サーベルに頬を斬られ「猿」と罵る皇太子!日本を恐慌に陥れたテロ。

文字数 1,536文字

「最後の皇帝」を救った人力車夫の"毀誉褒貶”。

ロシア皇太子暗殺未遂事件〈大津事件〉 1891年

大津事件の発生は、日本中を恐慌に陥れた。

5月11日、訪日中のロシア皇太子ニコライ(23・後のニコライ2世)は、人力車に乗って琵琶湖を見物、上機嫌だった。


だが、その帰途の午後1時30分、警備に当たっていた巡査・津田三蔵(38)が、突如サーベルでニコライに斬りつけたのだ。


「私は右の顳(こめかみ)に強い衝撃を感じた。振り返ると、胸の悪くなるような醜い顔をした巡査が、両手でサーベルを握って再び切りつけてきた。とっさに『貴様、何をするのか』と怒鳴りながら人力車から舗装道路に飛び降りた。変質者は私を追い掛けてきた」(ニコライの事件当日の日記より)


ニコライは脇の路地に逃げ込んだが、津田は追いかけ、さらに斬りつけようとする。


そんな津田を、人力車夫の向畑治三郎が両足にタックルして引き倒すと、同じく車夫の(人力車は一人が引いて、二人が押す、三人引きだった)北賀市市太郎が、津田の落としたサーベルを拾い、その首に斬りつける。こうして津田は警備の者に取り押さえられた。


ニコライは右側頭部から頬にかけて、骨膜に達する9㎝の傷を負っていたが、幸い、命に別状はなかった。応急手当を受けている間、ニコライは「マカーカ()、マカーカ」と罵り続けていた。


津田は領土問題などでのロシアの強硬な姿勢が不満だったという。


官憲がロシアの皇太子を傷つけるという事態に、日本政府は大いに慌てた。

急遽明治天皇が自らニコライが滞在する京都のホテルに出向き、これを見舞う。そのうえ、さらなる襲撃を恐れたロシア側の要請を受け入れて、ニコライの乗艦が停泊する神戸まで天皇自ら同行してニコライを見送った。


国民の間でも、「復讐のためにロシアが攻めてくる」などという噂が流れ、危機感が強まる。ニコライのもとには、一万を超える見舞いの電報や見舞い品が日本中から届いたという。


そんな中、事件から一週間後、京都府庁の門前で、畠山勇子(27)という女性が、首と胸を剃刀で深く斬って自殺した。経帷子を着て、死後見苦しくないようにと両足をひもで縛っていた。

直前に京都府庁には彼女の遺書が投じられており、そこには、ニコライへの謝罪などが書き連ねられていた。


畠山は千葉の農家の娘で、御針子として奉公する身であったが、日ごろから政治色の強い新聞や政治小説を読みふけっていたという。


その死は、事件によって日ロ関係が悪化することを憂い、また自らニコライを見舞った明治天皇の面目を施したいと、一身を賭してニコライの寛恕を乞うたものであった。彼女は「烈女勇子」として喧伝され、盛大な追悼式が開催された。


犯行時、津田を取り押さえた北賀市市太郎と向畑治三郎の二人の人力車夫もまた、英雄となった。ニコライは、法被に股引という車夫姿の二人を神戸に停泊する軍艦に招き、手ずから神聖アンナ勲章を授けた


さらに二人には一時金2500円と年金1000円が与えられた。日本政府からも、勲8等白色桐葉章と年金36円が贈られる。

津田三蔵の月給が9円だったという時代の話である。


しかし、日露戦争が始まると、年金は停止。二人は「ロシアのスパイ」などと後ろ指を指され、辛い日々を送ることになる。

北賀市は、地元の石川に戻って田畑を買って地主となり、地方議会の議員にまでなった。一方、向畑は、博打と女に明け暮れ、婦女暴行で逮捕されるなど、惨めな晩年だったという。

関連書籍

『ニコライ遭難』吉村昭/著(新潮文庫)

関連書籍

『凶徒津田三蔵』藤枝静男/著(講談社文庫)


関連書籍

『最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記』保田孝一/著 (講談社学術文庫) 

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