第12回 陸の古道と船の航路をつなげて分かる、いにしえの旅の力強さ
文字数 1,194文字
『日本ときどきアジア 古道歩き』ではいくつかの古道を歩いている。
沖縄古道はそのなかのひとつなのだが、ほかの古道とは少し趣が違う。鹿児島から那覇まで船で進み、そこから那覇の古道を首里まで歩いている。
これは僕にとって画期的なコースだった。
数年前から古道を歩く機会が多くなった。コロナ禍もその理由のひとつである。海外への渡航が封印され、日本国内の旅になっていくなかで古道に出合った。
直接のきっかけは、松尾芭蕉が歩いた『おくのほそ道』を辿ったことだった。全コースを歩いたわけではないが、古道として残っている区間はできるだけ歩こうと思った。
その後もいくつかの古道を歩いたが、陸上の古道という世界から出ることはなかった。
日本に残っている古道の多くは、平安時代から江戸時代にかけてのものが多い。明治時代以降は、鉄道や車が発達し、歩く道としての古道はさびれていく。
古道がその存在感を放っていた時代は、同時に船が輸送や人の移動手段として重要な役割を担っていた。日本は島国である。陸上輸送より船のほうがはるかに早かった。
僕のなかでは陸の古道と船の航路は別のものだったが、沖縄の古道でこのふたつがつながった。そうなのだ。昔の人々は船と古道歩きを組み合わせて移動していたのだ。
熊野古道にしても、京都から船で淀川をくだり、大阪の天満橋あたりから歩きはじめている。熊野本宮大社から熊野速玉大社や熊野那智大社まで足をのばすことも多かったが、そこで使っているのが熊野川の水運である。
船旅+古道歩き……。それが江戸時代までの旅の基本パターンと考えてもいいような気がするのだ。
陸上交通の発達で古道と船旅は切り離されてしまった。しかしそれをつなぐことで、古道歩きはその行動半径をぐっと広げる。そして、かつて日本を歩いた人々の旅に近づいていく。
いくつかのコースが浮かびあがる。
北前船のコースを辿って敦賀まで向かい、そこから陸路で京都をめざす。そこには古道が残っている。北海道や九州への旅も、おそらく船旅と陸路の古道を組み合わせていた気がする。
鹿児島から那覇まで船で向かい、そこから首里城までの古道を歩きながら、どこかしっくりくる感覚があった。首里城までの急な坂道が船旅の先に待っている……そんなイメージだろうか。
いま、そんなコースをいろいろ調べている。
下川裕治(しもかわ ゆうじ)
1954年、長野県松本市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。新聞社勤務を経て独立。アジアを中心に海外を歩き、『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)で作家デビュー。以降、おもにアジア、沖縄をフィールドに、バックパッカースタイルでの旅を書き続けている。『新版「生きづらい日本人」を捨てる』(光文社知恵の森文庫)、『シニアひとり旅 ロシアから東欧・南欧へ』(平凡社新書)、『シニアになって、ひとり旅』(朝日文庫)など著書多数。