あの人気芸人が小説を執筆!『イルオ』(ぴろ)

文字数 3,759文字

お笑い芸人たちがエンタメの地図を大きく塗り変え、小説の世界にも進出しつつある昨今――気鋭の若手芸人・ぴろさん(キュウ)が短編小説を執筆!

才能あふれるこの注目作の試し読みを大公開いたします!



初出:「小説現代」2022年12月号

『イルオ』


名前とは、自分という存在の座標。

それを呼ばれるのがいかに嬉しいことか、

僕たちは忘れていないだろうか。

 男の名前は高橋大成。

 そこそこ名のある企業に勤める会社員だ。

 男は今日も、忙しなく動くオフィスの窓際に確かに腰をかけ、確かに自分で入れたコーヒーを口に運んでいる。オフィス中には確かに様々な声が飛び交い、確かに誰かが誰かの名前を呼んでいる。確かな世界がここにはあった。しかし、繰り返されるその確かな世界の中心で、男にはただ一つ、確かに分かっていることがあった。


 この会社に男はいない。

 ここに、彼はいないのだ。


 いない彼は定時に帰る。

 いないまま改札を通り抜け、電車に乗り、家の最寄りの駅で降り、いないままコンビニに寄り、いないまま玄関の鍵を開ける。

 そして今、いない彼の確かな一日が音も無く終わろうとしていた。


 ガチャン!!

 確かな音を立てて玄関の扉が閉まる。



 さてと! 少し僕の生活を紹介しようか。僕の名前はイルオ。このシロガワの王国の王様だ。まぁ王様といってもそんな裕福というわけではないから、今夜も僕の晩御飯は、さっきコンビニで買ってきたカンタンチュルチュルとシットリモサモサラダだ。僕はこの組み合わせが好きで、晩御飯はよくこれで済ませる。まずはユーフォーミーでお湯を沸かし、待っている間にシットリモサモサラダをタベタイラに盛り付ける。そしてその……


 え? あぁ、そうか、ごめんね、まずはそこから説明しなくちゃいけないか。

 そうだな、例えばそう、このギュットメル。これは元々はホッチキスと呼ばれていた物なんだ。ギュッ! と止めてくれるからギュットメル。いいだろ? そしてさっき言ったカンタンチュルチュルってのは、外の世界ではカップラーメンと呼ばれている物で、シットリモサモサラダはポテトサラダ。ユーフォーミーってのは、まぁ、大体分かるよね。つまりそう、僕はこの部屋にある物全てに新しく名前を付けて生活しているんだ。この部屋にある物全てに新しく“僕だけが呼ぶ名前”を付けることで、僕はこの部屋を支配している。この部屋は、この世界にあって唯一の僕の王国。そして、この王国にも僕は“シロガワ”という名前を付けている。


 何故そんな生活をしてるのか?

 んー、そうだな、君は思ったことは無いかい? 僕らは皆、名前によって支配されているんだ。名前。そう、大切なのはこの“名前を呼ぶ”という行為なんだ。

 そもそも名前とは、“呼ぶ人”がいて初めて意味があるものだ。この世界に自分しかいないならば、名前なんてものに意味は無い。

 僕らは自分の名前を持っていて、そして“自分の名前”という居場所にいるんだ。ただ一人、孤独に、ずっとそこにいる。

 名前を呼んでくれる人がいるということは、その自分の居場所を認知してくれる人がいるということ。

 名前を呼んでくれる人がいないということは、それは、自分が誰の目の前にも存在していないのと同じなんだ。

 名前とは、自分という存在の座標。

 僕らは、名前というものにより、“呼ばれなければ存在出来ない”という厄介な定めを背負って、人生を漂っているんだ。


 もう分かるだろう? 全てのモノは、呼ばれることで存在出来る。ということは、逆に言えば“名前を呼ぶ”という行為は、そのモノをそこに存在させる行為であり、神のするような行為なんだ。

 この部屋にある全ての物は、僕が与えた名前によってここに存在出来ている。僕によってしかその名前を呼ばれず、僕によってしか存在出来ない。ここには僕より上はいない。つまり、僕はそれらをここに“存在させる存在”として確かに“ここにいる”んだ。

 そう、たとえ僕が外の世界のどこにもいなくてもね。

 要するに、僕は僕が絶対的に“呼ぶ立場”の世界をここに作り上げることで、呼ばれずしてここに存在する方法を見つけ出したんだ。

 そして、僕はあえてこの王国での自分にイルオという名前を付けた。それは決して“呼ばれることの無い名前”。でも、それでいいんだ。僕はここにいる。イルオとは、それを僕自身が確認する為の座標なんだ。

 これが外の世界で高橋大成と名乗っている男の真の生活だ。なんとなく分かってくれればいい。僕は楽しく暮らしてるさ。


 そして男は先程のカップラーメンにお湯を注いだ後、静かに三分待ち、静かに食事を済ませた。この小さな部屋の中で、男の人生は上手く回っていた。それは絶妙なバランスを保ちながら、安定した軌道でこの宇宙を漂っているようだった。

 そして、仕事の疲れからか、男は気が付いたら眠っていた。



「……大成? ……大成?」



 翌日。いつものように忙しなく動くオフィスの窓際で、いつものように男はコーヒーを口に運んでいた。男の名前を呼ぶ者はいない。男は今日もここにはいなかった。

 それでいい。それでいいはずの男ではあったが、そんな男にも一つだけ小さなストレスがあった。それは、この世界にいないはずの男にも、この世界での名前はちゃんとあるということだった。もちろん当たり前のことではあったが、高橋大成、つまりはそれがストレスの元凶だった。名前さえ無ければもっと楽だったかもしれない。しかし、名前があることで、本当は無意識下に収めておきたい呼ばれないという事実、いないという意識が常に消えることは無かったのだ。それは少しだけピリッとする、微弱電流程のストレスではあったが、外の世界にいる間はこれが常に付き纏っていた。

 男はその小さな苛立ちを撥ね除けるかのように、たまにわざとオフィスを見渡した。

 コピー機の前で楽しそうに吞みに行く約束をしている二人。上司の冗談に手を叩いて笑う同僚。お茶を頼まれる女性社員。男にとっては、全てがくだらなく、取るに足らない風景だった。男は見渡す度に思った、彼らは自分に選ばれていない世界に暮らす人々だと。そんな優越感にも似た感情に浸り、再びコーヒーを口に運ぶのだった。まるでお城から庶民を見下ろす王様のような表情で。


 この日、男は少し早めに会社を後にした。かかりつけの病院に寄り、持病の偏頭痛の薬を受け取る為だった。「高橋さん」そう呼ばれると男は黙って待合室のソファーから立ち上がり、診察室へ入る。しばらくすると出てきて、薬を受け取って病院を出るのだった。

 この時、確かに待合室では名前を呼ばれたが、それは男の言っている“呼ばれる”ではなかった。男が言っているのは、そういう、ただ呼ぶ声ではなかった。言うまでもなく、ここにも男はいなかった。


 その後、いつものコンビニに寄り、商品棚を見て回った。

「んーどうしようかな。またカンタンチュルチュルかな? いや、今日はナガグツマキマキか? んー」

 男は独り言が多かった。そのことに男は気付いてもいなかった。

「よし、ナガグツマキマキにしよう」

 男がそう呟きミートソーススパゲティを手に取った時だった。男は隣に何か気配を感じた。


「それ、美味しいですよね」


 それは明らかに男に向けられた声だった。

「ん?」

 男が見ると、そこには一人の女性が立っていた。目は合っているが、彼女の前にも自分はいないことが、男は分かっていた。

「私もここのコンビニのパスタ好きなんですよね」

「ああ、そうなんですね」

 店員すら話しかけてこないコンビニで、しかも女性に話しかけられたことに驚きながらも、男はいかにも冷静そうに応答していた。

「なんかね、生パスタっていうんですか? このカルボナーラ、すごいモチモチしてるんですよ」

「へぇ、そうなんですね」

 男がその女性の持つカゴを覗くと、そこには温泉卵が載ったカルボナーラと缶ビールが二本入っていた。

「食べたことあります?」

「いえ、ここのは無いかもしれないです」

「今度是非食べてみてくださいね」

「モチモチか……」

「え?」

「いえ、何でもありません」

 そう言うと、男は黙って手に持っていたミートソーススパゲティを商品棚に戻し、温泉卵が載ったカルボナーラを手に取った。そして、これはナガグツモチモチマキマキだな。そう心の中で呟いた。


「鈴木です。鈴木ひかり」


「え? 高橋、高橋大成です」


 何故かフルネームで名乗られたので、思わず反射的に自分もフルネームで名乗っていた。何故フルネームで名乗ってきたのか、そもそも何故名乗ってきたのか、不思議ではあったが、それよりも、男は自分の名前を久しぶりに声に出して言ったと思った。気持ち悪くて、変な感じだった。

 名乗ったことに、それほど意味は無かった。感覚的には、名乗りはしたが、名乗っただけだった。

 しかし、強いて言うならば、その女性はとても男のタイプの顔だった。ものすごくタイプだった。顔が好きだった。それは、そうだった。


「いい夕飯を、ではまた」

「また」


 彼女との会話はそれだけだった。




気になる続きは、「小説現代」2022年12月号でお楽しみください!

ぴろ

1986年5月4日生まれ。愛知県出身。漫才コンビ「キュウ」のボケおよびネタ作りを担当。

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