第6話 「未来文学新人賞」への道を選ぶべきか? そう話す日向に妻は

文字数 3,365文字

 リビングルームのドアを開けると、こんがり焼けた肉の香りが漂ってきた。
 真樹から三次選考通過の祝いに、あなたの大好物のステーキを用意するから楽しみにしててね、とメールが入っていた。
 二十畳の空間は、ベージュの絨毯(じゅうたん)にヨーロピアンスタイルの白家具と白革のコーナーソファが設置されていた。
 壁にはギリシャのサントリーニ島、パリのモンマルトルの丘、スイスのルツェルン湖の水彩画がかかっていた。
 みな、真樹の作品だ。
 趣味で描いているとはいえ、美大卒の彼女の腕はプロの画家並みで、年に二回のペースで個展を開いていた。
「さあさあ、手を洗ってきて。今日は奮発して、二百グラムの国産牛のフィレ肉を買ってきたから」
 真樹に追い立てられるようにリビングルームを出ると、日向はパウダールームで適当に手を洗った。
 普段は丁寧に洗うが、今日は早く真樹に磯川の件を相談したかった。
「早くこっちにきて」
 リビングルームに戻ると、コーナーソファに座った真樹が子供のように手招きした。
「食事の前に、話があるんだ」
 日向はテーブルに置かれていた缶ビールを手に取り、プルタブを引きながら切り出した。
「ん? なによ? 改まってさ」
 真樹が訝(いぶか)しげな顔を向けてきた。
「実は今日、『日文社』の磯川さんって文芸編集者に電話を貰って会ってきたんだ」
 日向は切り出した。
「『日文社』って、『未来文学新人賞』の出版社?」
 日向は頷き、磯川から持ちかけられた提案を話し始めた。
 真樹は表情を変えずに、日向の話を黙って聞いていた。 
「正直、最初はおかしな人だなって思ったけど、言ってることがいちいち的を射てるんだよね。俺のいいとこも悪いとこも含めて、評価してくれているのが伝わるんだよ」
 日向は説明を終えると、ビールを喉に流し込んだ。
「それで、誠はどうしたいの? 『未来文学新人賞』の最終選考の結果を待つか、それとも最終選考を辞退して磯川さんのところでデビューするか?」
 真樹も缶ビールのプルタブを引きながら訊ねてきた。
「迷ってるよ。作風を理解してくれている磯川さんなら、俺の長所を伸ばしながら書かせてくれるから面白い作品が出来上がりそうだし、『未来文学新人賞』を受賞してデビューしたら注目度が高いから話題になりそうだし」
 日向は葛藤を口にした。
「『未来文学新人賞』に決めきれない理由はなんなの?」
 真樹が質問を重ねた。
「磯川さんが言うには、受賞できたとしても『未来文学新人賞』の受賞者は王道を求められるから、編集者に毒と牙を抜かれて俺の長所が消された作品になるだろうって。注目されるのは一作だけで、泣かず飛ばずのまま世間から忘れ去られるでしょう……だってさ」
 日向は肩を竦(すく)めた。
「だったら、磯川さんのところでデビューすれば? 誠の長所を伸ばした作品にしてくれるんでしょう?」
 真樹が日向を試すように言った。
「ん~、そうなんだけどさ。事実としてデビューのインパクトは圧倒的に『未来文学人賞』のほうがあるわけだし、磯川さんの言葉を信じて最終選考を辞退して大魚を逃すことにならないかが不安なんだよな。ぶっちゃけ、磯川さんのところでデビューしても売れる保証はないわけじゃん」
 磯川と別れてからずっと、日向の気持ちは振り子のように揺れていた。
「直感で決めれば? 誠、競馬で迷ったときは直感で決めて何度も万馬券を取ったでしょ?」
 真樹があっけらかんとした口調で言った。
 いつでもポジティヴなのが、真樹のいいところだった。
 結婚してからいままで、真樹の涙は一度しか見ていない。
 スイスのチャペルで二人だけの式をあげたときに見た涙が、最初で最後だった。
 その涙も、嬉し涙で哀しみの涙ではなかった。
「競馬と一緒にするなよ。俺が太宰(だざい)みたいな歴史に残る作家になれるかどうかの、運命の分かれ道だっていうのにさ」
 日向は冗談めかして言った。
「なーにが、太宰よ。読んだこともないくせに。それに誠の書く世界観は太宰治(おさむ)っていうより大藪春彦(おおやぶはるひこ)に近いでしょ?」
 真樹がおかしそうに笑いながら言った。
「俺の直感はおいといて、真樹はどう思う?」
 日向は訊ねた。
「言いたくない」
 真樹が食い気味に言った。
「なんで? いつも、ここぞっていうときに助けてくれたじゃん」
 そう、いつでも人生の分岐点のときには真樹のアドバイスを貰っていた。
 そしてそのアドバイスは、いつも的確だった。
「いままでは、俺はこうしたいって自分の意見を言った上で相談してきたでしょ? 私にできることは、あなたの人生のサポートよ。誠の人生の主役は誠なんだからね。まずはあなたの意思を聞かないと、なにもアドバイスできないよ」
 真樹が突き放すように言った。
「いままでは芸能プロとか虫王のDVDとか俺の得意分野だったけど、小説のことは知らない分野だから……」
「誠は、勘違いしてる」
 真樹が日向を遮(さえぎ)り言った。
「誠のエネルギーは物凄くて、目標を定めたら一直線に突っ走ってきた。私は、エネルギーを向ける方向を微調整してきただけ。あなたは、あなたの力でいろんなものを摑み取ってきた。だから、『未来文学新人賞』に懸けるか磯川さんに懸けるか、まずは自分で決めて。因みに、その磯川さんって人、なんだか面白そうな人ね。さ、ご飯にするわよ」
 真樹はソファを立ち上がり、ダイニングキッチンに向かった。
「え? なにそれ? 磯川さんにしろってこと?」
 すかさず日向は、真樹に訊ねた。
「誰もそんなこと言ってないでしょ? 私はただ、面白そうな人って言っただけ」
 ステーキの載った皿を手に持った真樹が、悪戯(いたずら)っぽく笑った。

                  3

「『世界最強虫王決定戦』は、もはや社会現象になって数多くのテレビ番組に取り上げられていますよね? これだけの大ヒットシリーズの生みの親として、率直な感想をお願いします」
 日向プロの応接ソファ――日向の向かいに座ったライターが、興味津々の表情で質問してきた。
 写真週刊誌『サタデー』のライターのインタビューが始まって、まもなく一時間になる。
「たくさんのタレントさんが虫王を応援してくれて、出演している番組で取り上げてくれたのがいまのブームに繫がっていると思います。本当に、感謝ですね」
「日向さんが虫バトルのDVDを制作しようと思ったきっかけは、なんでしょうか?」
「僕はもともと幼い頃から虫が好きで……」
「な~んが僕ね。いつもは俺俺言うとるくせに~。気取ってもすぐにメッキが剥(は)がれるば~い」
 隣に座る椛(もみじ)が、茶化してきた。
「お前が、どうしてここにいる? 向こうに行ってなさい」
 日向はため息を吐(つ)きながら、椛を睨(にら)みつけた。
「社長が頼りなかけん、私がついてあげとるとたい」
 椛が言うと、ライターが噴き出した。
「ほらほら、社長はインタビュー中だから邪魔しないの。すみません」
 真理が椛を立ち上がらせるとライターに頭を下げ、フロアの奥へ引き摺るように連れ去った。
「ユニークなタレントさんですね」
 ライターがクスクスと笑いながら言った。
「お騒がせしました。で、続きはなんでした……あ、虫バトルのDVDを制作しようと思ったきっかけですね。カブトムシとクワガタムを戦わせるDVDはこれまでにもたくさんありましたが、カブトやクワガタとサソリ、タランチュラ、ムカデを戦わせるDVDなんて存在しませんでしたからね」
「でも、サソリやタランチュラやムカデが戦うDVDなんて、気持ち悪くて誰も観ないんじゃないかとは思わなかったんですか?」
 ライターが顔を顰(しか)めながら言った。
「僕はそう思いませんでしたが、周囲の人間には全員反対されました」
 
 ――そんなグロいDVD、誰も観ませんよ!
 ――親からクレームが殺到しますよ!
 ――そもそも、ムカデとかタランチュラを戦わせるDVDなんて需要がありませんって。

 日向は、当時のことを思い出して苦笑した。

(次回につづく)

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