「雨を待つ」① ――朝倉宏景『あめつちのうた』スピンオフ

文字数 1,787文字

「なぁ、ドラフトのニュース、見た?」
「しっ!」
 俺の耳に、猫を追い払うような鋭い声が突き刺さった。直後、こちらの反応を探っているのか、不自然な沈黙の間があいた。背後にいるはずの、会話の主であるクラスメートの緊張が、手に取るようにつたわってくる。
 一方の俺は机に()()していた。組んだ腕に額をのせて、寝入っているふり。だから、目はあいている。机の木目が(うず)をまいて、その中心の部分がまるで(ひとみ)のように見つめ返してくる。
「この教室で、ドラフトの話題はあかんて、ホンマに」
「すまん、すまん」
 俺が微動だにしないことを見届けてから、ふたたび二人の会話がはじまった。今度はかなりのひそひそ声だ。
「おい!」思わず顔を上げて、振り返った。「黙って聞いてりゃ……。なんやねん、俺は邪魔か、コラ!」
「ごめん、そんなつもりやなかったんやけど……」あたふたと謝罪の言葉を口にしながら、クラスメートは連れ立って教室を出て行った。
 ほかの同級生たちの冷ややかな視線から逃れるように、ふたたび上半身を倒した。狸寝入(たぬきねい)りがバレてしまった。大きく、ため息をつく。自分の腕と、机の天板に囲まれた狭い空間に、昼に食べたカレーのにおいが広がった。
 クサなるから教室でカレー食うな、ふつう弁当でオカンの手作りカレー持ってくるか? そんな軽い調子で、気安くからんだり、つっこんだりしてくるクラスメートももういない。今みたいに俺がとげとげしい態度でいるから、なおさら話しかけづらいようだ。
 腕と(もも)が、徐々にしびれてきた。百八十七センチの体を机の金属の枠につっこみ、ぴったりはめこませている。いちばん大きい規格の机でも窮屈(きゅうくつ)だ。学校も、窮屈だ。野球をやめてから、どう休み時間を過ごしていいのかさっぱりわからない。
 昨日、プロ野球のドラフト会議が行われた。キャプテンでサードのレギュラーだった才藤(さいとう)が、野球部のなかでただ一人、指名を勝ち取った。
 才藤が胴上げされている写真は、今朝ネットニュースで見た。チームメートに担ぎ上げられ、万歳しながら宙に舞っている瞬間が切り取られていた。その顔は、泣いているのか、笑っているのか、判別に困るほどくしゃくしゃにゆがんでいた。
 両手を差し伸べている仲間たちは、全員気持ちのいいほどの笑顔だ。高卒でプロ入りする。実に狭き門だ。周りの人間は誰も嫉妬(しっと)などしていない。大学、社会人などを経て、いつかは自分も──そう思っている部員もなかにはいるだろうが、この時点で才藤のことを死ぬほどねたましく感じている人間はいないだろう。
 たぶん、俺以外は、誰も。
 ようやくチャイムが鳴り、顔を上げた。しびれた手でのろのろと、次の授業の教科書を取り出す。けれど、ノートも筆記用具も出さない。勉強しても意味がないのだから、無駄なエネルギーは使わない。教師のほうも、絶対に俺をあてることはない。
 あの夏の終わりから、俺は死んでしまった。だから、誰も話しかけてこない。幽霊みたいなものだ。
 本当だったら、俺もあの胴上げの写真のなかにいたはずなのだ。担ぐほうではなく、担ぎ上げられ、高々と空中に舞い、身に余るほどの祝福を浴びるのは、俺のほうだったのだ。
 野球の神様がもし存在するのなら、俺はつねにその恩恵にあずかってきた。
 小学生で硬式球を使うリトルリーグに入り、五、六年生のときは連続で日本一になった。中学三年生でU‐15の日本代表に選ばれ、エースピッチャーとして世界一に輝いた。その功績を引っさげて、地元大阪の強豪高校に推薦入学を果たした。
 そして、今年の夏、三度目の挑戦でついに甲子園(こうしえん)の頂点に立った。数々の優勝メダルは、すべてプロの一流投手になるための通過点にすぎなかった。
 それなのに、肝心なところで神様から愛想を尽かされた。天まで伸びた長い長いはしごを、ゴール寸前ではずされた。俺はそのまま落下し、地面にたたきつけられた。何か神様の気にさわることでもしたのだろうか。感謝や謙虚さがたりなかったのだろうか。これは、運命としてあらかじめ決定されたことだったのだろうか?
 ぐるぐると考えつづけていたが、もちろん神様は何も応えてはくれない。


→②に続く

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