『ボクは再生数、ボクは死』石川博品/遊びをせんとや生れけむ(岩倉文也)

文字数 2,537文字

次に読む本を教えてくれる書評連載『読書標識』。

月曜更新担当は作家の岩倉文也さんです。

今回は石川博品『ボクは再生数、ボクは死』(KADOKAWA)をご紹介していただきました!

書き手:岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。

Twitter:@fumiya_iwakura

ぼくは夢から目覚めると、いつもこう思う。ぼくの夢に登場してきた彼や彼女は、いったい夢が終わった後どうなってしまうのだろう。たしかに意思を持ち、ぼくとは関係なしに振る舞っていたように見えた彼らも、所詮まぼろしに過ぎず、死と呼ぶのもおこがましい消滅を経て、ぼくの無意識に還っていくのだろうか。


ぼくは夢のことをまぼろしだとは考えない。いやたとえまぼろしだとしても、それは現実と同等かそれ以上の重みを持ったまぼろしなのだ。


ではVRではどうなのだろう。夢同様、全てつくりものに過ぎないVR世界。その中で繰り広げられる狂騒や恋や死や生や感動は、現実に繋がれたぼくらにとって、どれほどの意味を持つのだろうか?


石川博品によるVRピカレスク小説『ボクは再生数、ボクは死』は、そんなVR世界の新たなリアルについて、決して思弁的にではなく血みどろに、また時にはリリカルに描き出した怪作である。


主人公の狩野忍はしがない会社員。しかしひとたびVR空間サブライム・スフィアにログインすると、世界最高の美少女シノちゃんに変身する。シノは何者にも縛られない。あるときVR世界の高級娼婦ツユソラに恋をしたシノは、彼女に会うための多額の金銭を稼ぐべく、仲間と共に有名ストリーマーを殺害しその様子を配信することを思いつく。数多の殺戮と喝采の果てに、シノがツユソラと見た世界とは──。


本書は帯に「VRエロス&バイオレンス‼」と大書されている通り、全編を通して痛快なパルプ・フィクションのようにエロスあり暴力ありで進行していく。それらがどこかすっとぼけたような乾いたユーモアで包まれ、非常に軽快なテンポの作品に仕上がっている。しかしそうした過激な描写の合間合間に、なにかすうっと醒めた視点が、ふと顔を出す。

ふたりのアバターとそれを取り巻くもののすべてがこのうえなくうつくしい。砂や波の挙動も、光の反射も、髪の匂いも、リアルを模倣し、ある点では凌駕している。

それらはすべてサブライムによって用意されたものだ。そのことをシノはリアルの肉体の死すべき運命よりも悲しく思った。

思うに、抒情とは究極のメタなのではないだろうか。人はいつも、外側の視点を持ちたがる。外へ外へと、自分の目を持っていこうとする。それは要するに、神の目を持ちたい、ということである。世界の仕組み全てを解明し、不条理に理屈をつけ、束の間の安心を得る。だがわざわざそんなことをせずとも、人は視点を遠くへ飛ばすことができる。それが抒情であり、詩の力でもあるとぼくは思うのだ。本書で時おり現れるこうした醒めた視点は、だから正しく詩的であり、本書をよりいっそう魅力的なものにしている。


また、もうひとつ本書を語る上で外せない点がある。それは現実世界に生きる「俺」と、VR世界に生きる自身のアバター「シノ」との葛藤ないし乖離の描かれ方である。


技術的な話になるが、本書ではVR世界におけるシノの行動はすべて「シノは……をした」というように三人称で語られ、現実世界での主人公の行動はみな「俺」という一人称で語られている。このことは端的に「俺」と「シノ」との乖離を示しているように思われるが、実はそう単純でもない。特に序盤から中盤にかけては、VRにおいて「シノ」という三人称の語りが取られながらも、思考はもちろん主人公のものがそのまま描かれるし、シノがどう行動するかも、プレーヤーである主人公が決定しているのである。だからここではまだ、シノと主人公は融合している段階であると捉えられる。


だが終盤に至ると、その均衡は突き崩される。シノは「シノ」という三人称でも「俺」という一人称でもない、「ボク」として自走しはじめる。アバターであり、空っぽの器に過ぎないはずの「シノ」が、プレイヤーである「俺」から乖離し、一個の独立した存在として動き出す。主人公は最早アバターを自由に動かすことのできる特権的な存在ではなく、一観客として、シノの活躍を見守ることとなる。


本書の妙味は、こうした展開が、ただ文体の変化によってのみ成し遂げられている所にある。余計な説明は一切ない。読んでいる人間は文体の変化になどろくすっぽ気づかないかもしれない。しかしさりげなく、だが大胆にこうしたギミックを仕込んでいる点に、ぼくは作者の熟練した技術と遊び心を見つけ、非常な興奮を覚えた。

ムクドリみたいな色をした鳥の大群がボクたちの頭上で渦を巻いて飛び、わずかな星すら隠した。死んだ人は鳥になる──知る人のほとんどないスフィアの裏設定だ。

リアルでも死んだ人の魂が別の生き物になるという神話や伝説がある。スフィアで死んだ人の魂はリアルにもどる。ではあの鳥たちの魂は何なのだろう。ボクが死んだらどんな鳥になるのだろう。 

本書にはどこか空々しい明るさが充満している。それはVRという創られた現実そのものの空々しさと重なっている。しかし主人公は、VRこそリアルだと嘯くことも、VRなんて虚構だと開き直ることもなく、ただ、VR世界で仲間たちと遊びまわる。そう、全ては遊びなのだ。ぼくらが遊びながら老いていくしかないように。


遊びであるから楽しい。遊びであるから虚しい。遊びであるから美しい──。


『ボクは再生数、ボクは死』を読めば、そんな懐かしくて身近な、けれどいま最も新しい遊びの世界が、ぼくらの前に生き生きと姿を現すのである。

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