『風立ちぬ・美しい村・麦藁帽子』堀辰雄/少女、夏、永遠(岩倉文也)

文字数 2,805文字

次に読む本を教えてくれる書評連載『読書標識』。

月曜更新担当は作家の岩倉文也さんです。

今回は堀辰雄『風立ちぬ・美しい村・麦藁帽子』(角川文庫)について語ってくださります。

書き手:岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。最新単行本は『終わりつづけるぼくらのための』(星海社FICTIONS)。

Twitter:@fumiya_iwakura

麦藁帽子をかぶった少女が、美しい自然を背景に、こちらに微笑みかけている──。そんなイメージをよく見かける。いや、もはやあまり目にする機会もないのであるが、そうしたイメージが「少女」を象徴するひとつの典型として、頭の片隅には仕舞われている。


しかしぼくはよく疑問に思ったものだ。夏、少女、ときたら、いつも決まってこの「麦藁帽子の少女」が現れてくるが、一体この少女はだれなんだろう? なにか元となった作品でもあるんだろうか? と。そうやって考えているうちに辿り着いたのが、堀辰雄の小説を集めた角川文庫版『風立ちぬ・美しい村・麦藁帽子』だった。


本書には様々な少女たちが登場する。軽井沢で出会った少女、田舎で出会った少女、夢で出会った少女、そしてサナトリウムで死んでゆく恋人の少女……。そのどれもが堀辰雄の実体験を反映しつつ、しかし高度に抽象化された形で作品には現れてくる。それは、現実に生きている少女と言うよりは、むしろ妖精か何かに近いものを感じさせる。若くして死ぬことでしか完成されない、儚い幻影のような少女たち。

突然、私の窓の面している中庭の、とっくにもう花を失っている躑躅の茂みの向こうの、別館の窓ぎわに、一輪の向日葵が咲きでもしたかのように、何んだか思いがけないようなものが、まぶしいほど、日にきらきらとかがやき出したように思えた。私はやっとそこに、黄いろい麦藁帽子をかぶった、背の高い、痩せぎすな、一人の少女が立っているのだということを認めることが出来た。

これは冒頭に収められた「美しい村」の一節である。本作はシーズン前の軽井沢に訪れた小説家の主人公が、辺りをぶらぶらと散歩しながら新作の構想を練る、といった内容なのであるが、少女が登場した途端、物語は破綻してしまう。破綻という言い方が悪ければ、テイストを大きく変えてしまう。それまでは静かな孤独につつまれていた思索の世界が、向日葵の少女の登場によって半ば暴力的に一変するのである。以後は少女との度重なる逢瀬が描かれ、そして最後には少女との恋の行く末もわからぬまま、投げ出されるように物語は終わってしまう。


少女はいつも突然だ。この突然さが、物語に非現実感を与え、少女を幻想の存在へと近づけてゆく。次の「麦藁帽子」では、田舎で出会った少女のかぶっていた麦藁帽子が、はるかな過去を思い出すためのよすがとして扱われ、次いで「旅の絵」では美しいのか醜いのか、会う時々によってその印象が異なる不思議な少女が登場する。


そして極めつけは「鳥料理」である。本作は詩の形式と散文の形式を交互に用い「私」のみた夢について語るという怪作なのだが、夢の中で「私」は、なんと魔女によって葡萄酒に変えられた美しい少女を、それと知りながらがぶがぶと飲み干してしまうのである。「おお、私は無類の酒を飲んでいる! 一人の少女を飲んでいる!」と叫びながら……。


編者の意図したことかは分からないが、本書に収録された堀辰雄の作品は、みな少女が中心に据えられている。と言うより、この時期の堀辰雄の関心が「少女」に向けられていたと言った方が正しいのだろう。しかもそれは、現実で出会った存在でありつつ、どこか現実ばなれした、過去や死、夢といったものに近い属性を持った少女たちなのである。


堀辰雄の描く少女に、未来という言葉は似合わない。彼女たちはどこか、死に近しい場所に佇みながら、こちらにそっと微笑みかけてくる。──そんな堀辰雄が書きつづけた「少女」の集大成とも言うべき人物が、「風立ちぬ」に登場する結核の少女・節子なのである。


本作は言わずと知れた名作であり、詳しい内容に立ち入ることはしないが、節子の描かれ方には堀辰雄特有の美学がかなり顕著な形で表れている。たとえば、サナトリウムで院長に節子の疾患部のレントゲン写真を見せられた際、主人公はその結核菌に侵された肺を見て、「大きな、まるで暗い不思議な花のような、病竈ができていた」と考えるのである。暗い不思議な花が肺を侵している、といったイメージは、飛躍させていくとボリス・ヴィアンの『日々の泡』に辿り着くような幻想性をすら帯びている。また、基本主人公は節子の傍につきっきりなのだが、彼女が喀血する場面には一度も出くわすことがない。ただ居合わせた人間の口からそのことを間接的に聞くのみである。


そして決定的なのは、節子の死の描かれ方である。本作では、直接には節子の死が描かれない。節子が本当に衰弱をはじめる一歩手前でサナトリウムの場面は打ち切られ、舞台は節子の死から一年後へと移るのだ。


堀辰雄の描く少女たちは死を内に孕みながらも、決して即物的な死が与えられることはない。それはただ主人公の内に起こった出来事として、回想によって語られる。「風立ちぬ」においても、そうである。全ては語られる前に終わっている。だから、自分であるはずの「私」の動作も、「……するかのように」と、まるで他人事のように描かれる。限りなく三人称に近い一人称。しかしそうした文体的な特徴により、ますます節子の存在は遠く儚く、美しいものとなってゆく。

「何をそんなに考えているの?」私の背後から節子がとうとう口を切った。

「私たちがずっと後になってね、今の私たちの生活を思い出すようなことがあったら、それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」

本書に現れる少女たちは、徹底して虚構的な存在である。それは、たとえ少女にモデルがいたとしても変わらない。少女たちは美しいまま、死の醜さを知らぬままに死んでゆき、ただ美しい思い出として、主人公の、そしてぼくたちの胸に刻まれる。


そうした架空としてしか存在しえない少女たちの在り方に、二次元の少女の姿を重ね合わせてしまうのは、ぼくの行き過ぎた妄想だろうか? 画面の中で少女は、まるで永遠そのもののように、今日も微笑むことをやめてはくれないのだ。

★こちらの記事もおすすめ

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色