『Cocoon 修羅の目覚め』/夏原エヰジ 1巻まるっと太っ腹試し読み⑥
文字数 13,707文字

六
水無月の暑く湿った空気が、夏の盛りを伝えている。
江戸の男たちは川辺での夕涼みついでに近くの岡場所に流れてしまうことが多いため、この時節の吉原は一年で最も閑散としていた。ただでさえ夜よりも客の入りが少ない昼見世ともなれば、お茶を挽くことも自然と多くなる。それでも遊女たちは蟬の鳴き声にうんざりしつつ、昼見世の支度にいそしまねばならなかった。
揚屋町にある湯屋から、瑠璃と津笠、夕辻の三人が、浴衣姿でそろって出てきた。瑠璃は手ぬぐいを首にかけ、端を持ってぱたぱたとあおぎながら、引かない汗にうめいている。津笠は湯屋帰りでもきっちり浴衣を着つけ、背筋をしゃんと伸ばして歩く。夕辻は肌を磨く紅絹の糠袋を左手に提げ、無邪気な顔でぷらんぷらんとまわしている。
人通りの少ない時分なら、通りを素の状態で歩いていても見咎められることはない。しっかり者の津笠を除き、他二人は江戸のおちゃっぴいよろしく、だらしない様子で黒羽屋まで戻ってきた。
「瑠璃さあ。そんなに文が溜まっちまうなら、代筆屋にでも頼めばいいじゃないか」
誰が言うでもなく三人は瑠璃の部屋に集まり、風呂上がりのひと時の休息をしていた。夕辻は座敷の畳にふっくらとした脚をあらわに放り出している。
瑠璃は先ほどもひとしきり、文の多さについて二人にぼやいてきたところだった。
「わっちも何回か言ったことあるんだけど、この人ったらそれはいい、とか言って頑なに人に任せないんだよ」
団扇で襟口をあおぎながら、津笠が代わりに答えた。
吉原には代筆屋という職業が存在する。その名のとおり、遊女が馴染み客に送る文を、遊女の筆跡を真似て代筆するのだ。日々慌ただしく仕事をする遊女たちは文を書く時間をなかなかとれないため、代筆屋は重宝されていた。
「瑠璃ってさ、お客の前ではしとやかでか弱い女を演じてるけど、素は変なとこで頑固だし、ふてぶてしいよね」
「誰がふてぶてしい女だ」
遠慮のない夕辻に、瑠璃は口を尖らせた。
その時、廊下から声がして、座敷の襖が開けられた。
「瑠璃花魁、おいででございましたか。唐松屋さまからの仰せで、今日もたくさん反物を仕込んで参りましたよ」
満面の笑みを浮かべた初老の男が、巨大な風呂敷を背負った若い男とともに部屋の前で一礼した。
脚をはだけていた夕辻は、急いで裾を搔きあわせ座りなおす。
「ああ、呉服屋さんかえ。いつもご苦労様でありんす」
瑠璃も後れ毛をさっと整え、しっとりとした笑みを作って呉服屋を迎え入れた。
「次の道中でお召しになる衣裳のご相談に参りました。唐松屋さまからはいつもどおり、好きなものを花魁に選んでもらうように、とのことで」
呉服屋は揉み手をしながら、若い男が降ろした大風呂敷を座敷に開く。あっという間に錦や綴織り、天鵞絨、江戸小紋や友禅、辻が花染めなど、豪奢な反物が座敷を埋め尽くした。
「わあ、相変わらず花魁の旦那は皆、太っ腹でござんすなあ。この中からどれでも選んでいいなんて」
夕辻は目をしばたたかせた。
瑠璃の着る衣裳や簪、櫛などの小間物にかかる費用はほぼすべて、贔屓の客持ちである。遊女への贈り物は客が目利きをするものだが、瑠璃の馴染みは問屋を向かわせ、品物の中から瑠璃に気に入ったものを選ばせていた。これは自分の好みを押しつけるより、瑠璃がいいと思ったものを身につけてもらう方が粋、という考えからきていた。
瑠璃は口元に微笑をたたえつつも、座敷に並べられたきらびやかな反物を、白けた目で見渡した。
「津笠さん、夕辻さん。見繕ってくんなまし」
「またでありんすか? 花魁、たまにはご自分でお好きなものを選んでみたらどうです」
津笠は賢そうな眉をひそめ、少し呆れたように言った。
「わっちには着あわせのことはよくわかりいせんから……お二人に選んでもらった方がいい衣裳になりいすし、藤十郎さまもきっとお喜びになりんす」
呉服屋がいる手前、困ったように笑ってみせた瑠璃だが、実のところこだわりがないのである。誰が始めたか瑠璃が品物を選ぶ仕組みになってしまったが、本当は客が見立てたものを贈ってもらう方が手間が少なくていいのに、などと思っていた。
「いいじゃござんせんか、津笠さん。ほら、この羽二重なんて綺麗な天色でござんすよ。小袖に着て、仕掛の下に少し見えるようにしたら、涼しげでありんしょう」
「そうね。じゃあ色が透けて見えるように、この白藍の紗をあわせて青の濃淡を作ったらどうかしら。それで仕掛には、そうだわ、この江戸友禅がようござんすね」
津笠が手に取った友禅は全体的に藍色や鼠色など寒色ばかりだったが、風流な文様と落ち着いた濃淡で渋くなりすぎず、不思議な華やぎがあった。
てきぱきと衣裳を見立てていく津笠に、瑠璃と夕辻、さらには呉服屋までもが口を半開きにして感心した。
「前帯はどうしんしょう。あら、この青海波なんかいいわね。しぶきのあがる滝を思わせるし。これは一越縮緬でござんすか?」
「は、はい。いかにも、一級品の一越縮緬でございます」
急に話を振られた呉服屋は我に返り、慌てて揉み手を再開した。
「あ、見て津笠さん、この鉄線に枝垂れ柳も、乙でござんすよ」
津笠と夕辻が嬉々として反物を選び始めたので、瑠璃も一念発起したようにようやく文に取りかかった。
その後、行商の小間物屋も部屋を訪れ、こちらも津笠と夕辻に目利きを任せたので、瑠璃は何とか文の山を片づけることができた。
来客も文の仕事も一段落して、津笠が一息つくためにぬるめの茶を入れてくれた。瑠璃は肩の凝りをほぐすように大きく伸びをする。
「津笠って、着あわせに関しては本当に玄人だよねえ。さすがは呉服問屋の大店、丸旗屋の若旦那に見初められただけあるよ」
夕辻は再び脚を放り投げて、茶をすすりながら津笠を褒めた。
「佐一郎(さいちろう)さま? 間夫になってもう一年くらいか」
瑠璃も津笠から茶を受け取った。
「もう。間夫だなんて、そんなんじゃないさ。佐一郎さまはきちんと揚げ代を払ってくれてるんだし」
間夫とは、遊女が心から惚れた男のことを指す。互いに惚れあい、よき支えになることもあるが、中には遊女に揚げ代を支払わせた上に金をせびる男も多い。悪い意味でとられることも多いため、津笠はこの呼び方をあまり好ましく思っていない。
「じゃあ情夫でもなんでもいいけどさ。目利きの極意は、佐一郎さまから直々に仕込まれたんだろう?」
佐一郎は呉服問屋、丸旗屋の跡目である。一年ほど前から津笠を敵娼とし、黒羽屋に通ってきていた。
「遊び人で有名だった大店の若旦那が、初会からいきなり身請け話をしたって、吉原中で噂になったよな」
瑠璃はにやにやしながら津笠を見やる。一方で津笠は頰をほんのり赤く染め、慌てたように茶を飲んだ。
「わっち、初会の酒宴に同席してたんだけどさ、もうあの時はすごかったんだよ。佐一郎さま、津笠が入ってくるなり駆け寄って、皆の前でお前さんを妻にしたい、って叫んだんだから」
夕辻も瑠璃と同じくにやっと笑って津笠を見る。津笠はますます赤くなった。
大見世で遊女の馴染みとなるには、いくつかの手順が必要である。
まずは引手茶屋にかけあって遊女と会う段取りをつけ、初会となる。この時、遊女と客が会話をすることはない。遊女は置物のように上座に座って、にこりともしないのが暗黙の了解だ。その後に裏を返す、つまり二会目となる。ここで遊女と客は少しだけ会話をする。三会目でようやく馴染みとして認められ、名入りの箸を贈られて、同衾と相成るのだ。
ここにいたるまで茶屋や妓楼への心づけ、酒宴の費用、遣手や朋輩、幇間に芸者への祝儀、さらには三ツ布団や衣裳といった遊女への数々の贈り物など、気の遠くなるほどの金子が必要となるため、中見世や小見世ではこの流れは省略される。格を重んじる大見世であっても、呼び出し昼三の売れっ妓にしか、この儀式ともいえる形式はとられない。
黒羽屋で三番人気の津笠を敵娼にするには根性と懐具合が必要であり、それを乗り越えてこそ、粋な客として正式にお大尽扱いを受けられるのだ。
佐一郎は元々、吉原で名の知れた男であった。女子のように可愛らしい顔をした若者だが、遊びには小気味よく金を使い、出し惜しみをしない。ただこれといった敵娼は持たず、中見世や小見世を転々として豪遊していた。
だが一年前、津笠の道中に出くわし、その美しく毅然とした姿に一目で魅入られたらしい。引手茶屋に津笠に会いたいとかけあってきた時は、茶屋の主人も驚いたほどだ。大店の若旦那ということもあって話はとんとん拍子に進み、初会を迎えた。
引手茶屋で自分のために道中をしてきた津笠を、佐一郎は潤んだ目で見つめていた。茶屋から黒羽屋の座敷に移動し、改めて酒宴を行った時に、事は起こった。
禿や新造を引き連れた津笠が座敷に入ってくるなり、佐一郎は弾かれたように立ち上がり、津笠に駆け寄った。幇間や芸者衆がざわつき、気づいた若い衆が津笠を守るため間に入ろうとするより早く、佐一郎は津笠を強く抱きしめた。
酒宴に同席していた夕辻たちは、ぽかんとしたままその光景を眺めていた。そして佐一郎は津笠の肩を抱き、感極まったように、身請けをしたいと宣言したのだった。
座敷はどよめいた。馴染みにもなっていない、まして初会の場で身請け話をするなど論外である。佐一郎は吉原での理を理解しているにもかかわらず、粋とは正反対の行動に出ていた。
若い衆が我に返ったように佐一郎に駆け寄り、急いで津笠から引きはがす。
座敷がざわつく中、津笠は驚いた顔で佐一郎を見ていた。何があっても動じない大見世の売れっ妓の一人であり、中でも特に気丈といわれる津笠でも、想定外の事態だった。禿や新造も、津笠姐さま、大丈夫でありんすか、とおろおろしていた。
津笠は佐一郎から目を離さなかった。佐一郎も、若い衆に肩をがっちりつかまれたまま、津笠から目をそらさない。二人の視線は絡みあい、座敷内は次第に静まり返った。
静寂を破るように、津笠は小さく笑った。やがて慈愛に満ちた面差しで、佐一郎の目を見たまま頷く。
ようござんす、と小さいながらはっきりと発せられた言葉で、座敷は再びどよめいた。調子のいい幇間は歓声を上げて踊り始める。禿たちや若い衆は、心底びっくりしたように津笠を凝視する。
佐一郎はというと、こちらは鳩が豆鉄砲を食ったような顔になっていた。津笠はそれを見て、少女のように頰を染め、また笑ったのだった。
「あれはねえ、黒羽屋の歴史に残るよ。いんや、吉原の歴史に残るねっ」
浮かれた表情で語っていた夕辻が、珍しく生真面目な顔になり熱っぽく言った。
「もうやめとくれよ、その話は。わっちはただ、佐一郎さまの真剣な目を見て、その、いいな、と思っただけだよ」
津笠はもごもごと語尾を濁した。
結局、見世中がてんやわんやの大騒ぎになり、佐一郎は場を収めるため、妓楼を丸ごと買い占める惣仕舞をすることになった。
見世の者や芸者衆は新たな伝説の誕生ともてはやし、金一分と換えられる紙花をまく佐一郎の顔は、晴れやかであった。
「それからは佐一郎さま、津笠のとこに通い詰めてさ。あれだけあっちの見世、こっちの見世ってふらふらしてた道楽人が、他には見向きもしないで津笠にぞっこんになったんだから、そりゃ吉原中の話題にもなるよねえ。岡惚れ若旦那、なんて呼ばれちゃって」
にしし、と夕辻は白い歯を見せた。
大見世としての見栄もあるため、幸兵衛はこの身請け話をすぐには承諾しなかった。しかし、佐一郎が三日と空けず黒羽屋に登楼っては祝儀もきっちり出し、身請け金も支払う余裕があろうことから、ほどなくして正式に見世の承諾を出していた。
「さすがは有名な丸旗屋のお坊ちゃま、津笠への贈り物は見事なのばっかりだよな。珍しい反物や新作の文様が入ったらすぐに贈ってきてさ。道中の評判もめっぽういいそうじゃないか」
瑠璃が言うと、津笠はまだ赤い顔でまごついた。
「おかげで津笠の着た反物は飛ぶように売れてるみたいだよ。そこは黒羽屋の三番人気、いや、衣裳に関しては瑠璃より津笠の方が人気かも?」
吞気に笑う夕辻を、津笠が慌てて諫める。
当の瑠璃は気にしていないようで、確かにそうかもねえ、と深く頷いた。
大見世の人気遊女は、江戸市井の女たちにとっても憧れの存在である。人気が高くなればなるほど、道中で何を身につけているかは話題になり、その反物や小間物は流行の最先端を行くものとして、こぞって真似される。
「佐一郎さまが着あわせを教えるのは、やっぱり津笠を身請けして丸旗屋の女将にしたいからなんだよね。身請けの話は今どれくらい進んでるんだえ」
夕辻は津笠に咎められたにもかかわらず、右から左のようだ。
「まあ、そうだね……実は昨年の暮れから、丸旗屋の旦那、佐一郎さまのお父上が臥せってしまわれたらしくて。それからは気弱になられたそうで、今年中には佐一郎さまがお店を継ぐって話になってるみたい」
「じゃあ、今年中には身請けされるんだねっ」
夕辻は自分のことのように嬉しそうだ。
「いいなあ。この三人の中で一番に大門をくぐっていくのは、津笠になるんだね」
瑠璃はそっと津笠を横目で見た。津笠は夕辻の祝福に照れくさそうに笑っている。だが、瑠璃には津笠の声が少しくぐもり、どこか元気がないように感じられた。
いつの間にか座敷にやってきた炎が、日の当たる出窓に飛び乗っていた。猫の尻尾が左右に揺れる。外の景色を眺める後ろ姿を見て、津笠は微笑んだ。
「でもね、佐一郎さまは正式にお店を継ぐための準備で大変みたい。継ぐとなったら身を固めなきゃならないけど、わっちを落籍して女将にするってのは、周囲の反対も少なくないって。そりゃ遊女揚がりの女が大店の女将なんて、簡単な話じゃないもの。身請け代だって馬鹿にならないわけだし」
目を伏せ、聞こえるか聞こえないかくらいのため息をつく。
「それで佐一郎さまは今、身請けのための資金集めやらまわりの説得やらに奔走されているのさ。だから登楼される回数も、前よりは減っちまってね」
「でも新しい衣裳だけは、律儀に贈ってきてるじゃないか。大店のお坊ちゃまとはいえ見上げたモンだよ。わっちの旦那衆もちったあ見習って、問屋をいちいち寄越すのはよしてくんないかね」
渋い顔をした後、瑠璃は穏やかに言った。
「今来られないのだって、津笠のためなんだろう。毎日嫌でも一緒にいることになるんだから、今くらい少し会わなくたっていいじゃねえか」
ひやかすように笑ってみせた。
「好いた人と吉原を出ていけるなんて、津笠は幸せだねえ」
瑠璃の隣では夕辻が目を潤ませている。
二人の様子を見比べてから、津笠ははにかみ、そうよね、とつぶやいた。
瑠璃が津笠と出会ったのは三年前。
津笠の生まれは東北の農村、五人兄弟の長女であったが、凶作の折、口減らし同然に女衒に売られた。黒羽屋に来た時、津笠はまだ七歳だった。しかし、整った顔立ちと子どもながらの負けん気を見こまれ、引っこみ禿に選ばれた。そうして教養と売れっ妓の意気を叩きこまれ、未来の花魁候補として周囲から期待されていた。
汐音と津笠、どちらが花魁となるか、あと一月で発表されるはずだった夏の日。
黒羽屋の楼主、幸兵衛は、抱えの遊女たちを一階の大広間に呼び出した。
五十に近い歳ではあるが、快活で人当たりのよさそうな面相をした幸兵衛は、全員がそろったのを確認すると口を開いた。
「皆、よく聞いてくれ。次の花魁を誰にするかについてだが」
津笠と汐音は遊女たちの先頭に座っていた。
まだ決定まで時間がかかるんじゃなかったかしら、客の入りが少ないこの時期にお披露目をして人を呼びこもうってんじゃない、とひそひそ話す朋輩の声を後ろに聞きながら、津笠はこっそり隣の汐音を盗み見る。
汐音は緊張と自信が入りまじった顔で、楼主の言葉を待っていた。
幸兵衛は咳払いを一つし、廊下に向かって声をかける。
「瑠璃、おいで」
衣擦れの音をさせながら、一人の少女が大広間に入ってきた。
津笠はその姿を見て一瞬で目を奪われた。
少女は、息を吞むほどに美しかった。
「新入りの瑠璃だ。皆、廓のことについて色々と教えてやってほしい。次の花魁は、この瑠璃が務めることになった」
「なんですって」
汐音はがばっと立ち上がった。こめかみには青筋が立っている。他の遊女たちも突然のことに顔を見あわせ、ざわつき始めていた。嫌な空気に、津笠は居心地の悪さを感じた。
「新入りって、引っ込みでもなんでもないのに、どうしてそんな女が花魁になるって言うんですか」
「芸事の素養もそれなりにあるし、何よりこの見た目なら問題ないだろう。汐音や。お前さんと津笠には、呼び出し昼三として活躍してもらいたい」
幸兵衛は事もなげに言った。
「そんなの、納得できるわけないでしょう。津笠さんが花魁になるってんならまだしも、ずぶの素人を選ぶなんて、気でもお触れになったんじゃありんせんか」
汐音の声は怒りに震えていた。
幸兵衛は汐音の言葉を流すように、津笠に目を向ける。
「津笠。お前さんは、どうだい」
津笠は汐音や他の朋輩たちの視線が、すべて自分に向けられているのに気がついた。
「わっちは」
幸兵衛の隣に立つ美しい少女をちらりと見る。
瑠璃は自分のことで揉め事が起こっているのに、我関せずとでも言いたげな目をしていた。津笠には、その美しすぎる顔立ちに宿った暗い目が、気になった。
「わっちには、異論はありんせん」
津笠の言葉を受けて、汐音の怒りに絶望が加わったのを感じた。汐音は唇を嚙みしめ、何も言わずに大広間を走り去ってしまった。
幸兵衛がぱんぱんと手を叩く。
「そんならこれで決定だ。さあ、仕事に戻ってくれ」
遊女たちは腑に落ちない思いを抱えながらも、楼主の言葉には逆らえず、大広間を後にしていった。
それからしばらく、瑠璃はお勢以によって花魁としての修業をさせられていた。素人娘がいきなり花魁なんてできっこない、などと陰口を叩きながら、遊女たちはその修業を事あるごとに盗み見ていた。津笠も気になって、様子をのぞきに行った。
だが遊女たちの予想に反して、瑠璃の花魁としての完成度は、瞬く間に仕上がっていった。廓言葉をはじめ、三味線も琴も玄人並、書や将棋もそつなくこなし、舞いに関しては、黒羽屋の誰もかなわないと、津笠はいたく感心した。瑠璃がまとう空気は、少女のものから見る見るうちに女のものへと変貌を遂げていた。
最も遊女たちを驚かせたのは、外八文字だった。
高下駄を履いて特殊な歩き方をする外八文字は、最低でも三年かけて会得するものだ。津笠も汐音も、三年以上かかってやっとできるようになっていた。
ところが廊下でお勢以に手ほどきを受けた瑠璃は、高下駄を履いた一回目から、完璧な外八文字を踏んでみせた。その上、三寸が通常の歯の高さについて、もっと目立たせた方がいいんじゃありんせんか、八寸くらいとか、と発言してお勢以をも仰天させた。
瑠璃は持ち前の美貌と多方面に亘る才能で、新入りの花魁出世に異を唱える者たちを自然と黙らせていった。
一月が経ち、汐音と津笠は呼び出し昼三として見世に出始めた。時を同じくして、瑠璃の花魁としてのお披露目が行われた。
いきなり花魁に抜擢された瑠璃の評判はたちどころに広まり、実物を一目見ようと、黒羽屋には大勢の男が昼も夜もなく集まった。幸兵衛も鼻が高いようで、いつも瑠璃を褒めちぎっていた。
されど汐音と取り巻きの朋輩は、瑠璃に対する反発心を隠さなかった。元々、瑠璃が現れるまでは汐音の一派が遊女たちの中で絶対的な存在だったため、瑠璃は黒羽屋で完全に孤立していった。
加えて、瑠璃にはよくない噂があった。
花魁は怨霊を間夫にしている、というものである。
瑠璃は明らかな仮病で、見世をたびたび休んでいた。ある時、古参の遊女、八槻が身揚がり中の瑠璃の部屋から楽しげな声を聞き、部屋をのぞいてみた。しかしそこにいたのは瑠璃一人。壁に向かって笑いながら話しかける、花魁の姿だけがあった。
八槻はあまりの恐怖に声もなく逃げ去り、見てしまった異様な光景を朋輩に伝えた。それからというもの、瑠璃を見る遊女たちの視線は、忌避に近いものになっていった。
瑠璃は客の前では艶めいた笑みを欠かさず、様々な話題に対応して客を飽きさせなかったが、仕事以外で口を開くことはなかった。津笠は自分と同い年の瑠璃が、誰とも関わらず、次第に瞳が陰っていくのを、どうしても放っておけなくなった。
「ねえ、瑠璃花魁。一緒に湯屋にでも行かない」
お披露目から二月が経った頃、そう話しかけると、瑠璃は驚いたように津笠を見た。しばらく津笠をまじまじと見てから、ふいと顔を背ける。
「お気遣いは嬉しゅうござんす。ですが内湯に入るので、どうぞ他の方とお行きになってくださんし」
津笠は他人行儀な物言いに軽く傷ついた。
噂を鵜吞みにした朋輩から、関わらない方がいいと忠告されていた津笠だったが、めげずに何度か理由をつけては、瑠璃に話しかけてみた。が、瑠璃の態度は変わらない。やはり一匹狼を貫いていた。
段々と津笠も、瑠璃が一人でいることを望んでいるのかもしれないと思いなおし、話しかけるのをやめた。
それからしばらく経った、ある真夜中のこと。
厠に行った津笠が自室に戻るため階段を上がっていると、上がりきったところで何かと正面からぶつかった。
「痛っ。ああ、ごめんなんし。ぼーっとしてて……」
咄嗟に謝った津笠は、ぶつかった相手を見て言葉を失った。
「いってえ。おっと、こりゃまたすげえ美人だな。ここは目ん玉が飛び出るくれえ粒ぞろいだ。お前さん、名前は何てんだ?」
がしゃであった。
全身骸骨の姿を見て、津笠は絶句した。幼い頃に幽霊を見たことはあったが、肉のない者を見るのは生まれて初めてだった。
「な、な」
「あ、俺か? 俺はがしゃ。瑠璃の部屋で宴をしてたんだ。そうだ、お前さんもよかったら来るか?」
カタカタと陽気に話すがしゃを尻目に、津笠は廊下を走りだしていた。一番奥の部屋まで行き、襖を勢いよく開ける。
瑠璃の座敷には異形の妖たちが集まり、酒を飲み、珍妙な踊りを踊っていた。
「これは……」
今まで妖を見たことがなかった津笠は、夢でも見ているのかとひどく混乱した。しかし妖よりも、津笠の目は座敷の中心にいる瑠璃に釘づけになった。
酒に顔を赤らめ、踊る狸や怪火に向かって野次を飛ばす瑠璃は、これまで見たことのないような笑顔をしていた。
「ん?」
部屋の襖が開いているのに気づいた瑠璃は、入り口へと視線をやった。口を開けて突っ立っている津笠を見て、見る見る顔がいつもの硬い表情になっていく。
「つ、津笠さん。まさか、見えるんですか?」
瑠璃は慌てて横にいた狸をむんずとつかみ、自分の背に隠した。
「わからないけど……そう、みたい……」
人ならざる者たちを見ても、不思議と恐ろしくはなかった。部屋にあふれる和気あいあいとした空気は、津笠に温もりすら感じさせていた。
廊下から戻ってきたがしゃが、悠々と津笠の横を通りすぎる。
「へえ、お前さん、元から見える体質じゃなかったのか。てっきり瑠璃と同じかと思って声をかけちまったぜ。なんで急に見えるようになったんだろうな?」
津笠はがしゃの姿を改めて凝視した。津笠の視線ががしゃに注がれているのを見て、瑠璃は顔を引きつらせる。
「げっ、黙れこの腐れ髑髏っ。違うんです津笠さん。これは、その、勝手に集まってきちまったというか」
しどろもどろに説明する瑠璃を、津笠は口を開けたまま眺めた。が、とうとうこらえきれずに吹き出し、笑い始めた。
「え、ええと。あの、聞いていんすか? それより、怖くないんですか」
瑠璃は突然笑いだした津笠にどう反応していいかわからず、言葉を必死に探す。
片や津笠はひとしきり声を出して笑うと、満面の笑みを浮かべた。
「瑠璃花魁てば、ちゃんと笑うんじゃない。よかった」
「えっ……」
「今日のお客は鼾がうるさい人でね。眠れないから、よかったらわっちもまぜとくれよ。ここにいる皆、個性的で素敵じゃない。怖くなんかないよ」
瑠璃は困惑したように妖たちを見た。妖は自分の姿が見える存在が嬉しいのか、我先にと津笠に自己紹介をしている。露葉は瑠璃に向かって満足げに頷き、瑠璃はがしゃに、お前がうろちょろしやがるからこんなことに、と蹴りをくらわせた。
こうして、津笠は瑠璃と秘密を一つ共有することになった。津笠が何かとかまってくるのを瑠璃は最初の頃こそ不審がり、面倒そうにしていたが、徐々に心を開いていった。
「あんた、あんまりわっちに関わらない方がいいんじゃないの。他の妓たちによく思われないだろ。特に汐音さんとか」
瑠璃はぶっきらぼうに言った。
「あら、そんなの平気だよ。そもそもわっちは花魁の地位に興味なかったし、荷が重いから誰かにやってもらえて、助かったと思ったくらいさ。瑠璃は華も才もあったから、もう誰もそのことに文句は言えないしね」
津笠はにこやかに答えた。
しかし、不真面目に身揚がりを繰り返す瑠璃は、見世での立場が悪くなる一方だった。その上、遊女の中でも人気の錠吉を専属の髪結い師にし、同じく何かと頼りにされている権三とも妙に仲がよいため、ますます物言わぬ批判と嫉妬が募っていた。
「瑠璃、もう少し他の人と話してみたらどう? 皆お前さんのこと、愛想がなくてお高くとまってるって勘違いしてるんだよ。わっちに話すみたいに皆と話せば、きっと誤解も解けるから」
促すように言う津笠に、瑠璃はもそもそと重い口を開いた。
「どうせ無理さ。あんたと違って、ここに来るまでも友達なんてできたためしがないんだ。何を話せばいいかなんてわかんねえよ」
瑠璃はなぜ吉原に来る前から様々な教養を持っていたのか、どんな暮らしをしてきたのか、頑なに話そうとはしなかった。津笠も、話したくないなら無理に聞くことはないと、気持ちを酌んでやっていた。
「そっか。ま、わっちとしてはお前さんのこと独り占めできてるみたいで、嬉しいけどね」
そう言って笑う津笠を、瑠璃は口をすぼめ、上目遣いで見つめた。
「なんでわっちなんかにかまってくれるのさ。皆、裏でわっちのこと悪く言ってるのに」
汐音のようにあからさまな敵意を向けてくる者こそ当初より少なくなったが、それでも瑠璃は、他の遊女たちが陰で苦言を呈し、自分を疎ましく思っているであろうことを、何となく感じ取っていた。
「あはは。だって、お前さんのこと気に入っちゃったんだもん。誰かの言うことなんて関係ないさ。わっちは瑠璃のこと、大事な友達だと思ってるから」
瑠璃は目を瞬いた。津笠の言葉を嚙みしめるように、小さく頷く。
口元が、ほんの少し緩んでいた。
津笠は、瑠璃が他の遊女との接し方がわからないだけで、本当は気のいい性格だと見抜いていた。その証拠に瑠璃は、他の遊女がいる時はできるだけ津笠を避けていた。嫌われている自分と仲よくしているのを見られれば、津笠まで嫌な思いをする。津笠には、瑠璃の考えがよくわかっていた。そのため二人でいる時以外は、津笠もあえて慇懃な態度をとるようにつとめていた。
瑠璃が花魁になって半年。
休憩をしている際、瑠璃の部屋の隅に見慣れない物が転がっているのを、津笠は目に留めた。瑠璃が急いで片づけようとするので、津笠は思わずその手首をつかんだ。
瑠璃が手にしていたのは能面であった。哀しげな女の顔が、薄ら笑いを浮かべている。
「能が好きな旦那からもらったんだ。趣味が悪いよな」
瑠璃は適当にごまかして背を向けようとする。だが、津笠は瑠璃の手首を離さなかった。
「あのさ、それ、お前さんがちょくちょく見世を空けてるのと、関係あるのかえ」
瑠璃の目が大きく見開かれた。そこには、明らかな狼狽が映っていた。
「なんでもないって」
「隠し事があったってかまやしないけど、心配なんだよ。瑠璃、たまに怪我してるし。誰かにひどいことされてるとか、何かまずいことやらされてるとか」
津笠は微かに震えていた。
「あんたには、関係ない」
瑠璃はかまわず津笠の手を振り払う。途端、津笠は小さな悲鳴を上げた。動揺していたせいで意図せず乱暴な力が入っていたのだ。
「あ……」
何をしてしまったかに気づき、振り向く。津笠は手首を押さえて俯いていた。
瑠璃は己の性分を呪った。津笠は、すでに瑠璃の中で大きな存在となっていた。
「ごめんね、強引だったよね。瑠璃が言いたくないならいいんだ。でも、辛いことがあったら、いつでも頼ってほしくて……わっちの自己満足かもしれないけど」
瑠璃は押し黙った。
本当のことは、お喜久から固く口止めされていた。それでなくとも、言えばきっと怖がらせてしまう。嫌われるかもしれない。自分を友と呼んでくれる津笠も、離れていってしまうに違いない。
しかし津笠は、正面から瑠璃の目を見て、心から案じていた。その様子に、とうとう根負けした。
瑠璃は黒雲のことを打ち明けた。
怨念が鬼となって顕現すること。五人衆として赴く命がけの任務。
瑠璃のような女子が危険な裏稼業をしているなど、津笠は想像だにしていなかった。とはいえ瑠璃が幼い頃から妖が見えていたこと、外八文字をすぐに修得するほど身体能力が高いことから、噓を言っているのではないと理解できた。
「いや、そりゃびっくりするよな。わっちもいきなり鬼退治の頭領になれとかあのお内儀に言われて、意味がわからなかったもん」
瑠璃は無理に笑ってみせる。対する津笠は言葉を見つけられずにいた。
「皆が言ってるのは、あながち間違ってないんだ。花魁は怨霊を相手にしてる、ってさ。気味悪いと思って当然だ。いくら香を焚きしめてみても、死臭みたいなモンが染みついちまってるのかもな」
陰る瞳を見て、津笠は無意識のうちに瑠璃の頰を包んでいた。
「な、何すんのさ急に」
津笠は瑠璃の瞳をのぞきこむように見つめた。
「瑠璃。お前さんは、お前さんのままでいいんだよ。わかったようなこと言うべきじゃないかもしれないけど、でも、きっと鬼たちも救われてるんじゃないかな。人に言えなくたって、大丈夫」
そのまま瑠璃の顔を撫でくりまわす。
「おいっ。白粉が取れるだろうが」
瑠璃は困ったように津笠の手をつかんだ。しばらくふてくされた顔をしていたが、津笠の細指を握ったまま、やがて言った。
「なあ、津笠。金とかに困ったらわっちに言えよ。黒雲の仕事もあるから、実は結構貯まってるんだ」
真剣な顔をする瑠璃に、津笠はゆっくり頷いた。
「ありがと。でもそれ、他の人には言っちゃ駄目よ? 嫌味に取られるかもしれないから」
「あっ。そ、そっか。ごめん」
素直に謝る様子を見て、津笠は顔をほころばせた。
その後、夕辻が黒羽屋に身売りしてきた。二十歳の夕辻は、廓に来た時点で突き出しをするには薹が立っていたこと、すでにおぼこでなかったこともあって、位は部屋持に落ち着いた。ほんわかした愛嬌で可愛がられる夕辻は、元来の性分もあってか遊女たちの白い目など気にもならないようで、すぐに瑠璃とも津笠とも打ち解けて話すようになった。
津笠と夕辻は、瑠璃に対して一線を引くでもなく、取り入るでもなく、自然に接してくれる貴重な存在であった。
競いあい、見栄を張りあう大見世において、境遇も性分もまったく異なるこの二人といる時は、瑠璃も心なしか気が休まるような気がしていた。
瑠璃は長煙管をくゆらせ、煙がゆらゆら漂う天井を見つめながら、喋々とおしゃべりに興じる津笠と夕辻の声を聞いていた。
ふと見ると、炎が横で丸くなっている。さび柄の背中を撫でながら、瑠璃の心はいつしか鬼へと馳せていた。
──なんで、体は死んでるのに、心だけが独り歩きして鬼になるんだろう。鬼になってまで浮世に留まって、たとえ恨みを晴らしても、残るのは惨めな気持ちだけじゃないのか。
──置いていかないで。
──なんで、鬼はいつも笑っているんだろう。なんで、あの不気味な顔を見ても、鬼哭を聞いても、わっちは何も感じないんだろう。
──ひとりにしないで。そばにいて、誰か……。
いや、違う、と瑠璃は自問自答した。
──わかってるくせに、本当は感じてるんだ。恐れとは違う、何か、全身の血が躍るような……。
突如、襖がすぱんと音を立てて開き、瑠璃は思念の渦から一気に引き戻された。
「あんたたち、まぁたこんなとこでくっちゃべって。今何刻だと思ってんだい。早く着替えて化粧しな、昼見世が始まるよっ」
お勢以は主に瑠璃に向かってガミガミと怒鳴った。
あれれ、もうそんな時間かえ、などと口にしながら、津笠と夕辻はそそくさと部屋を出ていってしまった。
現実に戻った瑠璃も、お勢以にこってり絞られながら、怠そうに着替えを始めたのだった。
夏原 エヰジ(ナツバラ エイジ)