【冒頭試し読み】『サーカスから来た執達吏』(夕木春央)

文字数 9,224文字

2019年、「絞首商会の後継人」で第60回メフィスト賞を受賞し、同年、改題した『絞首商會』でデビューした夕木春央氏。


デビュー作について、有栖川有栖氏も

「昭和・平成のミステリ技法をフル装備し、乱歩デビュー前の大正時代半ばに転生して本格探偵小説を書いたら……。そんな夢想が現実のものになったかのような極上の逸品。この作者は、令和のミステリを支える太い柱の一つになるだろう。」

と絶賛した、新進気鋭のミステリ作家です。


そんな夕木氏の待望の第2作目となる『サーカスから来た執達吏』が9月30日(木)より発売となります。

刊行を記念して、特別に冒頭を公開いたします。

発端│絹川家の財宝とそれを狙う人々



 絹川という子爵家が名家であることは誰しも承知していたが、実際のところ先祖に何の偉勲があったのかと問われれば、それを知るひとは世間にはいなかったし、絹川家のものすら、そんなことはほとんど気にかけてもいなかった。

 むしろ、その値打ちが百万円を超える美術品を所有していることのほうが知られている。絹川家が名誉の種にしているのもこの財宝だった。ひとまず美術品を、遥か昔の絹川家の功績が形を変えて結晶化したものと思って敬意を払っておけば、絹川家に十分礼を尽くしたことになるのだった。けれど、この財宝とて、そう頻繁に巷間の噂にのぼるようなものでもなかった。

 明治の終わりから大正にかけての十数年の間に、絹川家の財宝をめぐっていくつかの華族家が対立し、奇妙な争いを繰り広げることになった。しかし、この事実も、争いの決着が近づくまでは、不思議に世間には取り沙汰されなかったのであった。



一 (明治四十四年十月)


 驟雨の上がった夜十時。東京を、市内からずっと西に離れたところである。青梅街道を外れ、埼玉県との県境にほど近いひと気のない山麓の暗路を、珍しくも一台の自動車が走っていた。

 男が二人乗っている。どちらも黒一色の、大工が着るような装束だが、運転台の男の黒衣は真新しく、助手席の男のは着古してある。

 運転台の男は、カーヴに差しかかると、自動車を草むらに隠すように停めた。

「──ここで降りよう。もしも番人が居たら気づかれる」

「へえ」

 運転台の男は青年で、気品があるとも、高慢ともとれる顔立ちをしている。もう一人はそれよりふたまわりは歳嵩の、しみだらけで背の低いごつごつした男だった。彼は青年に指図されるまま自動車を這い出て、濡れそぼつ草葉を踏みしめた。

 本当は、こんな仕事には助手席の中年男のほうがずっと熟達していたが、今日はすべてを青年の主導に任せることになっていた。青年の名前は織原瑛広といって、織原家という伯爵家の長男である。彼は今から泥棒、もしくは強盗をすることになっていた。絹川家に伝わる財宝を奪うのだ。

 向かっているのは、絹川子爵が財宝を保管している別荘である。今日は、絹川家のものはみな東京市内にいて、留守だと調べをつけてある。

 鍵開けなど、瑛広の手に負えない仕事をやらせるために、彼は本職を雇った。助手席の樫田という男がそれで、彼は二十年にわたり泥棒をやって、前科がふたつついていた。

「教えた通りだ。この先に、番小屋がある。番人は、恐らく留守ではないだろうな」

 瑛広はまだ見通せないカーヴの先を指差し、樫田にささやいた。カーヴを抜けると、左側に森の奥へ延びてゆく一本道がある。その突き当たりに、一軒だけ建っているのが絹川家の別荘なのだ。

 番小屋は一本道の始まりにあって、絹川子爵に雇われた番人が詰めている。留守のこともあるが、たいがいは居る。番人を拘束せねばならないことを、瑛広は覚悟していた。

 道を進むと、果たして、番小屋には石油ランプの薄明かりが灯っていた。

 瑛広は覆面を被った。

「仕方があるまい。待っていろ」

「ああ、待ってますよ。まあせいぜい気をつけて、上手いことやってください」

 樫田は内心不安でならない。成否の責任は問わないといって高い前金を貰ったから、華族青年の犯罪に付き合う気になったが、いざ実行する段になると瑛広は思い詰めて、冷静さを欠いていた。

 しかし、番人を縛り上げ、猿轡をかます仕事を彼の代わりにやってあげようという気にもならない。番小屋に忍び寄っていく瑛広を、樫田はただ闇の中からじっと見守った。

 瑛広は首尾よく気づかれぬまま小屋の扉にたどり着いた。ためらいを見せてから、彼はドアノブに飛びついた。

 うわあッ、という番人の叫びが聞こえた。揉み合う物音がもどかしく、かすかにとどいてくる。そして──

「あっ、逃げられたな」

 番人は襲撃者の手を逃れて窓から飛び出した。森へ駆け込んでゆく。瑛広は数歩遅れて追った。初老の男らしく、瑛広ほど俊敏ではない。

 樫田は覆面を被ると、慎重に、番小屋へ歩を進めた。瑛広か、番人か、どちらかが戻ってくるのを、小屋の陰で息を殺して待った。


 樫田が聞いた瑛広の事情は、こんなことだった。

 金に困っているでもない華族青年が絹川家の財宝を盗もうと思い立ったのは、瑛広の父の織原久吾伯爵が病を得て、精神に変調をきたしたせいなのである。肺癌の伯爵は、病床で譫言のように絹川子爵の持つ財産を欲しがるようになった。子爵が所有する、金に換えれば百万は下らない美術品をどうしても手に入れたいという。

 絹川家は、織原家と同郷の華族だった。爵位は織原家より低い。死期の迫った織原伯爵は、絹川家の財宝は、自分が所有するべきものと思い込んでいた。

 織原家のものは誰もこの譫言を本当にする勇気がなかったが、伯爵が手が付けられないまでに狂的になり、ついに瑛広が犯罪の実行を決意したのである。

 瑛広は長男だが、妾腹の子で、庶子であった。そのうえ、彼が幼いころに母が愛人相手に刃物を振るう警察沙汰を起こして以来、家のものに煙たがられ、公の場所に出ることを許されず、世間から隠されるようになった。

 瑛広は、財産の奪取を成功させれば、不遇な自分の立場を救うことができると考えたのだ。家族はなかば彼に厄介を押し付ける格好で、これを支持した。

 奇妙な話だとは樫田も思った。それでも瑛広が本気なのは確かだったし、報酬も間違いなかったので、織原家の事情には立ち入らなかった。織原伯爵の主張の正当性にも、特別関心はない。

 それにしても、自動車などで来てしまって大丈夫だったのだろうか? 乗ってきたのは、ある実業家の別宅から無断で借り出してきたオースチンである。財宝を運び出すのには馬車より好都合だが、目立つ心配もある。幸い、近くには絹川家の別荘の他に人家などはなく、ここまでは、誰にも見とがめられることはなかった。


 ──十分あまりも経っただろうか? 一向に、誰も現れる気配がない。

 風が強まってきた。些細な物音はどこかへ紛れてしまう。

 樫田は様子を探りにいくことに決めた。明かりは点けず、樹々が大雨の残滓を浴びせるのに顔を顰めながら、番小屋の脇を抜けて森に分け入っていった。

 百歩も進むと、石油ランプを持つ人影が見えた。

 眼が慣れると、それが覆面の瑛広なのが判った。彼は、どうしたことか、明かりを掲げたまま微動だにしない。

 番人を見失ったのか? しかし、彼の視線は地面を向いている。

 歩み寄ると瑛広はびくりと怯えた。その見つめる先にあるものを見て、樫田は訳を悟った。

 彼の足もとには、うつ伏せになった番人が、不自然に脚をひん曲げて倒れていた。

「これ、あんたがやったんですか? いや、そりゃそうだな。うん──」

 樫田は覆面を取ると、しゃがんで番人の躰を検める。頸にきつく締められた跡があり、手首にさわると脈はなかった。

「もう無理だ。あんた、こんなのは一番駄目だよ。やっちゃいけない」

 憔悴した瑛広は答えない。ともあれ、番人を逃すまいとした瑛広が、力余って殺してしまったのには間違いなかった。

 彼が失策をするかもしれないとは樫田も分かっていたが、まさか屍体を目前にする覚悟はしていない。樫田は忌々しげに吐き捨てた。

「こんなことをするなんて、俺は聞いちゃいない。留守のところに忍び込むか、誰かが居ても、ちょっと窮屈な思いをしてもらうくらいなら仕方がねえと思ったが──、あんた、これからどうするつもりです?」

 瑛広は覆面を取った。顔色は蒼白である。

「──遺体はひとまず、自動車に運ぼう。始末はおいおい考えることにする。早く、絹川家の別荘に向かわねばならない」

 樫田は慌てた。

「冗談じゃない。もう、十分に失敗しているんだ。せめて、出直しだ。こんな日に何をやったって上手く行くものじゃあない。俺は、殺人に関わるのは御免だ」

「この始末は全部僕がやる。お前は一切関わらなくていい。ただ、絹川家の財宝のことだけ手伝ってくれれば良いのだ。それ以外は、皆、僕が勝手にやったことだ。お前は殺人のことは知らなかったし、騙して連れてこられて、無理やり協力させられたと思えばいい。

 今日の他にはもう機会はないかもしれない。僕は、どうしてもやらねばならない。お願いする」

 瑛広は姿勢を崩して、ぶざまに頭を下げた。

 彼が強硬なのには理由がある。樫田が聞くところによると、絹川子爵は、近々家に伝わる美術品を、誰にも見つからない場所に隠してしまうつもりだ、と縁者に触れ廻っているのである。このときを逃せば、もう、財宝の行方は分からなくなるかもしれないのだ。

「仕方ない。来ちまったんだから──」

 樫田は観念した。

 瑛広は、事切れた番人を担ぎ自動車に向かった。屍体は財宝を運び出すために持ってきた、麻の穀物袋に入れ、後部座席に隠した。それから彼は現場に戻り、証拠を残さなかったか、森の中を執拗に見て廻った。

 その悲愴さを見かねて、樫田は捜索を手伝った。


 気が済むと、彼らはようやく自動車で別荘に続く一本道を進んだ。雨上がりの山道は泥濘んで、自動車は轍を残してゆく。

 やがて、前方に別荘の屋根が見え始めた。

「おい、ちょっと近づきすぎだ」

「ああ! いけない」

 瑛広は未だ、殺人の夢心地から醒めないらしかった。もっと遠くに自動車を停めるべきだったのに、彼らはすでに別荘の車寄せまで近づいていた。

 別荘の窓に明かりはなく、誰かに気づかれた様子はない。二人は自動車を降りると、煉瓦のペーヴメントを歩いて、玄関に耳を寄せた。

「誰も居ないようだが──、しかし、気を付けねばならないな」

 瑛広が調べた限り、番小屋だけでなく、別荘にも別の番人がやって来て泊まり込んでいることがある。今、屋内にひとの気配はないが、眠っているのかもしれない。樫田は瑛広にささやいた。

「中に入る前に、まず家のぐるりを確かめるべきだ。うっかり誰かに出会すのは懲り懲りです」

「分かった。そうしよう。しかし──、そうだ」

 瑛広は、足もとから小枝を拾い上げると、玄関の扉にそっと立てかけた。

 玄関扉の前は煉瓦が敷いてあって、足跡が残らないのだ。しかし小枝を立てかけておけば、玄関が開いたとき建物とペーヴメントとのあいだの細い土面に倒れ、跡が残る。これで、二人が見廻っている間に屋内の誰かが出入りをしても、見落とす気遣いはない。

「よし、行こう」

 別行動はしない。二人で、窓を覗きつつ、別荘を右廻りに周回し、屋内の様子をうかがうことにする。

 明かりを使うのは避ける。土面はやはり泥濘んでいて、しかも傾斜しているから、一歩一歩を、藪の中に杖を突き出すように恐る恐る進めなければならない。

 別荘は二階建てで、斜面に建っていた。二階に玄関がある構造で、奥に行くほど地面は降っている。個室の窓にはカーテンが掛かっていた。廊下に面した窓からは屋内が見通せたが、貴族の別荘としてはありきたりの調度が見えるばかりだった。

 しかし、斜面を下り切った、一番奥の一階の部屋は様子が違っていた。

 窓にはカーテンではなく、鎧戸が重々しく嵌まっている。瑛広は鎧戸の隙間に眼を当てた。

 室内で、何かが煌めいているようだった。あたりをうかがってから、そっと石油ランプに火を入れ、部屋を照らした。

 部屋は、鈍いランプの明かりを、合図を返すように照り返した。反射したのは精巧な磁器や硝子細工の艶、さらには宝剣や黄金仏に、時計の文字盤らしかった。四方の棚に納められたそれらは、ランプを揺するにつれてまたたいた。

 鎧戸の奥に収蔵されているのは、確かに彼らの狙う美術品のようである。

「ここだ! 間違いない。良かった──」

 瑛広は呟いた。

 彼の計画は、二年ほど前にこの別荘を訪ねて、絹川子爵に財宝を見せて貰った政治家の話にもとづいていたから、もしやそれから子爵が財宝を移動させたのではないかという不安があったのである。樫田も、これを見てようやく職業精神を刺激され、いくらか興奮を覚えた。

 別荘の裏手には川が流れていた。雨で増水しているが、流れはさほどはやくない。

 それを尻目に、二人は反対側をまわって、玄関前まで戻った。

 外からさぐった限り、今、邸内が無人なのは間違いないように思われた。玄関の小枝も、倒れた跡はない。

「──よし。入るぞ」

 瑛広に促されて、樫田は玄関の錠前破りに取り掛かった。特別な錠前ではなく、数分を要して鍵は開いた。二人は依然慎重に、一部屋ずつ、子細に気配を調べた。

 客間、食堂、居室、使用人室、それらに人が隠れていないことを十分確かめる。誰もいないと確信が持ててから、二人は一階へ、階段を降りた。

 一階には寝室が五部屋あった。二階と同様に、無人であることを確認して、二人は少し緊張を緩めた。今、別荘には二人の他、誰もいないことは間違いなかった。

「あと、残る問題はこれだ。どんな塩梅だね?」

「さあ、簡単じゃあねえですよ。どんなもんかな」

 二人は、監獄のような分厚い鉄の扉を前にしていた。例の、美術品を収蔵した一室の扉で、容易には開けられないようになっている。通常の鍵穴の他に、金庫のダイヤルのようなものが取り付けられていた。扉自体も、大工道具程度では到底壊すことの出来ないつくりである。

 鉄扉を前にして、いつもの金庫破りの遣り口が通用するか、樫田は道具を手に仕事にかかった。


 錠前破りの途中、樫田は屋外に廻って、窓の鎧戸をこじ開けた。鎧戸の奥には太い鉄格子が嵌まっていて、窓から財宝の部屋に入り込むのは不可能だが、錠前の様子を室内側から確かめる必要があったのだ。

 鎧戸を開けたので、財宝の部屋の全容が分かった。彼らがさっき隙間から見た他にも、棚には掛け軸の円筒や、さまざまな大きさの木箱がまだまだ並んでいたし、床には棚に収まらない仏像や柱時計や甕が据えてある。


 鉄扉を相手に、三十分程で樫田はついに指先に手応えを得た。

 この分なら開けられると勢い込んだときであった。

「──あ! 畜生、折れちまった」

 鍵開けの工具の先端が、鍵穴に引っかかって破断した。瑛広は慌てて樫田の手もとを覗き込んだ。

「どうする? 代わりは持っているのかね?」

「いや、ここにはねえですな」

 瑛広は思い詰めた顔で樫田を睨む。

 仕方なく樫田は言った。

「俺の知り合いに、こういうのをこっそり扱ってる金物屋が何人か居るが、一人は八王子の町に店を持ってます。今から自動車で向かって、叩き起こせば調達出来ないことはない。しかし二時間はかかります。あんた、屍体の始末も考えなきゃならんから、時間が無い筈だが──」

「いや、構わない。止むを得ない。そうしよう。一旦、町へ向かう」

 瑛広はついてくるよう手招きをして、玄関へ向かった。

 自動車を動かす前に、樫田は後部座席に置いた罐入りの揮発油の残量を確かめた。その隣に、番人の屍体はいぜん積まれたままである。どうしても邪魔になるので、嫌々ながら樫田はそれを動かした。屍体に、体温はまだ残っていた。

 この仕事は上手くいかない。樫田は直感した。不測のことが立て続けに起こっている。これだけでは終わらないような気がする。

 瑛広の運転で、山麓の道を市街へ向かった。八王子の金物屋を目指す。


 二時間と少し掛かって、二人は再び絹川子爵の別荘へ続く山道を進んだ。幸いに、道具の代用はあっさり手に入った。急げば、予定通り夜明けまでに全てを終えられるかもしれない。

 山道には四筋の轍がついている。さっき行き帰りした分で、他の誰かが通った様子はない。樫田の心中にあった不安はやわらいだ。

 車寄せに自動車を停め、別荘に入ると二人は真っ直ぐ、一階の鉄扉の前に向かった。

「あとどれくらい時間が要るかね?」

「さあ、もう大して掛かりゃしないと思うが──」

 瑛広に急かされるまま樫田は手を動かした。一度、開錠する直前まで進んでいたから、今度はかなり早かった。

「──よし。開きましたよ」

 十五分と掛かっていない。後は、品物を運び出して自動車で立ち去るだけである。それから先のことは、樫田には一切関係がない。

 結局、不吉な予感は予感に過ぎなかった。

 そう思って、樫田は、瑛広が鉄扉を開くのに一歩下がって場所をゆずった。

 瑛広が、ランプを掲げて部屋に踏み込んだときである。樫田は、まったく想像だにしない形で、自らの予感が的中したのを知ることになった。

 そこは財宝の部屋に間違いない。数時間前、窓の外から鉄格子越しに覗いた通り、陳列棚が四方の壁に並んでいる。しかし、肝心の財宝は──

「無い! 何一つ無くなっている! あれだけあったものが──」

「何? 無いって?」

 瑛広が叫んだ通りであった。陳列棚はすべて空になっていた。

 棚だけではない。床に立ててあった、重そうな仏像や甕もすべて見当たらない。部屋を埋め尽くしていた財宝が、跡形もなく一切消え失せている。

「どうしたことだ? 誰がやったんだ? ──どうやって?」

 呆然とする樫田を陳列室に残し、瑛広は別荘の家探しを始めた。誰がやったか分からないが、どこかの部屋に財宝が移されたのではないか──

 一階の寝室を手始めに、瑛広が別荘をくまなく捜索するのを樫田も手伝った。

 そして、屋内のどこにも、ひとつたりとも財宝がないと認めざるを得ないことが分かった。

「そりゃそうに決まっている。ここには誰もいないことを確かめたんだから──」

「では、いったいどうやって? そうか!」

 瑛広は玄関を飛び出した。樫田も続く。

 別荘の周囲を確かめるのだ。誰かが外からやってきたのかもしれない。

 ランプの明かりを頼りに、数時間前に二人が残した足跡を辿っていく。誰かが、別荘に侵入した痕跡を探すのだ。


 さっきとまったく同じように、右廻りで別荘の周回を終えた。

 戻ってくると、瑛広と樫田は玄関前に立ち尽くした。

 彼らは異常なものを何も見つけなかった。二人が残した以外に、土面には何の痕跡もなかった。

「──無理だ。こんなことは、あり得ない」

 樫田も同様の思いである。不可能としか考えられないことが起こっている。

 最初に着いたとき、別荘に誰もいないことはしっかりと確かめた。周囲は雨のために泥濘んでいて、跡を残さずに近寄ることは出来ない。にもかかわらず、一本道には二人の自動車が往復した跡が残っているきりだし、別荘を周回しても、さっき二人が残した足跡の他、土面は真っさらの状態だったのだ。

 樫田は、もしや増水した川から船で接近し、財宝を持ち去ったのかと考えていたが、当然、誰かが川岸から別荘に往復した様子はなかった。

 つまり、彼らが別荘を離れた二時間余りのあいだ、誰もここに入ることも出来なければ、財宝を持って外に出ることも出来なかった筈なのである。にもかかわらず、それは綺麗さっぱり、掛け軸の一幅残さずなくなっている。

 樫田は瑛広の肩に手を置いた。

「ねえあんた、一体何が起こったのかさっぱり分からないが、俺たちのやらなきゃいけないことだけは、これ以上ないくらいはっきりしてますよ」

「──何だ?」

「逃げるんです。当たり前だ。どうやったか知らないが、この妖術みたいな真似をやってのけた奴は、俺たちが何を企んでたのか知ってるってことでしょう? ここに残っていたって良いことがある訳がない。一刻も早く、こんな所は出ていくに限る」

 未練を残す瑛広を、樫田は無理やり自動車に乗せた。

 ちょうど、一度はやんだ雨がふたたび降り始めた。樫田は、雨音に紛れて、天空から何者かが彼らを嘲笑する声を聞いた気がした。


「今日のことは、断じて他言無用だ。くれぐれも頼む」

 麓に下りた瑛広は、震える手で樫田に約束の礼金を差し出した。樫田は、掃除をしろと雑巾でも渡されたみたいに、義務的にそれを受け取った。

「俺が他言無用なのは構わないが、しかしあんたこそ大丈夫かね? 大分参っちまっているみたいだが」

「大丈夫だ。それに、僕に何かあったとして、お前の名を僕が口にすることは絶対ない。誓う」

「そりゃ、ありがたいことだが──」

 樫田は、大仰な華族青年の約束を受け流した。そんなことより、もっと重大なことがある気がしている。彼もまだ、不可思議な出来事に遭遇した放心から醒めていなかった。

 ともあれ夜明けを前に二人は別れ、それきり、二度と会うことはなかった。


 瑛広は、番人の屍体を別荘から少し離れた山中に投棄した。自動車を早く返さねばならなかったために、念入りに殺人の始末をすることは出来なかった。帰宅してから瑛広は、あれほど執拗に確かめたにもかかわらず、自分の指紋がついているであろう釦を、現場に落としてきたことに気がついた。

 数日後に番人の屍体は発見され、殺人事件として捜査がされた。


 しかし、樫田と瑛広が捕まることはなかった。

 本来なら事件の被害者と言ってよいはずの絹川子爵が、警察に協力的でなかったことが理由であった。殺人者の目的は分からずじまいになった。それだから、子爵家の財宝が不可思議な状況で消失したことは、長きにわたって世の誰にも知られなかった。



続きは9月30日(木)発売『サーカスから来た執達吏』にてお楽しみください。〜

『サーカスから来た執達吏』


著:夕木春央(ゆうき・はるお)

1993年生まれ。

2019年、「絞首商会の後継人」で第60回メフィスト賞を受賞。

同年、改題した『絞首商會』でデビュー。


装丁:川名潤

装画:中島梨絵

発売日:9月30日(木)

定価:1925円(本体1750円)



怒涛の30ページに目が離せない。

関係者が一堂に会し、14年前の謎が明かされる。

メフィスト賞作家、圧巻の純粋本格ミステリー!


「あたし、まえはサーカスにいたの」

大正14年、莫大な借金を作った樺谷子爵家に晴海商事からの使いとして、

サーカス出身の少女・ユリ子が取り立てに来た。

返済には応じられないと伝えると、担保に三女の鞠子を預かり、

2人で「財宝探し」をしようと提案される。

調べていくうちに近づく、明治44年、絹川子爵家で起こった未解決事件の真相とはーー。

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