『天を測る』アルパカブックレビュー

文字数 2,689文字

警察小説の名手・今野敏さんが、幕末を舞台に活躍した英雄・小野友五郎を描いた『天を測る』が文庫化です!

アメリカ人相手に互角の算術・測量術を披露し、その後も活躍したにもかかわらず聞きなれない名前なのは、彼が「幕臣」であったから━━。


『天を測る』を、歴史好きなアルパカさんこと、ブック・ジャーナリストの内田剛さんが熱く詳しくレビューしてくださいました!

『天を測る』(今野敏・著)読みどころ/内田剛(ブック・ジャーナリスト)


 今野敏といえば王道の警察小説。シリーズ作品や映像化も多く人気を誇っているが、本作のような歴史ものを題材にするとは意外な印象があるかもしれない。しかし読めば大いに納得するだろう。時代背景は関係ない。いかなる困難が待ち受けようが屈することなく、泥臭いまでに正義を貫き、人間味あふれる群像劇を創り上げ、背筋が真っ直ぐに伸びる読後を味わえるこの作品は、まさに今野文学の真骨頂といえるのだ。 


 主人公は幕末の知られざる英雄・小野友五郎である。咸臨丸で初めて太平洋を横断し、卓越した測量技術で国防の中枢を担った男。広く名が残らなかった大きな理由は、幕臣であった、つまり政争で敗れた側の人間であったからであろう。我々が学ぶ歴史は、生き残った勝者が綴ったものである。この世にはいったどれほど多くの「真実」が闇に埋もれているのだろうか。想像力をたくましくしながら、誰もが知りたい歴史の真相を解き明かしてくれるのも小説家の重要な仕事なのかもしれない。


 物語は安政7年(1860年)に始まる。まさしく幕末維新の動乱の真っただ中。日本国中も混乱を極めた時代の転換期である。浦賀の港で咸臨丸の甲板に立つ友五郎。測量方兼運用方という役回りでまさに舵取りを任された男だ。アメリカまで、初の太平洋横断に挑むシーン。行く先に待ち受ける荒波、未知の土地、刺激的な文明。大海原の光景がありありと目に浮かび、夢と冒険を絵に描いたような素晴らしい場面である。


 鎖国下における異国との交流は想像以上の苦難があったであろう。友五郎に幸いしたのは極めて早い段階でアメリカの先進技術に出会えたことだ。咸臨丸で乗り合わせたアメリカ人海軍士官ブルックや中浜万次郎からの学びは大きな財産となった。しかし友五郎の凄いところは、アメリカに迎合するのではなく、あくまでも己の経験と日本の伝統を信じ、揺るぐことなく課せられた職務に邁進し続けたことである。


 友五郎の信念が伝わる台詞にも心を奪われる。「この世のすべてはきっと単純で美しい数式で表すことができる」「算術は決して自分を裏切らない」という言葉通り、すべては数字で説明ができるという考えで揺らぐことはない。人間は信用できなくても、数字は嘘をつかないのだ。もうひとつは「複雑に見えるものを、できるだけ簡単にすること」というシンプル思考である。いつ読み返してもまったく古さを感じない。現代にも通じる「学び」が随所に散りばめられているのだ。


 誰もが知る著名人の登場も読みどころだ。先にあげた中浜万次郎しかり、意外な場面で坂本龍馬も顔を覗かせる。咸臨丸に乗り合わせた若者には福沢諭吉もいた。日本式を極める友五郎とは対照的に、ただ闇雲に西洋文明を見聞きする存在として描かれている。とりわけ印象深いのは勝海舟だろう。咸臨丸の艦長でありながら海が不得手で、名ばかり役職を負ったの厄介者のイメージだ。しかし声が大きく世渡り上手の勝は、陽の当たる歴史の表舞台で活躍し続けた。友五郎もそうした自分とは真逆に立ち振る舞う勝の姿を冷ややかに眺め続けるのであるが、その視線はさすが揺るがぬ正義を描き続ける著者の歴史観が明確に伝わり思わず膝を叩いた。


 出来る男には次々と仕事が舞いこんでくる。作中でも「馬車馬」と表現されているが、いくら風雲急を告げる時代とはいえ、アメリカに行った後の友五郎の活躍ぶりもまた凄まじい。アメリカで学んだ造船技術を活かしての戦艦建設。正確無比の測量手法によって東京湾や小笠原諸島を調査し国防に結びつける。友五郎の行動はすべて国のためであった。理路整然と動乱期の日本を支えた友五郎の功績は決して忘れてはならない。


 いくら数字に強いという才能があろうとも、小野友五郎の生きざまは地味そのものであって、不器用である。しかし、名よりも実を遺したというべきか、愚直なまでに己の職務を全うしようとするその姿は、現代のビジネスパーソンにも大いに通じるものがある。真面目一本で仕事に邁進し、コツコツと得意技を磨き続ければ、かならず誰かが認めてくれる。そうすれば、友五郎のように「幕末」を強かに生き抜き、「維新」という新たなステージでも働き口を見つけることができるのだ。組織に生きる人間たちの本音に迫った説得力は、まるで現代小説を読んでいるかのような共感が得られる。これはひとえに今野敏の圧倒的な筆の力によるものであろう。『天を測る』は混迷する今を生きる者たちの応援歌。この世で働くすべての方々に読んでもらいたい一冊だ。


今野敏(こんの・びん)

1955年、北海道三笠市生まれ。上智大学在学中の1978年「怪物が街にやってくる」で問題小説新人賞受賞し、デビュー。
卒業後、レコード会社勤務を経て作家に。2006年、『隠蔽捜査』で、吉川英治文学新人賞、2008年『果断 隠蔽捜査2』で、山本周五郎賞、日本推理作家協会賞、2017年、「隠蔽捜査」シリーズで、吉川英治文庫賞を受賞。また、「空手道今野塾」を主宰し、空手、棒術を指導している。
近著に『武士マチムラ』『変幻』『アンカー』『回帰 警視庁強行犯係・樋口顕』『サーベル警視庁』などがある。

内田 剛(うちだ・たけし)

ブックジャーナリスト。本屋大賞実行員会理事。約30年の書店勤務を経て、2020年よりフリーとなり文芸書を中心に各方面で読書普及活動を行なっている。これまでに書いたPOPは5000枚以上。全国学校図書館POPコンテストのアドバイザーとして学校や図書館でのワークショップも開催。著書に『POP王の本!』あり。

安政7(1860)年、咸臨丸が浦賀港からサンフランシスコを目指して出航した。太平洋の長い航海では船室から一向に出てこようとしない艦長・勝海舟を尻目に、アメリカ人相手に互角の算術・測量術を披露。さらに、着港後、逗留中のアメリカでは、放埒な福沢諭吉を窘めながら、日本の行く末を静かに見据える男の名は、小野友五郎。男は帰国後の動乱の中で公儀、そして日本の取るべき正しい針路を測り、奔走することになる―。知られざる幕末の英雄の物語!

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