Day to Day〈5月11日〉〜〈5月20日〉#まとめ読み

文字数 12,342文字

2020年の春、ここtreeで、100人のクリエーターによる100日連続更新の掌編企画『Day to Day』がスタートし大きな注目を集めました。この2021年3月25日、その書籍版が発売されます。


>通常版

>豪華版


treeでは、それを記念し、『Day to Day』の原稿を10本分ごと(10日分ごと)にまとめて、一挙に読みやすくお送りいたします。それでは……珠玉の掌編をお楽しみください!

〈5月11日〉



 新型コロナウイルスの感染拡大により緊急事態宣言が発令され、不要不急の外出を自粛するように、との要請が出されました。
 これは強制力を伴うものではありませんが、大多数の方々が要請に従い、静かに日々を過ごしているようです。
 さて、そんな緊急事態宣言下における五月十一日に、私、輪渡颯介が何をしていたかというと……することがなかったので仕事部屋にあるオフィス用の椅子でぐるぐる回って遊んだ結果、気分が悪くなって小一時間ほど寝てました。
 はい、愚か者です。新型コロナウイルスのせいでアホが一匹あぶり出されました。
 ちなみに輪渡は一九七二年五月八日の生まれで、つい三日前に四十八歳になりました。ありがとうございます。主に江戸時代を舞台にした物語を書いているので、時代小説作家という肩書がつくことが多いです。四十八歳の時代小説作家です。そんな者がいったい何をしているのだと我ながら呆れております。
 それから、五月十一日現在、輪渡の家ではネズミが出て困っています。自粛要請により飲食店が閉まり、飢えたネズミが繁華街から外にれ出ているというニュースを耳にしていますが、輪渡の家の周りは一般の住宅ばかりで、飲食店からは離れています。近所の他の家にネズミが出たという話も聞きません。ですから新型コロナウイルスの影響ではないのかもしれませんが、迷惑であることには変わりありません。
 そこでこれは不要不急の外出ではないだろうと判断し、ドラッグストアへ行ってネズミ対策の薬を買ってきました。ニオイで追い出すネズミ忌避です。それを天井裏へと仕掛けたところ……ニオイにやられて輪渡が部屋の移動を余儀なくされました。
 メーカーさんの名誉のために言っておきますが、ネズミにも効きました。輪渡が今いる部屋の天井裏でガタガタやっています。どうやら一緒に移ってきたようです。
 つまり効果はあったが意味はない、という悲しい結末になりました。それなら今いる部屋の天井裏にも仕掛けたらどうだ、と思う向きもございましょうが、それだと輪渡が行き場を失うのでご勘弁ください。仕方がないので輪渡の家では現在、最高最強の腕を持った練達の野良猫さんを募集中です。ご本猫様からの応募に限りますが、よろしくお願いいたします。
 ということで、緊急事態宣言下における五月十一日は、「四十八歳の時代小説作家が椅子でぐるぐる回って遊んだ結果、小一時間ほど寝込んだ」と「ネズミ忌避剤を仕掛けた結果、自分も一緒に駆除された」という二つの出来事が起こった日でございました。
輪渡颯介(わたり・そうすけ)
1972年、東京都生まれ。明治大学卒業。『掘割で笑う女・浪人左門あやかし指南』で第38回メフィスト賞を受賞し、2008年にデビュー。怪談と絡めた時代ミステリーを独特のユーモアを交えて描く。好評の「古道具屋 塵堂」シリーズに続いて「長屋 祠之」シリーズも人気に。幽霊話をすれば無代になるという妖しい飯屋が舞台の『怪談飯屋古狸』が第2作まで刊行中。

〈5月12日〉



 今日は、医療従事者なら忘れはしない「看護の日」、または「ナイチンゲール・デー」だ。
 ちょうど200年前の今日、フローレンス・ナイチンゲールは、この世に生を受けた。
 彼女は言うまでもなく「看護の祖」で、クリミア戦争に従軍し、前線の病院で傷病兵たちに日夜を問わず尽くした「ランプの貴婦人」である。
 ……と、その程度の知識しか持ちあわせていなかった私が彼女に興味を持ったのは、20代半ば、イギリス留学中のことだった。
 週末にロンドンに出掛け、広大なハイド・パーク近辺をぶらぶらと散歩していたとき、目の前の建物のエントランス脇の壁に、青くて丸いプレートが嵌め込まれていた。
 それは「ブルー・プラーク」と呼ばれる著名人ゆかりの場所を示す標識で、そこでナイチンゲールは暮らし、亡くなったと記されていた。
 残念ながら、彼女が実際に住んだ家はすでに取り壊され、私の目の前にあったのは新たに建てられたアパートメントだったけれど、あの人が、かつてはここに……と、初めてナイチンゲールをとても身近に感じた。
 実際、彼女が看護師として活躍したのはわずか3年だけ。
 それが、帰宅して改めてナイチンゲールについて調べた私が知り、驚いたことだった。
 戦地から戻った彼女は、戦時中の病院や傷病兵についての資料を集め、分析し、その結果を誰にでもわかるようにグラフで表示する方法を編み出した。
 彼女が作成した膨大な数の報告書や提案書によって、病院の衛生環境が大胆に改善され、看護の質が飛躍的に高められた。
 彼女は戦場で救ったより遥かに多くの人の命を、データとサイエンスで救ったのである。
 彼女が分析した資料には、勿論、自分自身が戦地で行った看護活動の結果も含まれていたはずだ。
 自分が心身を削った活動に含まれていた、無意味だったこと、やるべきだったのにやらなかったこと、むしろ有害であったことをも、きっと彼女は冷徹に見据えたのだろうと思う。
 今、この難儀な日々を医師として過ごしながら、事態が落ち着いたとき、はたして自分にはナイチンゲールのような「厳しい反省会」ができるかどうか……ふと、そんなことを考えている。
 たぶん、無理だと思う。私はきっと、「ああ、すんごく大変だった」とぼやきながら、少しだけ変化した日常に戻っていくだろう。
 そして、再び非常勤講師として看護学校の門をくぐるとき、ちょっとだけ後ろめたい気持ちで、ナイチンゲールの石膏像の前を通り過ぎるに違いない。
椹野道流(ふしの・みちる) 
2月25日生まれ。魚座のO型。法医学教室勤務のほか、医療系専門学校教員などの仕事に携わる。1996年第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門に「人買奇談」で佳作入選しデビュー。その後「奇談」シリーズや「鬼籍通覧」シリーズ、「最後の晩ごはん」シリーズなど人気シリーズを多く執筆する。その他の著書に『男ふたりで12ヶ月おやつ』『ハケン飯友』など多数。
〈5月13日〉口が災いの元


「なんでも訊いてもらってかまいませんけど、僕はやってませんよ」
 西野が四角いを突き出してきた。
 胸を張って腕を組み、大きく脚を広げて椅子に腰かけている。行動心理学的に説明すれば、顎を突き出すのは攻撃態勢、腕組みは心理的防壁、胸を張って脚を大きく広げる座り方は、自らを大きく見せようとする示威行動。
 見事なまでの対決姿勢だと、は思った。長い付き合いになるが、後輩巡査がここまで頑強な拒絶を見せるのは珍しい。
「きさま。なんだその態度は」
 顔を真っ赤にして詰め寄ろうとする筒井の足もとを、「密です!」西野が鋭く指差す。
「やってないからやってないって言ってるんです。なんでもすぐに僕のせいにするのは、やめてください」
「おまえ以外に誰がいるっていうんだ!」
 筒井は自分のデスクを指差した。外出から戻るなり、そこにあったはずのの『あんこ玉』がないと騒ぎ出した。後で食べようと思って取っておいたのに、なくなっていたというのだ。
「知りません。いちいち同僚の挙動を監視しているわけじゃありません」
「楯岡! 早くこいつを取り調べろ!」
 筒井に指差され、西野は眉間に皺を寄せた。
「いつもは楯岡さんの取り調べなんかまじないだとか、まやかしだとか言ってるくせに」
「うるさい! 楯岡に嘘は通用しないぞ! さっさと吐け!」
「楯岡さんでもこの状況じゃ難しいと思いますけど。マスクで顔の半分を隠して微細表情がわからない上に、相手と二メートルの距離を保たないといけないんですから。いくらしぐさから嘘を見抜く取り調べのスペシャリストといっても、無理ですよ」
 警視庁捜査一課の刑事部屋。犯罪に休日はない。業務を止めることはできないが、感染リスク軽減のために全員がマスクを着け、ソーシャルディスタンスを保っている。
「そうなのか? 楯岡」
 絵麻は質問に答えず、じっと西野を見つめた。
 西野がんだように身を引く。
「な、なんですか。僕はやってませんからね、本当に」
「楯岡。その目……やはり西野のやつはおれの『あんこ玉』を食ったのか」
「食べてませんってば」
「おまえに訊いてるんじゃない! おまえの大脳辺縁系に訊いてるんだ!」
 西野を怒鳴りつけ、筒井がこちらを向いた。
「楯岡。なんとか言え」
 絵麻は筒井を見上げ、任せてくださいという感じに頷いた。
 それから西野に向き合い、「さあ。取り調べを始めましょうか」口の中に残ったあんこを呑み込んだ。

佐藤青南(さとう・せいなん)
1975年、長崎県生まれ。『ある少女にまつわる殺人の告白』で第9回「このミステリーがすごい!」大賞優秀賞を受賞し、2011年に同作でデビュー。『サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』がドラマ化され人気に。近著に『犯罪心理分析班・八木小春 ハロウィンの花』『ツインソウル 行動心理捜査官・楯岡絵麻』『白バイガール 爆走! 五輪大作戦』などがある。
〈5月14日〉リモート・ジェラシー


「そっちの業界もリモートワークってあるんだ?」
 自分の場合は飲食業なのでやむを得ず休業しているが、よもや久遠も自宅待機中だとは思いも寄らなかった。普段から若い組員が一日じゅう事務所にたむろする状況にあるのだから当然と言えば当然だが、やはり裏稼業と自粛というのはあまりに印象がかけ離れている。
『部屋住み以外は自宅待機で、うちの関連会社もすべて休みだ』
「あ、そっか」
 いまの状況に表も裏もない。特例なく自制、自粛で乗り切る以外、他に方法はないのだと納得する。
「じゃあ、沢木くんも――」
 自宅でおとなしくしているんだね、となにげなく水を向けるつもりだった和孝だが、視界に飛び込んできた光景に息を呑む。何度か目を瞬かせてみたものの、どうやら見間違いではないようだ。
 パソコンの画面に映ったグレーの上着。
「もしかして」
 和孝の予感は、直後当たった。
『コーヒー、ここに置きます』
 てっきり自宅でひとり過ごしているのかと思えば、そこには沢木がいて、久遠のためにコーヒーを運んできた。沢木の仕事は運転手にもかかわらず、だ。
「久遠さん、沢木くんと一緒なんだ。へえ……」
 沢木を呼ぶんだ、と皮肉めいた口調になるのはどうしようもない。茶くらい自分で淹れればすむだろというそもそもの不満もある。
『コーヒーを淹れてもらうために呼んだわけじゃない。仕事だ』
「いや、別に説明とかいらないし。沢木くんを優先するのは当たり前だろ?」
 心にもないことを言ったあと、苦い気持ちになった。これではまるで沢木に妬いているようではないか。
 きっと慣れない状況に焦るあまり口が滑っただけだ、そう自身に言い訳し、気恥ずかしさから顔をしかめる。
 ふと、久遠が片頬に笑みを浮かべた。
『今日は』
「5月14日だろ?」
『そうだな。5月14日だ。おそらくあと少しの辛抱だな』
 久遠の言うとおりだ。いまこうしているのは、あと少しすればまた日常が戻ってくるにちがいないと信じているためだ。津守と村方とともに仕事に勤しみ、たまに見かける沢木に律儀な奴と笑い、時折月を見上げつつスクーターで久遠宅へ通う、そんな日常に。
 頷いた和孝は、眉間の皺を解く。そして、いまの心情を表すのにふさわしい言葉をディスプレイに向かって投げかけた。
「愉しみだな」
 次に会ったときはなにを話そう。なにをしよう。言いたいことやりたいことはたくさんある。
 すぐそこにある未来へ思いを馳せながら、自然に口許を綻ばせていた。 
高岡ミズミ(たかおか・みずみ)
山口県出身。天秤座のO型。「VIP」シリーズ他、多数のBL作品を執筆する。

〈5月15日〉



 5月15日はストッキングの日だそうだ。
 だからというわけじゃ全然なく、あたしは先週買った、とっておきのストッキングを穿いて家を出た。
 アテなんかない。ただ、家にじっとしていられなかった。外出自粛なんて関係ない。マスクのことだって頭をかすめもしなかった。
 空は嘘みたいに真っ青だ。街は人通りがほとんどなくて、それも嘘みたいだった。そんななかをあたしはぐるぐると歩きまわった。しばらくすると今まで見たことのない風景になって、それでもかまわずに歩き続けた。
 やがて遠くに観覧車が見えてきた。あたしは引き寄せられるようにそちらに向かった。こんなときだからきっと休園だろうと思ったけど、着いてみると遊園地はあいていた。ただ、なかはまるで貸し切り状態だ。あたしはそのまま観覧車のところまで行って、ほかに誰も乗っていない籠のひとつに乗りこんだ。
 ぐわらん、ぐわらん、ぐわらん、ぐわらん。
 観覧車ってこんな大きな音がしたっけ。あたしはぼんやりそう思った。
 籠はゆっくりゆっくりあがっていく。
 あたしは自分の膝に眼を落とした。穿き心地のいい黒のストッキング。よく見ると濃い紺色に少し紫が混じっている。それが光の角度によってキラキラと虹色に輝く。その輝きに魅せられて、ちょっと値が張ったけど、いつかの特別の日のために買ったのだ。
 だけどそのときはもう来ない。昨日彼に電話で別れを言い渡されてしまったから。もう終わりにしよう、こんなときだからちょうどいいだろ、なんて言葉で。
 何も言えなかった。涙も出なかった。あのときあたしは壊れたのだ。
 ぐわらん、ぐわらん、ぐわらん、ぐわらん。
 あたしはいきなりストッキングに爪を立て、両脚ともビリビリに引き裂いた。穴だらけになったところで手を止め、じっと見つめた。ズタズタのストッキングはあたしの胸のなかをそのまま映したようだった。
 そのとき突然アレが来た。周期はずれの、特別ひどいやつだ。あたしはそれがじわじわとシートにまで染みひろがっていくのを感じていた。
 サ・イ・ア・ク──。
 あたしは自分だけじゃなく、何もかも壊れてしまえ、炎に焼かれて崩れ落ちてしまえと思った。そんな願いで頭がはちきれそうだった。
 ぐわらん、ぐわらん、ぐわらん、ぐわらん。
 そうするうちにあたしはふと気づいた。地上の風景が頭の上にひろがっていることに。
 シートもさかさまだ。天井に貼りついたシートから血がぼたぼたとしたたり落ちて、もうあたしは血まみれだった。
 そして分かった。そうだ。何もおかしいことはない。
 あたしはいつのまにか――もしかしたらずっと前から、違ったところに来てしまっていたのだから。

竹本健治(たけもと・けんじ)
1954年兵庫県生まれ。大学在学中にデビュー作『匣の中の失楽』を探偵小説専門誌「幻影城」に連載し、1978年に刊行。日本のミステリ界に衝撃を与えた。『涙香迷宮』で「このミステリーがすごい!」2017年版国内編第1位、第17回本格ミステリ大賞に輝く。近著に『狐火の辻』など。2020年7月に『これはミステリではない』刊行予定。
〈5月16日〉奥の細道 旅の日にて

  
 おもえば、奥の細道の終着地の岐阜・大垣に松尾芭蕉が杖を休めたのも束の間、ふたたび愛弟子の河合曾良とともに伊勢に向かって新たな旅立ちをしたのは、芭蕉が終着地のない途上の旅人であったからであろう。
 むすびの地は新たな旅立ちの地でもあった。その道を行く旅人は求道一途の永遠の途上にある。
 生きる時代が異なっているからこそ、漂白の中に句魂を磨いた芭蕉がタイムスリップして今の日本にいたら、いったい何処へ向かうのだろうか。
 私は、数年前に芭蕉翁の足跡を追って奥の細道を旅したことがあった。「旅の終わりはまた、新たなる旅の始まり」という永遠の旅を続ける芭蕉翁の生き方を心と身体で感じたかった。
 未知とは本来無限である。未知を追求していた芭蕉翁は、永遠の未知の狩人といえよう。
 奥の細道は元禄二年(一六八九)の三月二七日(陽暦では五月一六日)に深川の芭蕉庵を愛弟子の曾良を連れて出立し、東北から北陸を回りながらの旅だった。九月六日(陽暦では一〇月一八日)に大垣から伊勢へ旅立つところで奥の細道は結びになっている。
 四季折々、時間や天候の変化に伴い、旅の終着と新たな旅の起点に立ち、百代の過客(旅人)としての俳声を語り続ける芭蕉翁を感じた。なおも未知の遠方に夢を追う人生の姿勢として訴えかけてくるようであった。
 私は、旅の半ば、羽黒山の山頂で晴天の蒼空に向かって両手を伸ばした。指の先が空の色に染まる。山麓から糸のようにつづいてきた道は、頂上に尽きてもまだ登路が蒼い空に連なっていた。そのとき天に所属している気がして、空の蒼さが指先から染め下がっていくのを感じた。遠く近く高峰が並び立ち、次に登る峰の約束を迫られた。
 終着地の大垣で、私は芭蕉翁の後ろ姿を思い浮かべながら一句詠んだ。
  
 空と海 重ねて惜しむ 旅情け
  
 途上の旅人の終着地はない。人生の旅も永遠に続くのである。
森村誠一(もりむら・せいいち)
1933年埼玉県生まれ。青山学院大学卒業後、9年余のホテルマン生活を経て作家活動に入る。『高層の死角』で第15回江戸川乱歩賞、『腐蝕の構造』で第26回日本推理作家協会賞、『人間の証明』で第3回角川小説賞を受賞し、『悪魔の飽食』『野性の証明』など数多くのベストセラー作品を発表した。2004年には第7回日本ミステリー文学大賞を受賞し、社会派推理小説の世界で不動の地位を築く。11年には『悪道』で第45回吉川英治文学賞を受賞。
〈5月17日〉共同作業


 十日目にして、ようやく空が完成しようとしていた。
残っているのは、上下左右すら判然としない灰色のピースばかりだ。よりによって、と、もうこの十日間で三十回は考えた言葉が浮かぶ。
 妻が、ダイニングテーブルで千ピースのウユニ塩湖のジグソーパズルを始めたのは、まったく存在感がないゴールデンウィークが終わったばかりの頃だった。よりによってそんなところで、よりによってその絵柄かよ――抜けるような青空を水面にも映した光景を前にこみ上げてきた言葉を、けれど俺は口にはしなかった。
 代わりに俺は、妻の向かいに座り、端のピースを選り分け始めた。家の中には、ピースをかき混ぜる音と、ダイニングテーブルの脚がガタつく音だけが響く。じゃらじゃら、がったん。じゃらじゃら、がったん。
 初めての共同作業です、という言葉がふいに浮かんで自嘲した。初めても何も、もう結婚十三年目だ。
 だけど、こうして二人で力を合わせて何かをするというのは、ひどく久しぶりな気がした。結婚してすぐの頃にはよく一緒に家具を組み立てたり料理をしたりしたものだが、ここ数年は勤務時間がずれていることもあり、各々好きなタイミングで食事を済ませ、顔を合わせれば軽く話すくらいの関係性になっていた。
 それが、突然二十四時間同じ家で過ごせと言われても、まあ、正直やりづらい。それでも一週間ほどは一緒に食事をしながら話していたが、しばらくして特に話したいこともないと気づいた。むしろ、話せば話すほどに意見はすれ違い、空気は悪くなっていく。
 やがて、再び距離を置いて生活するようになり、食事の時間もずらすようになってきた頃、妻がインターネットで注文したらしいジグソーパズルが届いたのだ。そして、この十日間、会話はないものの何となく自然に役割分担をしながら進めてきて、ついに今日、完成しようとしている。
 最後のピースを手に取ったのは、妻だった。
 つまみ上げたピースを穴の上に掲げ、そこで躊躇うように動きを止める。たしかに、と俺は思った。これで終わりだと思うと、ちょっと寂しいな、と。
 妻の腕が伸び、ピースがはまった。最後のピースが入っただけなのに、全体的に輪郭がはっきりしたようなウユニ塩湖を、二人で見下ろす形になる。
「ここ、行ってみたくない?」
「しばらく海外旅行は無理だろ」
 妻の言葉に反射的に答えてしまってから、ああ、またやってしまった、と反省した。だが、もう遅い。
 妻が口を噤んでパズルを分解し始めた。俺は数秒迷ってから隣に並び、ピースを鷲掴みにして箱に戻し始める。奥側のピースを取るためにテーブルに手をつくと、がったん、と大きくテーブルが傾いた。
 ふいに、「それより」という言葉が口をついて出る。
「「このテーブルを」」
 重なって響いた声に、妻へ顔を向ける。
 一拍して噴き出した声も、重なった。
芦沢央(あしざわ・よう)
1984年、東京都生まれ。千葉大学文学部卒業。2012年、『罪の余白』で第3回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビュー。『悪いものが、来ませんように』『今だけのあの子』『いつかの人質』『許されようとは思いません』『貘の耳たぶ』『バック・ステージ』『火のないところに煙は』『カインは言わなかった』など著作多数。
〈5月18日〉秘密の本


 絶対に、お姉ちゃんに見つかってはいけない。あたしの注文した監禁調教BL同人誌を。
 自宅マンションのエントランスホールで観葉植物の陰に隠れ、あたしは集合ポストを見守っている。誰が見ても挙動不審、時おり通りがかるマンション住民が怪訝な目を向けてくるけれど致し方ない。
 GWの同人誌即売会が中止になって、一部のサークルは新刊の通販を行った。あたしがSNSでフォローしている人気絵師・まろん先生もそうだ。新刊は冬にアニメが放送されたイケメンアイドルソーシャルゲームのR18二次創作本。先月一八歳になったあたしが、成人指定同人誌を買っても後ろ暗いことはないが、問題はお姉ちゃんだ。
 古風な文学少女めいたまいの大学二年生。温厚だけど線が細く、悪い男に騙されないか心配な姉。親元を離れて二人暮らしできるくらい姉妹仲は良好で、あたしが真っ昼間に居間で深夜アニメの録画を観ていても、「この子可愛いね」なんて一般人らしい素朴な感想を言ってくれる。
 ただ、キスシーンが流れるだけで顔を真っ赤にする純真なお姉ちゃんが、ヤンデレ化した弟(一二歳)が無自覚誘い受け兄(一八歳)を監禁調教する一八歳未満お断り本をあたしが嗜もうとしていると知ったら、たぶんショック死する。そうでなくても翌日から合わせる顔が無い。
 注文の時に局留めにすべきだったのに、頭が回っていなかった。同人誌を初めて通販したら家族にバレたという悲鳴がSNSで複数上がって、やっと気づいたのだ。宛名は苗字しか書いておらず、先にお姉ちゃんが手に取ったら開けてしまう公算が高い。かくて連日、ここに張り付き郵便配達員を待ち構える事態となった。
 時間を確かめようとスマホを操作していたら、カコン、と音がした。急いでポストを検めると荷物がある。我が家に駆け戻り自室へ飛び込んだ時、玄関から「ただいま」の声。丁度お姉ちゃんも買い物から帰ってきたようで、間一髪だった。
 荷物の封が開けられた形跡もなく、中身は確かにお目当ての同人誌だった。安堵の息を吐いた後、違和感に気づく。切手が貼られていない。ならどうやって届いたんだ、この本は。
 居間に向かうと、ソファに座ったお姉ちゃんが不自然に冷や汗を流し、目を泳がせていたので、あたしはつい尋ねてしまった。
「もしかして……燕まろん先生?」
 羞恥の余り自室に立てった、燕まろん先生ことお姉ちゃんをめすかして引きずり出すのに、一晩かかった。
伴名練(はんな・れん)
1988年生まれ。京都大学文学部卒。2010年、大学在学中に応募した「遠呪」で第17回日本ホラー小説大賞短編賞を受賞。同年、受賞作の改題・改稿版を収録した『少女禁区』で作家デビュー。作品集『なめらかな世界と、その敵』は『SFが読みたい! 2020年版』で「ベストSF2019国内篇第1位」に選出された。2020年7月、編者をつとめるアンソロジー『日本SFの臨界点[怪奇篇]』 『日本SFの臨界点[恋愛篇]』を刊行予定。いまもっとも注目を集めるSF小説界の旗手。

〈5月19日〉



 爽やかな朝の日差し。小鳥のさえずり。薄暗い部屋に少女の声が響き渡る。
! 金! 金!」
 バン!
 布団から伸びた枯れ木のような細腕が赤毛の編みぐるみを叩くと、声は止まった。
 それから一時間おきに人形は叫び続ける。
「金! 金! 金!」
 バン!
 その都度、腕が彼女を黙らせるのだ。
 日が昇って沈み、室内が白から赤に変わる頃、少女は最後の一声を振り絞る。
「金! 金! 金!」
「うーん」
 細腕の主が布団から這いずり出てくる。
 早坂、覚醒。
 彼は時計を見て驚きの声を上げた。
「何で起こしてくれなかったの!?」
「何度も起こした。何度も何度もな」
 枕元に置かれた赤毛の編みぐるみが答える。早坂吝のシリーズ探偵、らいちの魂が封印されている編みぐるみだ。
「でも実際に起きてないじゃん! 起きたという結果が伴わない限り、君のした行為は『起こそうとした』という自己満足でしかない」
「永眠させたろか」
「ああ、時間がない時間がない」
「おや、ニートらしくない台詞」
「講談社の企画で5月19日に関するエッセイを書くことになってな。だから今日何らかの有意義な体験をしておかないといけなかったのに」
「そんなのニュースについて一言物申しとけばいいじゃない。ほら新聞」
「うーん、緊急事態宣言が段階的に解除されていくのは喜ばしいことだけど、例のアレはここで書くようなことでもない……」
「じゃあ5月19日が何の記念日かとか、過去にどんな事件があったかとかで蘊蓄書くパターンで。ほらWikipedia」
「おお、その手があったか!」
「5月19日はボクシングの日らしい」
 シュッシュッと交互にジャブを繰り出すらいち人形。
「ボクシングで書くことないしなあ。かといって他にも特に……」
「ボクシングの日」シュッシュッ
「それはもう分かったから! あー、どうしよ、日付が変わっちゃう!! 5月20日になっちゃううううう!!!」
「アホがあああああ!!!!」
 らいち人形の左ストレートが早坂の顔面を撃ち抜いた。
「お前は重大な勘違いをしている……」
「!?」
「大切なのは5月19日に『他人が何をしたか』ではない。『自分が何を成し遂げたか』だ。そうだろう?」
 霧が晴れた感覚。
「ありがとう、ようやく気付いたよ。俺にできることは小説を書くことだけだって」
 そう言ってパソコンに向かう早坂の後ろ姿を、らいち人形は変わらぬ笑顔で見送るのでした。
「ようやく『目が覚めた』ようだな……」
 今日あなたは悔いのない一日を送れていますか?
早坂吝(はやさか・やぶさか)
1988年、大阪府生まれ。京都大学文学部卒業。京都大学推理小説研究会出身。2014年に『○○○○○○○○殺人事件』でメフィスト賞を受賞しデビュー。同作で「ミステリが読みたい!」新人賞を受賞。「上木らいちシリーズ」の『虹の歯ブラシ 上木らいち発散』『誰も僕を裁けない』『双蛇密室』『メーラーデーモンの戦慄』の他、近著に『殺人犯 対 殺人鬼』『犯人IA(イア)のインテリジェンス・アンプリファー 探偵AI 2』などがある。

〈5月20日〉



 ここ一ヵ月以上、ほぼ同じ生活をしている。自宅と直線距離で二百メートルと離れていない仕事場だけで、自粛生活だ。
 うちでごろごろしていると、つい間食をしてしまう。空手道場も自粛で休みにしているので、まったく運動することもない。
 その結果、血糖値と中性脂肪の値が急上昇してしまった。医者が言うには、「このままだと、立派な糖尿病だ」ということだ。
 新型コロナを恐れていたら、あろうことか別の病気にかかりそうになったわけだ。
 これはいけないと、一念発起。五月の初めから間食をぴたりと止め、午前中に自宅地下にある空手道場で、腕立て、腹筋、スクワット、そして空手の型などの運動を始めた。加えて、仕事場への行き帰りに、二十分ほど散歩をすることにした。
 すると、みるみる体重と体脂肪率が落ちていく。今まで、どれだけな生活をしていたかが身に染みた。
 五月二十日時点で、三キロほど減少し、体脂肪率も二パーセントほど落ちた。おかげで、体調は悪くないのだが、急にウエイトを落としたせいで疲労感がすごい。あと二週間もすれば体が慣れてくるはずだ。そうなってようやくウエイトコントロールの成功だ。
 さて、新型コロナのせいで、糖尿病になりかけたと書いたが、実はそれだけではない。若い頃にパニック障害(当時は、不安神経症と言っていた)を長いこと患っていたのだが、この間、久しぶりにその感覚が襲ってきた。
 おそらく、自粛生活をしていると、外からの刺激がないので、過剰に自分自身に眼を向けるようになるのだろう。加えて、テレビやネットでは新型コロナについての不安をるような話題ばかりだ。
 普通なら気にしないような、喉の違和感などが、ひどく気になってくる。だんだんと不安が募る。こうした悩みは、なかなか他人には伝わらず、世の中で話題になることもない。
 だが、間違いなく新型コロナ禍の一環だろう。精神的なメンテナンスも、きわめて重要なのだ。
 さて、今日は理髪店に出かけた。気分転換になるかと言えば、実はそうでもない。一時間もじっと座っているのは、私にとって苦行なのだ。
 鏡に映った自分を見ると、頬の丸みが落ちている。三キロ減の効果は大きい。
 整髪が終わって理髪店を出ると、世の中ががらりと変わっていた。……などということがあれば、ショートショートっぽいのだが、そんなこともなく、また自粛生活が続くだけだ。
今野敏(こんの・びん)
1955年、北海道三笠市生まれ。上智大学在学中の1978年に『怪物が街にやってくる』で問題小説新人賞を受賞。卒業後、レコード会社勤務を経て作家に。2006年、『隠蔽捜査』で吉川英治文学新人賞、2008年、『果断 隠蔽捜査2』で山本周五郎賞、日本推理作家協会賞、2017年、「隠蔽捜査」シリーズで吉川英治文庫賞を受賞。また「空手道今野塾」を主宰し空手、棒術を指導している。近著に『任俠シネマ』『黙示』などがある。
漫画版Day to Dayはこちら

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