【お仕事】『ありがとう中毒』

文字数 2,085文字

【2020年10月開催「2000字文学賞:お仕事小説」受賞作】


ありがとう中毒


著・わらばんし

「あー、先生。それは『ありがとう中毒』っすね。」
 たまごサンドを頬に詰め込み、茶髪の青年はそう診断を下した。聞いたこともない症例だったが、笑い飛ばすにはひどく神妙に彼が言うものだから、健一もつい真剣に受け止めた。医者であるのは健一の方なのに。

 外科医である健一はいつも病院の中庭で昼休憩をとる。赤や黄色に色づく中庭でただ一点の青色に向かって歩く。
「こんにちは、清掃員さん。」
「ちわっす。先生。」
 彼の青い作業着はこの秋の風景に不釣り合いなほど目立つ。おまけに耳は金や銀で埋め尽くされていた。
「今日も隣いいかな。」
「もちろんすよ。今日寒いっすね。薄着なんすよ俺。ぴえんっすわ。」
「ぴえん?」
 いかにも「やんちゃ」を表した彼だが、話してみると親切だった。「ぴえんってのは、この絵文字で」と彼が嬉しそうにスマホを傾けてくれる。
 こんな風に彼と話すようになってから一週間程経つ。はじまりはベンチの端に座る彼と同じベンチの端にたまたま座った時に聞いた、彼の大きな独り言からだ。確か『くっそSSレア0かよ!』と叫んでいた気がする。健一はつい『ショックスコア』と勘違いし、声をかけてしまった。聞けばソーシャルゲーム内のランクの総称である『スーパースペシャルレア』の略だという。それからふたりは少しずつ他愛もないことを話すようになった。
 50年も生きている健一にとって、知らない言葉と出会い吸収することは新鮮で楽しかった。それに、元気な若者を見ると少し救われる気がした。
「なんか先生病んでます?隈えっぐいすね。」
 健一は人に指摘され初めて疲れていることに気づいた。眼鏡をはずし、目の脇の鼻筋を揉む。
「歳かなぁ。」
「なんかあったなら俺聞きますよ。意外に俺わかりみが深かったりして。」
 ケラケラ笑う青年につられ、健一もつい口元が緩んだ。緩んだ口元から、胸の奥の石のようなしこりがポロリと落ちた。
「最近、患者さんによく怒られてね。」
「なんて?」
「『何故死なせてくれないのか』って。」
 事故で完全麻痺となったアスリート、無理心中を図った母親、セルフ・ネグレクトに陥った老人。今にでも消えそうだった命の火を、健一は首の皮一枚で繋ぎ止めた。手術が成功した時、ほっと胸をなで下ろした安心感は、回診の際に踏みにじられる。『何故生かした』と罵られ、まるで重罪でも犯したかのように責められるのだ。
「あまりの剣幕に思わず『すみません』と言いそうになってね。情けないだろう?」
 外科医として当然のことをしたまでで、この確固たる信念が一瞬揺らいでしまった自分が恥ずかしかった。
 他人に話すと物事を客観的に捉え、整理することができる。健一は軽く息を吐き「それだけ」と青年に言った。つまらない話だ。
 だが、話を聞いた青年が冒頭の診断を下し、健一は目を丸くしたのである。

「先生は感謝されるのに慣れちゃったんすね。今はそう簡単に言わないんすよ。」
 青年はズボンで手を拭きながら続けた。
「例えば、道路工事をしているおっちゃんたちとか、邪魔って思うわけで。でも、道路がガタガタだと文句言うんすよ。仕事しろって。結局俺らって文句しか言わないんすよね。昨日とかイツメンのひとりが、定食屋で彼女が店員に『ごちそうさま』って言うのはおかしいってキレてて。あいつらは仕事でやってて奢った自分に言うべきだって。さすがに草でしたわ。」
 『笑った』と正しく解釈し、健一は頷く。確かに最近はどこもかしこも批判ばかりだ。
「今の時代、感謝する奴なんてURっす。ウルトラレア。どんな仕事でも誰かの仕事に対して文句は言うけど感謝はしない。そういう時代が来たんですよ。」
「そういう時代・・・。」
 青年の言葉を復唱して飲み込む。医者という職業柄、昔から感謝されることは多かった。そのことに自分は無意識に当然と思っていたのかも知れない。時代が変われば価値観が変わる。今こそ自分の意識を変えるべきなのだろう。時代には逆らえないのだから。
「そうだね。私は『ありがとう中毒』だったのかも。」
「全部時代が悪いんすけどね。」
 そう言って青年は立ち上がった。
「豚切りますけど、あ、話ぶったぎりますけど、俺今日でここの清掃員の仕事、最後なんすよ。」
「えっ。」
 理由を聞けば、昼休憩に話し込んでいる姿を誰かが本部に連絡したらしい。態度がよくないと。
「それはいけない。私が本部に説明しよう。」
「いや、いいっすよ。ちょうど清掃の仕事も飽きてきてたんで。」
 あっけらかんに彼はそう言って「本当に批判ばっかすよね」と息を吐いた。
「じゃ、先生。お元気で。」
「ああ。・・・君と話せて本当に楽しかった。たくさん勉強させてもらったよ。教えてくれてありがとう。」
 そう言うと彼は少し驚いて「確かに中毒性あるっすね、それ」と笑った。

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色