Day to Day〈5月21日〉〜〈5月30日〉#まとめ読み

文字数 13,338文字

2020年の春、ここtreeで、100人のクリエーターによる100日連続更新の掌編企画『Day to Day』がスタートし大きな注目を集めました。この2021年3月25日、その書籍版が発売されます。


>通常版

>豪華版


treeでは、それを記念し、『Day to Day』の原稿を10本分ごと(10日分ごと)にまとめて、一挙に読みやすくお送りいたします。それでは……珠玉の掌編をお楽しみください!

〈5月21日〉わたしたちの関係


 朝食の時間だった。
 それなのに、あの人はまったく起きる気配を見せない。ねぇ、いい加減に起きてよ。わたしがそう何度呼びかけても無反応で、朝早くに仕事へ向かう頼もしい姿はどこへやら。仕方なく寝室へと向かって、だらしない寝顔を見下ろした。わたしが声をかけると、彼は億劫そうに寝返りを打って、こう呻くだけ。
「もうちょっと寝かせて……。今日の仕事は十時からだから」
 言いながら、捲れたシャツから覗くお腹をポリポリと掻いている。
 あのねぇ。
 思わず、げんなりとした。
 いつからか、わたしたちの生活は一変してしまった。
 はじめの頃は、むしろ嬉しい気持ちの方が勝っていた。いつも仕事で家を出てしまう彼が、ずっと家にいてくれるのだから。これまでとは比べられないほど、ふたりでいられる時間が増えて、わたしたちは閉じた世界での生活を満喫していた。ふたりで並んでテレビを眺め、夜遅くまで気兼ねなくふしだらな時間を楽しんでいた。いったい、いつまでこの暮らしを続けられるのだろうと、終わりが来ないことを祈っていたくらいだったのに。
「いやぁ、リモートワークは最高だね」
 そんなことを言いながら、夜遅くまでひとりテレビゲームを楽しんでいる彼の姿に、わたしは苛立ちを憶えるようになっていた。
 だって、時間はたくさんあるんだから、家事の一つでもすればいいじゃない? それなのに、リモートワークとやらもなんのその。この人ったら、働きもしないで、ごろごろと惰眠を貪ってばかり。それでいて、こっちが構ってほしいときには、仕事が忙しいから、とわたしを邪険に扱いはじめるのだ。しまいには、画面の向こうの同僚の女にデレデレし始める始末。本当に、こんな人だと思わなかった。
 わたしたちの関係が変わってしまったのは、きっと一緒に居すぎたせいなのかもしれない。わたしの方も、彼がずっと家にこもっているせいで、自由気ままにひとりの時間を満喫することができずにいた。昼寝だって満足にできないし、こっそりおやつを食べるのにも気を使わなくちゃいけない。狭い部屋のせいで、のんびりソファーに寛ぐことすら満足にできない。だからといって、外出しようとすれば、彼に妨害されてしまう始末。なんの権限があって、わたしの行動を束縛するの?
 ねぇ、わたしは、あなたにとって、どういう存在?
「そんな不満そうにするなって。お前にだって感染する可能性があるらしいぞ」
 わたしの抗議を無視しながらも、彼はようやく働く気になったらしく、わたしを強引に連行しながら仕事机の前に向かう。
「しばらく、そこに入っててくれよ」
 こんな居心地の良い箱を用意したからって、わたしの機嫌が良くなるなんて思わないでちょうだいね。あ、でも、これはこれで、なかなか収まりがいいじゃない? そうね、今日は勘弁してあげるけれど、明日こそ、いつも通り、七時に朝食を用意しなさいよ?
 ねぇ、ちょっと、わかってる?
「わかったわかった」
 わたしの訴えも虚しく、彼はパソコンに電源を入れながら、笑って言った。
「猫は気楽でいいよなぁ」
相沢沙呼(あいざわ・さこ)
1983年埼玉県生まれ。2009年『午前零時のサンドリヨン』で第19回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。『小説の神様』(講談社タイガ)は、読書家たちの心を震わせる青春小説として絶大な支持を受け、実写映画化(2020年公開)が発表されている。『medium 霊媒探偵城塚翡翠』で「このミステリーがすごい!」2020年版国内編第1位、「本格ミステリ・ベスト10」2020年版国内ランキング 第1位、「2019年ベストブック」(Apple Books)2019ベストミステリーの三冠を獲得した。

〈5月22日〉



 俺は今、ビルの空き部屋にいる。世間の関心は昨日辞表を出した検察庁のお偉いさんに集まっているらしいが、俺はそんな騒ぎとは無関係だ。今日から仕事再開だ。
 ライフルのスコープを覗く。真向かいにあるマンションの一室。だだっ広いリビングには誰もいない。そう、俺は殺し屋だ。
 本来なら毒を使う。部屋に侵入して標的が口にするはずの飲料に毒を仕込む。だが今日は押し入れからライフルを引っ張り出してきた。殺しもリモートで、というわけだ。
 リビングに男が入ってくるのが見えた。俺は引き金に指をかける。風が少々強いか。
 今回の獲物は大物だ。Lの一族という泥棒一家の頭領、三雲尊だ。三雲という男がどんな奴か知らないが、残念ながら今日で最期だ。俺は狙った獲物は確実に仕留めるのだ。
 喉が渇いていた。俺はコンビニの袋から出した紙パックのフルーツ牛乳を開ける。口に運ぼうとした瞬間、俺はその匂いを嗅ぎ分けた。普段から毒物を扱っているため、絶対に間違いない。どうしてフルーツ牛乳に毒が? さきほど立ち寄ったコンビニ。あのベトナム人の店員の仕業か? いったいなぜ――。
 風が幾分弱まる。頭の中に疑問が渦巻いていたが、俺は仕事を遂行することにした。標的は今、背中を向けている。
 悪く思わないでくれ。こっちも仕事でな。
 俺が引き金を引こうとした、そのときだった。スマートフォンが震え出した。
 見知らぬ番号だ。着信は止む気配がない。俺は画面を操作した。男の声が聞こえてくる。
「やあ、殺し屋君」
 スコープに目を押しつける。携帯片手に男がこちらを見ていた。口元には笑みが浮かんでいる。俳優の渡部篤郎にクリソツだ。
 フルーツ牛乳に毒を仕込んだのも奴の仕業か。Lの一族は殺しはやらない主義だと聞いていた。おそらく奴は、俺が飲む直前に必ず気づくと見越したうえで毒を仕込んだのだ。
「ステイホームだ」奴が言う。「自粛に疲れたのはわかる。そこは3密じゃねえし、飯を食うくらいは構わんだろ。そろそろ届く頃だ」
 インターホンが鳴った。覗き窓から外を見ると宅配ピザの配達員が立っている。まったく何て男だ。今回は向こうが上手だったらしい。
「実はこれからオンライン麻雀をやるんだが、よかったら俺たちと一緒にやらないか」
 スコープを覗き込む。三雲尊が不敵に笑って言った。「もちろん金なんて賭けずにな」
横関大(よこぜき・だい)
1975年静岡県生まれ。武蔵大学人文学部卒。2010年『再会』で第56回江戸川乱歩賞を受賞。著書に連続ドラマ化された『ルパンの娘』、『ルパンの帰還』、『ホームズの娘』、『グッバイ・ヒーロー』、『スマイルメイカー』、『K2』、『ピエロがいる街』、『仮面の君に告ぐ』『誘拐屋のエチケット』などがある。
〈5月23日〉アマビエより愛を込めて


 土曜日は、ここ、桜ノ宮坂音楽大学は全学部が休講である。が、大学内の有料チケット予約制で時間貸しのレッスン室は通常営業で、自宅で楽器(声楽を含む)の練習ができない学生には重宝されているし、大学にいくつかある大小のオーケストラ、またはトリオやカルテットなどの室内楽の練習も大学構内のあちらこちらで行われていた。
 6月の鬱陶しい梅雨のシーズンを前に本日は気持ちの良い晴天、いつもは室内で行う練習を外で、青空の下で(厳密には直射日光は天敵なので何かしらの庇の下で)やりたくなるのは人情である。
「これが、駒澤くんからわざわざ送られてきた画像?」
 友人の野沢政貴の手元を覗き込みながら葉山託生が訊く。ポイントは“わざわざ”の部分だ。
「そうなんだ。悪霊退散? じゃないな、疫病退散? かな。まあ、どっちでもいいんだけど」
 繊細そうな外見をしているが中身はざっくりしている政貴の、実に政貴らしい返答に、わざわざ画像を、――政貴を慮っての駒澤の行為が軽く流されたようで、気の毒になる。いや、高校時代からつきあっている恋人の反応など予想の範囲内で、この手のものはスルーされがちなのも慣れっこだとは思うのだが、にしても、の、ロマンチストな恋人を持つけっこうなリアリストしかも外見はロマンチスト、それが、託生の高校時代からの親しい友人であり音大でのライバルでもある政貴だ。
「……野沢くん、これ、もしかして、妖怪?」
 遠慮がちに訊いた涼代律は政貴と同じ楽器を専攻している友人で(もちろんライバルのひとりだ)、そっち系が大の苦手なのである。
「この程度で怖がるの、どうなんですかね」
 と冷静に突っ込むのは大学でも託生たちの後輩となった中郷壱伊。決して横柄ではないのだが、超一流オーディオメーカーのナカザト音響社長令息の壱伊は、高校時代から先輩に対してナチュラルに物怖じしなかったし、現在もまったく物怖じしない。
「そうだ。こういうの、ギイは、喜ぶんじゃない?」
 ふと、政貴が閃く。
「確かに!」
 託生は大きく頷いて、政貴から画像データをもらうとそのままギイへメールした。
 ギイこと崎義一。託生たちが高校へ入学したときには世界でトップクラスの大学を既に卒業していてそれを隠して一般人(?)を装って同級生として高校生活を送っていた、頭脳もルックスも抜群でナカザト音響ですら足元にも及ばないほどのとてつもない家柄の御曹司であり、庶民の託生とは天と地ほどの様々な開きだったり差があるのだが、それらを一切気にしない、とことんマイペースな恋人、でもあった。
 相手が世界のどこにいようとも、タッチひとつで送れるメールはありがたい。しかも多忙なギイから珍しく、すぐにメールの返信が届いた。
[託生、メールの本文に「アマエビだよ~」とあるが、これは 〝アマビエ〟では?]
「え!? 甘エビじゃなくて、アマビエ!?」
 間違いにどっと赤面した託生に、ギイからまたメールが届いた。そこには活きの良さそうなたいそう美しい甘エビの写真が。
 その後、託生のケータイの待ち受け画面がしばらく甘エビの写真になっていたのは、経緯はどうであれ、恋人からもらった画像が託生には嬉しかったという、ほのぼのとしたオチである。
ごとうしのぶ
静岡県出身。水瓶座のB型。BL小説の金字塔的作品「タクミくんシリーズ」は累計500万部を超える。
〈5月24日〉待つ日


 彼は呼び出しを待っていた。
 ほとんど数秒ごとにドアへ目をやったが、ドアは開くことなく、時が過ぎて行った。
 覚悟はできていた。どんな結果であれ、甘んじて受け入れる。自分のしたことの結果なのだから、それは当然のことだ。
 落ちつかず、つい部屋の中を歩き回りながら、ふっと足を止める。今、自分を取り巻くこの世の中の、何という醜さだろう。
 次々に襲ってくる、天災、人災。その都度失われる命。しかし、誰もその責任を取ろうとしない。「絶対安全」だったはずの原発がメルトダウンという最悪の事故を起しても、忘れる間もない内にオリンピックを開こうと言い出す。船底にあいた穴を必死に手でふさぎながら、「さあ、世界一周のクルーズに出かけましょう!」と呼びかけているようなものだ。
 いや、それは――と、彼は思った――俺のせいじゃない。俺の力でどうにかできるというものじゃなかった。それでも、ちゃんと腹は立てた。
 しかし、それで充分だったか、と問われたら……。他に何ができただろうか。
 腹を立てることはいくつもあった。眠っている女性をレイプしても、偉い人と仲がいいと捕まらないなんて、一体どこの国の話だ? だが――俺も酔って同僚の女の子に抱きついたりしたことがある。そのときの女の子の気持なんか、考えてもみなかった。
 そうだ。これから待っている世の中は、そういう腹の立つことで一杯なのだ。
 だからといって――それは俺のせいじゃない。俺一人の力では何もできない。
「いや、違う」
 と、足を止めて、彼は呟いた。
 自分を待っているのが、どんな重労働でも、辛い試練でも、それを引き受けるのは、今の世の中を少しでも良くするために努力するという約束をすることだ。どんなにわずかな、小さな力でも。
 そのとき、ドアが開いて看護師が入って来た。
「無事に産まれましたよ! 元気な女の赤ちゃんですよ!」
 2020年5月24日。――娘の誕生日のこの日は、同時に彼の「第二の誕生日」だった。
赤川次郎(あかがわ・じろう)
1948年福岡生まれ。1976年に『幽霊列車』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。「四文字熟語」「三姉妹探偵団」「三毛猫ホームズ」など、多数の人気シリーズがある。クラシック音楽にも造詣が深く、芝居、文楽、映画などの鑑賞も楽しみ。長年のミステリー界への貢献により、2006年、第9回日本ミステリー文学大賞を受賞。2016年、『東京零年』で吉川英治文学賞を受賞。

〈5月25日〉



「ただいま」
 帰宅した夏目信人は鞄と紙袋を妻の美奈代に渡し、マスクを外して洗面所に向かった。手洗いとうがいを念入りにしてリビングダイニングに行くと、食卓の真ん中にケーキが置いてある。壁には美奈代お手製の飾りつけがされていた。
 五月二十五日――娘の絵美の誕生日だ。
 幼い頃に頭部に大きな怪我を負った絵美は長い間入院生活を送っている。毎年病室で絵美の誕生日を祝っていたが、今年はコロナウイルスの影響で面会が制限されてしまった。
「プレゼントは何にしたの?」先ほど渡した紙袋を見ながら美奈代が訊いた。
「店員さんに絵本を五冊選んでもらったんだ」
 時計に目を向けると、夜の八時半だ。そろそろかと思っていると、ポケットの中のスマホが震えた。
 看護師の『山本茉優』からの着信だ。
 応答ボタンを押すと、マスクとフェイスシールドをした茉優の姿が画面に映った。
「準備はいいですか?」
 茉優の言葉を聞き、美奈代がケーキに差した十五本のローソクに火をつけた。
 夏目はスマホのカメラをケーキに向けながら、「ハッピーバースデイ・トゥ・ユー……」と口ずさんだ。美奈代と茉優の声が重なる。
「……ハッピーバースデイ・ディア・絵美ちゃん……ハッピーバースデイ・トゥ・ユー」
 拍手の音とともに、美奈代がローソクの火を吹き消した。画面に映る絵美の顔が笑ったように思える。
 来年こそは、この場所で、家族三人で誕生日を祝おう。その思いを画面越しに絵美に伝え、茉優に礼を言って電話を切った。
「やっと緊急事態宣言が解除されたわね。神様も絵美の誕生日を祝ってくれてるのかしら」
 微笑みながら言った美奈代に、「きっとそうだね」と夏目は返した。
 緊急事態宣言が解除されたといっても、多くの人たちはこれからも大変な生活を強いられる。明けない夜はないと歯を食いしばって必死に耐えている人たちが大半だろうが、それでも窃盗や詐欺や傷害などコロナ禍によってもたらされたと思われる事件がここのところ急増していた。
刑事という仕事に自粛や休業はない。
「そろそろ署に戻るよ」
夏目は美奈代に告げると気を引き締め直して玄関に向かった。
薬丸岳(やくまる・がく)
1969年兵庫県生まれ。2005年に『天使のナイフ』で第51回江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。2016年に『Aではない君と』で第37回吉川英治文学新人賞を、2017年に短編「黄昏」で第70回日本推理作家協会賞<短編部門>を受賞。『友罪』『Aではない君と』『悪党』『死命』など作品が次々と映像化され、韓国で『誓約』が20万部を超えるヒットを飛ばす。他の著作に『刑事のまなざし』『その鏡は嘘をつく』『刑事の約束』『刑事の怒り』と続く「刑事・夏目信人」シリーズ、『神の子』『ガーディアン』などがある。 
〈5月26日〉花ひらく


 デスクに頬杖をついてスマホをいじっていたあおいは、なんの気なしに窓の外に目線を移した。狭い庭先に植えられた燕子花が、緑色の尖った葉をぴたっと身にまとい、槍のように凛々と並んでいる。先端はうっすらと紫色を帯びて、やがて咲きこぼれる花の予感がある。
 この春中学校に入学したあおいは、入学式いちにちきり登校して、クラスメイトの顔も名前もまったく覚えないまま、休校に突入してしまった。リモート授業は想定されていなかったので、教科書を読んで課題のプリントをやるしかない。つまんないなあ、と思っていたくせに、いざ緊急事態宣言が解除されて、来週から学校再開となると、行くのやだなあ、と思い始めていた。
 父は都心の会社へ勤務を続けていた。せっかく通勤電車空いてたのに、また満員電車に戻っちゃうよ、と昨日、嘆いていた。母はリモートワークを続けていて、リビングのテーブルでオンライン会議中だ。「いや、ですからね、ですからそれは……」とパソコンに向かってぎゃんぎゃんまくしたてている。あおいは黙ってリビングの掃き出し窓を開け、庭へ出た。
 こんなとこに、こんな花があったっけ? と思いながら緑の小槍を眺めていると、「どうしたの?」と背後で母の声がした。
「この花……こんなのあったっけ?」振り向かずにあおいが訊き返すと、「ああそれ、燕子花ね。あおいの生まれ月に咲く花だからって、おじいちゃんが買ってきて植えてくれたんだよ」母が答えた。
 全然知らなかったことを聞かされて、あおいは急に緑の小槍に興味を持った。キッチンバサミをとってくると、てっぺんに固いつぼみを頂いた一本の茎を、根元に近いところでぷつんと切り取った。それをコップに挿して、ダイニングテーブルの上に置いてみた。
「どうしたんだ、これ」満員電車でぐったりして帰ってきた父が、テーブルの上のつぼみをみつけて尋ねた。あおいはなんとも答えなかった。「ひまなのよ、この子」母がくすっと笑ってつぶやいた。
 朝昼晩、あおいはテーブルの上のつぼみと向き合いながら食事をとった。テーブルの上に花が、しかもまだつぼみの花が一輪、ある。ただそれだけで食卓の風景が変わった気がした。今日かな、明日かな。あおいは花が開くのを心密かに待った。つぼみは次第に紫色を帯びて、膨らんでいくように見えた。ところが、あともうちょっとで開きそうになったとき、急に咲くのをやめてしまったかのように見えた。花の先端はいましもほころんでいるのに、力尽きてしまったのだろうか。
「枯れちゃったのかな」
 あおいのつぶやきを、キッチンのカウンターで食器洗いをしていた母が聞き留めた。
「咲くよ、きっと」
「どうしてそう思うの。枯れてるようにしか見えないよ」
「花はひらくとき、一番力を使うんだよ。ぐっと溜めて、あとは開くだけ。開くのは自然の力なんだから、大丈夫よ」
「なんでわかるの。花じゃないのに」
 あおいの問いに、母は笑った。
「だって、お母さん、あなたを産んだんだもん。その時と一緒だよ、たぶん」
 翌週、あおいの中学校生活が始まった。その朝、固かったつぼみをはらりと解いて花がひらいた。帰宅したあおいがみずみずしい紫の花に気づくのは、もうすぐのことだ。
原田マハ(はらだ・まは)
1962年東京都生まれ。2005年「カフーを待ちわびて」で日本ラブストーリー大賞を受賞し、デビュー。2012年『楽園のカンヴァス』で山本周五郎賞受賞。2017年『リーチ先生』で新田次郎文学賞受賞。他の著書に『暗幕のゲルニカ』、『たゆたえども沈まず』、『美しき愚かものたちのタブロー』など。最新作は『<あの絵>のまえで 』。
〈5月27日〉ゆらめく人影


 相棒は昼食を買いに出かけている。
 車の中から、如月塔子は前方の民家に目を向けた。
 一昨日、東京都でも緊急事態宣言が解除された。だが静かな公園に隣接するこの住宅街には、ほとんど人通りがなかった。
 塔子たちの目的は、捜査対象者の居場所をつかむことだ。強盗傷害の被疑者である男は、知人の留守宅に潜んでいるのではないか。それを確認する必要があった。
 張り込みを続けるうち、おや、と塔子は思った。アパートの花壇にドロップの缶が置いてある。車を降りて近づいていくと、うしろから声をかけられた。
「すみません、それ、私のです」
 振り返ると若い女性が立っていた。青いカーディガンにふわりとしたフレアスカート、背中には茶色いリュックサックが見えている。
「あ、ごめんなさい」塔子は軽く頭を下げた。「忘れ物だったんですね」
「いえ、それ、カメラなんです」
「これがカメラ?」
「針穴写真ってご存じですか。昨日から私、あの公園の近くを撮影していて……」
 彼女は写真を見せてくれた。やや暗いモノクロ写真で、木炭デッサンのような味わいがある。路上に人影が写っていたが、なぜかぼんやりして輪郭がはっきりしなかった。
「誰もいないから自分を撮ったんです」彼女は目を細めた。「露光時間が長いので、ゆっくり動いたものはそんなふうに写るんですよ。姿がゆらめいて幻想的でしょう?」
「あの……ほかの写真も見せていただけませんか」
 昨日の夕方撮影したという写真を、塔子は確認していった。そのうち決定的な一枚を発見した。民家の窓に人影がある。何度も外を窺ったのだろう、ぶれた像になっていた。
「やっぱりあの家に!」塔子は警察手帳を呈示した。「警視庁捜査一課の如月といいます。ご協力に感謝します」
 女性は手帳を見て驚いていたが、じきに気を取り直したようだ。
「こんなときに、刑事さんも大変ですね」彼女は小声で言った。「毎日、息苦しくて気が滅入ります。早く元どおりになるといいんですけど」
 そうですね、とうなずきながら、塔子はもう一度写真を見つめた。人通りのない街の風景は、ひどく寂しく感じられる。
 ──そういえば、あの人は針穴写真を知っているんだろうか。
 カメラ好きの先輩刑事の顔が、頭に浮かんできた。
 ひとけのない街の片隅で、塔子は報告の電話をかけ始めた。
 世の中がどんな状況であっても、冷静に、確実に捜査を進めなくてはならない。それが刑事の役目なのだと、塔子は自分に言い聞かせていた。
麻見和史(あさみ・かずし)
1965年千葉県生まれ。立教大学文学部卒業。2006年に『ヴェサリウスの柩』で第16回鮎川哲也賞を受賞し、デビュー。新人刑事・如月塔子の活躍を描く『石の繭 警視庁殺人分析班』が人気を集め、シリーズ化。本シリーズは『石の繭』『水晶の鼓動』『蝶の力学』がWOWOWでテレビドラマ化されている。また、2016年に『特捜7 銃弾』が、2018年に『警視庁文書捜査官』が『未解決の女 警視庁文書捜査官』としてテレビドラマ化された。今後さらなる活躍が期待されるミステリー界の気鋭。
〈5月28日〉亀の恩返し


 五月二十八日、快晴。ほぼ無風。
本当にいい天気だ。空は晴れ上がり、風は乾いて気持ちがいい。こういうのを“五月晴”と言うのだろうか。土手の草原に寝転んで、おれはさっきからずっと空を見上げている。空も風も草の香りも気持ちいいけれど、人間の世界はグダグダだ。
 今朝、親父の広げていた新聞の一面は、京アニ放火の容疑者とコロナ対策の補正予算と九月入学見送りの記事で埋まっていた。どれも爽やかさとは程遠い。
 ため息が零れた。このところ、ため息ばかり吐いている気がする。我ながら情けないけど、しかたない。知らぬ間に零れてしまうのだから。
 おれは小学三年生で野球を始めた。それから、十八の年までずっと野球一筋だ。「時代はサッカーのもんでしょ」とか「バスケが今のトレンドだぜ。野球、旧すぎ」とかいうやつもいたけれど、おれは時代とかトレンドとか関係なく野球が好きだった。今年の一月、選抜出場決定の報せが届いたとき、冗談でなく死ぬかと思った。心臓が止まるほど嬉しかったのだ。高校球児にとって甲子園は特別の場所だ。その土を踏める。人生最大の幸福感ってやつを味わった。家族も学校も地域も沸き立ったけれど、おれの心の中が一番歓喜の嵐に見舞われていたと思う。それが……中止だ。選抜も夏の大会も中止。おれたち三年生は甲子園に挑む機会さえ失った。どうしようもない。ウィルス相手に怒りや嘆きをぶつけることはできない。
 ああ、だけど、やっとここまで来たのに。どこまでも碧い空を見上げ、またため息を吐く。
「恩返しをしよう」耳元で囁きが聞こえた……気がした。起き上がる。草むらがかさこさ動いた。目を凝らす。亀がいた。何の変哲もないクサガメだ。その亀が首を伸ばし、おれを見詰めてくる。え? まさか。唐突に思い出す。ちょうど一年前、この土手をランニングしていた。そのとき、草の中でもがいている亀を見つけたのだ。足にビニールの紐が絡まり動けなくなっていた。で、おれはその紐をほどいて、川の中に返してやったのだ。それだけだった。いや、違う。川に放したとき亀が振り返った。
「おまえに恩返しする」。頭の中でそんな声が響いた。何だ今のと驚いたけれどすぐに忘れた。川の音を聞き間違えたのだと自分で納得していた。それしか考えられなかったから。
「甲子園で試合をしたいんだな。その願いを叶える」。やはり、頭の中で聞こえる。亀がにやりと笑った。それから、ゆっくりと草むらに消えていった。
 甲子園で試合ができる? まさか、そんな……。五月の陽光と風の中、おれは息を詰めて座っていた。
あさのあつこ
1954年、岡山県生まれ。青山学院大学卒業後、小学校講師を経て、1991年に『ほたる館物語』で作家デビュー。『バッテリー』で野間児童文芸賞、『バッテリーⅡ』で日本児童文学者協会賞、「バッテリー」シリーズで小学館児童出版文化賞、『たまゆら』で島清恋愛文学賞を受賞。
〈5月29日〉子供の家出


 この日は、机に終日かじりついて小説を書いていた。月末に連載の〆切があった。気がつけば、COVID-19の非常事態宣言は、四、五日前に解除されていた。
 私は、小説を書くのが遅い。物書きになって二十年ほどが経つが、情けないことにこの執筆スピードには、一向に改善が見られない。
 年の平均執筆ペースは、原稿用紙換算で六百から七百枚という感じだろうか。六百枚の小説なら年に一冊、千二百枚という分量の小説が出来上がるまでには二年かかってしまう。
 かつて、この執筆ペースで先輩の作家からよく注意されることがあった。
「もっと書け。いっぱい書け。とにかく書け」と。
 今も、たまにたしなめられる。少し前に、年長の作家から笑いながらこう言われた。
「この前、Aさんに会ったら言ってたぞ。『垣根は、全然書いてないじゃないかっ』って」
 これには返す言葉もなく、仕方なしに苦笑するしかなかった。

 個人的には、小説を書くという行為は、将棋の指し手に似たものがあると思っている。初手に、どの駒をどんなふうに動かすのか。それは感覚の世界でもあり、先々の展開をある程度見越した上での計算でもある。それを受け、次の打つ手でもまた迷う。自分が思い描いているラインに、なんとか確実に乗せていこうと試行錯誤する。
 一番泣きたくなるのは、この初手から前半に続く布石だ。文字を置くたびに一時間に三十回ほどはため息をつき、(この感じは、ちょっと自分が思っている方向と違うな……)などと思い悩む。自己嫌悪がマックスになるのも、たいがいはこの時期だ。
 、たまに逃げ出す。クルマに乗ったり、泳ぎに行ったり、散歩に出かけたりする。しかし所詮は『子供の家出』だ。遊んでいるうちに、次第にやりかけた仕事が気になってくる。戻ってくる場所は、結局は執筆デスクの前しかない。仕事で出来たストレスは、仕事で解消するしかない。
 それでもこの気晴らしは、私にとっては束の間の救いになっている。カッカしている脳味噌も、いくぶんか冷静になる。
 この自粛中で辛かったのは、それらの外出がまったく出来なくなったということだ。しばらくたった今も散歩に出るくらいしかできないが、それだけでも充分に違う。

 ところで、この非常事態宣言の期間中に、気づいたことが一つある。
 私は、見通しの利く部屋が好きだ。籠りがちな仕事なので、パソコンから顔を上げた時くらいは、ぼんやりと遠くを眺めたい。窓の外の風景を見て、多少はすっきりしたい。これも一瞬の気晴らしだろうが、眼精疲労を予防する意味もある。
 そんなある日、気づいたのだ。
 いつものように、港や、海の上にかかる橋や、はるか先の水平線上に半島が見える。
 ―――あれ?
 橋の上を行き交うクルマが、今日はやけにくっきりと見える……。先の景色にしてもそうだ。いつもはぼんやりと霞がかかったようにしか見えない半島も、その海岸沿いにある工場群の煙突まで、一本々々がはっきりと見て取れる。
 人々の生産活動や移動の自粛により、都市部の大気が明らかに澄んできていた。おそらくは地球規模でもそうなっている。
 物事は、常に引き換えになっているものがあるのだと感じる。
垣根涼介(かきね・りょうすけ)
1966年、長崎県生まれ。筑波大学卒業。2000年に『午前三時のルースター』でサントリーミステリー大賞と読者賞をダブル受賞してデビュー。2004年『ワイルド・ソウル』で大藪春彦賞、吉川英治文学新人賞、日本推理作家協会賞の3冠受賞に輝く。2005年『君たちに明日はない』で山本周五郎賞、2016年『室町無頼』で「本屋が選ぶ時代小説大賞」を受賞。他の著書に『光秀の定理』『信長の原理』などがある。
〈5月30日〉ついてくるもの


 赤ん坊を胸にくくりつけていた頃、厄介なつきまといにあっていた。
 朝夕、子供の送迎で保育園へ向かうたびに周囲の路地から現れ、ぴったりと背後について話しかけてくる。見た目は六十代ほどの小太りの男。カワイイね何歳? どこに行くの? どこに住んでいるの? と早口で子供の個人情報を聞いてくるのがすごく怖い。相手をせずにその場を離れると自転車で追いかけてくる。スーパーの出入り口に待機して、私の会計が終わるのを待ち構えている。警察に相談し、現場に居合わせた知人のコンビニ店長にも睨んでもらった。それでも駅であったり、公園であったり、つきまといは二年近く続いた。
 ある日、駅の改札口でその不審者を見つけた。男は半笑いでこちらを見ていた。私はいつものように嫌悪感から目をそらし――「しっ、目を合わせちゃいけません」と教育ママっぽい母親が子供の手をぐっと引く、あの漫画の表現はどういう経緯で生まれたのだろう。無意識のうちに私は、危険なものとは目を合わせてはいけない、と思い込んでいた――駅の床に目を落とした直後、ムラムラッと湧いた強烈な怒りに突き動かされ、顔を上げて男の目を見返した。視線が強く噛み合った瞬間、相手が怯むのが分かった。男は顔を背け、そそくさとその場を後にした。
 危険なものから、目をそらしてはいけない。目をそらしたら、それはついてくる。見て、対処の意志を見せることから自衛は始まるのだと痛感した。その後、朝夕のつきまといはやんだ。
 数年、その不審者のことは忘れていた。緊急事態宣言が解除された五日後、昼間に子供と自転車の練習をして、夕方に一人で買い物に出かけた。薄曇りの過ごしやすい日で、まだ町に人は少なかった。二ヵ月続いたその静けさに、慣れつつあった。
 昼間に路肩で樹木の伐採作業をしていた幾人かの男のうちの一人が、まだ同じ場所にいた。上背があり筋肉質な、四十手前くらいの男だった。数時間前に横を通った際、やけにこちらを見てくるなと変な印象が残っていた。道具もなく、周囲は既に片付いていたのに、まだ男は植え込みの前で作業をしている素振りを見せていた。
 この男のそばを通るのも、背を向けるのも、なんとなくいやだ。漠然とした不安に襲われ、男がいる場所の数メートル手前の小道へ入った。
 慣れ親しんだ道をしばらく歩いて、ふと思い出した。
 危険なものから、目をそらしてはいけない。
 振り返ると、先ほどの男が小道に入って後をつけてきていた。距離はほんの十メートルほど。私の動きに合わせて大きく顔を背け、元の道へと走り去っていく。帰宅して通報すると、私の他にも同じ場所で同じ風体の男につけ回されたという女性からの連絡があったらしい。 
 外出を控える気運は残るだろう。人通りはすぐには回復せず、夜間に営業しているお店の数も減っている。どうかみなさん、気をつけてください。
彩瀬まる(あやせ・まる)
1986年千葉県生まれ。2010年「花に眩む」で第9回女による女のためのR―18文学賞読者賞を受賞し、デビュー。16年『やがて海へと届く』(講談社)で、第38回野間文芸新人賞候補。17年『くちなし』(文藝春秋)で第158回直木賞候補、18年同作で第5回高校生直木賞受賞。著書に『さいはての家』(集英社)、『森があふれる』(河出書房新社)、『珠玉』(双葉社)、『不在』(KADOKAWA)など。
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