飛び回る生首が描いた北斗七星。東京最大の怨霊をぶらり。

文字数 3,602文字

平将門と言われると思い出す「帝都物語」。加藤ォ―!

平将門——

日本三大怨霊の1人(他は崇神天皇と菅原道真)とされる。しかも他の2人については、呪いは既に解消されている(ように思われる)のに対して、将門の祟り話は未だに現役だ。おまけにその舞台は主に、ここ東京。まさにこの連載に相応しい対象と言えましょう。


将門の生年は定かではないらしいが、没年は天慶3年2月14日(西暦に直すと940年3月25日)とハッキリしており、その時38歳(満37歳)だったというから逆算して、延喜3年(903年)の生まれとされる。


ざっくり解説すると平将門は、関東諸国に巻き起こった抗争に勝ち抜き、自ら「新皇」と名乗って京の天皇に対峙した。もちろん朝廷がそんなことを許す筈がなく、藤原秀郷、平貞盛らの軍が「朝敵」将門を襲う。陣頭に立って応戦するが突風に煽られて馬の足並みが乱れ、棒立ちになったところに飛んで来た矢が、将門の額に命中。敢えなく討死した。


討ち落とされた首級は京に運ばれ、晒し首にされたがある日、白い光を放って空高く舞い上がり、関東を目指して飛び去ったという。それが落ちた場所、とされるところが各地にあるが、最も有名なのが千代田区大手町にある「首塚跡」。今では皇居のお濠の前に我が国を代表する企業ビルが立ち並ぶ、名実ともに都心の一等地に当たります。

関東の英雄にして、朝敵。この捻じれが「祟り伝説」を生んだ?

江戸幕府を開いた徳川家康は、かつて関東を支配して朝廷に相対した将門を尊重したというが、明治に入ると対応は逆転。東京遷都を果たし、天皇もこちらに移って来られたというのに「朝廷の敵」の記念碑が皇居の目の前にある。そんなの、認めるわけにはいかないのは当然ですな。


当初は大蔵省がこの地に建てられ、その中庭にぽつんと残されていたのが関東大震災で破損。大蔵庁舎も壊れたため仮庁舎を建てる際、塚の下にあった石室などが破壊された。そうしたら当時の大蔵大臣以下、14名の官僚が次々と命を落とした、という。震え上がった大蔵省は現在の霞が関に移転し、塚の跡であることを示す石塔婆が新調された。


戦後、日本に乗り込んで来たGHQも祟りの被害者だ。ここをモータープールにするべく塚を破壊したが、ブルドーザーが転覆し死者まで出る事故が発生。由来を聞いてさすがにこの地に手を出すことは諦めた、という。


昭和48年のビル工事の時も祟りがあった。塚の向かいと横とで2つのビル工事が始まったのだが、横手のビルは首塚を手厚く供養してから着工したのに対し、向かいの方は粗末な扱いをした。するとそちらのビルの地下室工事で2名が死亡。怪我人も続出したがそれは全て、塚に向いた側の場所だった。おまけに死者は2名とも同じ苗字。怪我人も頭文字の共通する人が多かった、とされる。


まぁここまで祟られては誰も動かすことなどできるわけはありませんな。そんな経緯でこんな一等地にもかかわらず、首塚跡は未だに大手町の地に残り続けている。

ケンシロウの体にも将門が⁉ 北斗七星(こぐま座)は将門を表わす? 

実はここ以外にも、東京には「将門ゆかりの地」とされるところが点在している。そしてそれらを結ぶと、「北斗七星」の形になる、というのだ。北斗七星は将門が信仰していた妙見菩薩を象徴しているという。実際に繋げてみると、こんな感じ。やや歪な感も否めませんが、確かに北斗七星に見えなくもない


ただ、「将門ゆかり」とされる場所は都心部近くに限っても20近くあるらしいので、それらの中から適当に7つを選び出せばそんな形になってもおかしくない、との反論もあり得るでしょう。


でもまぁいいではありませんか。やっぱりこの方が、話としても面白い


そんなわけで早速、7ヶ所全てを回ってみることにします。本来なら北斗七星の並びの順番に、どちらかの端からスタートするのが筋かもしれないが、やっぱりここは、まず訪ねとくべきは「首塚跡」でしょう。大蔵省もGHQも手を出せなかった怨霊の聖地ですからね。祟られないためにも最初に、礼を尽くしておくのが無難と思われます。

ど真ん中に首塚。東京はそういう街なんですね。

てなわけでやって来ました、「将門塚」東京最大のパワースポット、とされる。場所は本当にお濠の目の前。地下鉄「大手町」駅のC5出口を出れば、もうそこにある。返す返すも一等地です。


実はここには以前、何度か来たことがあった。

昔はビルの立ち並ぶ中にぽつん、と異様な空間があって、何とも不気味だった。真夏でもここに来ると何故かひんやりした記憶がある。いやぁこりゃ確かに心霊スポットだよなぁ、としみじみ感じた。


何年か前に来た時は整備工事の最中だった。落下物がないように頭上に覆いまで掛けられ、何とも恭しく工事が進められていた。そりゃそうだよなぁ。粗末に扱ったらまた死人が出てしまう。おっかなびっくり工事するしかないのも、当たり前ですよ。

※工事中だった時の将門塚

さて今回、久しぶりに来てみたらずいぶんとスッキリしていた。何かここまで整備されてしまうと、逆に怖さは薄れてしまう感じ。


まぁとにかく気を鎮めて頂くために、礼には礼を尽くして整備した結果こうなった、ということなのかも知れませんが。そう考えてみればこの整然さも、畏れの産物と見えなくもない


それにとにかく今回、感じたのは参拝客の多さだった。引っ切りなしにお参りに来るものだから、なかなかシャッターチャンスが訪れない。誰一人、入らないように撮るなんてとても不可能でした。やはり皆、ここに来てパワーを頂きたいと思ってるんでしょうねぇ。

それから一人、ずっと熱心に石塔婆を掃除しているご婦人もおられた。もしかして周りの企業の人? 隣の三井物産なんか祟りがないように、全ての席はこの塚に尻を向けないよう配置されている、との都市伝説もあることだし。験を担ぐ総合商社なんだしあながち嘘ではないのかも知れない。


だからそういう周りの企業が、担当者を決めて交代で掃除しているとしても不思議はないな、とも思ったわけです。


ただご婦人、掃除が終わると満足したように塚に手を合わせ、どこかへ立ち去って行った。どうも企業の人ではないみたい。きっとボランティアなんでしょう。こういう人達の思いがあってこその将門塚なんだなぁ、と改めて感じました。


さて、人の姿が少なくなったんでようやく、私も手を合わせます。正面から見ると石塔婆が立ってて、その裏に隠れるように石塔がある。いかにも古そうな石塔ですよねぇ。


工事してた時にはガラスケースの中に収められてて、「いやぁこれくらい保護しとかなきゃ痛んじゃうよなぁ」と納得したのですが。今はご覧の通り剥き出しに戻ってました。いいのかな、雨晒し野晒しで。まぁ見た目よりずっと頑丈なのかも知れないし。私なんかが余計な気を回すものではないんでしょう、きっと。

懐かしい「カルガモのお引越し」。あれ?今回バス乗ってないぞ!

さてこの近くにはもう一つ、名物があったカルガモの池。三井物産の前の人工池に毎年、カルガモの親子がやって来てお濠までゾロゾロと道を渡って散歩する。その愛らしい姿が評判になったものだ。


そんなほのぼのした光景のすぐ横には、東京最大の心霊スポット。そのギャップが面白かったものである。


ところが今回、行ってみたら池の方は工事中でした。また池として作り直すのか。それとも全く違う設備を作る気なのか、見ただけではよく分かりませんでしたね。まぁ季節的にもカルガモは来てるわけもないし。諦めてその場を後にしました。


次に向かうのは神田明神。そう、江戸の総鎮守であるあの神社もまた、将門ゆかりの地なのですよ。

ここからはバスで目的地に向かいます。やっとタイトル通りになって来ましたね。

てなわけで、続きは次回ーー

書き手:西村健

1965年福岡県生まれ。東京大学工学部卒業。労働省(現・厚生労働省)に入省後、フリーライターになる。1996年に『ビンゴ』で作家デビュー。その後、ノンフィクションやエンタテインメント小説を次々と発表し、2021年で作家生活25周年を迎える。2005年『劫火』、2010年『残火』で日本冒険小説協会大賞を受賞。2011年、地元の炭鉱の町大牟田を舞台にした『地の底のヤマ』で(第30回)日本冒険小説協会大賞、(翌年、同作で第33回)吉川英治文学新人賞、(2014年)『ヤマの疾風』で(第16回)大藪春彦賞を受賞する。著書に『光陰の刃』、『バスを待つ男』、『目撃』、「博多探偵ゆげ福」シリーズなど。

西村健の「ブラ呑みブログ (ameblo.jp)」でもブラブラ旅をご報告。

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