「雨を待つ」⑨ ――朝倉宏景『あめつちのうた』スピンオフ 

文字数 1,563文字

 五回裏が終了し、満員の阪神甲子園球場のグラウンドに足を踏み入れた。(やわ)らかく湿った黒土を踏みしめて、目立たないように、静かに歩く。
 かつて、自分はここに立ったことがある。そのときは正真正銘(しょうしんしょうめい)の主役だった。母校とは関係のない観客たちでさえ、口々に俺の名前を呼びかけた。熱狂した。
 今は違う。俺は一会社員。裏方だ。阪神園芸のキャップを目深にかぶり、顔が見えないようにしてショートの守備位置に向かった。
 たずさえているのは、グラブではなく、トンボだ。土を(なら)すための木製の道具で、今はこれが俺の唯一の武器だ。
 プロ野球、阪神タイガース対中日(ちゅうにち)ドラゴンズのデーゲームだった。おそるおそる周囲を見渡してみる。タイガースのチームカラーの黄色が、甲子園球場の観客席の大半をおおっている。ドラゴンズの青は外野のごく一部にかたまっていた。
 よく晴れている。一瞬、まぶしさに目を細める。日なたの部分と、日陰の部分が、くっきりとグラウンドの明暗を分けていた。
「ビールいかがですかぁ!」球場のざわめきを切り裂いて、ビールの売り子の声が甲高く響き渡った。海からの湿った風が吹き抜け、汗ばんだ肌をやさしくなでて消えていく。
 試合のちょうど中間で、いちばん長くとられる整備の時間だった。スパイクで踏み荒らされた内野の土をトンボで均していく。入社から一ヵ月がたち、仕事にも慣れはじめてきたのだが、いまだに自分がこの場所にいることが信じられない。
 季節は違うけれど、俺がマウンドに立った去年の甲子園と、今の甲子園は、もちろん同じ場所で、グラウンドから眺める光景も似通っている。五月の初夏の太陽が降りそそぎ、湿り気を帯びた内野のグラウンドが黒く輝く。外野の芝は生命力をみなぎらせるように青々とまぶしい。
 四万人以上の観客たちにぐるりと囲まれているこの状況は何もかわらないのに、今の俺は世界から(へだ)てられて、置いてきぼりにされ、一人ぼっちだ。薄い膜が張り巡らされ、活気に満ちあふれたこの世界から遮断(しゃだん)されている。トンボを引いたり、押したりして、土を均しているこの体も、自分のものである感覚がまったくない。
 それでいて、観客たちの笑顔が、俺をあざ笑っているかのように感じられてしかたがなかった。スマホのレンズを向けてくる人もいる。ただ整備の風景を撮っているだけなのだが、どうしても俺を狙っているような気がしてならないのだ。
 内野の中心から、渦を巻くようにして整備カーが走りはじめる。小型のカートの後部にブラシがつけられていて、一気に土のグラウンドを均していく。土煙(つちけむり)が舞い上がった。トンボがけは、整備カーではカバーできない微細な部分を人の手によって調整していく。
 甲子園の内野は、黒土と砂の混合でできている。季節によって土と砂の割合をかえることで、水持ちがよく、かつ、水()けがいいグラウンドを一年中保っている。それにくわえ、マウンドを頂点として、放射状に緩やかな下り坂をつくっているおかげで、突発的な降雨でも、水は外へ、外へと捌け、流れていくのだ。
 しかし、土や砂はたえず動く。選手が走ったり、すべりこんだりすれば、当然、きれいな勾配は失われてしまう。そうなれば、雨によって水たまりもできやすくなる。
 だからこそ、トンボがけは表面的な凹凸(おうとつ)を均すだけでは不十分なのだった。きちんと移動した土を元に戻してやってこそ、甲子園球場の内野は急な降雨でもその真価を発揮することができる。
 でも、そこが難しい。勾配と言っても、目で見てすぐにわかるほどのものではない。長年の経験で(つちか)われたたしかな目が必要なのだ。


→⑩に続く

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