『猫のエルは』(著:町田 康)試し読み!
文字数 3,630文字
ふてぶてしくて、わがままで、かわいくて――
ここは不思議な、猫の世界。
数多くの猫たちと共に暮らし、作家の眼と深い愛情とで彼らを見つめ続けてきた町田康さんだからこそ描けた諸玉の「猫物語」集『猫のエルは』。
この度、本書の待望の文庫化を記念し、珠玉の作品の中から「猫とねずみのともぐらし」の試し読みを一挙公開いたします!
猫とねずみのともぐらし
猫とねずみは一緒に暮らしていました。ふたりは、冬になって食べ物がなくなったときに備えて、おいしい油の入った壺を買い、教会の祭壇の下においておきました。
しかし、冬にならないうちに猫は、そのおいしい油をひとりでうまうまなめてしまったのです。
冬になってそのことがわかり、ねずみは怒りました。
「ふたりで買った、おいしいあぶらを君はなぜひとりでなめてしまうのか。冬になって私たちの食べるものがなくなってしまったではないか。どうするつもりだ」
そう言ったねずみの目は真っ赤でした。
そう言われた猫の背中の皮が、びくびくっ、と震えました。
猫は、教会の屋根の十字架がのしかかってくるようだ、と思いました。
猫がなんとか言い訳をできないものか、と考えていると広場の向こうから、王子さまが白い馬に乗ってやってきました。光り輝くような王子さまでした。髪は金色で肌は白く、目はブルーでした。白いタイツをはいて黒繻子(くろしゅす)のふくらんだ半ズボンをはいておりました。
それをみた猫はねずみに言いました。
「もう、大丈夫ですよ」
「なぜだ」
「ほら、向こうから王子さまが来るでしょう。王子さまというのはだいたいが清い心の持ち主で、そしてお金持ちですから、お願いすれば冬になって食べるものがなくて困っている私たちのためにパンを買ってくれますよ。ちょいとお待ちなさい」
そう言って猫は王子さまに声をかけました。
「もし王子さま、王子さま」
「どう、どう」
王子さまはそう言って馬をとめ、猫を見下ろして言いました。空のように真っ青な目には瞳がありませんでした。
「なんだい」
「はい。私たちは貧しい猫とねずみです。冬に食べるものがなくて困っております。どうか、お慈悲によって私たちに食べるものを恵んでいただけませんでしょうか」
「それは困ったことだね。しかし、私は王女を探しにいかなければならない。急いでるんだ。こうしている間にも王女は魔法使いにひどい目にあわされているかも知れないから。このあたりには魔法使いが実に多いからね。では御免」
そう言って、王子さまは、「はいよー」と叫び、白馬に鞭をくれると土煙を上げ、森の方へ走り去りました。
「べっべっべっ」
「ひどい埃だ」
猫とねずみはそう言ってつばを吐き出しました。
「なんて、王子さまだ」
猫が嘆いていると向こうから王女さまが歩いてきました。その王女さまを見て、猫もねずみも腰を抜かしました。その王女さまがあまりにも美しかったからです。猫は腰を抜かしたままねずみにいいました。
「すごく美しい王女さまですね」
「ほんとうだ。光り輝くようだ。まともに見ると目がつぶれる」
「あのお姫さまにキャンディーかチョコレートを恵んでいただきましょう」
「くれるかな」
「くれますとも。あのように美しいお方だ。きっと慈悲深いお方に違いない」
そう言って猫は王女さまに目をそらし気味に話しかけました。
「もし。慈悲深い王女さまに申し上げます」
「どうしたの。猫とねずみ。おまえたちはどうして腰が抜けているの」
「私どもの腰が抜けているのはあなた様があまりにもお美しいからです。あなた様のあまりの美しさに驚いて腰が抜けました」
「まあ。ごめんなさい」
「いえ。ぜんぜんかまわんのです。私どもが勝手に腰を抜かしただけですから。でも、王女さま。こんな私どもを哀れと思し召すならば私どもに食べ物を恵んでくださいませんか。実は冬の間、食べるものがなくて難儀をしているのです」
「あら、ごめんなさい。いまなにも持ってないのよ」
「では、お城に取りに戻られてはいかがでしょうか」
「それも駄目なの。私はいまとても急いでいるのよ。こうしている間にも私の結婚相手の王子が魔法使いにカエルにされているかも知れないの。そうならないうちに王子を捜しに行かなくちゃ。このあたりには悪い魔法使いが実に多いのよ。それじゃ、御免遊ばせ」
そう言って王女は行ってしまいました。
「いっちまいやがった」
「他に私たちに食べ物を呉れるような人はいないだろうか」
そう言って猫はあたりを見渡しました。
赤いフードをかぶった女の子が森へ入って行きました。真っ白な洋服を着た青白い顔をした男の子がうつろな目で広場の隅にうずくまっていました。貧しそうな兄と妹が悲しい顔で歩いていました。おんどりとめんどりとあひるがガアガア哭きながら暴れていました。
「だめかー」
猫が溜息を漏らしたその瞬間、教会から、それはそれは美しい、さっきの王女の千倍は美しい女の人が出てきました。女の人はただ美しいばかりではなく、この世の悲しみをすべて一身に引き受け、これを憐れみ慈しんでいるような様子でありました。そんな人はこの世にただ一人しかありません。
マリアさまです。
猫とねずみは涙を流して喜び、すがりつくように声を出しました。
「マリアさま。お願いしま……」
みなまでいう暇がありませんでした。
「いま忙しい」
マリアさまはそれだけおっしゃると、もの凄い早さで森に駆け込んで行かれました。
「マリアさままでもお忙しい、とおっしゃる」
猫は嘆きの声をあげて天を仰ぎました。
ねずみはキチキチーと鳴いて両手をくちゅくちゅしました。
風が吹いて砂塵が舞い上がりました。ゴミが森の方に転がって行きました。
猫もねずみもお腹が空きすぎてその場から動けませんでした。
猫とねずみは交互に、「ああ、腹が減った」と嘆きました。
もう広場には猫とねずみ以外、たれもおりませんでした。たれも通りませんでした。
どれくらいそうしていたでしょう。
猫の耳がぴくぴくっ、と動きました。
ねずみの髭がびくびくっ、と震えました。
森から誰かが出てきたのでした。
「こんどこそっ」
そう思って猫とねずみは森から出てきた人が広場の方へやってくるのを見ておりましたが、やがて、同時に声をあげました。
「最悪だ」
そう。森から出てきたのは魔法使いなのでした。
「逃げた方がいいよね」
「うん。でも私は逃げられません。さっきから腰が抜けてますから」
「俺もだよ」
そんなことを言ううちにも魔法使いはどんどん猫とねずみの方へ近づいてきて、とうとう二人の目の前にやってきました。もう駄目だ。悲しい一生だった。すっかり観念してお祈りをしている猫とねずみに言いました。
「そんなに怖がらなくてもいい。魔法使いだからといって必ず悪いとは限りません。私はいい魔法使いです。どうやらお困りの様子ですね。よござんす。私が魔法で解決してあげましょう。なになに、うんうんうん。わかりました。そういう事情ならあなた方を王子さまとお姫様にしてあげましょう。結婚してお城で一生、楽しく暮らすことができますよ」
そう言って魔法使いは呪文を唱えました。
ところが、魔法使いはまだ新米の魔法使いで、そんなに魔法が上手ではなく、猫とねずみは王子さまとお姫様にはなりませんでした。
ではどうなったのでしょうか。
猫がねずみになり、ねずみが猫になったのです。
ふたりは呆然と立ち尽くしました。
その間、魔法使いは、「へへへ。失敗しちゃった」と照れ笑いを浮かべたかと思うと、恥ずかしくなったのか森の方へ戻って行ってしまいました。
それ以来、ねずみはずっと猫で、猫はずっとねずみです。
だからいまでも、猫はねずみを見ると、
「おまえのせいでこうなったじゃないかー」
と怒って追いかけます。ねずみは、
「ごめん、ごめん」
と、へらへら笑いながら逃げていきます。
ねずみは元はひとりでうまうま、おいしい油をなめた猫だったからです。
はやく魔法がとけるといいですね。
いつとけるかはわかりませんけれども。
作家、詩人、パンク歌手。『くっすん大黒』で野間文芸新人賞とドゥマゴ文学賞、「きれぎれ」で芥川賞、『土間の四十八滝』で萩原朔太郎賞、『権現の踊り子』で川端康成文学賞、『告白』で谷崎潤一郎賞、『宿屋めぐり』で野間文芸賞を受賞。他の著作に『ギケイキ 千年の流転』『記憶の盆踊り』『しらふで生きる』、愛猫エッセイ『猫にかまけて』シリーズや、愛犬を描く『スピンク』シリーズなど多数。
ふてぶてしくて、わがままで、かわいくて――
ここは不思議な、猫の世界。
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