

けれど、両親が乃亜を助けてくれた事実に変わりはない。

親離れのできない娘と子離れできない親は健全ではないけれど、親子間で育んだ愛が乃亜とユキオを結びつけたのかもしれない。

それは、乃亜にとって必要な愛だった。


逃げたかったユキオ。でも乃亜と離れたくもなかったユキオ。

逃亡したユキオの苦悩は、この数年で多くの人が経験した不安や焦りと同じだった。

けれど、再会した二人には過去を許し合う時間ができた。

今を重ねることでつくれる未来が二人の間に芽吹いた。


〈「ねえ、ユキオさん、世界って案外によく出来てますね」〉


乃亜がこぼした真理に心がふるえたことを、私は忘れたくない。


暗闇の中を手探りで進むようだった。

出口を示す明かりは見えているのに、永遠に辿り着けない気がしていた。

でも、世界は案外うまくできているのだ。


一足先に、あたらしい世界へ踏み出した人々の朗らかな声が響く。

その場所でまた、あなたたちと出会いたい。


横田かおり(よこた・かおり)

本の森セルバBRANCH岡山店勤務

1986年、岡山県生まれの水瓶座。光文社「本がすき。」サイトにてレビュー連載中。

1万円選書サービス「ブックカルテ」参画中。

『メゲるときも、すこやかなるときも』

堀川 アサコ(ホリカワ アサコ)

1964年、青森県生まれ。2006年『闇鏡』で第18回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主著に『幻想郵便局』『幻想映画館』『幻想日記店』『幻想探偵社』『幻想温泉郷』『幻想短編集』『幻想寝台車』『幻想蒸気船』『幻想商店街『幻想遊園地』の「幻想シリーズ」、『大奥の座敷童子』『小さいおじさん』『月夜彦』『魔法使ひ』『オリンピックがやってきた 猫とカラーテレビと卵焼き』、「おもてなし時空」シリーズなどがある。

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