失敗した跡継ぎ ~「いい後継者選び」までが創業です!~

文字数 2,636文字

皇帝・国王のもっとも大事な仕事は三つあります。


一つは結婚。二つ目が子作り。三つ目が跡継ぎを選ぶことです。放蕩ばかりする国王でも、大臣や官僚がしっかりしていれば国は動かすことができますが、正統な跡継ぎを残すことは他でもない、国王にしかできません


ところがこの跡継ぎ選びというのが非常にやっかいです。歴史上、跡継ぎ選びによって国が混乱し時には分割や崩壊にまで至ったケースは数多いのです。

バカ息子は「殺され率」高し。跡継ぎの失敗で国が混乱。

それなりに仕事をした国王が一番恐れるのはバカ息子が跡を継いで自分の業績を台無しにすることでした。


そのため王の座を継ぐ資格がある長男はよく教育を受け、次の王国の舵取りをするに相応しい人物となるための帝王学を学ぶのが一般的でしたが、やはり素質というものがありました。


ローマ帝国の将軍ゲルマニクスは、ゲルマニア(現在のドイツ)でのゲルマン人平定に活躍した人物で、人々に非常に人気がありました。彼の大叔父は初代皇帝アウグストゥス。皇帝の一門の中でも優秀で将来の皇帝候補でしたが、わずか30歳で死亡してしまいます。


仕方がなくアウグストゥスはゲルマニクスの叔父にあたるティベリウスを次の皇帝に任命しました。しかし彼は緊縮財政を敷いたため人気がなく、人々はゲルマニクスの息子カリグラが皇帝に就くことを切望しました。


ティベリウス死後、待望のカリグラが皇帝に就くのですが、彼は大規模な建設とサーカスの乱発により国庫の疲弊を招き、また暴虐で怒りっぽく、元老院や軍団兵とも対立するようになり、最終的に暗殺されました。父親が優秀だからといって子も優秀とは限らないものです。


もう一つ有名な事例を中国から見てみましょう。


中国を初めて統一した秦の始皇帝です。彼は死ぬ直前に聡明な長男の扶蘇を後継者に指定しました。しかし側近の趙高遺言を書き換え、末子で頭のよくない胡亥を即位させました。


始皇帝死後、胡亥は宮中に籠りっきりなり、趙高が実権を握るようになりました。始皇帝の信頼の厚かった蒙恬などの重臣は処刑され、宮廷には趙高に逆らう人物はいなくなり、恐怖政治が秦の宮廷を支配ました。その後、陳勝呉広の乱を始めとして全土で反秦の乱が起こり、政治のことを一切顧みない胡亥は対処できませんでした。


趙高はすべての責任を胡亥になすりつけた上で部下に殺させ、皇帝の玉璽を奪って自分が帝位に就こうとしました。しかし部下たちは従わず、「天」も自分に味方しないと悟った彼は、王族である子嬰を傀儡にしようとしますが、子嬰は操り人形になるのを拒否し、韓談らの反趙高の官吏によって最終的に殺害されました。

三代目€争乱ブラザーズ。兄弟喧嘩が生んだ国々。

跡継ぎの失敗によって滅びる国もあれば生まれる国もあります。


5世紀後半に成立したフランク王国の最盛期を築いたカール大帝は「ヨーロッパの父」と称されます。現在のイタリア半島、イベリア半島、北ドイツ、ハンガリー、クロアチアにまで遠征し、現在の西ヨーロッパの大半を支配下に置きました。


この偉大すぎる父親の死後、王国を分割させて後のフランス、ドイツ、イタリアの領域を作ったのは彼の孫たちです。当時のフランク王国では、王は息子たちに支配領域を分割相続させるのが一般的でしたが、カール大帝の息子たちは相次いで死亡したため、息子のルートヴィヒが全領土を引き継ぎ、ルートヴィヒの息子たちに各地域を分割させました。


長男ロタールは父と共に共同皇帝に就き、首都アーヘン(北西独)周辺を統治し、次男ピピンはアキテーヌ(南仏)、三男ルートヴィヒはバイエルン(南独)を統治しました。


父ルートヴィヒの死後、長男ロタールは単独で王位に就き自らの支配領域を拡大しようとしたため、兄王の支配拡大に反発する三男ルートヴィヒと、父ルートヴィヒの庶子シャルルが手を組んで軍を起こし、ロタールの軍勢と戦いました。


この戦いに勝利したのは、三男ルートヴィヒとシャルル。戦いに敗れ妥協を余儀なくされた長男ロタールは、「ヴェルダン条約」を締結しました。ヴェルダン条約により、フランク王国は「ロタールが国王の中フランク王国」「シャルルが国王の西フランク王国」「ルートヴィヒが国王の東フランク王国」に分割されました。


この分割により、ざっくりとフランス、イタリア、ドイツの領域が形作られたとされます。兄弟の仲が良く、跡継ぎが成功していたら、現在の西ヨーロッパの地図はずいぶんと違ったものになっていたかもしれません。

引退前の大仕事。しくじれば、千年の禍根。

後の世にもっとも大きな影響を与えた後継者争いは、イスラームの創立者である預言者ムハンマドの後継者争いかもしれません。


預言者ムハンマドはイスラームの基礎的な教義を確立し、後に発展していく教団の礎を作った人物ですが、自らの後継者を明確に指名することはありませんでした。


そのため、預言者ムハンマドの一族に後継者の資格があると考える人々と、イスラーム教団をまとめ上げる人望のある人物が後継者であるべきと考える人々に分裂。前者が現在のシーア派で、後者がスンニ派です。


預言者ムハンマドの後継者争いが、後世いかに抗争を繰り広げてきたかは、『シーア派とスンニ派』(池内恵/著 新潮選書)に詳しいです。本著では、イスラームの教義が預言者ムハンマドと同等の預言者的機能を他の誰かが果たすことができない構造になっており、それが故に様々な有力者が人々を糾合して乱立することを可能にし、結果的にイスラームが一枚岩になれない根っこになっていると指摘します。


預言者ムハンマドの時代にイスラームは急成長したわけですが、強みと弱みは表裏一体のものであったわけです。この構造的問題は預言者ムハンマドをもってしても解決することはできなかったのです。


単に自分の跡を継げるだけの才能のある人物を任命するだけではない、さまざまな事前準備が必要なものだということがよく分かります。本当に、後継者の指名は「引退する前の大仕事」なんですね。

『シーア派とスンニ派』池内恵/著(新潮選書)

尾登雄平(おと・ゆうへい)

1984年福岡県生まれ。世界史ブロガー、ライター。

世界史専門ブログ「歴ログ」にて、古代から現代までのあらゆるジャンルと国のおもしろい歴史を収集。

著書『あなたの教養レベルを上げる驚きの世界史』(KADOKAWA)

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