『対岸の家事』アナザーサイドストーリー 虎朗篇

文字数 11,982文字

6月に講談社文庫から刊行された『対岸の家事』。終わりなき家事に立ち向かう主婦&主夫たちの物語を記念して、特別スピンオフ、文庫に収録されている本ストーリーを、Webでも公開します!

アナザーサイドストーリー虎朗篇



うちの奥さん、主婦だけど。

「虎朗さんの奥さん、専業主婦だって、ホントですか?」

 出勤したばかりのアルバイトの石原和香が、真剣な顔で問いかけてきたのは、開店準備でバタバタしている夕方の時間帯だった。

「さっき、倉庫で聞きました。虎朗さんの奥さんは専業主婦だって」

「……それが、何?」

 シフト表を睨んでいた村上虎朗は顔をあげて言った。この忙しい時に何の話だ。

 新宿の駅ビルの近くにあるこの店は、わりと大きい会社の有名な居酒屋チェーンだ。虎朗は正社員として雇われている。まだ二十八歳だが、店長をしている。

 しかし、年齢が若いだけあって、毎日働いているうちに、バイトとも馴れ合いの関係になる。石原のような年下のバイト連中にまで「虎朗さん」と気安く呼ばれている。

 スチール棚が並び段ボールが積み上がったバックヤードにはこの時間、誰もいない。バイトにはホールで開店準備をするか、調理場の仕込みを手伝うか、その日によって臨機応変に働いてもらっている。今日は人手が少ない。石原にも早く仕事に入ってほしいのだが、

「それって奥さんの希望なんですか?」

 まだわけのわからないことを言っている。虎朗は眉をひそめる。

「そうだけど、だから、何なの?」

 石原はいわゆるフリーターだ。新卒でどこかの会社に就職はしたものの、海外留学の夢をあきらめきれずに辞めたそうだ。今は英会話教室に通いながら、バイトで留学資金を貯める日々を送っているらしい。

 顔は正直かなり可愛い。体型も華奢で、男好きするタイプだが、今は彼氏がいないらしい。先月の飲み会で自分で言っていた。Vネックのサマーセーターを着た石原の胸は、制服姿から想像していたよりも大きく見え、社員もバイトも男はみな目が釘付けになった。

「……だって」

 と、石原は伏し目がちになって言う。

「イマドキ、専業主婦になりたいなんて贅沢っていうか、男の人に甘えてる感じがして……」

 こいつは何を言ってるんだ。少し黙った後、虎朗は眉間に皺を刻んだ。

「うちの奥さんに文句つけてんの?」

 石原はパッと顔を赤くした。

「いえ、そういうわけではないんですけど!」

 制服の三角巾をすばやく結ぶと、怒ったようにホールへ歩いて行く。

 なんなんだよ、今の……。シフト表に目を戻そうとした時、吉田明がホールから戻ってきた。虎朗より五つ年下の二十三歳の社員だ。

「石原さん、なんか顔が赤かったですよ。きついこと言ったんじゃないですか?」

 そう言って、へらへらと虎朗の図体を眺めている。

「虎朗さんは、ただでさえ怖いからな、見かけが」

 虎朗の出生体重は四千グラムだったらしい。難産を経て生まれてきた目つきの悪い赤ん坊に、両親は虎朗と名づけた。ぴったりだとよく言われる。大きい背中を猫みたいに丸めて、音をさせずに歩く癖があるのも、虎を彷彿とさせるらしい。

 厄介な酔客が多い新宿店の店長に若くして抜擢されたのは、この外見が買われたかららしい、というのは社内でも有名な話だ。

「なんも言ってないよ」

 虎朗は吉田をじろりと見た。

「あいつが、うちの奥さんに文句つけてきたんだ。主婦は甘えてるとかなんとか言ってよ」

 そう言いつつ、こっちの言い方もきつかったかなと反省する。

 もともと争いが好きではないのだ。うちにいる時は、バスで旅をする番組とか、動物の赤ちゃんが出てくる番組とか、できるだけ他愛もないテレビを見てごろごろしている。そのせいか、奥さんの詩穂からは「動物園の虎みたい」と溜め息まじりに言われる。

 結婚してから、そういう自分が一番落ち着くことに気づいた。この見かけのせいで、学生の頃からしょっちゅう他校の生徒に絡まれ、荒っぽいふるまいが板についてしまったけれど、本当は平和が一番だと思っている。

 そう、虎朗にとって家庭は唯一、腹を見せて眠ることのできる場所だった。

 なのに、昨夜は珍しく夫婦喧嘩をした。今朝になっても、そこのティッシュとって、と言っただけなのに、自分でとりなよ、とむっとしたように言われ、朝ご飯の間ろくに口をきいてもらえなかった。

 昨日の夜、遅く帰ってきた虎朗がろくに話もせずに寝てしまったことを、詩穂はまた怒っているのだ。でも、

(俺は必死に働いて帰ってきたんだ)

 そういう意地があって、虎朗も謝らなかった。こっちだって疲れていたのだ。

 石原がバックヤードにやってきた時、虎朗はちょうど、昨夜の喧嘩を思い出していたところだった。あいつは外で働く苦労を何もわかっちゃいないんだ。

 ──イマドキ、専業主婦になりたいなんて贅沢っていうか、男の人に甘えてる感じがして。

 そう石原に言われた時は詩穂をけなされたようでムカついたが、同時に胸に燻っていた思いがぱっと燃え上がった。

 うちの会社で結婚している若い社員はだいたい共働きだ。車だのワインだのに派手に散財している。でもうちは詩穂が専業主婦だから、自由に使える小遣いも少ない。そのことに不満を言ったことなどない。

 なのに、話をしなかったというだけで、なぜあんなに不機嫌になるのだ。おかげで石原と気まずくなってしまった。はあ、と大きく溜め息をついた虎朗に、

「甘えてるだなんて、石原さん、虎朗さんの奥さんのこと、そんな風に言ったんですか」

 吉田がおかしそうに言った。

「それ、完全にヤキモチじゃないですか」

 虎朗はシフト表から目を上げた。

「……え?」

「つうか、虎朗さんの奥さんが専業主婦だってこと、さっき倉庫で石原さんに言ったの俺なんですけどね。石原さん、虎朗さんのこと好きだからなあ」

「いやいや、俺、既婚者だけど」

 こいつも何を言っているのだ。

「絶対そうですって。だから奥さんのことが気になるんですよ。石原さんは、もう三十近いのに海外留学するとか言っちゃって、自分の人生を生きる系だもんなあ。虎朗さんの女の好みが旦那に尽くす系だって知ってショックだったんですよ」

「別にうちの詩穂は尽くす系じゃないし」

「え、でも、奥さんが主婦ならうちでは何にもしなくていいんでしょ?」

 吉田はわかったような顔で腕を組む。

 こいつは正直、使えない社員だ。スタイルがシュッとしていて、彼女だけは途絶えた例がない。だが仕事はまったくダメだ。

 半年前にこの店に配属されてきたばかりの頃、酔った客がコップの水を床にぶちまけたことがあった。パートのおばさんがさっとモップを取りに行ったのに、こいつはぼうっと見ているだけだった。「床ってどうやって拭くんですか」と言う吉田をバックヤードに呼び出し、「とりあえず独り暮らしをしろ」と説教した。

 先月、「実家を出ました」と言ってきたので、やっとやる気を出したかと見直した。しかし、「彼女と同棲します」と続いたので、「百年早えよ」と突っこんでしまった。実家で上げ膳据え膳の生活だった奴が、いきなり他人と住むなんて、うまくいくわけがない。

 案の定、彼女に家事をやらされていると、毎日のように愚痴を言ってくる。

「やっぱ主婦志望の子がいいな。虎朗さんが羨ましいです」

「ぐだぐだ言ってないで、早く調理場行け」

 元々低い声をさらに低くして言うと、さすがに吉田は飛び上がるようにしてバックヤードを出ていった。出ていく間際に、余計な一言を置いていった。

「不倫はだめですよ、店長」

 こういう時だけ店長と呼ぶ。虎朗はシフト表を乱暴に閉じて事務机の引き出しに戻した。

(石原が俺に気があるわけ、ないだろ)

 しかし、落ち着かなくなって、またシフト表を意味もなく引っ張り出す。

 店長マジックという言葉を聞いたことがある。店長になるための研修の打ち上げで先輩社員が言っていたのだ。お前はまだ若いから気をつけろ、とも言われた。

 若いバイトの子たちにとって、店長という立場は偉く見えるものだ。シフトに入ってほしい一心で優しくしたり、悩み相談に乗ってやったりしているうちに、特別扱いされていると勘違いしてしまう子がたまにいるのだ。

 そういう子と泥沼の関係になってしまう店長もいる。ここの前の店長もそうだった。奥さんも子供もいるような人がなぜ、と当時は新婚だった虎朗は思っていた。

 でも、ちょっとしたはずみで、そうなってしまう気持ちも、今はわかる。

 結婚すると恋人から家族になってしまう。二年前に娘が生まれてからは、虎朗と詩穂はすっかり父親と母親になってしまった。

 虎朗はそろそろ二人目が欲しいと思っているが、たまに布団の中でくっついても、そういう雰囲気にはならない。同性の友達とじゃれ合っているようで照れくさい。これが幸せなのだと言われればそうなのだろう。でも、もう永遠にそういうことがないかもしれないと思うと、これでいいのか、という気もしてくる。

 お前はまだ若いから、と言っていた先輩の言葉がたまに身にしみる。虎朗は二十八歳なのだ。同い年の男の多くはまだ色恋沙汰を堪能している。

 どうしてこんなに早くに結婚してしまったのだろう。朝の夫婦喧嘩と──それに石原と吉田のせいで、そんな思いがこみあげてきた。


 詩穂に出会った頃、虎朗はまだ店長ではなかった。

 吉田のようにやる気のない社員だった。

 この会社に就職したのは、高校の教師に「どんなところで働きたい?」と尋ねられて、「女が多いところ」と投げやりに答えたからだ。男子校には飽き飽きしていたし、十六歳で両親を亡くした虎朗は卒業したら自分の力で生きていかなければならなかった。

 将来の夢とか、なりたいものとか、そんなことを思う贅沢は許されなかった。

 就職が決まったのは居酒屋チェーンだった。飲み会の二次会でばかり使われるような大衆居酒屋で一生働くことになった。たしかにバイトには女が多かったが、酔った男の相手をする時間のほうが長かった。詐欺に遭った気分だったが、給料さえもらえればいいと割り切ることにした。

 ずっと座っているのが苦手なタチで、新人研修では「ふまじめだ」と、人事部の部長に頭をはたかれた。もっとも忙しいと言われる新宿の駅ビルの前の店に配属された。

 来る日も来る日も酔客の相手をさせられた。最初は戸惑ったが、幸い絡まれるのには慣れていた。場数が増えていくと、ちょっとやそっとの暴力や難癖には動じなくなった。どんなに酒癖が悪い客も虎朗が顔を出すと黙りこむ。

 結局、人は強い者に弱く、弱い者に強いのだ。だから世の中は平和にならないのだ。子供を殺したりする馬鹿がいるのもそのせいだろう。虚しさだけが募っていった。

 帰りが遅くなっても心配する家族などいない。店が終わると同僚と限界まで飲んだ。夜の街で肩がぶつかった相手を睨みつけるようになっていた。縄張りを見張る野生の虎のように新宿の街を徘徊していた。

 徹夜で飲み明かした朝、新宿アルタの前を歩いていた虎朗に、カットモデルをやらないかと声をかけてきたのが詩穂だった。新米の美容師で練習台を探しているのだという。

 よくこんな面相の男に声をかけたな、と驚いたが、誰も引き受けてくれなくて必死だったらしい。たしかにこの辺りの朝は人通りが少ない。歩いていても大抵サラリーマンでみんな急いでいる。ちょうど髪が伸びていてうざかったので、虎朗は首をたてに振った。

 詩穂は開店前の美容室に虎朗を連れていった。作業はゆっくりしていて、こんなことでは開店に間に合わないのではないかと、同じ接客業の端くれとしてハラハラした。

 しかし、髪を洗われはじめると体がふっと弛んだ。誰かに無防備に体を預けたのはいつ以来だろう。詩穂は髪を洗いながら、天気の話や、店の裏にできた美味しいラーメン屋の話などをのんびり話していた。いつのまにか眠りこけていた。

 目が覚めると、詩穂がカウンターの向こうで先輩らしき美容師に何か言われていた。時計を見ると三十分も経っていた。戻ってきた詩穂は虎朗を見て「あ、起きた」と言った。

 ──怒られたんじゃないの?

 虎朗が言うと、詩穂は椅子を起こしてくれながら、大丈夫です、と微笑んだ。

 ──すごく気持ち良さそうに寝てたし、起こすのが悪くって。

 結局その日は時間切れで、翌週もう一度行くことになった。今度は寝ないように気をつけたが、髪を洗われている間も、切ってもらっている間も、うとうとしてしまった。

 ──お仕事、大変なんですねえ。

 最後にドライヤーをかけて髪を整えてくれながら詩穂は言った。

 ──ええ、まあ、昨日も夜遅かったんで。

 噓だった。前日は休みだった。この子と一緒にいると、どうやら俺は眠くなってしまうらしい。でも、そんなことはおくびにも出さず、格好をつけて言った。

 ──もう開店時間過ぎてるけど、急がなくて大丈夫なの?

 大丈夫です、と詩穂は前と同じように微笑んだ。

 ──私、何をやるのにもゆっくりで、美容学校でもいつも居残り組だったんですけど、身についた仕事は丁寧なんです。だから、まいっか、って大目に見てもらってます。

 自分で言うか、と思った。でも大目に見てしまう先輩の気持ちもわかる気がした。

 平和なのだ。すべてが目まぐるしく動く新宿の街で、詩穂のまわりだけがのんびりしていて、心地がよくて、だからみんな「まいっか」と思ってしまうのだろう。

 詩穂を、いいな、と思ったのは虎朗だけではないようだった。新米で作業が遅いのにもかかわらず、詩穂の予約はなかなかとれなかった。常連には虎朗のような独身男も多かったが、年寄りや子供の客もいるらしかった。いつの間にか虎朗もその一人になった。

 ──私、結婚したら専業主婦になりたいんです。

 ある日、何かの話の流れで詩穂は言った。

 ──美容師とか、家事とか、手を動かす仕事が好きなんです。でも要領悪いから、どっちもやるのは無理っぽいので、家事に専念したほうがいいかなって。

 たしかにそうだろうなと虎朗が思った時、詩穂が笑って言った。

 ──ま、そうさせてくれる旦那さんが見つかればの話ですけど。

 その時、虎朗の中に突如として意地が湧いてきた。俺がさせてやる。そう思った。

 どうにかこうにかして連絡先を聞き出し、他の常連客の男たちを出し抜いて、つきあって、結婚までこぎ着けた。

 詩穂はまめな主婦だった。制服のワイシャツは襟に糊をきかせてアイロンをかけてくれる。靴も磨いておいてくれる。自分で言っていた通り、何をするにも時間がかかるが、どんなことでも丁寧にやってくれる。虎朗は家ではなにもしなくてよくなった。

 その代わり、詩穂を食わせていかなければならない。その日から酔客にからまれるのが苦ではなくなった。

 詩穂が妊娠すると、どうやったら給料を上げられるかを考えるようになった。店長の内示が出たのは、娘の苺が生まれてしばらくしてからだ。外見で抜擢されたのだと陰口もたたかれたらしいが、それだけでは店長にはなれない。必死の覚悟が勤務態度に出たのだろう。

 その夜は、とにかく早く報告したくて、詩穂のもとに走って帰った。

 しかし詩穂はあまり喜ばなかった。「これからもっと帰りが遅くなるの?」と、顔を曇らせた。「そうだろうな」と言うと、眠っている苺の頭を撫でながら詩穂は言った。

 ──どんなに遅く帰ってきても、私とちゃんと話をしてほしい。

 内心、ショックだった。

 店長に登り詰めるまで働いたのは詩穂と苺のためだった。家族のために俺は頑張ったのだ。感謝しろとまでは言わないが、一緒に喜んでくれてもいいではないか。

 そんな思いを押し殺して、虎朗は「わかった」とうなずいた。詩穂は赤ん坊の世話で疲れているのだ。悩みがあるなら聞いてやらなければいけない。

 しかし、身を粉にして働いて帰ってきてから、詩穂の話を聞くのはしんどかった。だいたいが他愛もない話なのだ。近所の豆腐屋が潰れてガッカリしていたらそばに移転しただけだったとか、川にいる鴨が六羽に増えていたとか、聞くだけで睡魔が襲ってくる。

 それでも頑張って毎晩聞いていたではないか。一晩、寝てしまったくらいでなんだよ。

 虎朗はシフト表を乱暴に事務机にしまった。引き出しに放り込んであったスマートフォンが目に入る。詩穂からのメッセージは届いていないようだった。いつもならこの時間には〈今日の献立はこれです〉と夕飯の写真を送ってくれるのに、それもなしか。

 職場には石原みたいな若い女の子がいくらでもいる。その気になれば、店長マジックでもなんでも使って浮気できるんだぞ──。怒りをこめて引き出しをバタンと閉めた。


 開店してからしばらくは、宴会の予約が立て続けに入っていて忙しかった。

 それなのに開店直前にバイトから欠勤の連絡が来た。しかたなく虎朗も発注書や日報をうっちゃってホールに出た。客に頼まれたことをすぐ忘れる吉田に腹を立てながらも、料理の皿を出したり下げたりしている間に、客の入りもだいぶ落ち着いてきた。

 そろそろバックヤードに引っ込んでもいいかな、と思いながら、すだれで仕切られているだけの半個室のテーブルの皿を下げに行った時だった。

「マミもとうとう結婚かあ」

 隣のテーブルから、女性客の会話が聞こえてきた。

「ま、もう三十五だし、年貢の納め時だよね」

 どうやら女子会らしい。

「仕事はどうするの。辞めるの?」

「いや、イマドキ、結婚して仕事辞めるなんてリスキーなことしないって」

 また「イマドキ」か。その言葉を聞くのは今日だけで二度目だ。イマドキの人間でいなければ死ぬのかよ。そう思いながらテーブルをダスターで強く拭いた。

「たいした収入もない男と結婚して、専業主婦になんかなった日には節約の毎日だもんね。今はみんな共働きだし、自分だけお金の心配して暮らすのは嫌だな」

 テーブルを拭く手が止まった。

 たしかに詩穂はいつも節約ばかりしている。電気を点けっぱなしにするなと年中怒っている。虎朗は家計のことなど気にしたことはなかった。でも──。

 女の一人が言うのが聞こえた。

「ま、旦那が年収一千万くらいなかったら主婦なんて無理でしょ」

 一千万。指の力が抜けそうになり、あわてて拭く作業を再開する。……その半分の年収もない俺は詩穂にどう思われているのか。結婚したことを後悔しているのではないか。

 店長に抜擢された時、詩穂が喜んでくれなかったのは、たいして給料が上がるわけでもないのに浮かれている虎朗にあきれていたからなのかもしれない。

 詩穂が美容室で働いていた時、常連客の独身男の中には一流企業に勤めている奴もいたはずだ。「海外出張のお土産をもらったんだけど、食べ方がわからなくて」などと詩穂が話していたこともあった。そういう男と結婚したほうがよかったのではないか。

 手の動きが乱暴になり、うっかり箸箱を払いのけてしまい、舌打ちをした。

 バックヤードに戻る途中、石原とすれ違った。専業主婦を「贅沢」だとか「男の人に甘えてる」とか言っていた彼女は結婚しても働き続けるのだろう。そういう女と結婚していたら、とつい考えてしまう。一人で妻子を養うプレッシャーなど感じずにすんだのだろうか。外で働くしんどさをわかってもらえたのだろうか。

 バックヤードに入ると、虎朗はダスターを流しに放った。

 両親のような家庭を築きたかった。奥さんがいつも家にいて、旦那と子供を愛情でくるんでくれる家庭を──十六歳で両親が死んだ時に失ったものを取り戻したかった。

 主婦になりたいという詩穂の夢は、虎朗の夢でもあった。

 でも、それは俺には過ぎた夢だったのかもしれない。

 流しの前に立ち尽くしていると、

「店長、ちょっとそこどいて。冷蔵庫開けるから」

 後ろから言われた。大貫さんというパートのおばさんだった。店が最も忙しい時間帯だけ調理スタッフとして入ってもらっている。娘が高校生ということもあり、若いバイトのフォローも辛抱強くしてくれる頼もしい存在だ。あと少しであがりのはずだ。

「……ぼうっとしてるね。奥さんと喧嘩でもしたわけ?」

 なぜわかるのだ。虎朗はむっつりした顔で言った。

「まあ、そんなとこです」

 大貫さんは笑った。

「わかるわかる。夫婦喧嘩するとそういう顔になるよね。そのダスター、私が洗っとくわよ。店長は座って休憩でもしてなさい。今のうちに発注書でも書いたら?」

 死んだ母を思い出す。こんな風におせっかいで口うるさかった。だからだろうか。

「俺には奥さんに専業主婦なんかさせるような甲斐性がなかったんですよ」

 つい、愚痴を吐いた。大貫さんは「あらあら」とまた笑った。

「甲斐性がないなんて言われたの? 奥さんに」

「いや、詩穂が言ったわけじゃ──。でも、俺が話を聞かないで寝たってだけですごい怒るし、あんまり幸せじゃないのかなって思って」

 大貫さんはダスターを洗う手を止めて、

「話くらい聞いてあげなさいよ」

 と、あきれたように虎朗を見た。

「いや、でも俺も仕事で疲れてて……」

 大貫さんは「それはそうだろうけどさ」と言った。

「イマドキ、主婦やるって根性いるよ。うちの妹の息子がまだ小学六年生だけどさ、クラスの半分の親が共働き。もっと下の学年じゃ、七割、八割が共働きだって」

「そうなんですか」

 虎朗は驚いた。同期入社の社員のほとんどはまだ子供がいない。そういう話を聞くのは初めてだった。大貫さんは水道の蛇口をひねりながら言う。

「うちの子が小さかった頃は、公園に行けば子連れの主婦に会えたけど、今はママ友作るのも一苦労なんじゃないかな。娘さん、まだ幼稚園入ってないんでしょ? 一日中、子供とふたりきりで、大人と会話できないってつらいよ。孤独だと思うよ」

 それで詩穂はあんなに話し相手を求めていたのか。虎朗が考えこんでいると、大貫さんはにやにやした。

「でも、そんなことで怒るなんて、奥さん、店長のことがまだ好きなんだねえ」

「えっ?」

 虎朗は棚から抜いた発注書を取り落とす。

「店長、毎晩帰り遅いんでしょ? なのに毎晩、起きて待っててくれるんでしょ? それは店長に会いたいからだよ。二人きりの時間がほしいからだよ」

 たしかに、苺が起きている間は互いの顔を見るどころではない。朝ご飯の間、詩穂がろくに口をきかなかったのは、苺の世話に集中していたからだったかもしれない。

「私ならさっさと先に寝てるね。うちの旦那も話を聞かない人でさ。ま、でも、今は慣れちゃって、むしろ家にいてくれないほうが幸せっていうか」

「家にいてくれないほうが幸せ──」

 虎朗は言葉を詰まらせる。

「……おっ、もうあがりの時間だ。早く帰んないと娘が塾から帰ってきちゃう」

 大貫さんはロングエプロンをとると、さっさと更衣室にむかって歩いていく。ダスターはいつの間にかすべて洗われて、流しの脇に干されていた。


 発注書を書き終えてホールの様子を見に出ると、ラストオーダーの時間だった。

 客がまばらになって暇になったのか、虎朗の隣に石原が来た。

「さっきは奥さんのこと、悪く言った形になってしまって、すみませんでした」

 虎朗に身を寄せて小声で囁いてくる。

「いや別に」

 どきりとしながら、ホールに目をやる。石原の胸もとを見ないようにする。

「専業主婦って、旦那さんに愛されて大事にされてる感じするじゃないですか。……虎朗さんの奥さんもそういう人なんだろうなあって思ったら、やるせなくなっちゃって」

 虎朗を見上げた石原の瞳は悲しげに濡れていた。やっぱり俺のことが好きなのか。心拍数が上がった。吉田の言うこともたまには当たるんだな。

 でもこれ以上、惚れられてはいけない。俺には帰りを待っている人がいる。

「たしかに、うちの奥さんは主婦だけどさ」

 虎朗は隙のない顔をつくり、石原に目をやった。

「甘えてるのは俺のほうだよ。愛されて大事にされてるのは俺のほうなんだ」

 考えてみれば、詩穂は虎朗の給料に不満など言ったことがなかった。

 節約して、工夫して、虎朗や苺の健康を考えて、献立を組み立てるのが楽しそうでさえあった。だからわざわざ夕飯の写真を送ってくるのだ。

 店長になったことを喜んでくれなかったのは、家計が楽になる嬉しさよりも、虎朗の帰りが遅くなることへの寂しさのほうが勝っていたからかもしれない。

 給料にこだわっていたのは自分のほうだったのかもしれない。頑張ったね、と言われたかったのだ。詩穂に褒められたかった。自分は詩穂のつくる夕飯を褒めたことなどないのに。

「……奥さんのこと、ほんとに好きなんですね」

 石原がつぶやいた。切なげな表情だった。

(石原、ごめんな)

 誘惑をふりきって虎朗は言った。

「もっといい男見つけろよ」

 これであきらめてくれればいいんだが。ふたたび目をホールのほうに向けた時、

「吉田さんはいい男ですよ」

 石原がむきになったように言った。

「……え?」

 自分の声が裏返った。彼女の視線の先には吉田が歩いている。……まさか。

「でも、吉田さん、自分に尽くしてくれる、主婦志望の女の子がいいんですって。今日、倉庫で話してた時も、虎朗さんが羨ましいって何度も言ってました。虎朗さんの奥さんみたいな人と結婚したいって。……でも、そんな家庭的なタイプには、私は絶対なれないし」

 石原は唇をきゅっと結んでいる。その瞳は黒く潤んでいた。吉田が好きだったのか。それでうちの奥さんに突っかかるようなことを言っていたのか。

 愕然として吉田を見た。すぐ横で「オーダー、お願いします」と手を挙げている客がいるのに、まったく視界に入らないという間抜け顔で歩いている。

「もう、吉田さんったら世話が焼けるんだから……」

 石原はエプロンのポケットから端末を抜くと、小走りで吉田のそばに寄っていき、代わりにオーダーを取ってやっている。

 なんだよ……!

 口の端をひきつらせているところに、当の吉田がすたすた寄ってきた。

「あのー、虎朗さん、むこうでトラブル起きてますよ」

「ああ?」

 嚙みつくように言った。なにが「石原さん、虎朗さんのこと好きだからなあ」だ。なにが「絶対そうですって」だ。でたらめばっか言いやがって。

「チョット怖い感じのお客様が、他のお客様と、肩がぶつかったとかぶつかってないとかで一触即発って感じです」

 店内の喧噪の中で耳をすますと、むこうで言い争う声が聞こえた。

「……感じです、じゃなくて、お前がなんとかしてこいよ」

「俺、無理っす。虎朗さんがその顔出せば解決する話じゃないですか」

 深く溜め息をつき、机仕事で緩んだロングエプロンの紐をきつく締め直す。贅肉がつきはじめた腹回りが少し苦しい。歩き出そうとして、虎朗はふりかえった。

「吉田」

 トラブルを押しつけ、早くも仕事が終わったという顔の吉田に言う。

「主婦の奥さんと結婚したかったら、もっと仕事に身を入れろ」

 吉田は「へ?」と目を丸くしている。

「へ、じゃねえよ。奥さんがお前の身の回りの世話を全部やってくれるんだったら、お前は奥さんの分まで稼いで帰らなきゃならねえじゃねえか」

 そういう思いで働いて、虎朗は店長になったのだ。

「はあ……」

 と、反応が鈍い吉田をカウンターの前に残し、虎朗はホールへと歩いていった。

 肩がぶつかったと騒いでいたのは血の気の多そうな若者だった。

「他のお客様の迷惑になりますので」

 と声をかけると、「うっせえ、ばか」と息巻いていたが、ふりむいて虎朗と目が合うと顔を強ばらせた。「悪いのは俺じゃねえぞ」と仲間のいる座敷席に引き上げていく。

(なんだ、たいしたことねえじゃねえか)

 絡まれたほうのサラリーマンは腰が抜けていた。その前に虎朗はしゃがみこんだ。

「立てますか」

「すみません。……今日はむしゃくしゃしてて、飲み過ぎて」

 サラリーマンのものらしき黒い手帳が床に落ちていた。ページの間からはみだした写真には、子供を抱く女の人の手が写っていた。埃を払って渡しながら虎朗はつぶやいた。

「……まあ、毎日頑張って働いてたら、そういう夜もありますよ」

 サラリーマンは自分の力で立ち上がり、小さく頭を下げて席に戻っていった。

 それから一時間後、長っ尻の宴会客を送り出し、ホールが空になると、どっと疲れが押し寄せた。

 日報を書くためにバックヤードに戻り、引き出しを開ける。スマートフォンの画面が光っている。詩穂からだ。飛びつくように手に取って、こわごわメッセージを開く。

〈晩ご飯はシジミ汁と、アスパラと豚バラの炒めものです〉

 そう書いてあった。三時間も前に届いている。苺がフォークでアスパラを刺している写真が添付されている。

〈今日はいろいろあって忙しくて、送るのが遅くなっちゃった〉

 怒ってなかったのか。全身の力が抜けた。慌ててメッセージを返す。

〈昨日は寝ちゃってごめん〉

 詩穂からもすぐに返事がきた。

〈いいよ。でも今日こそは話聞いてね。ホントいろいろあったんだよ〉

 虎朗は腰かけて日報を書きはじめた。急がないと終電に間に合わない。

 早く家に帰りたかった。晩ご飯を食べて、風呂に入って、詩穂ののどかな話を聞きながら、「寝ちゃだめだってば」と怒られながら、とろとろと眠りたかった。

 そんな贅沢な生活を守ることを張り合いにして虎朗は働いている。


朱野帰子


1979年生まれ。2009年『マタタビ潔子の猫魂』(MF文庫ダ・ヴィンチ)で第4回ダ・ヴィンチ文学賞を受賞しデビュー。既刊に、『わたし、定時で帰ります。』(新潮社)、『賢者の石、売ります』(文藝春秋)、『海に降る』(幻冬舍文庫)、『超聴覚者 七川小春 真実への潜入』『駅物語』(講談社文庫)などがある。

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