『法廷遊戯』刊行記念!スペシャル短編「判例遊戯」 五十嵐律人

文字数 4,225文字


判例遊戯 ~騎士たらしめる罪~


騎士であれ――。 

それは、父からも、母からも、神からも、言われ続けた言葉だ。

私の中に流れる英国人の血や、信仰を誓ったキリスト教の教えが、私を騎士たらしめている。それは否定しない。できるはずもない。

ときには啓示のように、ときには呪いのように、なすべき行動が示される。抗う余地はなく、正しさを正しさとして受け入れてきた。

弱者に手を差し伸べ、金や権力に屈せず、驕りではなく誇りを持って生き、自己ではなく他者のために身を捧げる。

騎士とは、なろうとしてなるものではない。

職業ではなく、生き様として――、

なるべくして、なるものだ。

だから、騎士であったことに、悔いなどあるはずがない。

    *

「へるぷみー!」


明らかに日本人が発した英語が聞こえてきたのは、帰宅途中の夜道だった。興奮と緊張が入り混じった女性のSOSは、夜の静けさに溶け込むように、辺りに漂っていた。


首を巡らして、声の主を探す。


倉庫の前に、二つの人影があった。男と女。揉み合っているように見える。SOSと光景が結び付き、私は躊躇うことなく近付いた。


僅かに離れたところに、数人の男女が立っていた。加勢するわけでもなく、かといって止めるわけでもなく、ただ二人を眺めている。


女は、私に気付いて、意味あり気な視線を送ってきた。


男は、私に目もくれず、女の自由を奪おうとしている。


体勢を崩した女が、シャッターにぶつかって尻餅をついた。


堪えきれず、口を開く。


「やめなさい」


振り返った男と視線が交錯する。


興奮しているからか、僅かに顔が赤くなっていた。


「やめなさい。レディですよ」


男は何も言わない。


近くにいた別の男が、「違います」と言い、さらに別の男が、「何でもないから、大丈夫です」と言った。


私は首を左右に振る。


転んだレディを放置しておきながら、何が大丈夫だというのか。


彼らを無視して、女性を起こそうとした。けれど、女性は立ち上がれず、「へるぷみー、へるぷみー」と声を出し続けた。


恐怖で、立ち上がることもできないのか――。


手を軽く握ってから、そっと放す。彼女を助けるには、先に解決しなければならない問題がある。


振り返り、両手を前に出しながら進んだ。


守るべき人間がいるなら、背中を見せて安心させる。


倒すべき人間がいるなら、怯まずに立ち向かう。


それが、騎士たる者だ。


女性を押し倒した男が、握った拳を胸の前で構えた。


ファイティングポーズ。


話し合いによる解決は望めない。


手を伸ばせば届く距離。男の身体が、僅かに動いた。


やるしかない。


腰を落とし、両足に力をこめる。


そして、反時計回りに腰を素早く捻った。


地面を離れた右足が、遠心力に従って空気の流れに抗う。


一瞬、座り込んだ女性と視線があった。


直後、見開いた両眼はターゲットを捉えてかちりと止まる。


速度を上げた右足は、夜の空気を切り裂きながら、腰の辺りまで上がる。


身体が斜めを向き、重心が傾く。


あとは、振り切るだけだ。


更に腰を捻り、一気に右足を上方に伸ばす。


無心。ただ、真っ直ぐに。


足の甲が、男の顔に直撃する。防御された感触はない。


ジャストミートだ。


男の首がぐるりと回り、私の足から離れる。


バランスを崩すこともなく、私はあるべき場所に足を戻す。


男の動きが、スローモーションに見えた。


操り人形の糸が切れたように、仰向けに倒れ始める身体。


そのまま、徐々に地面へと近付いていく。


ざわめく心音。


ボウリングの玉を落としたような音。


あまりに軽く、あまりに重い。


男の頭が、アスファルトに激突した音。


刹那の出来事。


だが、長い静寂が続いて訪れる。


やがて動いたのは、取り囲んでいた男女だった。


私は立ち尽くし、男はぴくりとも動かなかった。

    *

男は、数日後に病院で息を引き取った。


その事実を、私は留置施設の中で知った。


狭い部屋で、天井を見上げながら自問した。


人として……、否……。


騎士として、私は間違ったことをしたのだろうか――。

    *

刑法

第205条(傷害致死)
身体を傷害し、よって人を死亡させた者は、3年以上の有期懲役に処する。

第36条(正当防衛)
1.急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。
2.防衛の程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。

    *

真実など、知りたくなかった。


目を伏せたまま、罰してほしかった。


「彼は……、酔った私を宥めようとしただけです……」


涙を流しながら証言台の前で語るのは、あの日、私に助けを求めた女性だ。


「Help me!と助けを求めたのではないですか?」


弁護人が、綺麗な発音の英語を交えながら訊いた。


「本気で助けを求めたわけではありません。酔っていて……、外人が近付いてきたから、冗談のつもりで……。だって、あんなことになるなんて……」


現場となった倉庫の前に居合わせたのは、直前までスナックで飲んでいた顔なじみと、その店員だったらしい。


「彼に、謝りたいです……」


酩酊した女性を介抱していたのが、命を落とした男性だった。


女性の足取りがおぼつかなかったのは、恐怖によるものではなく、アルコールの影響にすぎなかった。


「被告人」


裁判官が、私をまっすぐ見つめている。


「あなたは、倉庫の前で向かい合っている男女を見て、暴行を加えられている女性を助けなければならないと思い、被害者を蹴ったのですね?」


「はい。私の勘違いだったようですが」


被害者は、何らの過ちも犯していなかった。


かけがえのない命を、私は奪ってしまったのだ。


「弁護人は、この事件には正当防衛が成立すると主張しています」


正当防衛という言葉は知っていた。


困っている人を助けるための暴力は、正当な行為として許される。


騎士道精神を体現したルールだと思った。




けれど――、


 「女性は、困ってなどいなかった。だから、私は罰せられるのですね」 


あまりに単純な論理だ。


「あなたには、傷害致死罪が成立する。そう、裁判所は判断しました。つまり、被害者を蹴って死に至らしめた責任をあなたに問うべきだと判断したということです。その理由が分かりますか?」


「ですから、愚かな勘違いで殺してしまったからでしょう」


しかし、裁判官は首を左右に振った。


「勘違いをしていたからといって、直ちに正当防衛の成立が否定されるわけではありません。勘違いによる正当防衛は、誤想防衛と呼ばれています。やむを得ずそのような勘違いに陥ったと判断されれば、正当防衛が認められることはあるのです」


あのときの思考の流れを、頭の中で再現する。


「二人が倉庫の前で揉み合っているのを見ました。女性に助けを求められ、男性がファイティングポーズを取ったので、彼女を守るには先制攻撃をするしかないと思いました」


「それらの事実を、裁判所はいずれも認めました。つまり、あなたが勘違いしてしまったのは、仕方がないことだと認めたのです」


裁判官の言葉を聞いて、酷く混乱した。


私の愚かな勘違いが、死の責任を問われる理由になったと思っていた。


それでは、なぜ私は罰せられるのか。


「……被害者が、死んでしまったからですか?」


「というと?」


「私の勘違いを前提にしても、被害者は女性を襲おうとしていただけです。それなのに、私は彼を死に至らしめました。そのアンバランスさが、責任に繋がったのではないですか?」


他には考えようがなかった。


「正当防衛において考えるのは、結果の大小ではありません」


「結果の大小?」


「反撃行為が相当なものと判断されれば、それによって生じた結果が大きなものであったとしても、正当防衛が否定されるわけではないのです」


「けれど……! 私に死の責任を問うと言ったではないですか!」


溢れ出る声を抑えることなど、もはやできるはずがない。


「はい」


「やむを得ない勘違いは許される。重要なのは、結果ではなく、行為自体。そう仰ったのに……、どうして!」


わからないことばかりだ。


この国の法律は、私に何を求めているのか。


私は、どのような罪を償えばいいのか。


「あなたの行為が、相当なものではなかったからです」


「それは……、回し蹴りのことですか?」


「あなたの認識によれば、被害者は女性に暴行を加えようとしていた。武器を持たず、素手で――」


「私だって、武器は使っていない。均衡は取れているではないですか」


裁判官は、頷かなかった。


「あなたは、空手の有段者ですよね」


「……はい」


「加えて、被害者はあなたよりも一回り身体が小さかった」


「それが……、そんなことが、重要だというのですか」


「体格が劣る相手に対して、人体の急所を狙う回し蹴りで攻撃した。披露した技の危険性は、空手の有段者なら理解していたはずです」


「そうだとしても……!」


淡々と、裁判官は言葉を繋げた。


「回し蹴りは、あなたの勘違いを前提としても、必要最小限の反撃行為とは言えません。だから、相当性が認められないのです」


この国で極めるべき武道は、空手だと信じて疑わなかった。


力ではなく、型を極める武術。


空手を学べば、騎士に近付けると思った。


「つまり……、被害者が亡くなったからではなく、回し蹴りが相当ではなかったから、正当防衛が成立しないということですか?」


「死ぬ危険性がある技だった。そう評価しました」


「そんな……」


「正当防衛は成立しませんが、勘違いによって必要以上の反撃行為を加えてしまったのは、人間の行動として非難しきれないところがあります。そういった点も、量刑には反映しています」


「死の責任は、私にある。その結論は変わらないのですね」


「そのとおりです」


私は、二つ勘違いをしていた。


一つは、女性が襲われていると思い込んだこと。


もう一つは、私が愚かだから罰せられるのだと思い込んだこと。


だが、違った。


私は、浅はかさや愚かさを理由に罰せられるのではない。


反撃行為が強すぎたから、罰せられるのだ。


否……、それも不正確だ。


「わかりました、裁判官」


回し蹴りは、武士道を極める過程で身に付けたものだ。


私が求めたのは、人を傷つけるための強さではなかった。


名前も知らない弱者を守るための強さだった。


そして、その先にあったのは……、


「私は、騎士ゆえに罰せられるのですね」


第62回メフィスト賞受賞作
『法廷遊戯』五十嵐律人・著


法律家を志した三人の若者。

一人は弁護士になり、

一人は被告人になり、

一人は命を失った——謎だけを残して。


全国の書店、電子書店にて好評発売中!

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色