大正時代に詐欺師が悪狩りーー『帝都上野のトリックスタア』徳永圭

文字数 33,093文字

注目作家・徳永圭が講談社タイガに登場! 大正・帝都を舞台に、悪党を食い物にする詐欺師の物語。冒頭たっぷり3万字を無料公開中です。



 どこかから、幼子の戯れる声が聞こえていた。
 それに重なるように、市電の鐘の音。帝都に降り注いでいた初夏の日射しでさえ、今は人々を見守るかのごとく、揺れる柳の葉先をちらちらと照らしている。
 ごく平らかな、夕暮れ前のひととき。
 ──それなのに。

「ヒイッ!」
 明度を失った視界の外で、誰かが悲鳴を上げた。
 踏み荒らすような足音。視線の先、白い卓子クロスに散っているのは赤黒い飛沫だ。思わず身じろぎすると、靴の下で硝子の破片がパキリと砕ける。
 なんだよ、これ。
 …………いったいなんなんだよ。

 勇は目を見開いたまま、思考を手放しそうだった。
 だが卓子の向こう、壁にほとんど身を預けるようにしてアヤが立っていた。
 顔は歪み、左腕はだらりと床に向かって垂れ下がっている。右手でその肩先を押さえてはいるけれども────上着ににじんでいるあれは、血?
 勇は息を詰め、まろぶように彼女に駆け寄った。持っていた白布巾をとっさに肩へとあてがう。
「これ……もしかして撃たれて……」
「やっぱり?」
 彼女は気丈にも薄く笑ってみせたが、いつもの歯切れの良さはない。
 手が震える。目の前は霞み、あらゆる音が遠のいていく。
 それでも血染めの肩をどうにか縛り上げると、勇はふらつく彼女を支えて脱出した。
 物陰伝いに逃げながらも、頭の中が痺れてしまっているようで──……



 勇はその後、黒々とした後悔の海で長らくもがき続けることになった。
 ひとたび落ちれば、底知れず、ひと筋の光も見えない真性の闇。

 もし、俺の動きの何かひとつでも違っていたら。
 もし、俺が選んだのが、もっと別の道だったなら。


 ……どうして俺は、ただの依頼人として皆と出会えなかったのだろう。


序章


 目の前の三人連れの脇を、小野寺勇は逸る心で足早にすり抜けた。
「ごめんよッ」
 肩がぶつかっては謝り、先へ先へと急ぐ。平日の夕刻にもかかわらず、直進できないほどの人であふれた浅草六区は、日本一の隆盛を誇る大衆娯楽の中心地だった。
 大正十年三月、帝都東京──。
 勇は通りの先にそびえ立つ十二階建ての凌雲閣にも目をくれず、人波を避けるようにして裏道を走り抜ける。
 初の常設活動写真館である電気館をはじめ、半円のドーム屋根が載った白亜の千代田館、帝国館に常盤座、オペラ館……。明治の末からこっち、活動写真館がひしめくこの界隈は、色とりどりの幟旗が通りにはためいていつ来ても華々しい。
 角の大友館の前で懐中時計を覗くと、次の上映まであと十五分。
 どうにか間に合った。
 勇は外れかかったズボン吊りを直し、乱れた息を整えた。
 そうして大友館の入り口をくぐり、緊張気味に見回すと、待合ロビーは今か今かと入場開始を待つ老若男女で賑わっていた。
 洋装の紳士がいるかと思えば、育ちの良さそうなおぼっちゃんもいる。今ごろ舞台の袖裏では、音も色味もない活動に語りを添えるべく、フロックコート姿の活動弁士が出番を待っていることだろう。
 もぎりの前では女学生たちが数人、雲雀のようにお喋りに興じていて、みな主演男優目当てに来ているらしい、と心強さを覚えた。
 ──姉ちゃん、頼むから今日こそ現れてくれよ。
 勇は弱気を振り払うようにして、再度懐中時計を見た。が、上映開始までもう十分もない。姉は昔から真面目なタチだったから、時間ぎりぎりに駆け込んでくるとも思いがたい。
 今日も無駄足に終わるのか……?
 唇を嚙み、無意識にポケットの中へと手を伸ばしたそのとき、
「あっ!」
 と近くで短い悲鳴が上がった。見回した先、人垣の向こうで尻餅をついていたのは代書人の桂だ。
 勇にはよくわからないが、登記だとか裁判所への書類提出だとか、小難しい仕事をしているらしい。代書人としての評判も良く、勇にも偉ぶることなく接してくれる人の好い御仁である。
 桂さん、活動好きだもんな。
 仕事帰りに寄ったんだろう。そう合点しながら首を伸ばすと、はち切れそうなその背広の腹には大きな染み。
 まるで柄杓で水を引っかけられたような、そんな汚れ方だった。
「あ……」
 勇はまごつきながらも、とっさに声をかけようとした。が、
「御主人、大丈夫ですか」
 いの一番に駆けつけたのは、壁際にいた三十がらみの紳士だった。
 すばやく手巾をあてがった彼の髪色は、艶々した栗のように明るい。すっと通った鼻梁といい、睫毛の長さといい、どこか日本人離れして見える。達磨体型の桂とは違って、仕立ての良い三つ揃いを粋に着こなしている。
 こういうのをなんて云うんだったか……。あア、そうだ。スマアトだ。
 洋行帰りだったりするのかな、と考えるうちに、勇は紳士の陰に隠れていたおぼっちゃんに気づいた。見た感じ、俺よりいくつか年下。両手で水筒を握り締めているその額は、今にも失神しそうに青白い。
「ぼ、僕、喉が渇いちゃって、それで」
 どちらがよそ見していたのかはわからないが、彼が水筒の茶を飲もうとした拍子に、運悪くすぐ近くにいた桂とぶつかった。そんなところだろう。
「あの、ほんとに僕……ごめんなさい!」
 その気弱そうなおぼっちゃんは、自分も手巾を取り出すのかと思いきやそうでもなく、半端に頭を下げただけでその場から去ってしまった。残された桂はぽかんと口を開けていた。
「まったく最近の若い者は……」
 桂は、紳士と苦笑を交わしながら乱れた背広の襟元を整えた。だがその苦笑いはすぐに引っ込んで、なぜか内ポケットを必死に探り始めた。
「財布がない!」
 えっ、と勇は思わずつぶやく。
 ──スられた?
 直後、脳裏をよぎったのはあのおぼっちゃんだ。まさかあいつがスったのか? 故意に茶をかけて? 衆人環視とは云わないまでも、まわりにこれだけの人の目があったのに……。
 勇が眉根を寄せているあいだに、周囲もざわめき出す。
 と、そのとき、勇は自分の足元に、灰茶の男物の札入れが落ちていることに気がついた。
 いつからここに?
 内心ぎくりとしたものの、勇は考える間もなくそれを拾い上げていた。
「あの」
 ためらいがちに一歩踏み出すと、桂はあれっと顔を上げた。
「勇くん?」
「はア。桂さん、その失くなった財布というのは、もしやこれではないですか? そこに落ちていたんですけど……」
 勇が札入れを差し出すや、桂の表情がぱっと明るくなる。
「そうだ、それだよ! ──あア良かった。いつの間に落としたんだろう。中身も……うん、盗られたものは何もないようだ」
 そこまで見届け、一件落着だと判断したのだろう。紳士は軽く目礼だけして去っていき、桂には「礼と云っちゃなんだが」と窓口を指差された。
「きみも一緒にどうだい? 活動は良いぞ」
「いえ……有り難いですけど、その、ちょっと時間が」
 元々活動を見に来たわけではないし、気になることもある。
「そうかい? じゃあまた……おっと、もぎりが始まったな」
 桂は懐から入場券を取り出すと、革のトランクケースを大切そうに抱え直し、劇場内に入っていった。
 その背中を視界の端で見送り、勇は足早にロビーをあとにした。

 大友館の前の通りは、相変わらず興行目当ての人々でごった返していた。
 さっきのおぼっちゃんは、と周囲に目を走らせたが、それらしき少年はいない。気まずさに逃げ出しただけなら、上映直前に戻ってくるのではないかとも思ったのだが……やはり彼はスリだったんだろうか。
 桂自身は、自分が不注意で財布を落としたのだと思ったようだった。しかし勇は懐疑的だった。姉の姿を探していたとはいえ、足元にはじめから何か落ちていればすぐに気づいたはず。
 それよりはあの少年がスり、なんらかの理由で持ち去るのを断念し、勇の足元に放り出していったというほうがまだ納得できた。──では、なんのために?
 勇は怪訝に思いつつも、浅草六区の外れまで来た。
 すると通りの少し先に、トンビコートを羽織った男の後ろ姿があった。顔は中折れ帽で隠れているが、角を曲がる寸前に鼻筋がちらと見える。
 あの男……!
 間違いない。あれは大友館のロビーで桂に手巾を渡していた、栗色の髪の男だ。
 持っている様子のなかったトンビを羽織り、帽子で頭髪を隠しているつもりのようだが──俺の目を誤魔化せるとでも?
 勇はふっと息を漏らすと、勢いよく地面を蹴った。
 彼もあの場にいたからには、活動を見に来たんじゃなかったのか? なのに上映直前に館を出たのは不自然すぎる。俺も他人のことは云えないけど。
 太腿に力を込めるにつれ、景色は飛ぶように後ろへ流れた。
 汗ばんだ首筋を風が乾かす。両者のあいだは刻一刻と詰まっていく。
 しかし男は振り返りもせず、まるで追っ手を翻弄するかのように角を幾度か曲がったのち、残陽も届かない薄暗い路地に入っていってしまった。
 続けて路地に飛び込んだところで、勇はギクリとした。
「──やア」
 栗色の髪の男は、板塀に背を預け、微笑みながら勇を待ち受けていた。穏やかな顔つきではあったが、怪しむなというほうが無理な相談だろう。
 ふと視線を下ろすと、男が提げているトランクの把手近くに羅馬字の刻印があって、それを目にした瞬間、首の後ろあたりがぶわっと逆立った。
「そうか……! あんたら、はじめっからグルだったんだな」
「あんたらとは?」
「さっきのおぼっちゃんだよ」
 男のよく通る声をさえぎり、勇は低く吐き捨てる。
「あんたが持ってるそのトランク、桂さんが──さっきの人が抱えてたのとまったくおんなじだよな。あの人から聞いたことがあるんだ。把手のところに刻印されてるのは、英吉利のなんとかいう工房の印だって。そうそうお目にかかれない一級品だってよ」
 偶然とは云わせないと匂わせてみるが、男は動じる様子もない。
「まずあのおぼっちゃんが茶を引っかけて、派手にスリ騒ぎを起こす。あんたはそれを気遣うそぶりで近づき、桂さんのトランクを偽物とすり替える。あんたらの狙いは財布じゃなく、最初からこっちだったんだ。だろ?」
 自分には関係ないといえばそうなのだが、人の好い桂さんが騙されるのは許せない。勇は人差し指を突きつけて挑発する。
 けれども、その手応えのなさといったら人形でも相手にしているかのようで、男はむしろ、こちらの一挙手一投足を観察し、何やら面白がっているかにも思えた。戦利品よろしく、トランクを見せびらかしながら。
「なア、あんたら何者なんだよ。わざわざ偽のトランクまで用意して……。おい、なんとか云ったらどうだ」
 語気を荒らげると、男は「ふむ」と顎を撫でた。
「きみのほうこそ、たいしたものじゃないか」
「はア!?
「よくあの場面だけで僕を覚えていたね。僕はこれこのとおり、コートを羽織ってさっさと失敬するつもりでいた。この髪がまア、悪目立ちするきらいはあるんだが、こうして襟を立てて帽子を被ってしまえば支障はない」
 きみからも見えなかったろう、と男は中折れ帽を脱いだ。澄んだ緑の瞳にじっと覗かれ、勇は顔を背けて黙り込む。
「普通、僕みたいにわかりやすい特徴があると、他の部分はかえってうろ覚えになるものだよ。それでなくとも服が替わるだけで、人の印象というものはがらりと変わる。だというのに、顔馴染みならいざ知らず、あの場で行き合っただけの僕をここまで追えるだろうか。僕の顔が見えたのだとしても、先刻角を曲がった、あの一瞬しかなかったんじゃないかい?」
「……ふん」
 おだてて逃げようったってそうはいくかよ。
 しげしげと眺め回してくる男を睨んだまま、勇はふと思いつき、「あの女」と通りのほうを親指で示した。
 日が陰り始めた道をちょうど歩いていたのは、絣の着物を着崩した中年女である。
「あの女性が何か?」
「さっき俺が大友館に着いたとき、入れ違いにロビーから出ていった女だ。ひとつ前の回の客だったんだろうな。目は二重で、鼻はちょいと大きめの鷲鼻。唇は薄くて、口を開けると少しだけ八重歯が覗く。耳に近い左の頰にふたつホクロがあって……。あア、それからあっちで見世物小屋を覗いているあの禿げ親父も、さっきは宮乃座の前で煙草を吹かしていたな。走りながら見かけただけだけど、右のこめかみに蝶みたいな形のアザがあるはずだ。ほら、見てみな。今親父が袂から出した引き札──」
 勇は軽く顎をしゃくった。「『今後の演目』云々とあるけど、あれは宮乃座のものだろう?」
 男は驚いた様子で、色素の薄い目をゆっくりと瞬いた。
「きみは普段から、他人をそんなに観察しているものなのか?」
「観察というより……そうだな、俺自身がカメラになってる、って感じかな。俺は一度見た光景は忘れない。理由はわからないし、物心ついたときにはすでにこうなってたけど、写真に収めたみたいに目に焼きついちまうんだ。人相も然りだよ。信じてくれなくて構わないけどな」
 どうせこいつも、法螺吹きだのなんだのと小馬鹿にするんだろう。
 勇はうんざりした気分で口を閉じたのだが、男は意外にも、真面目くさった顔でこぼした。
The magician of Connecticut……」
「え?」
「……いや、そういう事例を聞いたことがあるんだ。僕が米国にいたころ、風の噂でね。コネチカットの片田舎に天才絵師がいる、と。その画家もきみと同じく、一瞬で目の前の光景を覚えて、精密画のごとく再現するんだそうだ」
「ふぅん。俺だけじゃないってのは初耳だけど、他人のことはどうだっていいよ」
 勇は小指で耳をほじり、邪険にあしらってやった。男は瞬き、「失礼」と引き下がる。
「突然申し訳なかった。非常に興味をそそられるんだが、それはおくとして……。きみにそういう特技があるなら、敵に回したくはないなア。とくに僕らみたいな仕事をしてるとね」
 仕事?
 勇は我に返り、男の持つトランクに目を走らせた。
 すかさず渾身の力で体当たりし、男がよろけた隙にトランクを奪い取る。代書人という桂の職業柄、狙われたのは重要書類のたぐいだろうか。
 だとしても全部、俺が取り返してやる!
 飛び退るように間合いを取り、焦る手つきでトランクの錠前を開ける。
「──は?」
 ところが、ばらばらと地面にこぼれ落ちたのは、手持ち型ブラシにワックス缶、箒の絵が描かれた蓋付きクリーム……。いたって平凡な、使い込まれた掃除道具一式だった。どう見ても重要品ではないし、桂の持ち物でもなさそうだ。
「何か見つかったかい?」
「そ、それは」
「綺麗なものでなくて申し訳ないが、長年愛用してきた仕事道具でね」
 男はうろたえる勇ににっこり微笑み、散らばったものを拾ってトランクにしまっていく。
「待て! どこへやった、桂さんのトランクを──」
 トンビコートの背中に向かって怒鳴るも、うんともすんとも返ってこない。
 畜生、こっちは真剣だっていうのに虚仮にしやがって!
「……人ってぇのは、まっすぐ向き合ってこそだろ」
 勇は思わず小声で愚痴った。するとなぜだか、整った顔がハッとこちらを向いた。
 にもかかわらず、男は何か云いたそうにしたままトランクを持ち上げると、「では」と角の向こうに消えてしまった。
 結局何がどうなったのやら……狐か狸にでも化かされたようだ。
 勇はしばらく路地の出口をぽかんと眺めていたのだが、ふと見下ろした先、男が立っていた板塀の根元に、小さな箱のようなものが落ちているのに気づいた。
 拾い上げてみれば、近年流行りの宣伝用燐寸である。
『帝都を美しく』──
「……『大日本クリーンサービス』?」
 モップをかたどった図案の上に書かれた、横書きの文字。男のトランクを奪って開けたとき、中からこぼれ落ちたのかもしれない。
 勇は燐寸箱を握り、瓦斯灯の点り始めた通りに飛び出した。
 目をすがめ、男の消えた先を見据えてみたものの、釈然としない思いは胸から消えなかった。


1章


 尻を浮かせて座り直すと、肘掛け椅子がぎしりと鳴った。
 ここは上野。カフェー浪漫亭の奥に間借りしていると思われる、小さな事務所である。
 広小路で市電を降り、目印となるカフェーを探してたどり着いたのが十五分ほど前のこと。通りの裏手に『浪漫亭』の看板を見つけた勇は、緊張しながらも表の扉をくぐったのだが、中にはそれらしき人間も事物も見当たらなかった。
 他のめぼしいカフェーはどれも不発で、ここが最後の望みだったのだが……。
 するとそのとき、勇のもの慣れない挙動を不審に思ったのか、窓際でレモンティーを飲んでいた女学生がちょいちょいと手招きをした。
 ──あなた、掃除屋のお客さん?
 掃除屋、という言葉にどきっとする。髪をおさげにしたその女学生は、慣れた様子からしてここの常連客らしい。
 ──約束はなさってるの?
 ──あ……あア、はい。この時間に事務所に来るように云われたんですが。
 ──えっ、事務所に? ここのカフェーでなくて?
 ──え、ええ。定期清掃のことでちょっと相談があって……。
 怪訝そうに覗き込まれて、背中に冷や汗がにじむ。
 だが、親切な女学生はにこっと笑顔を見せると、ひらひらした白前掛けの女給長らしき店員に取り次いでくれた。女給長も女給長で、「お約束がおありなんでしたら」とまったく興味なさげに勇を一瞥すると、店の奥にある勝手口のような扉を開けたのだった。
 壁一枚隔てたそこは、想像していた事務所とはかなり違っていた。
 窓際には執務机がひとつ、その前には年季の入った卓子や応接ソファーがある。扉を入ってすぐ、壁にずらりと立てかけられた掃除用具にまず面食らったのだが、何より異彩を放っているのは部屋の奥の一角だった。
 衝立の向こうに転がってるあれ……見間違いでなければ、たぶんはんだごてだよな?
 申し訳程度に衝立で仕切られてはいるものの、その他にも螺旋やら座金やら、鳥の巣状の針金やら、そこだけ実験室にでもなっているんじゃないかという散らかりようだった。金属でできた謎の工作物もある。
 ──所長? はア、ウィルさんのことですか? さっき切手を買いに出ていかれましたけど……そろそろ戻ってくるんじゃないですかね。お掛けになって待たれてはいかがですか。
 そう淡々と女給が云ったとおり、事務所の扉はいくらも経たずに再度開いた。
「やアやア、お待たせしてしまって」
 陽気な声とともに入ってきたのは──勇の予想どおり──半月前に燐寸を落としていった男だ。大友館で会ったときと同じく、今日も三つ揃いの背広姿である。
「おや、きみは」
 中折れ帽を壁に掛け、勇の顔を見下ろした彼は、さも意外そうに目を瞬いた。こちらのことを覚えていたようだ。多少わざとらしく見えたが、話が早くて助かる。「小野寺勇と云います」と頭を下げ、先日の非礼を詫びる。
「今日はどんなご用件かな。というより、どうやってここを?」
「それはですね……」
 勇はズボンのポケットを探り、「これです」と件の燐寸を取り出した。
「あア、このあいだ落としてしまったのか。ならば清掃のご用命だね」
 男はあくまで白を切るつもりらしかったが、今日は誤魔化されてやる気など毛頭ないのだ。
 燐寸箱を握り締めた勇に気づかず、男は室内にぐるりと目を這わす。
「ご覧のとおり、うちはカフェーに間借りするしがない清掃会社でね。──と、申し遅れました。僕は所長の若槻です。若槻・ウィリアム・誠一郎」
「うぃりあむ?」
「亡き祖父が米国人だったんですよ。その彼からミドルネームをもらって、僕もウィリアム。こんな容姿だからか、若槻よりウィルと呼ばれることが多いですね」
 柔和に微笑みながら差し出された名刺にも、『若槻・W・誠一郎』とある。
 名刺を無言で見つめる勇をどう思ったのか、ウィルは軽く咳払いすると、よどみなく説明を始めた。
 明治の開国以後、洋風ホテルが増加し続けていること。しかし当然、洋室には洋室に適した清掃方法があり、それらの知識や経験はまだ充分とは云いがたい。そのため我々大日本クリーンサービスは、洋風ホテル向けに、高度な技術を持った客室清掃員を派遣している──と、大ざっぱに云えばそんな感じだった。
「しかしあなたは、こう云っては失礼だが……」
「ホテル関係者には見えない?」
「ええ」
 そりゃそうだろうな、と皮肉な気分で思う。洋風ホテルなんぞ、泊まったことはおろか足を踏み入れたこともない。
「────『お困りの際は私書箱九九九号へ』」
 唇を湿らせ、意を決してつぶやくと、ウィルの顔から笑顔がかき消えた。
 やはり……!
 根も葉もない噂じゃなかったのだ、と勇は確信した。
 先日燐寸を拾ったあと、勇は大日本クリーンサービスについて徹底的に調べることにした。ウィルやあのおぼっちゃんは何者なのか、目的はなんなのか。
 あれだけ振り回された手前、意趣返しのようなつもりもあったのだが、清掃業と聞いて思い出されるのは近年巷で囁かれているある噂だった。
『夜闇に紛れ、庶民の悩みを一掃してくれる謎の組織があるらしい』──。
 その名も通称、〝帝都の掃除人〟。
 依頼の手紙を書き、東京中央郵便局の私書箱九九九号宛てに投函すると、極めてごく稀に──彼らに認められた場合にのみ──なんらかの形で接触がある。かならず聞き入れてもらえるわけではないから、ほとんど神頼みの域だともいう。
 真偽も不明なら、噂の出どころもわからない。ただの与太話だろうと勇は聞き流していたのだが、それにしては散発的に、方々から耳に入ってきていた。
 もしやあの栗色の髪の男が、その〝掃除人〟なんじゃないか?
 勇は燐寸の存在に心強さを得、その噂を口にしていた知人らに子細を尋ね回った。そしてついに先日、〝知人の知人の知人〟という青年が、かつて実際に彼らに助けられたことを知った。
 何を依頼したのか、詳しくは教えてもらえなかったのだが、青年は勇の必死さを見かねたのだろう。別れ際にぽつりと云った。
 ──上野のカフェー。
 それで今日、勇は燐寸箱を握り締め、ぎゅうぎゅう詰めの市電を乗り継いでここまで来たというわけだった。
「なるほど」
 執務机に腰を預けていたウィルは、聞き終えると静かにつぶやいた。「それにしたって、軽々しく通してもらっては困るなア」
 約束が本物かもわからないのに、と小声でぼやいている。
 勇にしても確証のないまま押しかけてしまったが、カフェー浪漫亭の奥が組織の事務所であるのは本来秘密なのだろう。依頼人と会うだけなら表のカフェーで充分こと足りる。
「──あれから考えたんです。いや、思い出したというほうが正しいか。あのトランクにあった掃除道具……あのときはまんまと騙されましたけど、あれ、大友館を出たところでさらにすり替えてあったんですよね?」
「……どういうことだい?」
「今日ここへ来るまで、確信はなかったんですけどね。でもあなたはさっき、この会社のことを『我々』と──『我々大日本クリーンサービス』と呼んでいた。そう云うからには、あのおぼっちゃん以外にも仲間がいるかもしれない。で、思い出したんです。そういえば大友館を出たとき、すぐ裏の路地に着物の女がいたな、と。背中しか見えなかったけど、羽織の中に抱き込んでしまえばトランクを隠すくらい造作もない」
 薄日を弾いて緑がかって見える瞳を、勇はじっと覗き込む。
「つまり──路地裏にいたその女が、桂さんから奪った本物のトランクをあなたから受け取り、先にずらかった。入れ違いにあなたに託したのが、例の掃除道具入りのトランク。囮になったあなたに俺が追いついたころには、本物はとっくにどこかに運ばれていたんでしょうね。中身がなんだったか、それは知りませんけど、一級品のトランクでさえ偽造できるくらいだ。その精巧さで書類だの帳面だのも偽物にしてしまえば、桂さんにもそうそう気づかれない。ねえ、どうです。違いますか?」
 勇は上目遣いにウィルを睨んだ。彼は表情もなく沈黙を保っている。
 しかし彼はそのうち、ふ、と苦笑を漏らした。
「……思ったとおりだ。きみの目はやはり厄介だな」
 そう云うわりには、さして驚いている様子もない。こちらの用件など、はじめからお見通しだったのだろう。
「そうだな。この際だから、ふたつだけ訂正しておこう。まずひとつ。僕らは〝夜闇に紛れ〟ているつもりはないよ」
 世を忍んでいるのは本当だけれど、と彼は片目をつぶってみせた。
「それから、きみが云うところの〝本物〟のトランク──それを現在持っているのは桂氏だよ」
 えっ、と勇は瞠目する。
「種を明かせば、きみが大友館に到着したとき、桂氏が持っていたトランクこそが〝偽物〟でね。彼が職場から大友館へ向かっている途中、市電の中で本物とすり替えさせてもらった」
「それじゃ、大友館では」
「拝借していた本物を持ち主に返した。それだけだよ。中身も検めさせてもらっただけだし、財布と同じく、桂氏に不都合なことは何もない」
 こちらの狼狽を面白がっているのか、ウィルは「安心したかい?」と含み笑う。
「け、けど! なんでそんなまどろっこしいこと……」
「さぁて、それはご想像にお任せしようか。きみとて、伏せておきたいことくらいあるだろう?」
 人差し指を立て、そううそぶいた男は役者のように気障ったらしく、勇は激しい反発を覚えた。
 桂さんへの心配は要らなかったようだが、こいつらはやっぱり胡散臭い。殊勝にしていればまだしも、水面下でやりたい放題なのも気に食わない。
 だがしかし、盗っ人同然だろうと嫌悪感が先に立とうと、彼らに頭を下げねばならない理由があるのもまた事実なのだった。
『お困りの際は私書箱九九九号へ』
 ……もう、二年も経ったのか。
 勇は天を仰ぎ、束の間瞑目して気を静めると、ウィルを挑むように見た。
「姉の捜索──あなた方にお願いできますか」

 勇の両親が死んだのは、今から十四年も前のことだった。不治の病と恐れられていた結核に相次いで冒されたのだが、それで残されたのが、当時数えで三つだった勇と七つ上の姉。
 姉はわずか十にして親代わりになり、叔母の助けを借りながらも、両親の記憶すらない勇を懸命に育ててくれた。
 楽な暮らしだったはずがないのに、勇が思い出せる彼女はいつでも笑顔だった。ときに厳しくはあったが、そこには愛情もまたにじんでいて、勇がべそをかくたび、涙が引っ込むまで頭を撫でてくれた。そのあたたかな手でそっと包まれると、擦り剝いた箇所でもたちまち楽になったものだ。
 どうして辛い顔ひとつ見せず、つねに心優しくいられるのだろう。
 幼心に不思議に思うほど姉は完璧で、そして勇の誇りそのものだった。
 一方、勇はというと、自他ともに認める尋常小学校一の問題児だった。血の気の多さ、鼻っ柱の強さが災いし、上級生と取っ組み合いの喧嘩をするのも日常茶飯事だった。
 その結果、授業は出席すればいいほう、落第しないのがやっとというありさまで、卒業後に一銭食堂で働き始めた姉にもずいぶんと肩身の狭い思いをさせた。
 ──みなし児! この襤褸まとい!
 そう云って囃し立てられる屈辱もさることながら、それを否定できず、姉に慰められるしかない自分がとにかく歯痒かった。
 そんな勇でも、校長の計らいでどうにか高等小学校までは卒業できた。陰口に耳を塞ぐ術を覚え、死にものぐるいで勉強して、地元の実業学校にも合格した。
 俺が一人前の男になったら、苦労をかけたぶん姉ちゃんに楽させるんだ──。
 そんな決心を固めつつあった矢先に、しかし、姉は突然失踪したのだった。
 書き置きのたぐいは何もなく、姉が行方をくらます理由は勇にもわからなかった。その一週間前、近所から分けてもらった小豆で赤飯を炊き、勇の実業学校合格を自分のことのように喜んでくれたばかりだった。
 ──そういえば、あの子と親しげにしてた客の男がいたわねぇ。いやに垢抜けてるんで噂になってたのよ。あの子目当てに帝都から通ってるらしい、って。
 しばらくののち、食堂の常連からその話を聞き出した勇は、すぐさま東京市内にまで捜索の足を伸ばした。頭にあったのは〝駆け落ち〟の四文字だ。
 考えたくはないけど──姉ちゃんが俺を置き去りにするほど男にのめり込むとは思えなかったけど──それでも二十二ともなれば男のひとりやふたり……いやまア、ともかく、姉の交友関係を勇はほとんど知らなかったのだった。
 勇は思い切って実業学校を退学し、田畑の広がる武蔵野から帝都に移り住んだ。
 そして日銭を稼ぎながら姉を捜し続けたのだが、なんの手がかりも得られないまま時間だけが過ぎていった。
 生きているのか、それとも事故にでも遭って死んでしまったのか。最近巷でよく聞く、私立探偵とかいうものにも頼んではみたものの、杜撰な調査で儲けようとする輩ばかりだった。残ったのは失望だけだった。
「そうこうするうちに二年も経って、捜すあてもなくなって……」
「なるほど。ではあの日、活動を見に来たのは気分転換のために?」
「んなわけ……! ……あ、いや、すんません」
 つい大声で嚙みついてしまって、気まずい思いで謝る。
「興味なくはないですけど……姉ちゃんがまだ郷里にいたころ、あの主演俳優のことを『素敵ね』って何度か云ってたから。それで、もしかしたら見に来るんじゃないかと思って連日張り込んでただけです」
 だが、その上映も先週で終わってしまい、またもや成果なしだ。
「ではその他に、この二年で得られた情報は? ささいなことでも構わないよ。その駆け落ち疑惑の相手について、とか」
「あア……あの食堂の男ですか。そいつは無関係だと思いますよ」
「ほう?」
 今思えばですけど、と勇は首を振る。
 勇もはじめは、駆け落ちを疑っていた。それでわざわざ上京したのだが、あとから知ったところによると、その男は姉の失踪後も何度か店に来ていたようだった。
「もし本当に駆け落ち相手だったら、店にまた顔を出すなんてできませんよね?」
「騒ぎになっているかどうか、様子を見に来た可能性はあるがね」
 ウィルは用心深く云って長い脚を組む。
「でも──ただの駆け落ちだったんなら、落ち着いたあとでいくらでも連絡できるじゃないですか。小さいころから、叔母が死んでからはふたりきりの家族だったのに、その俺を姉が見捨てるはずがないんです。事故とか、事件とか……何かはわからないけど、絶対に何かあったんだ」
 声を絞ると同時に鼻の奥が痛んで、勇はずびっと洟を啜った。手巾を差し出されたが、それは遠慮した。
「……あア、そういえば」
 くたびれた女の顔が瞼に浮かんだのは、気恥ずかしさに視線を泳がせたときだった。
 あれは年の暮れだったから、ふた月、いや、三月ほど前か。新橋から神田の下宿に帰ろうとして、その途中で見かけたのだ。姉の高等小学校時代の友人を。
「たしか名前は〝後藤田ミツ子〟だったと思います。姉は〝ミッちゃん〟と呼んでました。卒業と同時にどこかへ越したらしくて、俺では所在がわからなかったんですけど」
 夕刻の人混みの中、市電の停留場にたたずんでいた彼女。その羽織の背中を思い出す。
 ──ミツ子さん? そうですよね?
 勇は彼女に気づくや急いで駆け寄った。振り向いた彼女はというと、警戒半分、不安半分といった風情で勇を見返した。
 ──俺、小野寺です。小野寺勇。姉と一緒に遊んでもらいましたよね?
 勢い込んで続けたとたん、あっ、とミツ子の口が開いた。
 ──あなた、そう──お姉さんは──。
 見開かれたまま、瞳がさまようように揺れる。彼女はそのとき、たしかに何かを云いかけたのだと思う。
 けれども折悪しく、四つ辻の向こうから市電が近づいていて、彼女の頼りない声は軋んだ停車音にかき消された。
 乗り遅れまいと、停留場に殺到する乗客たち。我先にと降りようとする降車客。
 うねるような人波に揉まれながら、勇は「ミツ子さん!」と手を伸ばした。だが気づけば、彼女がいたのは昇降口の上。他の客に押し込まれたのだろう。
 ──待ってください! 訊きたいことが……!
 とっさに叫ぶも、再度動き出した車輪は止まらない。それで結局、勇は他の乗り損なった人々ともども、遠ざかっていく影を悄然と見送るしかなかったのだった。
「……何かの足しになるでしょうか。こんな情報でも」
 まざまざとよみがえった悔しさをこらえながら、勇は絞り出すように訊いた。
 この広い帝都でやっと出会えた、唯一姉を知る人物。なのに、と自分を責めるあまり、あの夜はまんじりともできなかった。そんなことまで思い出す。
「もちろんだよ。そのミツ子という女性、学生時代の友人だということは、姉君の行方についても何か知っているかもしれない。今の居所を知っていてくれれば一番助かるんだがね」
「それじゃあ、あの……」
 緊張のせいか、情けなくも語尾が掠れた。
「なんだい?」
「捜してもらえるんですか」
「僕はもうそのつもりだったけれど」
 栗色の前髪の奥で、ウィルは穏やかに目を細めている。
「僕たちはできる限り、悩める庶民の味方でいようと思っている。人員的に、他の手段で解決できそうなものは断らざるを得ないんだが、それでもその気持ちに変わりはないよ」
 これまた歯が浮くようなことを──。
 つい鼻白んでしまうが、トランクの一件といい、囁かれ続ける噂といい、腕は立つのに違いない。
「だがひとつ、あらかじめ云っておこう。全力は尽くすが、かならず見つけ出すとまでは約束しかねるよ。二年もの月日があれば、たいていのことは起こりうる。調査の結果、どんなことが判明したとしても、それを受け止める覚悟は持っていてほしい」
 勇はウィルの視線を受け止め、「云われるまでもないです」と深く顎を引いた。
 事件や事故に巻き込まれた可能性だってあるのだ。すでにこの世にいないかもしれない、と仄めかされたところで今さらだ。
 それでも、俺は真実を知りたい。知っておかなければ、と云い聞かせるように嚙み締める。
 だって俺と姉ちゃんは、たったふたりの家族なんだから。
 ウィルがうなずき返したのを見届け、勇は詰めていた息を吐き出した。そのとたん、身体の芯から力が抜ける。思っていた以上に気を張っていたらしい。
「あー疲れた!」
 するとそのとき、勇が椅子に背を預けるのを阻止するかのごとく、背後で大きな声が響いた。
 ぎょっと振り返ると、視界に飛び込んできたのは洋装の若い女だ。荒々しく扉を閉め、我が物顔で事務所に入ってくる。
 入念に施された化粧に、膝下までのすとんとした服(わんぴーす、とか云うんだったか)。文明開化から半世紀が過ぎ、男の洋装は今やありふれているけれども、洋装の女をこれほど間近で見るのははじめてだった。髪は流行りの耳隠しどころか、耳の下で大胆に切り揃えた断髪だ。
 ここの事務員だろうか。
 職業婦人も年々増えているとはいえ、こんな大胆な格好では同性からも顰蹙を買うんじゃないか?
 勇は面食らいつつ、姉ちゃんぐらいの歳かな、と考えを逸らしていたのだが、
「あら、あなた。お久しぶりね」
「は?」
「あたしのこと探し回ってくれてたじゃない」
 女は不敵な笑みを浮かべて勇を見下ろした。
 んんん……?
 勇は眉をひそめる。まじまじと眺めるうち、頭から血の気が引いていく。
「えっ……あーっ!」
 思わず立ち上がると、口が勝手にぱくぱく開いた。
 この女、あれだ。あのおぼっちゃんだ。このあいだ活動写真館で水筒の茶をぶちまけた、気弱そうなおぼっちゃん!
「ウィルに聞いたわよ」
「な、なんでしょう」
「あなた、一度見たものは写真みたいに頭に残せるんでしょう? そのあなたの目を欺けるなんて、さっすがあたし。ますます自信ついちゃった」
「彼女は長沼アヤ。うちの一員だよ」
 取り持つようにあいだに立ち、ウィルが紹介する。
「彼女はきみも見たとおり、変装の達人でね。彼女がうちに来て以来、任務中の変装が見破られたことは一度もない。本業はまた別にあったんだが……」
「趣味が高じてってやつね。あたし、お洋服もお化粧も大好きなの」
 云い添える本人は上機嫌だが、勇は愕然とする。
 う、噓だろ。いくら変装されていたとはいえ、この俺がすぐに見抜けなかっただなんて。顔の見分けには絶対の自信があったのに……。
 するとウィルは、そんな勇を不憫に思ったのか、なだめるように肩に手を添えた。
「落ち込む必要はない。彼女の変装を見抜くのは、帝国密偵養成学校を出た僕でも至難の業だからね」
「密偵養成学校……?」
「あア。これから先は軍備増強のみならず、情報が外交の要となると云われている。その任を負うべく設立された、国による人材育成機関だ。むろん、存在を知るのはごく限られた者だけだが」
「すごい。そんな学校が──」
「実はあるんだ。数年前に横須賀に移転したようだが、僕のころは九段にあってね。いや、懐かしいなア。僕もひと昔前には、そこで級友たちと机を並べて日々切磋琢磨していた。過酷な課題をこなしながら、好敵手と呼ぶにふさわしい彼らと肝胆相照らし……」
「ちょっとウィルぅー。こないだはあなた、〝代々薩長に仕えた間者の末裔〟って名乗ってたじゃない」
 ────え?
「そうだったかな」
「そうよ。あなた、作戦はいつもみっちみちに立てるくせに、そういうところは緩いんだから」
 アヤが呆れ顔で云う。「こういう生意気そうな子、からかいたくなるのもわかるけど、設定は一貫させときなさいよね」
 生意気?
 勇はあんぐりと口を開いて固まる。からかわれていたのは俺、ってことか?
「……ええっとぉー。確認なんですけど、さっきの密偵なんちゃらっていうのは……」
「噓よ、噓。真っ赤なでたらめ」
「じゃあその、さっき話に出てた、『別にあった本業』ってのは」
「あア、アヤのかい?」
「そっちは本当。結婚詐欺よ」
 彼女は小首をかしげ、すっと瞳を細める。そのとたん、えも云われぬ艶が浮かんでドキッとした。けれども、肝心の答えは物騒極まりない。
「てことは、ウィルさんももしかして、その、結婚詐欺を……」
 唾を吞み込み、地獄の淵を覗くような気分で尋ねると、彼は栗色の髪を揺らして笑った。
「いやア、僕には無理だよ。僕の専門は、そうだなア……信用詐欺とでも云っておこうか。だけど僕も〝元〟だよ、〝元〟。足はとっくに洗ってる」
 ──元とはいえ、結局は詐欺師なんじゃないか!
 ふうっと気が遠のきかけ、蹲るように頭を抱えたが、アヤは「あらやだ」と嬉々として彼に絡んでいった。
「あなた、潜入だの金庫破りだの、いけ好かないくらい器用になんでもこなすんだもの。女を引っかけるくらいわけないでしょ」
「必要とあらば、まア……。だが気は進まないな」
「いけるわよぉー。今度やってみなさいよ」
「きみが面白がりたいだけだろう?」
 ……なんだこの会話は。
 勇は目眩をこらえ、眉間を揉み込む。
 彼らの他にどんな構成員がいるのか、組織はどれほどの規模なのか。まだわからないことだらけで正直、白日夢でも見ているみたいだとも思う。
 だがしかし、自分の想像がもし正しければ、この組織にいる連中は皆ことごとく元・詐欺師なんじゃないか? 共通点はおそらく、なんらかの理由で改心したことだ。今は心機一転、こうやって人助けをしているようだけど……それでどこまで信用できるのかは未知数だった。すでにさんざん騙されたし。
「さて」
 ぱんと膝を叩く音がして、勇はぎくりとした。
「ではさっそく、本日から姉君捜しを始めようか」
「あたしたちが引き受けてあげるんだもの、どーんと大船に乗ったつもりでいて頂戴よね。ふふっ」
 まるで退路を断つように笑顔で迫られ、片頰が引きつった。
 なんとしてでも姉を見つけ出したい、というのは噓ではない。そう、噓ではないのだが。
 あア、姉ちゃん。
 こいつらに頼んで本当に良かったのか──!?
2章
 四日後、午前十一時。勇はウィルに連れられ、御茶ノ水近くにあるミルクホールの向かいにいた。
 通りの角に建ち、窓を大きく取ったその店内は、飲み物や軽食を楽しむ若者で賑わっている。新聞を読み込んでいる青年に、シベリヤを頰張りながらお喋りする女学生。文化人の溜まり場となっている銀座のカフェーより、いくらか雰囲気が若々しい。
「せっかくだからゆっくりコーヒーでも……といきたいんだがね。今日は辛抱してくれたまえ」
 ウィルは中折れ帽の具合を直すかたわら、隣で飄々と云った。
「もちろんです」
 そううなずきはしたものの、勇の表情は硬い。あまりに急転直下な展開に、気持ちが追いついていないのだ。
 ミツ子が見つかった、とアヤが下宿に突然現れたのは昨夜のことだった。彼らの事務所を訪ねてから、まだたったの三日。
 まさか、と乾いた笑いを漏らした勇をよそに、彼女は一枚の写真を掲げた。
 ──ほらこれ。後藤田ミツ子で間違いないでしょう?
 ──え、ええ……。
 やや垂れた細い眉に、左顎の小さなシミ。控えめにまとめた庇髪も、歳のわりに落ち窪んだ目元も、三月前に見かけた彼女となんら変わっていない。
 ──ん、なら良かった。うちの調査員って優秀よねぇ。彼女、御茶ノ水のミルクホールの常連なんですってよ。さっそく明日面通ししましょ。いい?
 そう云ってアヤに半ば無理やり約束させられ、こうして出てきたものの……勇は右隣のウィルを盗み見、もやついた気分になった。
 この三ヵ月間、市街に出るたび目を光らせ、主要な駅や繁華街は探し尽くしたというのに──
「俺でも見つけられなかったんだぞ、って悔しい? あんた自信過剰っぽいしね」
 ぎょっと振り返ると、面白がるようにこちらを眺めていたのは、絣のハンチングを斜に被った小柄な少年。
 おまけに足元には、背負い紐つきの謎の木箱もある。
 なんだよ、これ?
 不信感をあらわにした勇を上目遣いに覗き、彼はふふんと唇をつり上げた。
「あア、紹介しておこうか。彼は日下部忠太。技術担当といったところかな」
「よろしく。あんた、名前なんだっけ」
「あ……小野寺。小野寺勇」
「ふぅん、勇ね。勇ましいっていうより、向こう見ずって感じだけど」
 さらりと無礼な発言をした彼は、着物に袴という格好だ。
 中に襟の立ったシャツを着込んだ、いわゆる書生風のいでたちだが、ハンチングの下の美貌はおよそ尋常ではない。細くてふわふわな髪の毛といい、まるで欧羅巴の宗教画から抜け出てきたかのようで、百人いれば百人が美少年だと認めるだろう。
「ほら、僕っていたいけな平和主義者だからさー。暴力とか荒々しいのって無理なんだよね。だからウィルに頼まれでもしない限り、普段は現場には出ない。けどまア、ちょうど試したいなーってところだったし」
 忠太はにやりと嗤うと、しゃがみ込んでさっきの木箱を開けた。
 華奢な指先が真っ黒に汚れているのは、機械油か何かだろうか。かと思えば、「じゃ、これ」と黒い塊を手渡される。
「偵察といったら、やっぱこれでしょ」
「はア」
「噓、まさか双眼鏡を知らない?」
「……実物を見たことがなかっただけだ」
 からかわれるように訊かれて、勇はむっとする。
「あアッ……ほんっと、この黒光りするボデー! 自分で作っときながらなんだけど、うっとりしちゃうよねえぇ。見てよ、この曲線美。所有欲を搔き立てられてやまない上品なテクスチュア!」
 忠太は溜め息を落とし、双眼鏡を矯めつ眇めつしては、こぼれそうに大きな双眸を熱っぽく潤ませている。
 残念というかなんというか……。せっかくの美少年が台無しだな、と呆れる勇の隣で、ウィルが咳払いする。
「忠太、こんな調子では日が暮れてしまうぞ。彼にも使い方を」
「あア、うん。仕方ないなア。まずはここを両手で持って、構え方はこう。このダイヤルを回せば、ちょうどいい位置に焦点が合う」
「へえ……。うまいことできてるんだな」
「でしょでしょ?」
 勇の感嘆を耳聡く拾って、忠太は声を弾ませる。
「これの参考にしたのは、海軍御用達の天佑号ってやつなんだ。それをウィルに手に入れてもらって、僕が限界まで小型化した。イチから部品を切り出さなきゃいけなくって、さしもの僕でも十日もかかっちゃったんだけど、この大きさなら手のひらにすっぽり収まる。諜報にはお誂え向きじゃない? さっすが僕! メカニクスの神様に愛されてるぅ!」
「……ふん」
 お気楽でいいよな、とも思ったが、この双眼鏡とやらはたしかにすごい。通りを挟んでいるというのに、客の鼻の穴まで覗き込めそうじゃないか。
 ひそかに感心しつつ、焦点を店の奥にずらしてやると、ちょうど来店したふたり組の客が席に着くところだった。こちらから見て左の壁際、窓から二番目の席。
 ──来た!
 何か思う間もなく、心臓がどきんと跳ねる。
「あれがミツ子でいいかい?」
 ウィルに耳元で訊かれて、ええ、と勇はうなずいた。
「連れの女も似たような年ごろですけど、壁を向いているほうがミツ子です」
「そのもうひとりに見覚えは?」
「ないですね。豆菓子もつまんでいるようだし、友人のように見えますけど……」
 そのわりには、両者とも雰囲気がよそよそしい。
 ウィルも隣で双眼鏡を構え、ふたりを観察していたのだが、なぜかしばらく不自然な沈黙が続いた。穏やかだった顔つきが、わずかに翳ったように勇には見えた。
「どうやら調査報告どおりなのかもしれないな」
「調査報告、ですか?」
「うん。この三日間で調べられた限りでは、ミツ子嬢は白妙会の末端会員らしい」
 白妙会って──。
 顔色が変わってしまったのだろうか。問うような視線を寄こされ、一瞬言葉に詰まる。
「ええと、たしか最近流行りの互助組織……ですよね。『利他の心を以て互いを助けよ』って、仏教の流れを汲んでるとか。俺でも知ってるくらいですよ」
 会員たちは皆信心深く、地獄のような辛苦から抜け出し、心を救われた者も多いと聞く。
「未成年じゃ入会できないらしいし、それ以上は知りませんけど……。でもミツ子さん、白妙会に入ってるなら、心穏やかに暮らしてるってことかな」
 最後は独り言のようにつぶやくと、ウィルと忠太はなぜだか複雑そうに顔を見合わせた。
「……まアいい、百聞は一見に如かずだ。実際のところはミツ子嬢に見せてもらうとしよう」

 その違和感に気づいたのは、怪訝に思いながらミルクホールに双眼鏡を戻したときだった。
 あの窓際の席、先刻までいたのは学生風の男じゃなかったか……?
 しかし今、そこでコーヒーを飲んでいるのは、やたらと目立つ洋装の女である。
「あ、やっと来たんだ。アヤが来なきゃ始まらないってぇのにさア」
 相変わらず気合い入ってるね、と忠太が面白がったとおり、今日の彼女は上着もスカアトも緑の幾何学模様だった。派手は派手だが、微笑みをたたえて優雅にコーヒーカップを揺らしているさまは、進歩的なお嬢様といったふうに見えなくもない。
 ウィルの合図で通りを渡り、店の硝子窓の下に身を潜めると、彼女の背後にミツ子の横顔が見えた。
 緊張した様子で話し込んでいるようだが、内容まではわからない。アヤの位置からなら聞き耳を立てられるだろうけれど……。
 そのとき、そんなもどかしさを察したかのように、目の前の窓にすっと隙間が開いた。
 澄まし顔のアヤがそこから垂らして寄こしたのは、細いコードだ。
 なんだこれ?
 勇は思わず手を伸ばす。
 が、好奇心のままにつまみ上げようとしたその矢先、左耳に何かを押し当てられた。ヒャッと飛び退ると、その何かは独楽状の黒い物体。尖った中心部から似たようなコードが生えている。
「今度は何を──」
「よしできた」
 嬉しそうな声に続いて、その独楽からキーンと音がした。
「な、なんだ……?」
 金属同士を擦り合わせたかのような不快感に、全身がそそけ立つ。
 反射的に独楽を耳から浮かし、文句を云おうとして──そこではたと気づいた。小雨のような雑音に混じって、人の声が聞こえることに。
「うわっ!? だだだだ誰か、誰か喋ってるぞこれ!」
「当然でしょ。盗聴器だもん」
「トウチョウ?」
「そ。盗んで聴く、と書いて盗聴。あんた、ものを知らなすぎじゃない? 盗聴しかり通信傍受しかり、先の欧州大戦でもとっくにやってることじゃん」
 またぞろ、お天道様に顔向けできないような真似を……!
 色を失くしたこちらに構わず、忠太はにやにやと機械をいじっている。
「もちろん云うまでもなく、こいつを開発したのも希代の天才たるこの僕ね。独逸のシーメンス社製の補聴器に真空管をつなげて、うまい具合に改造してやったんだ。集音箇所はってえと、アヤが持ってるあのハンドバッグ。ゆくゆくはもっと小型化したいし、増幅能力も上げたいんだけど……」
 そうこぼしたきり顔を伏せた彼は、前触れもなく思索の森に入ってしまったらしい。譫言のようにブツブツ何か云っているが、西洋彫刻のような無表情がかえって恐ろしい。
「忠太くん? おーい」
「こうなったら駄目だよ。しばらく戻ってこないだろうね」
 肩をすくめるウィルと顔を見合わせ、仕方がないので、その黒い独楽──正確にはレシーバーと呼ぶらしい──を再度耳に押し当てた。
 周囲の音をすべて拾ってしまってはいるけど、ミツ子の会話を聞き取るには充分だ。
『今日お誘いした理由なんですけれどね──』
 ほどなくして、耳に届いた覚えのある声に、勇は慌てて店内を覗き込んだ。
『実は私、どうしてもあなたにお伝えしたいことがあって。清水さん、あなた最近、お困りのことがあるんじゃないかしら』
『困りごと?』
『ええそう。たとえば……活計のこととか』
 相手は無言だったが、強張った表情は肯定しているに等しい。ミツ子は満足そうに言葉を継ぐ。
『これはいわゆる、知る人ぞ知る、というものなんですけれどね。今のあなたのようにお困りの方に、助けの手を差し伸べてくれる組織があるんです。互助組織、助け合いの輪、なんて云えばご想像いただけるかしら。白妙会というのがそれなんですけど、かく云う私も、そのおかげで暮らしがすっかり見違えたんです。ですから、ね。ぜひ清水さんも──』
 身ぶり手ぶりを交え、相手を口説くミツ子は、地味な外見にそぐわないほど情熱的だ。
 互助の精神のもと、会員たちが金を出し合い、困ったときには融通し合う。その心強さが庶民に受け、白妙会はここ一、二年で帝都じゅうに広まりつつあった。
 今の勇にはそれほど興味がないが、もし自分に入会資格があったら心惹かれることもあっただろう。
 ところが、
「──厄介だねぇ」
 忠太の声に我に返ると、彼は木箱の中の盗聴器本体をいじりながら、汚いものでも見たかのように顔をしかめていた。
「ああいうのが、いっちゃんタチ悪いよね。自分が何をしているのか全然わかってない。云うなれば善意の疫病神……や、違うか。みずから広げて回ってるんだし、疫病そのものだな」
「なんだよその云いぐさ」
 侮蔑もあらわなその態度に、勇はカチンと来る。「聞いてなかったのか? 彼女も云ってただろ、助け合いのための組織だって」
「へー。それを鵜吞みにする馬鹿って本当にいるんだ」
「なんだとっ……!」
 睨みつけたが、忠太はせせら笑うように顎を持ち上げる。
「あんたさア、千も二千も会員がいて、そいつらが全員清らかな心で勧誘してるとでも? 百歩譲って、『あなたのためを思ってぇー』とかいう聖人君子がいたとしてもだよ、そんな動機でここまで広まるわけないじゃん。無理だねそんなの。人が目の色変えて動くっつったら、やっぱし金だよ、金。助け合いどころか金づる探しなんだよ。あのミツ子って女だってどうせ──」
「喧嘩売ってんのか!?
「まアまア。忠太もやめなさい」
 ウィルに引き剝がされてもなお、忠太は舌を出している。
 勇は怒りが収まらず、一発殴ってやろうと拳を握り込んだのだが、
『でも……』
 レシーバーから硬い声が聞こえて、どうにか意識を引き戻した。ミツ子の勧誘相手だ。警戒する彼女をなだめるように、ミツ子の声も急に低くなる。
『──ここだけの話ですよ』
『え、ええ』
『もしも今後、あなたも会員になって他の方を入会させられた場合、報奨金をその都度いただけます』
 報奨金?
『それでまたひとり、苦境から救われたということですもの。善行は報われて然るべきです』
 窓の向こうで、ミツ子はうっとりと目を細めている。
『そうしてまた、救われた人が別の人を救えば、あなたのもとにも一定の率で報奨金が入ります。ほんの最初だけ、いくらか入会金を納める必要はありますけれど、その後を思ったら微々たるもの……。ね、この意味がおわかりでしょう? 救いの輪は途切れることなく、皆が幸せになれる仕組みなんです。あア、なんて素晴らしいんでしょう!』
 吐息を震わせ、着物の合わせを押さえたミツ子は、己の言葉に完全に酔いしれているようだ。
 けれども──緩んだ口元、熱に浮かされたようにとろけた瞳。そこに金への欲望をありありと見て取ってしまい、勇は言葉を失った。
「噓だ……」
 困ったとき、互いに助け合うための清廉な組織。
 ずっとそう思っていたというのに、報奨金? 誰かを入会させられれば?
「そんなはずは……そうだ、ミツ子さん、たまたま金に困ってたんだ。そうに決まってますよ……!」
 焦って理屈を探したが、ウィルは済まなそうに睫毛を伏せた。
「そこそこ口の立つ者なら、報奨金だけで食べていかれるほどだそうだよ。そのうえ入会者を増やしただけ、つまり会に貢献すればするほど、報奨金の額も会の中での地位も上がっていく」
「金と権力、一挙両得ってわけだな。みんな躍起になるはずだよ」
 忠太もウィルと同じく渋い表情だ。
「で、でも! 本当にミツ子さんが云ってたふうなら問題ないですよね!? 皆が揃って恩恵を受けられるんだったら、それで──」
「無理だ」
「無理でしょ」
「……そんな」
「入会金だけで報奨金を全額まかなうというのは、どだい無理な話だよ。入会希望者が無尽蔵にいるわけでもないからね。そう──仮にひとりの会員につき、三人を勧誘するとしようか。すると初代がひとり、二代目が三人、三代目が九人、四代目が二十七人……。忠太、十代目まで行ったときの会員数は?」
「二万九千五百二十四人だね」
 瞬時に弾き出された答えに、ウィルは肩をすくめる。
「そこまででもう、町田町の人口以上だ。あと数代も進めば、東京府の総人口すら越える。はなはだ非現実的だよ。こういった仕組みは破綻すると決まっているんだ。甘い蜜を啜れるのは、会員のうちでもごく少数の幹部だけ。残念だけどもね」
「け、けど……もし本当にそうだとしたって、会員の人たちは今まさに救われてるんですから。そんな先のことより、目先の平穏のほうが大事でしょうよ」
 ほとんどムキになって云い張ると、
「──きみにはまだ、物事の上辺しか見えないらしい」
 ウィルは困ったように唇を歪めた。「なにゆえ、これほどの勢いで広まっているのか。盲目的なまでに会員らが身を捧げるのはなぜなのか。きみは考えたことがあるかい」
「それは……」
「白妙会が真実無害なのであれば、我々が出るまでもない。会の存在を正当化し、弱った人心につけ入り、熱狂にさらなる火をくべるもの──それは一般にこう云われる。〝信仰〟とね」

 勇を我に返らせたのは、コンコン、という窓硝子を叩く音だった。
 顔を上げれば、アヤが不機嫌そうに耳元を指している。慌ててレシーバーを構え直し、耳を澄ますと、ミツ子が入会を断られているところだった。
 どこかほっとした気がする一方、俺は元詐欺師たちの云い分を信じるのか、と動揺が走る。
 まるで自分に裏切られたようで、思わぬ心もとなさに戸惑っていると、
『──待ってください!』
 ミツ子の叫びが響いた。『清水さん、あなたにもきっとおわかりになります。そう、私もね、はじめは半信半疑だったんですから。でもあの方──あの尊い方にお目にかかったとき、雷に打たれたように悟ったんです。神秘はたしかに存在するのだと』
 必死に説き伏せようとする彼女は、云いようもなく痛ましい。
 レシーバーを固く握ったまま、言葉もなく立ち尽くしていると、「どうだい?」と静かな声がした。
「これが白妙会の実態だよ。金欲しさに勧誘を繰り返すだけなら、自力で踏み留まれることもある。だが、白妙会には一種の加熱装置──つまり崇拝対象があってね」
「それが、彼女の云ってた……」
「〝やくし様〟というそうだ。やくし様からご加護を得るため、彼らは三度の食事まで切り詰める」
 ウィルはやるせなさそうに首を振る。
「〝やくし様〟について今把握できているのは、白の法衣姿だということ。僧兵のような袈裟頭巾をかぶり、目元以外を隠しているということ。そのくらいかな。法衣の仕立てから見て男のようだが、開祖本人なのか、現人神のつもりで祀っているのか……。もっと情報を集めたいところなんだが、中枢に食い込むのはさすがに難儀でね」
 短い溜め息につられて、勇も顔をうつむける。
「勧誘の流れとしてはまず、今のミツ子嬢のように一対一で話をするだろう? そうして、あとひと押しで落とせるという段になったら、今度は白妙会の本部に案内する。するとそこにはやくし様がおわしまし、目の前で摩訶不思議な力を披露してくれる──と、そんな流れに持ち込むのが常套手段らしい」
「入会特典みたいなもん?」
 しばらく大人しくしていた忠太が、ここぞとばかりに混ぜっ返した。
「まア、実質的にはそうかな。入会を渋っていたり、会そのものを疑っていた者でさえ、〝やくし様〟に対面してしまえば心を決めるというから、ただの底の浅い芝居というわけでもなさそうだよ」
「えー、何その云い方。まさかウィルまで信じちゃうわけ?」
「自分では現実主義者だと思っていたんだが……。勇くんみたいな特殊な才能もあると、身をもって知ってしまったからね。もう多少のことでは驚かないなア」
 ウィルは苦笑したかと思えば、ふっつりと押し黙った。その横顔は憂いを帯びていた。
「……仮にこの先、こうした組織が増えてくるようなら、法で規制するようにもなるのかもしれない。しかし現時点では、違法とまでは云えない。だから官憲も大っぴらには取り締まりできず、結果、会の活動はほとんど野放しだ」
「被害者、増えるばっかだよね。『会に注ぎ込みすぎて破産した』なんて依頼もいくつか来てたし。儲かるどころか、尻の毛までむしり取られて泣き寝入りだよ」
 地面の小石を蹴っ飛ばし、忠太までもが眉根を寄せている。
 だが──破産だの泣き寝入りだの、そんな話は勇の記憶のどこにもなかった。なぜだ、どうしてここまで認識が違う?
 動揺を気取られないよう、勇はとっさに顔を伏せたのだが、
「それで実を云うと」
「──え」
「きみから姉君捜しを頼まれるより前に、我々もさる筋から指示を受けていてね」
 さる筋? 指示?
 なんだよそれ……。心臓がいっそう嫌な鼓動を刻み始める。大日本クリーンサービスは独立した一組織じゃなかったのか?
「つまり、白妙会をどうにかするように、と」
「どうにかって……」
 声を掠れさせながらも、かろうじて尋ねる。
「今きみが想像したとおりだ。──〝白妙会を潰せ〟ということだよ」
 喉の奥で、ごくりと音がした。

 勇はしばしのあいだ、ここがミルクホールの前だというのも忘れて突っ立っていた。
 ぼやけた思考の合間に、どこかで聞いた声が響く。
 ──〝掃除人〟に聞き入れてもらえるかどうかは、神頼みの域。
 だとしたらなぜ、ただの人捜しである自分の依頼を、彼らはふたつ返事で引き受けたのか。ずっとくすぶっていた疑問の答えを、やっと見つけた気がする。
〝白妙会を潰せ〟という指令を受け、彼らはおそらく、会に関する情報を片っ端から集めていたのだ。
 会員からの搾取が本当なら──いまだに信じたくはないが──金がらみの揉めごとも多いはず。刃傷沙汰に限らず、物騒な事件がすでにあったのかもしれない。たとえば、強引な勧誘で恨まれた誰かが行方知れずになったとか。
 姉が失踪した二年前、白妙会という組織はまだ広まっていなかった。ゆえに彼らも、失踪事件でなければ興味を示さなかったかもしれないが、まさか姉ではなく、ミツ子のほうが白妙会と関係していたとは……。
 嬉しい誤算なのかな、と様子をうかがってみるも、ウィルは表情もなくミツ子らを見つめている。
 と、そのとき、レシーバーからがさごそと衣擦れの音がした。
『ごめんあそばせ』
 アヤの声に驚き、急いで店内を覗くと、彼女は大胆にもミツ子らのいる隣の席へにじり寄っていた。ミツ子の下手な勧誘ぶりに痺れを切らしたらしい。
『あなた方、見たところ帝都にお住まいでなくって?』
『え、ええ。まア……』
『実はわたくし、麴町のおじ様に呼ばれて大磯から出て参ったんですの。ですがおば様が所用を済ませるまで、ここで待つように云われてしまって……。それでコーヒーでもいただいて、仕方なく時間を潰していたんですけれど、あなた方なら年のころもわたくしと近いでしょう? どこか、帝都で面白い場所でもご存知ないかしら』
 謎の令嬢にいきなり乱入され、ミツ子らは戸惑いを浮かべている。
『……すみません』
 やがて、先に口を開いたのはミツ子のほうだった。『私たち、職場の同僚なんですけれど、どちらも地方者なんです。彼女は上京して一年で、私もまだ二年。街遊びにも不慣れですので、お嬢様のほうがお詳しいくらいじゃないかと』
『あら、そうなの?』
 アヤは大袈裟に驚く。『でしたらあなた、どうして帝都へ?』
 濃い──もとい、くっきりとした化粧顔は見慣れないようで、アヤに迫られたミツ子はもじもじと赤面した。
『それは、その……田舎で畑仕事に明け暮れるよりは、帝都なら華やかな仕事に就けるんじゃないかって』
『まア! それで出ていらしたの? そうですわよね、これからは女性も職業婦人として自立していく時代ですものね! 実に立派なお心がけだと思うわ』
 手放しで感嘆するアヤは、ぐいぐいと間合いを詰め、いつの間にやらミツ子らの卓子へと移ってしまっている。
『ですけれど……帝都にいらっしゃる際はおひとりだったんでしょう? わたくしだったら怖くて、とてもそんな勇気は出ませんけれど。どなたか頼れる方でもいらしたのかしら』
『はア。私はそのつもりだったんですが』
『つもり、と仰るのは?』
『学生時代の友人が、先に帝都へ越していたんです。……そうですね、私が一念発起できたのも、それを知ったのがきっかけです。……でも、そんな甘い考えではいけなかった、ということでしょうか』
 ミツ子は口ごもり、途方に暮れたように一度首を振った。そして哀しげに瞼を伏せる。
『──いざ上京してみたら、その友人は消えていたんです』
 気がつくと、勇は横面を張られたように放心してしまっていた。
 早鐘のように打ち始めた心臓が痛い。何か云いたげな目をウィルが向けてきたけれども、ただ息を詰め、ひとことも聞き逃すまいと盗聴器に集中する。
 その消えた〝友人〟というのが、俺の姉ちゃんなんじゃないか?
 けれども、引っかかるのは、「先に帝都へ越していた」という言葉だった。そんな話、一度として姉の口から出たことはない。百歩譲ってもし、姉が本気で転居を考えていたのだとしても、自分には真っ先に相談してくれていただろう。
 あり得ない──。
 だがそう思う一方で、駆け落ちなら、という思いも拭い切れなかった。弟に話すのは気恥ずかしくても、友人のミツ子だけには打ち明けていた? それはそれで悔しいけれど。
『お気の毒でしたこと……。だけれどそのご友人、どちらへ行かれたのかしら』
『さア……。それが、私にもまったくわからなくて。上京したらすぐ、転居先だと聞いていた住所を訪ねてみたんですよ。ですけど、そこももぬけの殻だったし、再転居先もわからずじまいで』
『ますます不可解ね……』
 勇を代弁するように独りごちたアヤに、ミツ子もこくりと顎を引く。
『もしも新居が気に入らなくて、すぐにまた越したのだとしても、せめてひとこと教えてくれれば……彼女、二度目の転居は誰にも知らせなかったんでしょうね。私に転居を知らせてくれた方も、それでずいぶんと塞いだご様子だったし。本当に罪作りだわ』
「え?」
『え?』
 勇とアヤの声が見事に重なった。
『あの、ちょっとお待ちになって。その転居の話というのは、直接ご友人から聞いたのではなくて?』
『あ……すみません。説明が足りませんでしたね。そうなんです、私に教えてくれたのは彼女じゃなくて。共通の知人、と云えばいいんでしょうか』
 ──共通の知人?
 彼女から前に紹介された方です、とミツ子は説明する。
『その方とたまたまお会いしたのは、ちょうど一昨年のいま時分、そう、桜が咲き始めたころでしたね。月一の所用で帝都に出たとき、ばったり出くわしたんですけれど、そしたら当然、彼女の話題も出ますでしょう? 転居したというので驚いていましたら、その方、彼女自身は上京したばかりで多忙だからと、新しい住所を代わりに教えてくださったんです。帝都育ちの方というのは、こんなに親切で洗練されているのかしらって、その意味でも驚いてしまったくらい。……あア、そうそう。しかも私ったら、自分も上京したいだなんて、ぽろっと云ってしまったものだから──』
 それでその知人は、情け深いことに、ビヤホールの女給という職を斡旋してくれたのだとミツ子は云った。その口調は控えめでありつつも、どことなく誇らしげだった。
 呼吸も忘れて聞き入っていた勇は、レシーバーにぎりりと爪を食い込ませた。
〝共通の知人〟というのは、いったい誰なんだ?
 勇の世話と家事に明け暮れていたこともあって、姉の交友関係はそう広くはない。勇の知る友人といったらミツ子くらいだし、それ以外には職場の食堂関係者がせいぜいだ。
 ──そういえば、あの子と親しげにしてた客の男がいたわねぇ。いやに垢抜けてるんで噂になってたのよ。あの子目当てに帝都から通ってるらしい、って。
 唯一思い当たるとするなら、前に怪しんでいた例の男なのだが、やはりそいつが姉を帝都に呼び寄せたのだろうか。そいつがミツ子の云う、東京出の〝共通の知人〟なのか?
 まとまらない考えに苛立ち、勇はレシーバーを放り出した。
「あっ、何すんだよ!」
 飛んできた文句は無視して店へ向かおうとする。ところが、ウィルに腕を取られるまでは一瞬だった。その力は存外に強い。
「……離してください」
「却下だ。きみが落ち着いてくれたなら、いつでも離すがね」
「なんでですか!? わかってるんなら行かせてください。せっかくミツ子さんがそこにいるんだ、俺が出ていって詳しく尋ねれば──」
「そこだよ」
「え?」
「直情。短絡的行動。きみは誰しも、問えば正直に答えると思っている」
 口調は穏やかなままだというのに、どこかぞくりとする圧を感じた。振り解こうとしていた腕を止め、勇は黙り込む。
「……勇くん。きみにとっての彼女はたしかに、この帝都における貴重な昔馴染みなのだろう。彼女は善人なのだと、そう信じたい気持ちもわかる。だが穿った見方をすれば、彼女が姉君の失踪に関わっている可能性も──いや、もっと端的に云おうか。彼女こそが、姉君を拉致した犯人なのかもしれない」
「そんなこと……!」
「ない、とどうして云える? 暴力的な事件というのは顔見知りによる犯行が多いものだよ。残念だが」
 ウィルは目を細くする。
「仮に彼女が犯人だった場合、ここできみが出ていって問い詰めれば間違いなく警戒する。一度そうなってしまえば、聞き出せるものも聞き出せなくなる。少なくとも、彼女が無関係だとわかるまでは軽率に動くべきではない」
「……でも!」
「今すぐ姉君のことを尋ねたいという、きみの心情はもっともだと思う。だが、きみは何につけてももっと慎重を期したほうがいい。これは年長者からの忠告だよ」
 ウィルの静かな視線にからめ取られるように、勇の焦りは急速に萎んでいた。
 俺、まだまだだな、と思う。姉ちゃんのこととなると、すぐに平静を欠いてしまう。これでもいちおう、自制しているつもりではあったんだけど……。
 そんな萎れ具合を察したようで、ウィルは肩を軽く叩いて解放してくれた。
 忠太からレシーバーを突きつけられ、悄然としたまま耳に当て直す。と、ちょうど窓の向こうで勧誘相手が立ち上がるところだった。
『それじゃ、また職場で。あたし今日は遅番だから』
『あ……』
 勧誘に失敗したミツ子は、腰も上げられずに見送っているようだ。
 しかしほどなくして、
『わ、私もそろそろ……』
 と我に返ったようにつぶやくと、彼女は引き留めようとするアヤを振り切り、そそくさと店を出ていってしまった。
「ウィルさん!」
 勇はもどかしく振り向く。ウィルは今度こそ大きくうなずいた。

 後始末を忠太に任せて大通りに出ると、通り沿いの柳の下にミツ子の羽織が見えた。
 勇とウィルは道行く人々を避けつつ、二区画ほどの距離を保って尾行する。空は桜の開花を渋るような曇天。行き交う人の合間を縫い、万世橋方面へと歩いていく彼女は背後を気にするそぶりもない。
「ミツ子の住まいというのは、もうわかってるんですか」
「うん。湯島の長屋に入っているらしい」
「さっきの〝共通の知人〟については?」
「それは僕も先刻、はじめて聞いたところでね。これから重点的に調べるとしよう。ミツ子嬢を白妙会に誘ったのも、その知人かもしれない」
 憂うように云われて、勇ははっとする。
 そうだ──。
 仮にミツ子の話が本当なら、その知人こそ、上京前後の彼女と接点があった数少ない人物ではないか。他に帝都に知己はいなかっただろうし、もし上京したばかりで心細い時期に誘われれば、その人物への憧れもあいまって入会してしまうかもしれない。
 勇は重苦しい気分で羽織の背中を追う。
 すると、次の市電の停留場が前方に見えたころ、ミツ子は細い路地の入り口で唐突に足を止めた。建物の陰に向かって何か話している。誰かに道でも訊かれたのだろうか。
 かと思えば、誘われるように路地へと入っていってしまう。勇もウィルと顔を見合わせ、駆け足で追いかける。
 数十秒ののち、ウィルに続いて角を曲がろうとしたのだが、勇はそこで鼻先に衝撃を受けた。
「ウィルさん? 急にどうし……」
 目の前を塞いだ背中から離れたとたん、喉頸の奥がひゅっと鳴る。本能的な警告が頭に響いた。
 ────見ちゃあ駄目だ。
 見ちゃあ駄目だ。
 見ちゃあ駄目だ。
 見ちゃあ駄目だっつってんのに……!
 ウィルの肩越し、その先の地面に焦点が合ってしまい、喘ぎのような息が、は、とこぼれた。
 路地の中ほど、赤黒い血溜まりに囲まれ、ミツ子は仰向けに倒れていた。──両目を見開き、茅色の着物をどす黒く変色させて。
「……心臓をひと突きだな」
 ウィルは傍らにしゃがむと、彼女の首筋に指を添えてかぶりを振った。
「凶器は刃物か。探すだけ無駄かな」
 そんなウィルの独白が勇の耳まで届く。
「店を出てひとりになったところを狙われたか……。このあたりは区割りが入り組んでいる。大通りとは反対に抜ければ、おそらく逃げるのもたやすい」
 彼がつぶやき、周囲を見回す様子もちゃんと視界に入ってはいる。
 だがしかし──
 ──なんだよ、これ。
 遅れて疑問が浮かんだとたん、全身の毛という毛がざあっと逆立った。細かな震えと同時に、苦くて酸っぱい胃液がこみ上げてきて、勇は路地の隅に駆け寄り、おえっと吐いた。
 喉が灼けたように干上がり、唾も吞めない。目を硬くつぶっても、赤黒い血とミツ子の死に顔が瞼にこびりついている。
「勇くん。大丈夫か」
 耳元でウィルの声がし、かろうじてうなずけはしたものの、すぐ背後で甲高い悲鳴が響いた。
 どれだけ時間が経ったのか、通行人もこの路地裏の惨状に気づいたらしい。振り向けば、路地の入り口に人が集まってきている。連鎖するように悲鳴がこだました。
「行こう」
 ウィルに腕をつかまれ、勇は引きずられるように路地をあとにした。
 ちょうどそのとき、正午の午砲があたりに轟いた。毎日聞いて耳慣れているはずだが、妙に現実味がない。まるで夢の中で反響しているみたいだ。そうだったらどんなにいいか、とおぼろげに思う。
「彼女を救えなかったのは悔やまれるが……今はともかく逃げよう。僕らが犯人だと疑われかねない」
 人混みの中で囁くように云われて、勇はびくっと正気に戻った。
「は、はい」
 野次馬を搔き分け、もがくように足を動かす。何度も肩をぶつけながら、ウィルの背中に必死についていく。と、そのさなか、
「気をつけろ!」
 すれ違った中年男から罵声を浴び、振り返った弾みにハッとした。
 ──錆鼠色の背広。
 現場近くの辻にたたずんでいるのは、襟足を刈り上げた若い男だった。野次馬たちより頭ひとつ抜けた長身。眼光は剃刀のように鋭利で、明らかに堅気ではない。
 どこかで見たような気がするけど……まさか、あいつがミツ子さんを?
「ウィルさん」
 勇は声を尖らせ、返事も聞かずに踏み出した。両者のあいだは三区画ほど。
 取っ捕まえてやる、と急いで通りを渡ろうとしたのだが、雑踏の向こうで男が身を翻した瞬間、ぐっと肩を引かれた。
「この距離では無理だよ」
「でも」
「どのみち丸腰では危ない。僕らも急ごう」
 あれに乗るんだ、とウィルが示した先には、停留場から発車しようとしている市電があった。彼に続いて、身体をねじ込むように飛び乗る。すぐさま首を巡らせ、昇降口から先刻の辻に目を凝らす。
 けれども、漠然と予感していたとおり、すでにあの男は煙のごとく消えていた。
「……誰だよあいつ……」
 俺はどこで出会った?
 焦って記憶をたぐるも、おかしい、という思いばかりが募っていく。
 市電はカーブを曲がった。速度が上がるにつれ、現場の人だかりも視界から外れていった。
 勇は昇降口の手すりをきつく握り締めながら、〝どこで見たのか思い出せない〟こと自体に戸惑っていた。

「あら、気がついた?」
 声とともにひやっとした冷たさを額に感じて、勇は薄く目を開けた。
「……う……」
 無意識に漏れた呻きは、見事に掠れている。
 何度か瞬き、徐々に頭がはっきりしてくると、ようやく自分がどこにいるのかわかった。掃除屋の事務所だ。……そうだった、戻ってきたんだったよな。
 無理することないわよ、と気遣ってくれたアヤに礼を云い、勇はソファーからだるい身体を起こした。
 濡れ手拭いがぽとりと足元に落ち、それを拾おうとして気がつく。奥の衝立から袴の裾が覗いている。
「……盗聴器の実地試験は、さっきので無事終了。で、使ってみての課題がいくつか見えたから、さっそく改良してるってわけ。まったく、のんきに倒れていられる奴がうらやましいよ」
 忠太は振り返ろうともせず、独り言めかしてつぶやく。相変わらずふてぶてしい態度といい、人を苛つかせることにかけても天才的だ。
 お前なんか、あんなの見たら絶対チビって泣き出すだろ。
 心の中で毒づいていると、外出していたのか、ウィルが書類封筒を片手に戻ってきた。
「気分はどうだい」
 起き上がっていた勇に気づくや、その眼差しがふわりと緩む。
「すみません。ご心配をおかけしました」
「いや、さっきは済まなかったね。僕の配慮が欠けていたよ。きみはその能力のこともあって、視覚からの刺激に弱いんだろう」
 気分が悪くなるのも無理はない、とウィルに慰められ、勇はシャツの上からむかむかする胃の付近をさすった。まさか死人が出るだなんて……。おまけに、目にしたものを忘れられないのがこんなにも辛いとは。
「もう少し寝てたらどう?」
「そうだな。まだ顔色が良くない」
 アヤとウィルから口々に勧められはしたものの、勇はソファーの上で姿勢を正した。
 こんな程度でへばっているわけにはいかない──。
 せっかく〝共通の知人〟という手がかりを得たのに、もはやミツ子と話すことさえ叶わなくなってしまったのだから。
「それで、何かわかりましたか」
 膝の上で拳を握った勇は、執務机に腰を預けたウィルを仰ぎ見た。
 ミツ子が襲われたのは、正午の午砲が聞こえる少し前だった。壁のボンボン時計は今、午後二時を回っている。
「それなんだが、今しがた調査員から報告が上がってきた。ミツ子嬢の遺体はあのあと、警察に収容されたらしい。今も現場検証が続いているようだが、何も出ない可能性のほうが高いだろうね」
 通り魔に見せかけた手練れの犯行だろう、という見立てには勇も同感だ。
 ミツ子に気取られないよう、距離を空けて尾行していたとはいえ、彼女が路地に入ってから勇たちが追いつくまでには一分もなかったはず。そのあいだに刃物を突き立てて絶命させ、姿をくらませる。そんな早業、素人には到底不可能だろう。
「犯人はもしかすると、彼女がミルクホールで同僚と会うのを知っていたのかもしれない。その時刻から見て、それが終われば直接職場に向かうのが自然だ」
「相手の人、遅番だと云っていましたしね」
「うん。当番表さえ手に入れてしまえば、勤務前にふたりが別れるところまでは想定できる。しかしそこまでするなら、仕事帰りまで待って襲えば良かっただろうに、なぜあんな白昼に凶行に及んだのか……」
 つぶやくように声を落としてウィルは黙り込む。
「あの娘、あたしが話した限りじゃ平々凡々って感じだったのにねぇ。殺されるほど人から恨まれることなんてしそうになかったけれど」
「わっかんないよぉー?」
 アヤの溜め息に続いて、ゴーグルを上げた忠太が衝立の奥から這い出てきた。
「殺される直前にしたって、あんなにしつこく勧誘してたじゃん。金と恨みは抱き合わせみたいなものなんだし、『よくも俺を騙してくれたな! 儲かるって云ったくせに! グサーッ』とかってさ。どこにでも転がってる話じゃない?」
 清らかな顔に似つかわしくない黒い嗤いを聞くうち、ざらついた不安が広がり、胸に満ちていく。
 ミツ子が殺されたのは、本当に金がらみのいざこざのせいなのか。
 いや、そもそも──
 彼女が白妙会の会員だったのなら、どうして教えておいてくれなかったんだ!?

「……俺、ちょっと頭冷やしてきます」
 それだけ云って立ち上がると、勇はふらりと事務所を出た。いてもたってもいられず、向かったのは上野の広小路だ。その道端に最寄りの自働電話室がある。
 受話器を取り上げ、交換手に電話番号を早口で告げた。回線がつながるのを待ちつつ、もどかしい思いで床を踏み鳴らす。
『はい、ソエジマ商会』
「あの、俺です。小野寺勇です」
 嚙みつくように取り次ぎを頼み、息を殺して待つあいだも、胸に兆した不安はどんどん枝葉を伸ばした。
 ──やっぱし金だよ、金。助け合いどころか金づる探しなんだよ。
 ──こういった仕組みは破綻すると決まっているんだ。
 声に紛れて、血まみれのミツ子の姿までちらつく。苦しい。今はとにかく、彼らの云うようなことは何もないのだと安心させてほしい。
 勇は知らず知らず、シャツの襟元をぎゅっと握った。そうして幾度目かに足を踏み換えたとき、耳馴染みのある声がした。
『……勇か?』
「副島さん!」
 思わず声が上擦る。
『どうした。連絡は手紙でと云ったはずだが』
「えっと、急ぎでお話ししたいことがあって……」
 掃除屋に接触してからというもの、出社は控えていたから、こうして話すのもほとんど半月ぶりである。
 副島宗親──。
 この男こそ、ソエジマ商会の社長であり、その智略で白妙会を見る間に帝都最大の互助組織にまで育てた、会の創設者なのだった。



*つづきは講談社タイガ『帝都上野のトリックスタア』本編でお楽しみください!

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