十一月゜日

文字数 5,618文字

1日1冊、3年で1,000冊の本を読み、月産25万字を執筆し続ける小説家・斜線堂有紀。


謎めいた日常はどのようなものなのか――

その一端が今ここに明かされる。


毎月第一・第三月曜日、夕方17時に更新!

夕暮れどきを彩る漆黒の光・”オールナイト”読書日記が、本日も始まる。

前回の日記はこちら

十一月゜日

 仕事がどうしても終わらず、朝までかかって仕上げる。これもそこそこ長い付き合いになってきた仕事なのだが、この佳境に至って色々とやらなければならないことが増えてきた。大変だけど楽しい、脳が焼ける。そうしてどうにか物を上げると、その直後に担当さんから連絡があった。徹夜明けでハイになっていたので、そのまま打ち合わせまで済ませてしまう。「斜線堂さんやたら声が元気ですね」という理由から徹夜がバレたが気にしない。普段の私は日が出ている間はとっても元気が無いので不自然だったのだろう。


 そして晴れやかに諸々を終えた後、私はそのまま京都に向かった。


 私だってこんな徹夜明けで京都になんか行きたくなかった。でも仕方なかった。諸事情というわけだ。どうせ観光をするわけでもない、ただの事務的なことなので強行である。前回のオールナイト読書日記で書いた修羅場は依然継続中だったので、体力が底を尽きていた。なんでこんな時に……こんなことを……。


 新幹線で寝過ごすわけにもいかないので、本を読むことにした。良かった、本の読める生活……。というわけで、京都に行く道すがらキース・トーマス『ダリア・ミッチェル博士の発見と異変 世界から数十億人が消えた日』を読む


 お、面白すぎる……。眠い時の読書は相当面白いものじゃないと眠ってしまうので、とっておきのこの一冊を出してきたのだが、正解だった。これはモキュメンタリータッチのSFで、人類に突然訪れた「上昇」現象を、作中に登場する様々な人のインタビューや、当時の資料から明らかにするというものである。「上昇」とは、宇宙から送られてくる謎の信号を受けた人類達が脳を変化させ、超能力を発現する一連の現象のことである。だが「上昇」した人間の多くは脳の変化に身体がついていけず死亡、生き残った人々も精神に異常を来してしまい、やがて人類は(タイトル通りに)「終局」を迎えてしまう。


 あくまでモキュメンタリーという体なので、本書の冒頭から中盤に至るまではこの現象が何なのか、信号は何の為に送られてきたのか、そもそもこれを人類はどう受け取っていたのかなどはじわじわとしか明かされない。資料だけがポンと出され、当時はこんな感じだった、こんな風に調査が進められていたと提示されるだけである。だが、それが楽しい。情報そのままを出されることで、これを目の当たりにした作中の人々がどう思ったかを追体験出来るのだ。ある意味こういう物語の中でお決まりの「最初に何かを発見した人間の頭がおかしいと思われる」というくだりも、インタビューテープの書き起こしをそのまま読ませてもらえるので、また違った読み味で楽しめる。


 本書のキーパーソンであり、宇宙からの信号を最初に表立って発表したダリア・ミッチェル博士が大真面目にヤク中ではないかと議論されるところも、まあこの流れならそうなるだろう……と思わされる。また、資料という体なので、本文中に注釈がガンガンと挿入されるのも面白い。結局「信号」とは何だったかにも、徐々に迫っていくので、謎解きミステリの趣もある。


 こういったモキュメンタリー形式の小説は書いていて楽しいだろうなぁ。この物事をこの登場人物はどうやって語るんだろうっていうのを何個も何個も書いていくっていう流れは書き手として愉快だろう。ちょっと大喜利のテイストすらある。


 読み終える頃に京都に着いた。全く外に出ない人間なので、日本地図を右から左へ数センチ移動しただけで異国感がある。


 用事を済ませた後は旅館に行って温泉に入り、そのまま力尽きて寝てしまった。色々読みたい本があったのにな、と思った。



十一月◎日

 夜に寝たおかげで朝に起きられて感動した。朝食を食べることに身体が驚いている。


 さて、引き続き京都であった。この日の夜に打ち合わせがある上に〆切もあるという大変悲しいスケジュールだったので、なんともはや遊んでいる時間は無い。やらなければならない原稿も沢山ある。だが、このまま帰るのも癪だったので、明らかに体力が回復していないのに強行突破で清水寺に行くことにした。二時間くらいで全部を済ませれば新幹線に間に合う。


 大人なので、もうバスとかを待たずにタクシーでどうにかすることにした。移動中に本も読めるし、何より道に迷わない。


 この日読んでいたのはキム・ヨンスの『世界の果て、彼女』である。新しい韓国文学シリーズを読んでいこうと思い、最初の一冊にこれを選んだ。率直な印象を最初に話しておくと、物凄く読みづらい。唐突に挿入される比喩に、改行の殆ど無い本文。思考をそのまま書き留めているようなとりとめの無さで、注意深く読まないと意味が取れない。けれど、その一文一文がとても面白い。読み味が自分の好きな幻想文学のテイストでいいのだ。あらすじのシンプルさもいい。これは是非とも自分で参照してみてほしいのだが、びっくりするほどどんな物語なのか分からない。だが、この本に限ってはそれでいいのだ。


 『世界の果て、彼女』は短編集である。収録されている短篇のどれもが何とも言えない寂しさを湛えている、不思議でキュートな一冊だ。乗り込んだタクシーの運転手が偶然にも自分の元彼であった女の話、急に自分というものを失ってしまった青年の話、そして表題作であり、一篇の詩を巡る恋の話の「世界の果て、彼女」。淡々と綴られる物語の中にハッとするフレーズが多く、仮想の線をいくつも引いた。


 特に好みなのは「休みが必要」という一篇だ。主人公・カンの勤める図書館には、毎日やって来ては延々と本を読んでいる老人がいた。毎日図書館に通い詰めて本を読み続ける彼の素性や目的を推察し合う図書館職員達。やがてその老人が過去に刑事であったこと、凶悪犯を追っている時にとあるアクシデントに巻き込まれたことが分かるのだが、その矢先、彼が人知れず溺死してしまう──という物語。この話を一口でどうというのは難しい。老人の心に何が起こったのか、どうして彼がこうも必死に本を読んでいたのかが明らかになるにつれ、カンの心に立つ漣は理解は出来るが、自分の引き出しの中には無い感情だ。でも、自分はそれを知ってはいる。なんだこの奇妙で悲しい物語は、と痛切に思う。


 以下はこの短篇の中にある一番好きな一文。この短編集には好きな文章が沢山ある。


【自分はその黒い波の中で溺死するためにこの十年、毎日図書館で本を読んだのだという気がした。十年の間、血液よりも塩分濃度が高い海水が彼の体内に入ってくることだけを待ちながら。】


 さて、『世界の果て、彼女』に浸りながら急いで景色を見る。清水の舞台を見ながら、ほんと違って観光名所はどこで見終えればいいのか分からないな、と思う。紅葉に彩られた清水の舞台は美しいけれど、この美しいって感情は五分くらいで消化しきっていいのか、それとももう五分ほど見ておいた方が良いのか。どちらにせよ時間が無かったので、早々に清水寺を後にした。


 もう、移動自体にエンターテインメント性があった方が得なんじゃないかと思ったので、人力車で移動することにする。「お姉さん、こんな平日に観光ですか?」と、ストレートな疑問をぶつけられて「そうなんですよ。いいでしょう」と返して八坂神社に行った。参拝して、これからも小説が無事に書けますように。あと仕事がもらえますように、とお願いしておく。絵馬も書いた。おみくじも無事に大吉が引けたので、これからも何とかなるかもしれない。駄目押しのように抹茶フロートを飲んで、その日の午後には新幹線に乗った。


 新幹線に乗ったところで、関西出身の友人に「関西は基本的にエスカレーターは右側に立つけど、京都は左側に立つぞ」という謎のアドバイスをもらって、検証しようとしていたのに忘れていた。これって本当なんですか?


 気づけば私はエスカレーターで左側に立つ東京に帰ってきていた。さよなら京都。



十一月★日

 舞城王太郎『畏れ入谷の彼女の柘榴』を読む。お気に入りの短編集である『私はあなたの瞳の林檎』『されど私の可愛い檸檬』と同じ装丁でとても可愛い。書き下ろしである「うちの玄関に座るため息」以外の「畏れ入谷の彼女の石榴」と「裏山の凄い猿」は雑誌「群像」掲載時に既読だったが、こうして一冊通して読むとこの三篇が何をテーマにしているかが分かる。「全てのお話は寓話であって、教訓や警句に満ちているかもしれない。」(本作収録「裏山の凄い猿」より)が、この三篇の共通テーマだ。


 この三篇はどれも超現実的な要素が出てくる。「畏れ入谷の彼女の石榴」は、触れた物を妊娠させる光る指が、「裏山の凄い猿」には喋る猿と蟹が、「うちの玄関に座るため息」は見知らぬ人間の後悔がその人の形を取って座り込む玄関口が、それぞれポンと出てくるのだ。


 だが、これらの物語のどれもがその超現実的な要素を主軸としているわけではない。こんなに物語を引っ張る強い要素なのに、それはあくまで人間のままならなさや哲学を描くための補助線なのである。「畏れ入谷の彼女の石榴」における光る指は夫婦間の問題と子供を持つことについて語る為のガジェットであるし、「うちの玄関に座るため息」の玄関に座り込む後悔は、人間はどうやって選択をしていくべきなのか? という問いを浮かび上がらせる為のものなのである。


 ああ、こういう要素って物語を作っていく上でこう使ってもいいのか……という、マジックリアリズムの手つきの上手さに感動した一冊だった。その上で軽妙な舞城作品特有の会話劇もあって、読んでいて楽しい。『あなたは私の瞳の林檎』から『畏れ入谷の私の石榴』までを並べると、この三冊は本当にいいものだなと感動してしまった。やはり、この装丁は天才的だ。



十一月/日

 Asagaya/Loft Aで催された佐藤友哉先生のトークイベントに行く。『転生!太宰治ファイナル コロナで、グッド・バイ』の発売記念と称してのトークイベントだったわけだが、前回は二〇一八年だ。シリーズ一巻目の『転生!太宰治 転生して、すみません』の発売を記念したもので、三年前。世界がまだこんなことになる前だと思うと感慨深い。二〇一八年といえば、私の小説家人生も一番の危機を迎えていた頃だ。(このことは『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』の解説に、半ば赤裸々に書いたことでもあるので気になったら参照してほしい)そう思うと、よく生き延びたなあと思う。


 ところで、三年の月日をかけて完結したこのシリーズだが、これがかなりの名作である。太宰治作品をよく知らない人でも「あの太宰が転生?」で引っ張り込める引力を持った作品だが、この作品が真に刺さるのは太宰治作品が好きな人間である。適切なタイミングで華麗に決められる引用、あの作品へのオマージュ。太宰史を縦断するネタの数々。そして何より、転生!太宰治シリーズは、とにかく太宰治の心の模写が上手すぎるのだ。


 太宰だったらこのことに対してこう反応する、こうコメントする、の納得感が凄まじい。これを書いているのは本当に太宰治なのでは? と思ってしまうほどだ。コロナで、グッド・バイで特にそれを感じたのは、冒頭の、マスクをしていないことを突っ込まれたことでキレ倒す太宰治だった。俗世から離れ引きこもっていたが故に、コロナ禍にあることを知らなかった太宰は、無知を責める記者にノーマスクでまくし立てる。確かに太宰を必要以上に責める記者が悪いのだが、流石にそこまで鬼の首を取ったかのごとく言わなくてもいいだろう。だが、それを言うのが太宰なのだ! このヘコみやすいが戦闘民族的な〝怒りの人〟の太宰像を拝めるのが一介の太宰好きとしてたまらない。『如是我聞』で怒りを撒き散らしていた太宰よ、それでこそ……。


 生々しく愛おしい太宰が令和の世を生きたらという思考実験小説でありつつ、佐藤友哉作品らしいどことない切なさもある。まさに佐藤友哉にしか書けない太宰治SFがこのシリーズなのだ。電車の中で太宰MCバトルの部分を読み返しながら、Asagaya/Loft Aに向かった。


 ところで、このトークイベントはシークレットゲストがいると書かれていたので、誰かが来るのかなとワクワクしていたのだが、シークレットゲストは私だった。仕込み無しの本物のシークレットゲストだったので、本人にも知らされていなかった。自分できっちりチケットを買って入場するゲストってどういうことだよ、と思いながらも登壇させてもらって色々話をさせて頂いた。(ちなみに、同じようにチケットを買わされてやって来たシークレットゲストにハハノシキュウさんと岩倉文也さんがいた。誰か一人くらい仕込んでおけ、と思った)配信などで観てくださった方は、本当にありがとうございました!


「夜に寝たおかげで朝に起きられて感動した」人生三日目の気づきでは?


次回の更新は12月6日(月)17時です。

Written by 斜線堂有紀 

小説家。2016年、第23回電撃小説大賞にて“メディアワークス文庫賞”を受賞。受賞作『キネマ探偵カレイドミステリー』でデビュー。著作に『詐欺師は天使の顔をして』(講談社)、『恋に至る病』(メディアワークス文庫)、『ゴールデンタイムの消費期限』(祥伝社)などがある。2021年、『楽園とは探偵の不在なり』(早川書房)が本格ミステリ大賞にノミネートされ、注目を集める気鋭の書き手。

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