第11話
文字数 12,186文字
16 一歩踏み出す
明るい日射しの入る会議室は、今冷たい雪の林となっていた。
会議室には、本間 ルミの他にも、何人かのルミの部下たちが集まっていた。
そして──会議室の中、一人で立って朗読を続けている五十嵐 () 真愛 () 。
亜矢子は、会議室の隅に立って、真愛の語りに、「命令で仕方なく」聞き始めていた他の社員たちが、今や身をのり出さんばかりに引き込まれる姿を見守っていた。
──ルミも、身じろぎもせずに聞き入っていた。
「──雪は今日も山合の里を、静かに埋めて行きました」
真愛は口を閉ざし、深々と一礼した。
少し間があった。──それは戸惑いや退屈さのせいの間ではなかった。
「すばらしい!」
「ブラボー」
一斉に拍手が起る。
「ありがとうございました」
と、真愛もホッとしたように、自分に戻って微笑 () んだ。
ルミは、と見ると──。
しばらく拍手だけしていたルミだったが、立ち上ると、
「こんなにすばらしい女優さんがいたなんて」
と言って、真愛の手を取った。
「恐れ入ります」
「あなたが、今度の映画のヒロインなのね!」
と、ルミは力強く言った。「映画の成功は間違いないわ」
本間ルミの斜め後ろに座っていた正 () 木 () が、
「そう言ってくれると嬉しいよ」
と言った。
亜矢子 () は、もちろん胸をなで下ろしていた。むろん、大丈夫だろうと思ってはいたが、それでも不安は残っていた。
しかし、これで心配はなくなったのだ。
そして、亜矢子は、この場に呼ばれていた男女の社員たちが本当に感激したらしく、
「すばらしい経験でした」
「一生忘れられません」
と、口々に言って、真愛と握手して出て行くのを見て、嬉しかった。
普段、仕事に追われている中で、こんな時間を過すことはないのだろう。中には涙ぐんでいる社員もいた。
「仕事だけできればいいってわけじゃないのよね」
と、ルミは言った。「こういう充実した時間を体験することも大切。ね、正木さん」
「同感だね」
「このすてきな女優を、しっかり活かして使わなかったら、あなたを恨むわよ」
と、ルミは言って笑うと、「人は多少プレッシャーのある方が、いい仕事をするのよ」
と付け加えた。
そしてこの場に──といっても隅の方だったが。──もう一人、参加していたのは、シナリオの戸 () 畑 () 弥生 () だった。
「どうだった?」
と、正木に訊かれ、弥生は、
「胸が一杯です」
と答えた。
「そうか。こういう経験が、シナリオを豊かにするんだ」
「はい」
「これから打合せだ。何か意見があれば、何でも言っていいぞ」
「分りました」
と、弥生はしっかり肯 () いた。
「大したもんだな」
と、正木はビルの最上階からの眺めに感心した様子で、「一流企業というのは、こういうものを言うんだろう」
──本間ルミから、
「自由に使って」
と言われて、シナリオについての打合せを、ビルの最上階のサロンで行うことにしたのである。
広々としたフロアで、丸テーブルを囲んだ亜矢子たちは、自由に飲物を注文していた。すべてタダ、なのである。
「──我々のアイデアをどう思う?」
と、正木が五十嵐真愛に訊いた。
「三 () 崎 () のことをシナリオに取り入れることですね」
「もちろん、現実の三崎さんのことではありません。映画の中の設定として、です」
と、亜矢子は言った。「真愛さんが主役と発表されれば、すぐに三崎さんのことも分ります。それをこちらから公表してしまうんです」
「礼 () 子 () も、『それって面白 () い』と言っていました」
と、真愛は微笑んだ。「子供は、親が思っているより、ずっと逞 () しいですね」
「三崎さんのことについては、ご本人が無実を主張されているんですよね」
と、弥生が言った。「このことで話題になったら、何か新しい展開があるかもしれません」
「三崎が聞いたら喜ぶでしょう」
と、真愛は肯いて、「一度、面会して話そうと思っています」
「そう伺って安心しました」
と、亜矢子は言った。
「ただ──殺された相沢 () 邦 () 子 () さんの娘さんがいらっしゃるんですよね? このことをどう思われるでしょう?」
と、真愛が言った。
「その点はご心配いりません」
と、亜矢子は言った。「今、私の所にいるんですけど、このことも話してあります」
「まあ」
「むしろ、今回のことで、本当の犯人が分ったらいい、と言っていました」
「そんなことを……。三崎に伝えますわ」
真愛は涙ぐんでいた。
「三崎さんとはどういうお知り合いだったんですか?」
「私どもの劇団のお芝居を見に来てくれていたんです。同じ公演を何度も見てくれて、千秋楽 () の日には、表で待っていてくれました」
「それって、いつごろのことですか?」
「もう……九年たつでしょうか。三崎も独り暮しで、すぐに一緒に生活することになりました。一年余りして身ごもったんです」
「事件のことについて、何かご存知ですか?」
「いいえ」
と、真愛は首を振って、「寝耳に水でした。殺された相沢邦子さんのことも全く……。仕事のことはほとんど話さない人でした」
「じゃ、相沢邦子さんの名前も──」
「聞いた覚えがありません。ともかく、あの人が殺したなんて、そんなことあるはずが……」
正木がちょっと咳払いして、
「──分っておいてほしいのだが、これはミステリー映画ではない。あくまで中年男女の恋の物語だ。だから映画では、ヒロインの夫はほとんど登場しない」
「はい、承知しています」
「いいね」
と、正木は弥生の方へ、「ヒロインの夫が刑務所にいることは、ドラマの背景だ。そのつもりで」
「分りました」
と、弥生はメモを取った。
「その辺を加えて、四、五日で直せるかな?」
「大丈夫です」
と、弥生は力強く言った。
「よし。真愛君、シナリオで気になるところはないかな?」
「細かいところで二、三……」
真愛は、すでにシナリオを声に出して読んでいたので、「言いにくい」所を何ヵ所か挙げた。そして、
「でも、とてもいいシナリオだと思います。ヒロインが、生活している女になっていますね」
「──どうかな」
と、正木は言った。「これから、ヒロインの自宅としてロケに使う家を見に行くか? イメージがつかめるだろう」
「ぜひ!」
と、真愛と弥生が同時に言って、二人で笑った。
「車を手配します」
と、亜矢子はケータイを取り出した。
「──十分で来ます」
「では、ここを出よう。ルミに声をかけて行く」
「ただ、ひと言」
と、亜矢子が言った。
「何だ?」
「三崎さんが犯人でないなら、他の誰かが相沢邦子さんを殺したことになります。その本当の犯人にとって、五年前の犯行が話題になるのは迷惑でしょう。──万一ということがあります。三崎さんのことが公 () になったら、皆さん、用心して下さい。犯人が、何か行動に出ることも考えられます」
「そうか。亜矢子、お前、得意じゃないか、自分で犯人を見付けろ」
「気軽に言わないで下さい」
と、亜矢子は苦笑して、「前には、そのおかげで、殺されそうになったんですから」
真愛が目を見開いて、
「スクリプターって、そんなに危いお仕事なんですか?」
「いえ、普通はそんなこと、ありません」
と、すぐに打ち消して、「これには正木組だけの事情があるんです」
「じゃ、今度聞かせて下さい」
と、真愛は言った。
「こいつは不死身 () だからな」
と、正木が立ち上って、「真愛君、あんたはそのシナリオのことだけ考えろ。もし、何かあっても、我らの味方、亜矢子仮面が助けてくれる」
亜矢子は聞こえなかった
「──おい、亜矢子」
「何ですか?」
エレベーターの中で、正木が言った。
「主演の女優、男優が決った。製作発表をセットしてくれ」
「分りました。一週間後ぐらいで?」
「うん、いいだろう」
「そんなに早く?」
と、真愛がびっくりして、「何を着ればいいんでしょう?」
「衣裳は用意する。心配するな」
と、正木が言った。
「あ……」
と、亜矢子が思い付いて、「──監督」
「何だ?」
「本タイトル、決めて下さい」
「そうか! 忘れてた」
今のシナリオには、仮のタイトルがついている。
「製作発表するのに仮タイトルじゃ──」
「分ってる! ──今夜考える」
正木の頭の中では、もう映画が始まっているようだった。タイトルを飛ばして。
打合せの日に──というより、打合せが終ってエレベーターが一階に着くと、すぐに亜矢子は製作発表の会場を押えた。
そして、それからの一週間は、いつもの倍のスピードで働いたと言ってもいいだろう。
チーフ助監督の葛 () 西 () も、もちろん手伝ったが、亜矢子について行くのは大変で、結局ほとんどの仕事は亜矢子がこなした。
そして、一週間後……。
「大変お待たせいたしました」
紺のスーツ姿で、マイクを握っていたのは、亜矢子自身だった!
何といっても、メジャーな大作ではない。少しでもむだなお金は使わない、という亜矢子の方針だった。
「ただいまから、正木悠介 () 監督の最新作、〈坂道の女〉製作発表記者会見を始めさせていただきます」
こういうとき、亜矢子の普段の人付合いがものを言う。
会場は、ほとんどの主なメディアが取材に集まっていた。
「では、監督、並びに主な出演者にご登場いただきます。拍手でお迎え下さい!」
正木を先頭に、五十嵐真愛、橋 () 田 () 浩吉 () 、そして水原 () アリサも駆けつけてくれていた。
「──では、正木監督よりご挨拶 () をお願いいたします」
集まった人々が、みんな手もとに配られた資料をめくっている。これも亜矢子の作ったものだ。
特にヒロイン役の五十嵐真愛のことは、ほとんど知られていないので、みんな興味深げに眺めていた。
正木がマイクを手に取った。
さあ、ここからは、ひたすら映画の完成に向って進むだけだ!
亜矢子は、会場の隅に立っている今日 () 子 () を見付けて、小さく手を振った。ずっと亜矢子のマンションに居ついてしまっているのだ。よほど居心地がいいらしい……。
ひと通りコメントが終った後、再び正木がマイクを持った。
「今回、ヒロインを演じてもらう五十嵐真愛君について、付け加えておくことがある。映画の中で、主人公の夫は刑務所に入っているという設定だ。実は、五十嵐君の夫に当る男性も、今刑務所に服役中なのだ」
会見場がざわついた。正木は続けて、
「その辺の事情については、ここで話すと長くなる。──亜矢子」
亜矢子はマイクを手にして、
「出口の所に、五十嵐さんの配偶者である三崎治 () さんについてまとめたプリントが置かれていますので、お帰りの際にお取り下さい。現在分っていることはすべて書かれています」
この場で質問に答えていたら、映画の製作発表でなくなってしまう。それを避けるための方法だった。
「では、この後、写真撮影に移らせていただきます」
うまく行った! 亜矢子は胸をなで下ろしながら、写真撮影のセッティングを始めた。
17 クランク・イン
「じゃ、始めよう」
正木のその言葉で、スタッフが一斉に緊張する。
正木がカメラマンの市原 () へ目をやる。市原が肯く。
「よし。──用意。スタート!」
カチンコが鳴って、カメラが回る。
亜矢子が何度も上り下りして汗をかいた坂道。──新作〈坂道の女〉のファーストカットにふさわしく、ヒロインが買物の袋をさげて坂道を上って行くカットである。
いかにも重そうに、袋を途中で右手から左手に持ち換えたりして、五十嵐真愛は坂道を上って行く。
秒数を測りながら、亜矢子は真愛の後ろ姿ににじむ生活の疲れを感じて、舌を巻いた。
ほとんど坂道を上り切るまでの長いカットだった。使うのは半分にもならないだろうが──。
「カット!」
正木の声が坂道に響いた。「OK!」
幸先がいい、と亜矢子は思った。この調子で……。
すると、夕方になって、夕陽が坂道をオレンジ色に照らし始めた。
「おい、待て!」
と、正木が怒鳴った。「この色がいい! もう一度だ! 真愛! 坂の下へ戻れ!」
ああ……。やっぱり、正木はいつもの正木だった。
亜矢子は、ちょっとため息をついて、
「テイク2」
と呟 () きながら記入した。
列車から降りて来て、左右を見回しているのを見て、叶 () はすぐに分った。
「落合 () さん!」
と、声をかけながら、足早に、「どうもあのときは……」
「あんたか」
と、落合喜 () 作 () は言った。「わざわざすまんね、迎えに来てもらって」
「いえ、いいんです。あ、持ちますよ」
落合喜作は、古ぼけた旅行鞄一つだった。
「車で来てますから、駐車場まで、ちょっと歩いてもらえますか?」
「もちろんだとも。あんな田舎 () じゃ、ちょっと用を済ますにも一時間も歩く」
と、しっかりした足取りで、ホームから階段を下りて行く。「今日子は元気にしてるかね?」
「ええ。映画のスタッフの女性の所に泊っています。とても仲良くしていますよ」
「それならいいが。迷惑をかけとらんかね」
「とんでもない! とてもしっかりした、いい子ですね」
「しっかりし過ぎとるところはあるがね」
と、喜作は苦笑した。「学校も休んじまって、どうするんだ、と電話して言ってやったが、『今、手が離せないの』と言って切ってしまった」
「大人ですよね。とても十六とは思えないです」
「まあ、ともかく頑固で、言い出したら聞かん奴だからな。──時に、今はどこに行くんだね?」
「撮影所に。今日子ちゃんもいますから」
「そうか」
「一応、ビジネスホテルを取ってありますが、旅館の方がいいですか?」
叶は、乗って来た自分の小型車に喜作を乗せて、撮影所へ向った。
「わしはどこでも寝られりゃ構わんよ」
と、喜作は言った。
「今日子ちゃんは、亜矢子さんってスタッフの所にいたいと言ってます。楽しいようですね」
「そうかもしれんな。母親が死んでから、ずっとわしと二人だ。好きなようにさせとくさ」
道が少し混んでいたが、
「ここを抜けると、もう十五分くらいですから」
と言って、チラッと後ろを見ると、落合喜作はぐっすり眠り込んでいた。
「そこは自然に動いてくれ」
と、正木が言った。「橋田君、真愛に合わせてやってくれ」
「分りました」
と、橋田が肯く。
「すみません。慣れていないもので」
と、真愛が恐縮している。
「構やしませんよ。好きなように」
と、橋田は首を振って、「主役はあなただ。もっと図々しくなっていいんですよ」
「そんなこと……」
「いや、さすがに舞台の人ですね。セリフがはっきり聞こえる」
その橋田の言葉を聞いて、録音のベテラン〈ケンさん〉こと大村 () 健一 () が、
「その通り! ちょっと呟いてもはっきり聞き取れるよ」
と言った。「若い役者は見習うべきだな」
「あんまり持ち上げないで下さい」
と、真愛は困ったように笑った。
「それと……監督」
と、亜矢子が言った。
「何だ? 文句でもあるか」
こういう軽口を叩くときは上機嫌である。
「この後、戸畑佳世子 () さんの初カットですよ。みんなに紹介してあげて下さい」
「ああ、そうだったか」
正木は細かいことまで憶えていられない。そういう気配りは亜矢子の役目で、正木も信じて頼り切っているのだ。
「監督、おはようございます」
シナリオの戸畑弥生が正木の方へやって来た。「娘をよろしく」
「今、話してたところだ」
佳世子が、映画の衣裳とメイクでやって来た。
若々しいブラウスとスカートに、エプロンをして、真愛と橋田が会っているカフェのウエイトレスの役だ。
「今回のシナリオの戸畑弥生君の娘、佳世子君だ」
と、正木が大きな声で言うと、スタジオの中で拍手が起る。
「よろしくお願いします」
と、佳世子は深々と頭を下げた。
「皆さんのお邪魔にならないでね」
と、弥生が言うと、
「分ってるよ。お母さん、見てないでよ」
「どうして? 見たいわよ」
「気になっちゃうよ、その辺に立っていられたら」
「はいはい。見えないところに引込んでるわよ」
「佳世子」
と、正木が言った。「君のやるウエイトレスは、真愛のことを、よく店に来るので知っている。橋田と会っているのを、ちょっと好奇心を持って見てるんだ。いいね」
「はあ……」
「このシーンだけじゃないぞ。この後、恋に落ちる二人を遠くから見守っている役だ」
それを聞いて、弥生がびっくりした。
「監督、佳世子にはこのシーンしか書いてませんが」
「分ってる。今そう思ったんだ。書き足してくれ」
こういうことを平気で言うのが監督なのである。
「じゃ、ともかくこのカットを。──佳世子、カウンターからコーヒーカップののった盆を持って行く。『お待たせしました』だな、ここはひと言だけ」
「分りました」
慣れていなくても、覚悟の決め方がはっきりしている。もともと独立心の強い子だとは聞いていた。
あんなに言っていながら、いざテストとなると、母親のことなど目に入らない様子だった。
「おい、いくぞ」
正木がカメラの方をチラッと見る。
やる気だな、と亜矢子には分った。
「用意! スタート!」
佳世子が盆を持って行くのをカメラがパンして追う。
「お待たせしました」
ちゃんとコーヒーの入ったカップをテーブルに置く。テストなら、まだコーヒーは入っていない。
真愛が、コーヒーを静かにかきまぜて、
「あの後はどうなさったの?」
と、橋田に訊く。
「歩きました、一人で。雨に降られて濡れましたがね」
「風邪ひきませんでしたか?」
「考えることが多くて、風邪をひいてる暇がありませんでしたよ」
と、橋田がカップを取り上げる。
「──カット! OKだ」
佳世子がびっくりして、
「本番これからですよね?」
「いや、今のを撮った。力まないで、自然で良かった。──おい、亜矢子、次のカットだ」
「葛西さん、お願い」
と、亜矢子が立ったのは、スタジオに、叶が入って来たからだった。後について、今日子の祖父らしい老人が入って来る。
「あ、おじいちゃん!」
今日子がいつの間にかスタジオの中にいた。
「今日子ちゃん! いつ来たの?」
と、亜矢子も面食らっている。
「さっき。ずっとその隅で見てた」
と、今日子は言った。
「よく寝てるか」
落合喜作は亜矢子や正木に挨拶して、
「孫をよろしく」
「おじいちゃん。私、出演するわけじゃないよ」
「よし、今夜は一緒に飯を食おう。亜矢子、どこか──」
「捜しときます。何人ですか?」
──あわただしい日々が始まっていた。
焼肉の店で、テーブルが二つに分かれた。
亜矢子は、長谷倉 () ひとみと叶連之介 () と三人で小さなテーブルを囲んだ。
「何か分ったこと、ある?」
と、亜矢子が訊いた。
食べる手はしっかり、止めなかった。
「三崎って人は、評判は良かったみたいですね」
と、叶が言った。「面倒見がいいと言われてたと聞きました」
叶もひとみも、せっせと食べている。亜矢子は、大きなテーブルで、にぎやかに食事している正木や落合喜作たちを見やって、
「あのおじいさん、八十? 見た目は確かに老けてるけど、あの食欲は立派ね」
「食欲だけじゃないですよ。足も速くて、ついて行くのが大変」
亜矢子は今日子がこっちを見て手を振るのを見て、思わず微笑むと、手を振り返した。
「──でも、事件からもう五年たってるので」
と、叶が言った。「三崎さんのような仕事だと、長く同じ所に勤めることが少ないんでもう三崎さんを知ってるという人が、ほとんどいなくなってます」
「分るわ」
と、亜矢子は肯いて、「謎なのは、三崎さんの言うのが本当だとすれば、だけど、相沢努 () さんの消息が分ったと邦子さんに連絡したのが誰なのか、ってことね。それを信じて邦子さんが上京し、殺されたんだから」
「亜矢子、それって、邦子さんを殺したのが計画的な犯行だった、ってこと?」
と、ひとみが言った。
「そう……。三崎さんの、成り行き的というか、突発的な犯行ってことになってるけど、それと、邦子さんを東京へ来させたことと、何だか矛盾してるような気がする」
亜矢子が息をついて、「もうお腹一杯! 残りのお肉、食べてね」
「お任せを」
と、叶が張り切って身をのり出す。
「ちょっと! 少しは遠慮してよ」
と、ひとみが叶をつついた。
「だって、残しちゃ損だろ」
「そりゃそうだけど……」
と言いつつ、ひとみも食べ続けていた。
「損か得か……」
と呟いて、亜矢子は、「そうね。──そうだわ」
「何の話?」
「殺人の動機。もし計画的に邦子さんを殺した人間がいたとして、邦子さんを殺して何の得があったのか」
「そうね……。別に大金を持ってたわけじゃないし」
「もちろん、損得だけでは考えられないけど、人を殺すって、よほどのことよ」
──こういう話をするために、亜矢子はひとみと叶を、このテーブルへ連れて来たのだった。
本当なら、正木との会食に、ひとみも加わる立場ではない。しかし、叶が喜作の案内役ということもあって、一緒に来たのだ。
五十嵐真愛は、礼子のことがあるので、会食には加わらない。何といっても、子供のことが第一だ。
「──あの記者会見の反応は?」
と、ひとみが訊いた。
「うん。しっかりどこも記事にしてくれた。でも、真愛さんと三崎さんのことは、なかなかね。刑が確定して服役してる人のことを書くのは難しいんでしょう」
と、亜矢子は言った。「でも、三崎さん以外に犯人がいるとすれば、必ず記事を見ているはず。そして、たとえわずかでも、三崎さんがやってないかもしれないと考える人が出て来る可能性があれば、じっとしていられないと思うわ」
「そうね。──ね、叶君に危いことやらせないでよ」
「僕は大丈夫だよ」
と、叶は言った。「最後の一枚、もらうよ!」
「お疲れさまでした」
タクシーがビジネスホテルの前に停る。
「じゃ、荷物を運びますよ」
と、叶はタクシーを降りた。
「じゃ、おじいちゃん、明日またね!」
と、今日子が喜作に手を振る。
喜作を部屋へ送って、叶は戻って来た。
「僕、ここで、ひとみと飲みに行くんで、待ち合せてるんです」
「あら、いいわね」
と、亜矢子はひやかして、「じゃ、今日子ちゃん、私たちも飲みに行く?」
「うん! どこにでも行く!」
「ちょっと! 冗談よ」
叶を残して、タクシーは亜矢子のマンションへと向う。
「今日子ちゃん、いいの? 一晩くらいおじいちゃんと一緒にいなくて」
「いいの」
と、今日子は大して気にしていない様子で、「おじいちゃんとはずっと一緒なんだもの」
「だけど……。喜作さん、心配してたってよ。あなたの学校のこととか。ずっと東京にいるのは……」
「亜矢子さん、私がいると邪魔?」
「そんなこと言ってないわ! 私はいいのよ。ただ……」
「私、帰りたくない」
と、今日子が言った。
「──え?」
「ずっと東京にいたい」
「今日子ちゃん……」
「亜矢子さんに迷惑かけない。どこかで働いて暮す」
「でも──せめて高校出てからにしたら?」
「それじゃ遅いの」
今日子の言葉に、亜矢子は戸惑った。
「今日子ちゃん、それって──」
「遅いの」
と、今日子はくり返すと、タクシーの外の方へと目をやって、それ以上何も言わなかった。
18 消える
「カット!」
正木の声が辺りに響いて、「──OK! よし、昼飯にしよう」
撮影所なら、食堂へ行けばすむのだが、今日はロケ先。
住宅地の中で、あまり食事できる所がない。もちろん、ほとんどのスタッフはロケ用の弁当だ。
しかし、正木はそういうわけにいかない。ともかく寛いで、コーヒーでも飲める所でないと……。
亜矢子は、何とか見付けた喫茶店に正木を連れて行った。真愛と橋田も一緒だ。
「よろしくお願いします」
と、喫茶店の人に頼んで、「カレーならできるそうですので撮影所のとは味が違いますから」
一応、前もって亜矢子が食べてみて、これなら正木も機嫌悪くならないだろう、と判断していた。
「亜矢子さん、食べないの?」
と、真愛が言った。
「スクリプターはお昼なんて食べてる暇はないの」
と、わざと大げさに嘆いて見せて、「じゃ、迎えに来ます」
急いで外へ出ると、まずケータイの電源を入れる。──撮影中は切ってあるので、何件もメールや着信がある。
「──あら」
叶から、何度もかかっていた。「何かしら?」
叶のケータイへかける。
「──もしもし? どうしたの?」
と訊くと、
「亜矢子さん! 大変なんです!」
と、叶の上ずった声が飛び出して来た。
「何よ、びっくりするじゃない!」
「ホテルから──あの、落合さんの泊ってるビジネスホテルから連絡があって」
「え? 喜作さんがどうかしたの?」
いくら元気とはいえ、八十歳だ。具合が悪くなることもあるだろう。
「それどころじゃないんです! こっちに来て下さい!」
叶はあわてふためいていた……。
「これって……」
亜矢子は愕然 () とした。
喜作の泊っていた部屋の中は、服や靴、下着、手帳などが放り投げてあった。
誰かが、喜作の持物を荒らしたのだ。
「──で、喜作さんは?」
と、亜矢子は叶に訊いた。
「分りません」
と、叶は首を振った。
「あの……ホテルの方?」
と、亜矢子は、スーツ姿の男に言った。
「はあ……。シーツ交換に来た者が、ドアを開けると、こんな状態で」
「落合さんはいなかったんですね?」
「さようです」
「どこかに出かけたとか……」
「さあ……。フロントは無人ですので」
それはそうだ。──しかし、一体何があったのだろう?
バスルームを覗いたが、カミソリなどは置いたままだ。
「──どうします?」
と、叶が言った。
「どうするって……。私、ロケに戻らないと」
「警察に知らせますか?」
亜矢子は迷った。
もちろん、これはどう考えてもまともな状態とは言えない。しかし、何があったのか、手がかりらしいものが見当らない。
「あの──荷物をまとめてお出になっていただけると……」
ホテルとしては、面倒なことに巻き込まれたくないのだろう。
亜矢子は、仕方なく電話をかけた。
「──もしもし、倉 () 田 () さん? お願いがあるの。助けて!」
「おじいちゃんが?」
今日子は、亜矢子の話に目を丸くした。
「喜作さんから何も連絡なかった?」
と、亜矢子が訊くと、今日子はケータイを取り出して、
「──何も来てない。おじいちゃんもケータイ持つようにしたのよ。私が東京へ出て来てから」
「かけてみてくれる?」
しかし、今日子がかけても、つながらなかった。正木が、
「おい、亜矢子、始めるぞ!」
と呼んだ。
「はい! 今日子ちゃん──」
「何かあれば言うわ。でも、おじいちゃん、元気だから大丈夫だと思うけど」
「だといいけどね。──はい、今すぐ!」
亜矢子は、ロケに使っている古い大きな民家の廊 () 下 () を駆けて行って、
「キャッ!」
ステン、と転んでしまった。
廊下がよく磨いてあって、滑るのである。
みんなが大笑いした。
「もう……。いたた……」
と、腰をさすりながら、亜矢子は自分の定位置についた。
家の中が広いので、そのまま撮影に使っている。これをロケセットと呼ぶ。
ここでは五十嵐真愛の出番はないが、ちゃんと撮影を見に来ている。
「──よし、OK!」
二つ三つ、カットを撮ってから、正木は、
「アリサ、来てるか?」
と振り向いた。
「はい、ここに」
水原アリサの出るシーンがあるのだ。
「夕方になるぞ、出番は」
「はい、分ってます。今日は他に仕事入れてませんから」
「よし、縁側に移動!」
と、正木は言って、みんなが一斉に動き出す。
亜矢子は、いつの間にか、真愛が水原アリサと親しげに話しているのに気付いた。
真愛の方が十歳くらい年上だが、そんな違いを感じさせずに、まるで学生時代からの友人同士のように、笑い合っていた。
「──羨 () しいわ、真愛さんが」
と、アリサが言った。
「どうして?」
「だって、こんなにいい役で……。私もあと十年したら、こういう役ができるかしら」
「あなたは人気スターじゃないの。仕事はいくらも……」
「でも、正木監督みたいに、私の中から自分でも知らなかったような部分を引出してくれる人は少ないわ」
「ああ、それは……。初めての映画での大きな役が、正木監督の作品でやれるって、幸せだわ。日々、そう思う」
「本当ね! 私もまた、正木作品でヒロインを演 () りたいわ」
二人の会話をそれとなく聞いている内、亜矢子は何だか胸が熱くなって来た。正木さんは幸せだ……。
「おい、亜矢子!」
正木の声が飛んで来て、
「はい!」
と、亜矢子はシナリオを抱えて駆けて行った……。
(つづく)
明るい日射しの入る会議室は、今冷たい雪の林となっていた。
会議室には、
そして──会議室の中、一人で立って朗読を続けている
亜矢子は、会議室の隅に立って、真愛の語りに、「命令で仕方なく」聞き始めていた他の社員たちが、今や身をのり出さんばかりに引き込まれる姿を見守っていた。
──ルミも、身じろぎもせずに聞き入っていた。
「──雪は今日も山合の里を、静かに埋めて行きました」
真愛は口を閉ざし、深々と一礼した。
少し間があった。──それは戸惑いや退屈さのせいの間ではなかった。
「すばらしい!」
「ブラボー」
一斉に拍手が起る。
「ありがとうございました」
と、真愛もホッとしたように、自分に戻って
ルミは、と見ると──。
しばらく拍手だけしていたルミだったが、立ち上ると、
「こんなにすばらしい女優さんがいたなんて」
と言って、真愛の手を取った。
「恐れ入ります」
「あなたが、今度の映画のヒロインなのね!」
と、ルミは力強く言った。「映画の成功は間違いないわ」
本間ルミの斜め後ろに座っていた
「そう言ってくれると嬉しいよ」
と言った。
しかし、これで心配はなくなったのだ。
そして、亜矢子は、この場に呼ばれていた男女の社員たちが本当に感激したらしく、
「すばらしい経験でした」
「一生忘れられません」
と、口々に言って、真愛と握手して出て行くのを見て、嬉しかった。
普段、仕事に追われている中で、こんな時間を過すことはないのだろう。中には涙ぐんでいる社員もいた。
「仕事だけできればいいってわけじゃないのよね」
と、ルミは言った。「こういう充実した時間を体験することも大切。ね、正木さん」
「同感だね」
「このすてきな女優を、しっかり活かして使わなかったら、あなたを恨むわよ」
と、ルミは言って笑うと、「人は多少プレッシャーのある方が、いい仕事をするのよ」
と付け加えた。
そしてこの場に──といっても隅の方だったが。──もう一人、参加していたのは、シナリオの
「どうだった?」
と、正木に訊かれ、弥生は、
「胸が一杯です」
と答えた。
「そうか。こういう経験が、シナリオを豊かにするんだ」
「はい」
「これから打合せだ。何か意見があれば、何でも言っていいぞ」
「分りました」
と、弥生はしっかり
「大したもんだな」
と、正木はビルの最上階からの眺めに感心した様子で、「一流企業というのは、こういうものを言うんだろう」
──本間ルミから、
「自由に使って」
と言われて、シナリオについての打合せを、ビルの最上階のサロンで行うことにしたのである。
広々としたフロアで、丸テーブルを囲んだ亜矢子たちは、自由に飲物を注文していた。すべてタダ、なのである。
「──我々のアイデアをどう思う?」
と、正木が五十嵐真愛に訊いた。
「
「もちろん、現実の三崎さんのことではありません。映画の中の設定として、です」
と、亜矢子は言った。「真愛さんが主役と発表されれば、すぐに三崎さんのことも分ります。それをこちらから公表してしまうんです」
「
と、真愛は微笑んだ。「子供は、親が思っているより、ずっと
「三崎さんのことについては、ご本人が無実を主張されているんですよね」
と、弥生が言った。「このことで話題になったら、何か新しい展開があるかもしれません」
「三崎が聞いたら喜ぶでしょう」
と、真愛は肯いて、「一度、面会して話そうと思っています」
「そう伺って安心しました」
と、亜矢子は言った。
「ただ──殺された
と、真愛が言った。
「その点はご心配いりません」
と、亜矢子は言った。「今、私の所にいるんですけど、このことも話してあります」
「まあ」
「むしろ、今回のことで、本当の犯人が分ったらいい、と言っていました」
「そんなことを……。三崎に伝えますわ」
真愛は涙ぐんでいた。
「三崎さんとはどういうお知り合いだったんですか?」
「私どもの劇団のお芝居を見に来てくれていたんです。同じ公演を何度も見てくれて、
「それって、いつごろのことですか?」
「もう……九年たつでしょうか。三崎も独り暮しで、すぐに一緒に生活することになりました。一年余りして身ごもったんです」
「事件のことについて、何かご存知ですか?」
「いいえ」
と、真愛は首を振って、「寝耳に水でした。殺された相沢邦子さんのことも全く……。仕事のことはほとんど話さない人でした」
「じゃ、相沢邦子さんの名前も──」
「聞いた覚えがありません。ともかく、あの人が殺したなんて、そんなことあるはずが……」
正木がちょっと咳払いして、
「──分っておいてほしいのだが、これはミステリー映画ではない。あくまで中年男女の恋の物語だ。だから映画では、ヒロインの夫はほとんど登場しない」
「はい、承知しています」
「いいね」
と、正木は弥生の方へ、「ヒロインの夫が刑務所にいることは、ドラマの背景だ。そのつもりで」
「分りました」
と、弥生はメモを取った。
「その辺を加えて、四、五日で直せるかな?」
「大丈夫です」
と、弥生は力強く言った。
「よし。真愛君、シナリオで気になるところはないかな?」
「細かいところで二、三……」
真愛は、すでにシナリオを声に出して読んでいたので、「言いにくい」所を何ヵ所か挙げた。そして、
「でも、とてもいいシナリオだと思います。ヒロインが、生活している女になっていますね」
「──どうかな」
と、正木は言った。「これから、ヒロインの自宅としてロケに使う家を見に行くか? イメージがつかめるだろう」
「ぜひ!」
と、真愛と弥生が同時に言って、二人で笑った。
「車を手配します」
と、亜矢子はケータイを取り出した。
「──十分で来ます」
「では、ここを出よう。ルミに声をかけて行く」
「ただ、ひと言」
と、亜矢子が言った。
「何だ?」
「三崎さんが犯人でないなら、他の誰かが相沢邦子さんを殺したことになります。その本当の犯人にとって、五年前の犯行が話題になるのは迷惑でしょう。──万一ということがあります。三崎さんのことが
「そうか。亜矢子、お前、得意じゃないか、自分で犯人を見付けろ」
「気軽に言わないで下さい」
と、亜矢子は苦笑して、「前には、そのおかげで、殺されそうになったんですから」
真愛が目を見開いて、
「スクリプターって、そんなに危いお仕事なんですか?」
「いえ、普通はそんなこと、ありません」
と、すぐに打ち消して、「これには正木組だけの事情があるんです」
「じゃ、今度聞かせて下さい」
と、真愛は言った。
「こいつは
と、正木が立ち上って、「真愛君、あんたはそのシナリオのことだけ考えろ。もし、何かあっても、我らの味方、亜矢子仮面が助けてくれる」
亜矢子は聞こえなかった
ふり
をして、エレベーターの方へと歩き出した。「──おい、亜矢子」
「何ですか?」
エレベーターの中で、正木が言った。
「主演の女優、男優が決った。製作発表をセットしてくれ」
「分りました。一週間後ぐらいで?」
「うん、いいだろう」
「そんなに早く?」
と、真愛がびっくりして、「何を着ればいいんでしょう?」
「衣裳は用意する。心配するな」
と、正木が言った。
「あ……」
と、亜矢子が思い付いて、「──監督」
「何だ?」
「本タイトル、決めて下さい」
「そうか! 忘れてた」
今のシナリオには、仮のタイトルがついている。
「製作発表するのに仮タイトルじゃ──」
「分ってる! ──今夜考える」
正木の頭の中では、もう映画が始まっているようだった。タイトルを飛ばして。
打合せの日に──というより、打合せが終ってエレベーターが一階に着くと、すぐに亜矢子は製作発表の会場を押えた。
そして、それからの一週間は、いつもの倍のスピードで働いたと言ってもいいだろう。
チーフ助監督の
そして、一週間後……。
「大変お待たせいたしました」
紺のスーツ姿で、マイクを握っていたのは、亜矢子自身だった!
何といっても、メジャーな大作ではない。少しでもむだなお金は使わない、という亜矢子の方針だった。
「ただいまから、正木
こういうとき、亜矢子の普段の人付合いがものを言う。
会場は、ほとんどの主なメディアが取材に集まっていた。
「では、監督、並びに主な出演者にご登場いただきます。拍手でお迎え下さい!」
正木を先頭に、五十嵐真愛、
「──では、正木監督よりご
集まった人々が、みんな手もとに配られた資料をめくっている。これも亜矢子の作ったものだ。
特にヒロイン役の五十嵐真愛のことは、ほとんど知られていないので、みんな興味深げに眺めていた。
正木がマイクを手に取った。
さあ、ここからは、ひたすら映画の完成に向って進むだけだ!
亜矢子は、会場の隅に立っている
ひと通りコメントが終った後、再び正木がマイクを持った。
「今回、ヒロインを演じてもらう五十嵐真愛君について、付け加えておくことがある。映画の中で、主人公の夫は刑務所に入っているという設定だ。実は、五十嵐君の夫に当る男性も、今刑務所に服役中なのだ」
会見場がざわついた。正木は続けて、
「その辺の事情については、ここで話すと長くなる。──亜矢子」
亜矢子はマイクを手にして、
「出口の所に、五十嵐さんの配偶者である三崎
この場で質問に答えていたら、映画の製作発表でなくなってしまう。それを避けるための方法だった。
「では、この後、写真撮影に移らせていただきます」
うまく行った! 亜矢子は胸をなで下ろしながら、写真撮影のセッティングを始めた。
17 クランク・イン
「じゃ、始めよう」
正木のその言葉で、スタッフが一斉に緊張する。
正木がカメラマンの
「よし。──用意。スタート!」
カチンコが鳴って、カメラが回る。
亜矢子が何度も上り下りして汗をかいた坂道。──新作〈坂道の女〉のファーストカットにふさわしく、ヒロインが買物の袋をさげて坂道を上って行くカットである。
いかにも重そうに、袋を途中で右手から左手に持ち換えたりして、五十嵐真愛は坂道を上って行く。
秒数を測りながら、亜矢子は真愛の後ろ姿ににじむ生活の疲れを感じて、舌を巻いた。
ほとんど坂道を上り切るまでの長いカットだった。使うのは半分にもならないだろうが──。
「カット!」
正木の声が坂道に響いた。「OK!」
幸先がいい、と亜矢子は思った。この調子で……。
すると、夕方になって、夕陽が坂道をオレンジ色に照らし始めた。
「おい、待て!」
と、正木が怒鳴った。「この色がいい! もう一度だ! 真愛! 坂の下へ戻れ!」
ああ……。やっぱり、正木はいつもの正木だった。
亜矢子は、ちょっとため息をついて、
「テイク2」
と
列車から降りて来て、左右を見回しているのを見て、
「
と、声をかけながら、足早に、「どうもあのときは……」
「あんたか」
と、落合
「いえ、いいんです。あ、持ちますよ」
落合喜作は、古ぼけた旅行鞄一つだった。
「車で来てますから、駐車場まで、ちょっと歩いてもらえますか?」
「もちろんだとも。あんな
と、しっかりした足取りで、ホームから階段を下りて行く。「今日子は元気にしてるかね?」
「ええ。映画のスタッフの女性の所に泊っています。とても仲良くしていますよ」
「それならいいが。迷惑をかけとらんかね」
「とんでもない! とてもしっかりした、いい子ですね」
「しっかりし過ぎとるところはあるがね」
と、喜作は苦笑した。「学校も休んじまって、どうするんだ、と電話して言ってやったが、『今、手が離せないの』と言って切ってしまった」
「大人ですよね。とても十六とは思えないです」
「まあ、ともかく頑固で、言い出したら聞かん奴だからな。──時に、今はどこに行くんだね?」
「撮影所に。今日子ちゃんもいますから」
「そうか」
「一応、ビジネスホテルを取ってありますが、旅館の方がいいですか?」
叶は、乗って来た自分の小型車に喜作を乗せて、撮影所へ向った。
「わしはどこでも寝られりゃ構わんよ」
と、喜作は言った。
「今日子ちゃんは、亜矢子さんってスタッフの所にいたいと言ってます。楽しいようですね」
「そうかもしれんな。母親が死んでから、ずっとわしと二人だ。好きなようにさせとくさ」
道が少し混んでいたが、
「ここを抜けると、もう十五分くらいですから」
と言って、チラッと後ろを見ると、落合喜作はぐっすり眠り込んでいた。
「そこは自然に動いてくれ」
と、正木が言った。「橋田君、真愛に合わせてやってくれ」
「分りました」
と、橋田が肯く。
「すみません。慣れていないもので」
と、真愛が恐縮している。
「構やしませんよ。好きなように」
と、橋田は首を振って、「主役はあなただ。もっと図々しくなっていいんですよ」
「そんなこと……」
「いや、さすがに舞台の人ですね。セリフがはっきり聞こえる」
その橋田の言葉を聞いて、録音のベテラン〈ケンさん〉こと
「その通り! ちょっと呟いてもはっきり聞き取れるよ」
と言った。「若い役者は見習うべきだな」
「あんまり持ち上げないで下さい」
と、真愛は困ったように笑った。
「それと……監督」
と、亜矢子が言った。
「何だ? 文句でもあるか」
こういう軽口を叩くときは上機嫌である。
「この後、戸畑
「ああ、そうだったか」
正木は細かいことまで憶えていられない。そういう気配りは亜矢子の役目で、正木も信じて頼り切っているのだ。
「監督、おはようございます」
シナリオの戸畑弥生が正木の方へやって来た。「娘をよろしく」
「今、話してたところだ」
佳世子が、映画の衣裳とメイクでやって来た。
若々しいブラウスとスカートに、エプロンをして、真愛と橋田が会っているカフェのウエイトレスの役だ。
「今回のシナリオの戸畑弥生君の娘、佳世子君だ」
と、正木が大きな声で言うと、スタジオの中で拍手が起る。
「よろしくお願いします」
と、佳世子は深々と頭を下げた。
「皆さんのお邪魔にならないでね」
と、弥生が言うと、
「分ってるよ。お母さん、見てないでよ」
「どうして? 見たいわよ」
「気になっちゃうよ、その辺に立っていられたら」
「はいはい。見えないところに引込んでるわよ」
「佳世子」
と、正木が言った。「君のやるウエイトレスは、真愛のことを、よく店に来るので知っている。橋田と会っているのを、ちょっと好奇心を持って見てるんだ。いいね」
「はあ……」
「このシーンだけじゃないぞ。この後、恋に落ちる二人を遠くから見守っている役だ」
それを聞いて、弥生がびっくりした。
「監督、佳世子にはこのシーンしか書いてませんが」
「分ってる。今そう思ったんだ。書き足してくれ」
こういうことを平気で言うのが監督なのである。
「じゃ、ともかくこのカットを。──佳世子、カウンターからコーヒーカップののった盆を持って行く。『お待たせしました』だな、ここはひと言だけ」
「分りました」
慣れていなくても、覚悟の決め方がはっきりしている。もともと独立心の強い子だとは聞いていた。
あんなに言っていながら、いざテストとなると、母親のことなど目に入らない様子だった。
「おい、いくぞ」
正木がカメラの方をチラッと見る。
やる気だな、と亜矢子には分った。
「用意! スタート!」
佳世子が盆を持って行くのをカメラがパンして追う。
「お待たせしました」
ちゃんとコーヒーの入ったカップをテーブルに置く。テストなら、まだコーヒーは入っていない。
真愛が、コーヒーを静かにかきまぜて、
「あの後はどうなさったの?」
と、橋田に訊く。
「歩きました、一人で。雨に降られて濡れましたがね」
「風邪ひきませんでしたか?」
「考えることが多くて、風邪をひいてる暇がありませんでしたよ」
と、橋田がカップを取り上げる。
「──カット! OKだ」
佳世子がびっくりして、
「本番これからですよね?」
「いや、今のを撮った。力まないで、自然で良かった。──おい、亜矢子、次のカットだ」
「葛西さん、お願い」
と、亜矢子が立ったのは、スタジオに、叶が入って来たからだった。後について、今日子の祖父らしい老人が入って来る。
「あ、おじいちゃん!」
今日子がいつの間にかスタジオの中にいた。
「今日子ちゃん! いつ来たの?」
と、亜矢子も面食らっている。
「さっき。ずっとその隅で見てた」
と、今日子は言った。
「よく寝てるか」
落合喜作は亜矢子や正木に挨拶して、
「孫をよろしく」
「おじいちゃん。私、出演するわけじゃないよ」
「よし、今夜は一緒に飯を食おう。亜矢子、どこか──」
「捜しときます。何人ですか?」
──あわただしい日々が始まっていた。
焼肉の店で、テーブルが二つに分かれた。
亜矢子は、
「何か分ったこと、ある?」
と、亜矢子が訊いた。
食べる手はしっかり、止めなかった。
「三崎って人は、評判は良かったみたいですね」
と、叶が言った。「面倒見がいいと言われてたと聞きました」
叶もひとみも、せっせと食べている。亜矢子は、大きなテーブルで、にぎやかに食事している正木や落合喜作たちを見やって、
「あのおじいさん、八十? 見た目は確かに老けてるけど、あの食欲は立派ね」
「食欲だけじゃないですよ。足も速くて、ついて行くのが大変」
亜矢子は今日子がこっちを見て手を振るのを見て、思わず微笑むと、手を振り返した。
「──でも、事件からもう五年たってるので」
と、叶が言った。「三崎さんのような仕事だと、長く同じ所に勤めることが少ないんでもう三崎さんを知ってるという人が、ほとんどいなくなってます」
「分るわ」
と、亜矢子は肯いて、「謎なのは、三崎さんの言うのが本当だとすれば、だけど、相沢
「亜矢子、それって、邦子さんを殺したのが計画的な犯行だった、ってこと?」
と、ひとみが言った。
「そう……。三崎さんの、成り行き的というか、突発的な犯行ってことになってるけど、それと、邦子さんを東京へ来させたことと、何だか矛盾してるような気がする」
亜矢子が息をついて、「もうお腹一杯! 残りのお肉、食べてね」
「お任せを」
と、叶が張り切って身をのり出す。
「ちょっと! 少しは遠慮してよ」
と、ひとみが叶をつついた。
「だって、残しちゃ損だろ」
「そりゃそうだけど……」
と言いつつ、ひとみも食べ続けていた。
「損か得か……」
と呟いて、亜矢子は、「そうね。──そうだわ」
「何の話?」
「殺人の動機。もし計画的に邦子さんを殺した人間がいたとして、邦子さんを殺して何の得があったのか」
「そうね……。別に大金を持ってたわけじゃないし」
「もちろん、損得だけでは考えられないけど、人を殺すって、よほどのことよ」
──こういう話をするために、亜矢子はひとみと叶を、このテーブルへ連れて来たのだった。
本当なら、正木との会食に、ひとみも加わる立場ではない。しかし、叶が喜作の案内役ということもあって、一緒に来たのだ。
五十嵐真愛は、礼子のことがあるので、会食には加わらない。何といっても、子供のことが第一だ。
「──あの記者会見の反応は?」
と、ひとみが訊いた。
「うん。しっかりどこも記事にしてくれた。でも、真愛さんと三崎さんのことは、なかなかね。刑が確定して服役してる人のことを書くのは難しいんでしょう」
と、亜矢子は言った。「でも、三崎さん以外に犯人がいるとすれば、必ず記事を見ているはず。そして、たとえわずかでも、三崎さんがやってないかもしれないと考える人が出て来る可能性があれば、じっとしていられないと思うわ」
「そうね。──ね、叶君に危いことやらせないでよ」
「僕は大丈夫だよ」
と、叶は言った。「最後の一枚、もらうよ!」
「お疲れさまでした」
タクシーがビジネスホテルの前に停る。
「じゃ、荷物を運びますよ」
と、叶はタクシーを降りた。
「じゃ、おじいちゃん、明日またね!」
と、今日子が喜作に手を振る。
喜作を部屋へ送って、叶は戻って来た。
「僕、ここで、ひとみと飲みに行くんで、待ち合せてるんです」
「あら、いいわね」
と、亜矢子はひやかして、「じゃ、今日子ちゃん、私たちも飲みに行く?」
「うん! どこにでも行く!」
「ちょっと! 冗談よ」
叶を残して、タクシーは亜矢子のマンションへと向う。
「今日子ちゃん、いいの? 一晩くらいおじいちゃんと一緒にいなくて」
「いいの」
と、今日子は大して気にしていない様子で、「おじいちゃんとはずっと一緒なんだもの」
「だけど……。喜作さん、心配してたってよ。あなたの学校のこととか。ずっと東京にいるのは……」
「亜矢子さん、私がいると邪魔?」
「そんなこと言ってないわ! 私はいいのよ。ただ……」
「私、帰りたくない」
と、今日子が言った。
「──え?」
「ずっと東京にいたい」
「今日子ちゃん……」
「亜矢子さんに迷惑かけない。どこかで働いて暮す」
「でも──せめて高校出てからにしたら?」
「それじゃ遅いの」
今日子の言葉に、亜矢子は戸惑った。
「今日子ちゃん、それって──」
「遅いの」
と、今日子はくり返すと、タクシーの外の方へと目をやって、それ以上何も言わなかった。
18 消える
「カット!」
正木の声が辺りに響いて、「──OK! よし、昼飯にしよう」
撮影所なら、食堂へ行けばすむのだが、今日はロケ先。
住宅地の中で、あまり食事できる所がない。もちろん、ほとんどのスタッフはロケ用の弁当だ。
しかし、正木はそういうわけにいかない。ともかく寛いで、コーヒーでも飲める所でないと……。
亜矢子は、何とか見付けた喫茶店に正木を連れて行った。真愛と橋田も一緒だ。
「よろしくお願いします」
と、喫茶店の人に頼んで、「カレーならできるそうですので撮影所のとは味が違いますから」
一応、前もって亜矢子が食べてみて、これなら正木も機嫌悪くならないだろう、と判断していた。
「亜矢子さん、食べないの?」
と、真愛が言った。
「スクリプターはお昼なんて食べてる暇はないの」
と、わざと大げさに嘆いて見せて、「じゃ、迎えに来ます」
急いで外へ出ると、まずケータイの電源を入れる。──撮影中は切ってあるので、何件もメールや着信がある。
「──あら」
叶から、何度もかかっていた。「何かしら?」
叶のケータイへかける。
「──もしもし? どうしたの?」
と訊くと、
「亜矢子さん! 大変なんです!」
と、叶の上ずった声が飛び出して来た。
「何よ、びっくりするじゃない!」
「ホテルから──あの、落合さんの泊ってるビジネスホテルから連絡があって」
「え? 喜作さんがどうかしたの?」
いくら元気とはいえ、八十歳だ。具合が悪くなることもあるだろう。
「それどころじゃないんです! こっちに来て下さい!」
叶はあわてふためいていた……。
「これって……」
亜矢子は
喜作の泊っていた部屋の中は、服や靴、下着、手帳などが放り投げてあった。
誰かが、喜作の持物を荒らしたのだ。
「──で、喜作さんは?」
と、亜矢子は叶に訊いた。
「分りません」
と、叶は首を振った。
「あの……ホテルの方?」
と、亜矢子は、スーツ姿の男に言った。
「はあ……。シーツ交換に来た者が、ドアを開けると、こんな状態で」
「落合さんはいなかったんですね?」
「さようです」
「どこかに出かけたとか……」
「さあ……。フロントは無人ですので」
それはそうだ。──しかし、一体何があったのだろう?
バスルームを覗いたが、カミソリなどは置いたままだ。
「──どうします?」
と、叶が言った。
「どうするって……。私、ロケに戻らないと」
「警察に知らせますか?」
亜矢子は迷った。
もちろん、これはどう考えてもまともな状態とは言えない。しかし、何があったのか、手がかりらしいものが見当らない。
「あの──荷物をまとめてお出になっていただけると……」
ホテルとしては、面倒なことに巻き込まれたくないのだろう。
亜矢子は、仕方なく電話をかけた。
「──もしもし、
「おじいちゃんが?」
今日子は、亜矢子の話に目を丸くした。
「喜作さんから何も連絡なかった?」
と、亜矢子が訊くと、今日子はケータイを取り出して、
「──何も来てない。おじいちゃんもケータイ持つようにしたのよ。私が東京へ出て来てから」
「かけてみてくれる?」
しかし、今日子がかけても、つながらなかった。正木が、
「おい、亜矢子、始めるぞ!」
と呼んだ。
「はい! 今日子ちゃん──」
「何かあれば言うわ。でも、おじいちゃん、元気だから大丈夫だと思うけど」
「だといいけどね。──はい、今すぐ!」
亜矢子は、ロケに使っている古い大きな民家の
「キャッ!」
ステン、と転んでしまった。
廊下がよく磨いてあって、滑るのである。
みんなが大笑いした。
「もう……。いたた……」
と、腰をさすりながら、亜矢子は自分の定位置についた。
家の中が広いので、そのまま撮影に使っている。これをロケセットと呼ぶ。
ここでは五十嵐真愛の出番はないが、ちゃんと撮影を見に来ている。
「──よし、OK!」
二つ三つ、カットを撮ってから、正木は、
「アリサ、来てるか?」
と振り向いた。
「はい、ここに」
水原アリサの出るシーンがあるのだ。
「夕方になるぞ、出番は」
「はい、分ってます。今日は他に仕事入れてませんから」
「よし、縁側に移動!」
と、正木は言って、みんなが一斉に動き出す。
亜矢子は、いつの間にか、真愛が水原アリサと親しげに話しているのに気付いた。
真愛の方が十歳くらい年上だが、そんな違いを感じさせずに、まるで学生時代からの友人同士のように、笑い合っていた。
「──
と、アリサが言った。
「どうして?」
「だって、こんなにいい役で……。私もあと十年したら、こういう役ができるかしら」
「あなたは人気スターじゃないの。仕事はいくらも……」
「でも、正木監督みたいに、私の中から自分でも知らなかったような部分を引出してくれる人は少ないわ」
「ああ、それは……。初めての映画での大きな役が、正木監督の作品でやれるって、幸せだわ。日々、そう思う」
「本当ね! 私もまた、正木作品でヒロインを
二人の会話をそれとなく聞いている内、亜矢子は何だか胸が熱くなって来た。正木さんは幸せだ……。
「おい、亜矢子!」
正木の声が飛んで来て、
「はい!」
と、亜矢子はシナリオを抱えて駆けて行った……。
(つづく)