〈6月3日〉 知念実希人

文字数 1,329文字

 数多の英雄たち


 映画が好きだった。特にヒーローが世界の危機を救うようなハリウッド映画が。
 幼い頃はよく、大人になった自分がヒーローになり、戦場を駆け巡って、宇宙の彼方、海の底、はては時空のひずみからやって来た侵略者と戦うという夢想に耽っていた。
「いつから、夢を忘れていたんだろうな……」
 顔を上げる。正面にある鏡の中で、若草色の手術着を着た、痩せた男が皮肉っぽく唇の端を上げていた。まだ三十代半ばだが、目立つ頬骨、目の下の濃いくま、そして力のない表情のせいか、十歳以上老けて見える。
 年を重ねていくとともに、自分が特別な人間ではないことを呑み込んでいった。この世界にはヒーローなんて必要ない。なぜなら、戦うべき『敵』など存在しないのだから。そんな常識にいつしか漬かっていた。
 けれど、それは間違っていた。『敵』は姿も見せることなく、ゆっくりと日常を侵食していった。
 睡眠不足と連日の激務で重い頭を振った男は、手にしていたN95マスクで口元を覆うと、防護服、サージカルキャップ、フェイスガード、そして手袋を身につける。
「……行くか」
 マスクの中で呟いた男は、重い足取りで更衣室を出て白い廊下を進んでいく。正面に巨大な金属製の扉が見えた。扉の数メートル手前に緑のテープで引かれたラインの前で、男は足を止める。
 これは『日常』と『戦場』の境界線。ここから先は『敵』の領域だ。
 男はラインを踏み越えると、フットスイッチに足を差し込む。重い音を立てて扉がスライドしていった。幾重にも重なった心電図モニターの電子音と、人工呼吸器の駆動音が鼓膜を揺らす。
 十数人床のICU。そこに並んだベッドに横たわる重症患者たちを冒しているものこそ、いま全人類を脅かしている『敵』だった。
 ここは戦場だ。気を抜けば、自分も『敵』に襲われる。
「俺はヒーロー……」
 マスクの中で男は小さくつぶやく。
 そう、自分はヒーロー。人類の『敵』と戦うヒーロー。
 自分だけじゃない。医師、看護師、検査技師、救急隊員、研究者……。世界中で、数多のヒーローがいま、命を賭して『敵』と戦っている。
 一人一人の力は小さなものだ。けれど、力を合わせれば必ずこの強大な『敵』を倒すことができる。
 映画の中でヒーローたちが、世界を救ってきたように。
 だから、いまは前を見よう。先の見えないこの昏いトンネルに、光が差し込む日を待ちながら。
 男は胸を張ると、戦場へと大きく一歩、踏みだした。


知念実希人(ちねん・みきと)
1978年生まれ。東京慈恵会医科大学卒業、内科医。
2011年、ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞し、『誰がための刃 レゾンデートル』(『レゾンデートル』と改題し文庫化)でデビュー。
医療ミステリー「天久鷹央の推理カルテ」シリーズなどが評判を呼ぶ。2014年刊行の『仮面病棟75万部超のベストセラーになり、2017年『崩れる脳を抱きしめて』、2018年『ひとつむぎの手』、2019年『ムゲンのi』と本屋大賞三年連続ノミネートを果たす。

【近著】

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