第1話 日向誠が、二十五年間にわたり作家を続けてこられたのは――

文字数 4,073文字

               プロローグ

「じゃあ、磯川(いそかわ)君の新たな門出を祝って乾杯!」
 日向誠(ひゅうがまこと)は満面の笑みで言いながら、生ビールのグラスを宙に掲げた。
「乾杯するほどの門出かどうかは謎ですが」
 磯川が二十五年前にはなかった目尻の皺(しわ)を深く刻み、そっとグラスを触れ合わせてきた。
「それにしても、磯川君とこんなに長いつき合いになるとは思わなかったな」
「小説家にとってエリートコースが約束された『小説未来新人賞』の最終候補に残った日向さんを、賞レースから辞退させた僕の第一印象は最悪だったでしょうしね」
 磯川が当時のことを思い出しているのか、おかしそうに笑った。
「俺に最終候補を辞退させたくせに、文章が粗削りだとか誤字脱字が多いとか素人臭が漂っているとかめちゃめちゃけなしてくるし、正直、最初に会ったときは、なんだこの男は!? って思ったよ」
 日向も当時のやり取りを思い出し、口元を綻ばせた。
 磯川晋弥(しんや)は日向のデビュー時の担当編集者であり、恩人でもあった。
 磯川との出会いがなければ、日向はベストセラー作家と呼ばれることはなく、二十五年も作家を続けることもできなかっただろう。
「でも、それ以上に日向さんの才能を誰よりも早く見抜いていたわけですから相殺にしましょう」
 磯川はそう言うと、喉を鳴らしてビールを流し込んだ。
「いやいや、相殺どころか磯川君には感謝しかないよ。粗削りで素人臭の漂う新人をベストセラー作家にしてくれたわけだから」
 日向は、悪乗りして皮肉を言った。
「勘弁してください、もう時効です。でも、日向さんと出会えて楽しかったですよ。文壇の常識に捕らわれない言動が刺激的で、日向さんと仕事をするときはジェットコースターに乗っているような気分でした」
「その言葉、そっくり返すよ。編集者の常識を鼻で笑い飛ばして俺に好き勝手に書かせてくれた君が担当で本当によかった。磯川君は猛獣使いの編集者であり、猛獣のような編集者でもあった。改めて、礼を言わせてくれ。ありがとう」 
 日向は素直な思いを口にした。
「やめてください。僕は日向さんのために声をかけたわけではなく、僕自身が楽しく仕事をしたかったから声をかけただけです。日向さんが初版止まりの売れない作家でも、僕の評価は変わりませんよ。たとえ日本中の人々から酷評される作家でも、僕自身がワクワクできれば、僕にとって一番の作家です」
 磯川が柔和な微笑みを日向に向けた。
 誰よりも冷淡で、誰よりも熱血漢で、誰よりもマイペースで、誰よりも面倒見がよかった。
 磯川は、最後まで摑(つか)みどころのない男だった。
「相変わらず、磯川君は宇宙人みたいな人だな。ところで、副編集長の職を捨ててなにをするの?」
「人聞きが悪いことを言わないでください。捨てるんじゃなく、ワクワクすることがなくなったから編集者を卒業するんですよ」
「それを、世間一般では捨てると言うんだよ」
 日向は、すかさずツッコミを入れた。
「まあ、お好きなように解釈してください」
 磯川が苦笑いした。
「で、なにやるのさ」
「放浪者です」
「放浪者!?」
 日向は素頓狂な声で訊(たず)ね返した。
「はい。気の赴(おもむ)くままに世界中を彷徨(さまよ)ってきます」
 磯川が、隣町に行くとでもいうように気軽に言った。
「磯川君は、いつまでたっても磯川君のままだね」
 日向が言うと、ふたたび磯川が苦笑した。
「日向さん。後悔していませんか?」
 唐突に、磯川が訊ねてきた。
「なにを?」
「『直木賞』を捨てたことですよ」
 磯川が日向をみつめた。
「ああ、そのこと」
 日向は眼を閉じ、記憶を二十五年前に巻き戻した。
     
                  1

「『日向プロ』の白木(しらき)です。『ジャムポップ』のグラビアの件でお電話しました。先週、そちらにお連れした美沙(みさ)の件ですが、ご検討頂けましたでしょうか? あ……そうですか。あの、モノクロでも構いませんので、なんとかなりませんでしょうか?」
「お世話になっています! 『日向プロ』の中谷(なかたに)です。来週のロケですが、女子大生A役の棚橋(たなはし)かおりは自メイクでしょうか?」
「ご注文ありがとうございます! 『世界最強虫王決定戦シリーズ』全セットで十万五千円になります!」
「『世界最強虫王決定戦シリーズ』全セットですね? ありがとうございます! ホームページに振り込み口座がありますので、十万五千円をお願いします。着金確認後、一週間以内に『白猫便』で配送致します!」
 渋谷区のマンションの十階――二十坪の空間で四人のスタッフがタレントの売り込みや昆虫バトルDVDの注文に追われる中、日向はハイバックチェアに背を預け、デスクの上の『小説未来』を凝視していた。
「スタッフが働いとるのに、社長はボーッとなんばしとると?」
 ハスキーボイスの九州弁――椛(もみじ)が、日向のデスクに尻を乗せながら言った。
「机が壊れるから、でかいケツで座るな」
 日向は椛の尻を叩いた。
「あ! セクハラ! それから痴漢! 金髪、ガングロ、マッチョ……AV男優みたいな見かけだけじゃなくて、中身もエロかね~」
 椛は日向をからかいながら、デスクから下りた。
 百七十センチの長身を包むブレザーにチェックのスカート、掌におさまるような小顔にベリーショートの髪、リスのようにクリクリとした瞳に大きな前歯……椛は熊本から通っている十五歳の所属タレントだ。
 二年前、日向が取引先の爬虫類(はちゅうるい)ショップに訪れるために熊本に立ち寄ったときに、デパートの催物会場で、ガールズヒップホップダンスを披露していた五人組のユニットを見かけた。
 中でも椛は、一際目立っていた。
ダイナミックでキレがよく、なおかつしなやかな椛のダンスが優れていることは素人目にもわかった。
 だが、ダンスはあくまでもきっかけであり、日向が椛をスカウトしようと思ったのは彼女の華やかさだった。
 ダンスの技術だけなら、ほかの四人も椛と同レベルだった。
 だが、椛だけが3D映像のように浮き上がって見えた。
 美しいだけでは通用しない、スタイルがいいだけでは通用しない、歌がうまいだけでは通用しない、演技がうまいだけでは通用しない……芸能界で売れるには、実力以外のプラスアルファが必要なのだ。
 実力以外のプラスアルファ……それが、〝オーラ〟と呼ばれる要素だった。
 日向の見込み通り、椛は所属一年、十四歳のときに脇役ではあるがNHKの連ドラオーディションに受かり、女優デビューを果たした。
 ダンサーを目指し、女優にまったく興味のない椛が早々とドラマ出演を決め、幼いころから劇団に入っている美沙がオーディションに引っかからずに、グラビアアイドルに転向するというのも芸能界の真実だ。
「お前みたいな齧歯目(げっしもく)娘にセクハラするなら、カブトムシにボディタッチするよ」
 日向は笑いながら言った。
「こぎゃんよか女と虫けらば、一緒にせんでよ! 寮も虫臭かけん、早く捨ててよ」
 椛が鼻を摘まみながら、クレームを入れてきた。
 椛は仕事が入っているときだけ熊本から上京し、「日向プロ」が寮として借りているマンションに宿泊している。
 椛が上京するのは平均して一週間から十日くらいなので、普段は『世界最強虫王決定戦』に出場する虫の飼育部屋として使っていた。
『世界最強虫王決定戦』とは、タイトルの通り世界中の虫――カブトムシやクワガタムシの甲虫をはじめ、オオスズメバチやカマキリ、サソリやタランチュラなどを戦わせて最強を決めるというシンプルなDVDだ。
 格闘技好きの日向は、世間で総合格闘技やキックボクシングが大ブームになっているのをヒントに、虫版異種格闘技戦を発案したのだ。
 企画会議では十人のスタッフ全員に反対されたが、大ヒットを予感していた日向は強引に押し切りDVDの制作に入った。
 コロンビア、エクアドル、フィリピン、ベトナム、アフリカ、エジプトの現地の採り子と契約し、世界中の虫を買い集めた。
 日向は芸能プロで培った人脈を活かし、『世界最強虫王決定戦』のDVDを情報バラエティ番組で取り上げて貰(もら)った。
 番組放映後からホームページのサーバーがダウンし、十人のオペレーターがトイレに行けないほど注文が殺到し、一巻五千五百円という高額なDVDは僅(わず)か一ヶ月で二万本以上売れて一億円の月商を叩き出した。
 社会現象にまでなった『世界最強虫王決定戦』は爆発的に売れ続けてタイトルを重ね、三年間で二十タイトル、純利益は十億円を超えた。
「お前のギャラはドラマ一本で五万円前後、お虫様はいまでも月に一千万を稼いでくれる。お前の航空券代も寮の家賃も衣装代も、すべてお虫様のおかげで払えてるんだぞ。お前とカブトムシを選ぶなら、迷わずカブトムシだ」
 日向はニッと笑って見せた。
「はぁ~、三十過ぎのおっさんが十五の少女ば相手に勝ち誇った顔してから。これだけんガキは困るったい。あ~疲れる疲れる、ガキの相手は」
 椛が大袈裟にため息を吐きながら肩を竦(すく)めた。
「お前な、セリフに影響が出るから九州弁はやめろって言ってるだろ。まったく、何度言えばわかるんだ」
 今度は、日向がため息を吐いた。
「社長、私ば誰だと思っとると? 百年に一度の天才ばい。撮影に入ったら、流暢(りゅうちょう)な東京弁ば喋(しゃべ)るけん大丈夫!」
 椛が得意げな顔で作ったピースサインを、日向の顔に突きつけた。
 なにを言われても、不思議と椛には腹が立たなかった。
 椛を贔屓(ひいき)しているわけではなく、彼女の人柄だった。
 一回でも椛と現場をともにした監督やプロデューサーは、必ず彼女を気に入ってしまう。

(次回につづく)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み