第5話
文字数 4,289文字
7 恩返し
「で、どうだったんだ?」
と、正木が訊いた。
「三百万、ポンと目の前に置いてやったら、その有田って男、目を丸くしてました」
と、亜矢子は言った。「残りのお金は全部有田の口座に振り込んでありましたし、向うがポカンとしている間に、私とひとみはさっさと失礼して来ました」
「面白かったろうな」
と、正木は笑って、「しかし、そういう奴はしつこく絡んでくることがある。気を付けた方がいいぞ」
「はい、承知してます」
亜矢子の隣で、長谷倉ひとみが肯いた。「もう、あんな手合とは係り合いません」
正木と亜矢子、それにひとみの三人は、夜遅く、六本木のレストランに入っていた。
新作にかかる前には、正木はいつもこの店のワインを飲む。ちょっとした「おまじない」みたいなものである。
夜、十二時近くになると、こういうレストランには芸能界やTV局の人間がよく出入りする。まあ、普通のサラリーマンが、こんな店には来ないだろうが。
「監督」
と、亜矢子が言った。「主演の二人のあてはついたんですか?」
「うん……。まあ、話はしてあるが……」
と、正木は言葉を濁した。
亜矢子も、正木の持っているイメージから、おおよその見当はついていた。
男優の方は、いわゆるアイドルの年齢の役ではないので、多少地味でも、演技の達者な役者ということになる。
舞台を中心に活動している役者から一人選ぶのは、そう難しくない。スケジュールがびっしり詰っている役者は、そういないからだ。
問題は女優。――ヒロイン役を誰にするかである。
劇場で公開する映画である以上、ある程度集客の見こめる女優の必要がある。
しかし、作品のコンセプトからいって、あまり若くない――少なくとも四十を過ぎた女優でないと、男優とのバランスが取れない。
しかし、映画の主役がこなせて、それもただ「普通の芝居ができる」以上のものを求めようという正木の希望に叶う女優となると……。
いないわけではないが、数は決して多くないし、人気のある女優は、たいていTVの連ドラの仕事で、スケジュールが詰っているのだ。
亜矢子も、正木が悩んでいることはよく分った。しかし、スクリプターが口を出すことではない。
ただ――前の作品で、水原アリサが印象的な演技をして、TVドラマの主役に決ったようなことは、実は今の正木にとって、珍しいことだった。
実力のある監督といっても、一本でも「客の入らない」映画を撮ると、次の作品が何年も撮れなくなるのが、情ないけれど日本映画の現状だ。
たとえ忙しくても、
「あの監督の映画なら、ぜひ!」
という女優は――。
いや、正しくは女優の所属する事務所が、正木だからといって、特別扱いはしてくれない。
作品そのものに、よほど話題性があればともかく、今度の「リアルなメロドラマ」には、ホラーの要素もアクションもない。
むろん、正木はあえて地味な大人のメロドラマを狙っているのだが、それに喜んで参加しようという女優を見付けることは、容易ではないのだ。
思い切って、少し若手の女優を使うか、初めのプランに忠実にやって、「客の入り」はあえて狙わないか……。
正木が悩んでいることは、亜矢子にも察しがついていた……。
「――いらっしゃいませ!」
レストランのマネージャーが出迎えている方へ目をやって、亜矢子は、
「監督」
「何だ?」
「アリサさんです」
正木は入口の方へ目をやった。
水原アリサが、四、五人の男性と入って来るところだった。
「TVの連中だな」
と、正木はちょっと苦々しげに、「派手なことの好きな奴らだ」
アリサたちは一番奥のテーブルについた。
「でも、アリサさん、堂々としてますね」
と、亜矢子は言った。
確かに、以前は多少自信なげで、目立ない印象だったのだが、今のアリサは、レストランの客の視線を集めるだけの輝きを放っていた。
「正木さんの映画の水原アリサ、良かったですね」
と、ひとみが言った。
「うん、あの子はいいものを持ってた。それを引出す人間がいなかったんだ」
正木の言葉には、「自分がそれを引出してやった」というプライドが溢れていた。
「次の映画、水原アリサじゃいけないんですか?」
と、ひとみが訊いた。
亜矢子はチラッとひとみを見た。
もちろん、正木の頭にもアリサのことは浮んでいるだろう。しかし、アリサはまだ三十そこそこで、若い。
四十代の役もやれるだろうが、TVの連ドラの主役をやりながらでは、とても無理だ。
「まあ、また見逃していた宝石を探し当てるさ」
と、正木は言って、「おい! 赤ワインをくれ!」
食事しながら、正木は何杯目かのワインを頼んだ。
よく通る正木の声が、アリサの耳に入った。
亜矢子は、アリサが立って、こっちへやって来るのを見た。
「監督!」
と、アリサが嬉しそうに、「ごぶさたしてます」
「何だ、来てたのか」
正木は、知らなかったふりをして、「どうだ」
「今、TVのお仕事で」
「うん、聞いてる。収録に入ってるのか?」
「来週からです。でも――」
と、アリサはちょっと首を振って、「収録以外の、PRの仕事が多くて」
「TVはそういう世界だからな。しかし、本番の芝居をきちんとやればそれでいい」
「はい」
と、アリサは肯いて、「監督、次の映画は?」
「ああ。――今、準備中だ」
「楽しみです。――亜矢子さん、どうもその節はお世話になって」
「どういたしまして。次も正木監督につくんです。腐れ縁ですね」
「そんな。羨しいわ。ワンシーンでも、出演させて下さい」
「嬉しいよ。憶えとこう」
「はい、ぜひ」
話していると、アリサと一緒のTV局の人間らしい男性がやって来て、
「アリサちゃん、向うで乾杯するから」
と言った。
「ええ、すぐ行くわ。こちら正木監督」
と、アリサが言ったが、男の方は関心ない様子で、
「ああ、どうも」
と、おざなりに会釈して、「さ、行こう」
「ええ。――じゃ、監督」
「うん、元気で」
アリサと戻って行く男が、
「あんな時代遅れの監督に係るなよ」
と言うのが、はっきり聞こえた。
わざと聞こえるように言っているのが分る言い方だった。
すると、アリサが足を止め、
「もう一度言ってごらんなさい!」
と、激しい口調で言ったのである。
「何だよ、本当のことだぜ」
と、男が言い返す。
次の瞬間、アリサが男を平手打ちした。
むろん、アリサも、男が正木たちに聞こえるように言ったことを分っているのだ。
「失礼でしょ! 謝りなさい!」
アリサは凄い剣幕だった。
店内はシンと静まり返った。
誰もが息をつめて、成り行きを見守っている。
すると――正木が立ち上って、アリサと男の方へと歩いて行き、
「アリサ、ありがとう」
と、アリサの肩を軽く叩いた。
そして、顔を真赤にしている男の方へ、
「アリサは、今が大切な時なんだ。上手に使ってやってくれ」
と、穏やかに言った。
正木が席に戻ると、店内にホッとした空気が流れ――誰からともなく、拍手が起って、それが店の中に広がって行った。
正木は新しく注がれたワインのグラスを手にすると、店内を見回し、グラスを上げた……。
「あら」
と、声がした。「こんな所で」
戸畑進也は、飲みかけていたコーヒーを、小さなテーブルに置くと、
「あかりか。――昼休みか?」
と言った。
「仕事で外出よ」
と、黒田あかりは言った。
表のテーブル席。――あまり風がないので、日が当っていると、そう寒くはない。
「どうしてるの?」
と、あかりは椅子にかけて言った。
「うん。――まあ、何とか」
黒田あかりとは、かなり長く付合って来た。しかし、戸畑がリストラされたことをどこかから聞いたのだろう。連絡しても、全く返事が来なくなった。
「私も忙しくてね」
と、あかりは言った。
「うん、そうだろうな」
少し間があって、あかりがちょっと笑うと、
「失業中なんでしょ? 私、あなたを養うなんて余裕ないの」
「分ってるよ」
「実はね。プロポーズされてるの」
「へえ」
「会社の取締役の息子でね。今、三十歳」
「元から付合ってたのか?」
「ここ一年くらいよ」
「結婚するのか? おめでとう」
「どうも」
あかりは何か言いたげにしていた。
「心配するな。俺は何も言わない」
と、戸畑は言った。「もう五十五だ。今さら、やきもちでもない」
戸畑の淡々とした様子に、あかりはちょっと不審な面持ちで、
「それならいいけど……。じゃ、もうお互い赤の他人ね」
「そういうことだな」
と、戸畑は肯いて、「幸せになってくれ」
「そのつもりよ」
あかりは立ち上って、「それじゃ――お元気で」
「ありがとう。君も」
戸畑は、足早に立ち去るあかりの後ろ姿を眺めていた。
コーヒーをゆっくり飲み干すと、
「――戸畑さん」
やって来たのは、大山啓子だった。
「やあ、今日はもう帰れるのかい?」
「一つ寄る所があるの。この書類、届けるんで。一緒に来てくれる?」
「いいとも。どこなんだ?」
「地下鉄で三十分かな。――アパートに帰る途中で、何か食べましょう」
「うん。――いつもすまんね」
「そういうことは言わないで」
と、啓子は微笑んだ。
「じゃ、行くか」
と、戸畑は立ち上った。
戸畑は、大山啓子のアパートにずっと泊っている。――もちろん、啓子がそうしていいと言ってくれているからだ。
しかし、戸畑だって分っている。
いつまでも、娘のように若い啓子の世話になっているわけにはいかない。
しかし、仕事を探しても、まず相手にされない。
妻の弥生は、今シナリオ書きに夢中で、夫の浮気など気にもしていないようだ。
こんな毎日は、いつまでも続かない。――続かない、と分ってはいるのだが……。
黒田あかりは、戸畑が若いOLらしい女と一緒に笑顔を見せているのを、遠くから眺めていた。
「あんな彼女がね……」
くたびれた戸畑のどこがいいんだろう?
「何よ、あんな女……」
ちっとも美人でもないし、可愛くもない。
あかりとしては、戸畑と切れたいと思っていたので、都合がいいのだが。
しかし、戸畑が別の女と、楽しそうにしているのを見ると、何かもやもやとした、ふっ切れない思いになるのだった……。
(つづく)
「で、どうだったんだ?」
と、正木が訊いた。
「三百万、ポンと目の前に置いてやったら、その有田って男、目を丸くしてました」
と、亜矢子は言った。「残りのお金は全部有田の口座に振り込んでありましたし、向うがポカンとしている間に、私とひとみはさっさと失礼して来ました」
「面白かったろうな」
と、正木は笑って、「しかし、そういう奴はしつこく絡んでくることがある。気を付けた方がいいぞ」
「はい、承知してます」
亜矢子の隣で、長谷倉ひとみが肯いた。「もう、あんな手合とは係り合いません」
正木と亜矢子、それにひとみの三人は、夜遅く、六本木のレストランに入っていた。
新作にかかる前には、正木はいつもこの店のワインを飲む。ちょっとした「おまじない」みたいなものである。
夜、十二時近くになると、こういうレストランには芸能界やTV局の人間がよく出入りする。まあ、普通のサラリーマンが、こんな店には来ないだろうが。
「監督」
と、亜矢子が言った。「主演の二人のあてはついたんですか?」
「うん……。まあ、話はしてあるが……」
と、正木は言葉を濁した。
亜矢子も、正木の持っているイメージから、おおよその見当はついていた。
男優の方は、いわゆるアイドルの年齢の役ではないので、多少地味でも、演技の達者な役者ということになる。
舞台を中心に活動している役者から一人選ぶのは、そう難しくない。スケジュールがびっしり詰っている役者は、そういないからだ。
問題は女優。――ヒロイン役を誰にするかである。
劇場で公開する映画である以上、ある程度集客の見こめる女優の必要がある。
しかし、作品のコンセプトからいって、あまり若くない――少なくとも四十を過ぎた女優でないと、男優とのバランスが取れない。
しかし、映画の主役がこなせて、それもただ「普通の芝居ができる」以上のものを求めようという正木の希望に叶う女優となると……。
いないわけではないが、数は決して多くないし、人気のある女優は、たいていTVの連ドラの仕事で、スケジュールが詰っているのだ。
亜矢子も、正木が悩んでいることはよく分った。しかし、スクリプターが口を出すことではない。
ただ――前の作品で、水原アリサが印象的な演技をして、TVドラマの主役に決ったようなことは、実は今の正木にとって、珍しいことだった。
実力のある監督といっても、一本でも「客の入らない」映画を撮ると、次の作品が何年も撮れなくなるのが、情ないけれど日本映画の現状だ。
たとえ忙しくても、
「あの監督の映画なら、ぜひ!」
という女優は――。
いや、正しくは女優の所属する事務所が、正木だからといって、特別扱いはしてくれない。
作品そのものに、よほど話題性があればともかく、今度の「リアルなメロドラマ」には、ホラーの要素もアクションもない。
むろん、正木はあえて地味な大人のメロドラマを狙っているのだが、それに喜んで参加しようという女優を見付けることは、容易ではないのだ。
思い切って、少し若手の女優を使うか、初めのプランに忠実にやって、「客の入り」はあえて狙わないか……。
正木が悩んでいることは、亜矢子にも察しがついていた……。
「――いらっしゃいませ!」
レストランのマネージャーが出迎えている方へ目をやって、亜矢子は、
「監督」
「何だ?」
「アリサさんです」
正木は入口の方へ目をやった。
水原アリサが、四、五人の男性と入って来るところだった。
「TVの連中だな」
と、正木はちょっと苦々しげに、「派手なことの好きな奴らだ」
アリサたちは一番奥のテーブルについた。
「でも、アリサさん、堂々としてますね」
と、亜矢子は言った。
確かに、以前は多少自信なげで、目立ない印象だったのだが、今のアリサは、レストランの客の視線を集めるだけの輝きを放っていた。
「正木さんの映画の水原アリサ、良かったですね」
と、ひとみが言った。
「うん、あの子はいいものを持ってた。それを引出す人間がいなかったんだ」
正木の言葉には、「自分がそれを引出してやった」というプライドが溢れていた。
「次の映画、水原アリサじゃいけないんですか?」
と、ひとみが訊いた。
亜矢子はチラッとひとみを見た。
もちろん、正木の頭にもアリサのことは浮んでいるだろう。しかし、アリサはまだ三十そこそこで、若い。
四十代の役もやれるだろうが、TVの連ドラの主役をやりながらでは、とても無理だ。
「まあ、また見逃していた宝石を探し当てるさ」
と、正木は言って、「おい! 赤ワインをくれ!」
食事しながら、正木は何杯目かのワインを頼んだ。
よく通る正木の声が、アリサの耳に入った。
亜矢子は、アリサが立って、こっちへやって来るのを見た。
「監督!」
と、アリサが嬉しそうに、「ごぶさたしてます」
「何だ、来てたのか」
正木は、知らなかったふりをして、「どうだ」
「今、TVのお仕事で」
「うん、聞いてる。収録に入ってるのか?」
「来週からです。でも――」
と、アリサはちょっと首を振って、「収録以外の、PRの仕事が多くて」
「TVはそういう世界だからな。しかし、本番の芝居をきちんとやればそれでいい」
「はい」
と、アリサは肯いて、「監督、次の映画は?」
「ああ。――今、準備中だ」
「楽しみです。――亜矢子さん、どうもその節はお世話になって」
「どういたしまして。次も正木監督につくんです。腐れ縁ですね」
「そんな。羨しいわ。ワンシーンでも、出演させて下さい」
「嬉しいよ。憶えとこう」
「はい、ぜひ」
話していると、アリサと一緒のTV局の人間らしい男性がやって来て、
「アリサちゃん、向うで乾杯するから」
と言った。
「ええ、すぐ行くわ。こちら正木監督」
と、アリサが言ったが、男の方は関心ない様子で、
「ああ、どうも」
と、おざなりに会釈して、「さ、行こう」
「ええ。――じゃ、監督」
「うん、元気で」
アリサと戻って行く男が、
「あんな時代遅れの監督に係るなよ」
と言うのが、はっきり聞こえた。
わざと聞こえるように言っているのが分る言い方だった。
すると、アリサが足を止め、
「もう一度言ってごらんなさい!」
と、激しい口調で言ったのである。
「何だよ、本当のことだぜ」
と、男が言い返す。
次の瞬間、アリサが男を平手打ちした。
むろん、アリサも、男が正木たちに聞こえるように言ったことを分っているのだ。
「失礼でしょ! 謝りなさい!」
アリサは凄い剣幕だった。
店内はシンと静まり返った。
誰もが息をつめて、成り行きを見守っている。
すると――正木が立ち上って、アリサと男の方へと歩いて行き、
「アリサ、ありがとう」
と、アリサの肩を軽く叩いた。
そして、顔を真赤にしている男の方へ、
「アリサは、今が大切な時なんだ。上手に使ってやってくれ」
と、穏やかに言った。
正木が席に戻ると、店内にホッとした空気が流れ――誰からともなく、拍手が起って、それが店の中に広がって行った。
正木は新しく注がれたワインのグラスを手にすると、店内を見回し、グラスを上げた……。
「あら」
と、声がした。「こんな所で」
戸畑進也は、飲みかけていたコーヒーを、小さなテーブルに置くと、
「あかりか。――昼休みか?」
と言った。
「仕事で外出よ」
と、黒田あかりは言った。
表のテーブル席。――あまり風がないので、日が当っていると、そう寒くはない。
「どうしてるの?」
と、あかりは椅子にかけて言った。
「うん。――まあ、何とか」
黒田あかりとは、かなり長く付合って来た。しかし、戸畑がリストラされたことをどこかから聞いたのだろう。連絡しても、全く返事が来なくなった。
「私も忙しくてね」
と、あかりは言った。
「うん、そうだろうな」
少し間があって、あかりがちょっと笑うと、
「失業中なんでしょ? 私、あなたを養うなんて余裕ないの」
「分ってるよ」
「実はね。プロポーズされてるの」
「へえ」
「会社の取締役の息子でね。今、三十歳」
「元から付合ってたのか?」
「ここ一年くらいよ」
「結婚するのか? おめでとう」
「どうも」
あかりは何か言いたげにしていた。
「心配するな。俺は何も言わない」
と、戸畑は言った。「もう五十五だ。今さら、やきもちでもない」
戸畑の淡々とした様子に、あかりはちょっと不審な面持ちで、
「それならいいけど……。じゃ、もうお互い赤の他人ね」
「そういうことだな」
と、戸畑は肯いて、「幸せになってくれ」
「そのつもりよ」
あかりは立ち上って、「それじゃ――お元気で」
「ありがとう。君も」
戸畑は、足早に立ち去るあかりの後ろ姿を眺めていた。
コーヒーをゆっくり飲み干すと、
「――戸畑さん」
やって来たのは、大山啓子だった。
「やあ、今日はもう帰れるのかい?」
「一つ寄る所があるの。この書類、届けるんで。一緒に来てくれる?」
「いいとも。どこなんだ?」
「地下鉄で三十分かな。――アパートに帰る途中で、何か食べましょう」
「うん。――いつもすまんね」
「そういうことは言わないで」
と、啓子は微笑んだ。
「じゃ、行くか」
と、戸畑は立ち上った。
戸畑は、大山啓子のアパートにずっと泊っている。――もちろん、啓子がそうしていいと言ってくれているからだ。
しかし、戸畑だって分っている。
いつまでも、娘のように若い啓子の世話になっているわけにはいかない。
しかし、仕事を探しても、まず相手にされない。
妻の弥生は、今シナリオ書きに夢中で、夫の浮気など気にもしていないようだ。
こんな毎日は、いつまでも続かない。――続かない、と分ってはいるのだが……。
黒田あかりは、戸畑が若いOLらしい女と一緒に笑顔を見せているのを、遠くから眺めていた。
「あんな彼女がね……」
くたびれた戸畑のどこがいいんだろう?
「何よ、あんな女……」
ちっとも美人でもないし、可愛くもない。
あかりとしては、戸畑と切れたいと思っていたので、都合がいいのだが。
しかし、戸畑が別の女と、楽しそうにしているのを見ると、何かもやもやとした、ふっ切れない思いになるのだった……。
(つづく)