マイファミリーヒストリー

文字数 1,093文字

 まだ昭和40年代後半のこと。父方の祖父母宅の近所で、幼い私は不思議な廃屋を目にした。それは大津市役所の敷地の外れにあり、往年のアメリカドラマ「大草原の小さな家」に出てくる店のような外観で、看板のアルファベット文字が読めない分、余計異質に感じられた。
 ある日私は草ぼうぼうの原っぱを抜け、西部劇の酒場みたいなスインギングドアの下をくぐり、薄暗い建物の中へ入った。塗装が剝げささくれた壁。砂だらけの板床に転がる脚の折れた椅子。あまりの不気味さに、以来そこには近づかず、やがて廃屋はなくなった。
 さて、昭和15年生まれの父は生い立ちや友人・仕事のことなど、昔から子供に自分語りをした。聞き上手な私は過去の恋人のみならず、最新の浮気話も父から聞き出した。そんなテクニシャンな私がどうしても探れなかったのが、祖父の職業だった。子供時分は貧乏生活を強いられたと嘆息する父は、その一因だろう世帯主の生業を必ずはぐらかしたからだ。
 父は「おれはパンパンにかわいがられた」と妙な自慢もした。「ははあ、パパが女好きなのは、小さいころ玄人女性と交流したのが原因か。でも小学生がどこで知り合うの?」納得と同時に疑問が浮かんだが、やはり「どこで?」の答えは返ってこなかった。
 月日は流れた。
 陰で泣いていた母の姿に、「男を信用しちゃダメ。結婚だけはすまい」と心に誓っていたのに、結局自分に負けて結婚したけど一度も浮気されていない(はずの)私がふとたずねると、老い先カウントダウンの父はついに白状したのだ。「闇の女」と蔑まれたパンパンたちと、子供のころ同じ屋根の下で暮らしていたことを。
 日雇い労働者だった祖父の哀しさ。柔和な印象しかなかった祖母のたくましさ。父が語ったファミリーヒストリーは、亡き祖父母をよみがえらせ、それまで遠いところにあった戦争を私の隣に運んできた。そして家族の話と同じ比率で聞かされた闇の女たちの物語は、進駐軍兵士のBarberだった記憶の中の廃屋に鮮やかな色をつけ、生命の息吹を吹き込んだのである。



渡辺淳子(わたなべ・じゅんこ)
滋賀県生まれ。放送大学卒。看護師として病院・精神保健福祉センター・企業等に勤務。第3回小説宝石新人賞を受賞しデビュー。「東京近江寮食堂」シリーズ(光文社文庫)がヒット作となる。その他の著書に『もじゃもじゃ』『結婚家族』(以上、光文社文庫)、「星空病院 キッチン花」シリーズ(ハルキ文庫)、『おでん屋ふみ おいしい占いはじめました』(角川文庫)がある。

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