「雨を待つ」⑦ ――朝倉宏景『あめつちのうた』スピンオフ 

文字数 1,477文字

 阪神園芸というのは、甲子園球場のグラウンド整備や管理を請け負っている会社の名前だ。急な降雨など、想定外のバッドコンディションにも臨機応変に対応し、土と天然芝のグラウンドを万全の状態に整える職人技が、最近では野球ファンに注目されている。
「正社員の仕事なんやて。あんたなら体力あるし、野球のことも知ってるし、すぐ戦力になるやろって」オカンが、食器用の洗剤をスポンジにふくませた。くしゅくしゅ揉むと、白い泡が盛り上がってくる。「めっちゃ、ええ話やろ?」
「いやいや、どこがええ話なん。拷問(ごうもん)やて、それ」
「なんでや?」
 職場が阪神甲子園球場ともなると、プロ野球選手や、高校球児の活躍をすぐ間近で見せつけられることになる。こんな精神的苦行がほかにあるだろうか? それなのに、オカンは「なんでや?」と言ったまま、口をぽかんと開けている。
 トイレの水が流れる音がして、オトンが居間に入ってきた。
「おぉ、ナイト、帰っとったんか」洗った手を部屋着のトレーナーでふいている。
「今日は? 非番なん?」
「そやで」オトンがテレビのスイッチを入れた。夕方のニュースが流れはじめる。
 父は消防士だが、数年前に大腸ガンをわずらって以来、デスクワークが主な業務らしい。学校や企業におもむいて、避難訓練の指導や講評も行っているという。むかしは筋トレを欠かさなかったのだが、今ではだいぶ線が細くなっている。
 野球をやめるなら消防士になるしかないと、漠然と考えてきた。そもそも、ドラフト一位指名を受けたって、まったく活躍できない選手など、ごまんといる。プロ野球選手になれたところで、自分が年俸一億円超えのスター選手になれる保証などどこにもなかったのだ。同じ投げ方をつづけていたら、おそかれ早かれ、肘を故障していただろう。今は自分にそう言い聞かせて、なんとか精神の均衡(きんこう)を保っている。
 けれど、ついさっきの才藤の質問がなぜか頭から離れなかった。
 思えば、相手校の選手の流す涙を見ることのほうが、圧倒的に多かった。甲子園優勝ともなれば、予選もふくめて、十以上の高校を負かしてきた。その一つ一つのチームに所属する三年生の野球部生活に、引導(いんどう)を渡しつづけてきたわけだ。
 けれど、その悔し涙を目の当たりにしても、ほとんど何も感じなかった。かわいそうだとも、ざまあみろ、とも思わなかった。つねに勝つことを期待された結果、試合中は心をニュートラルに保つすべを身につけてきた。最大の敵は自分自身だった。
 自分に負ければフォアボールを連発する。つい甘いところに投げて、打たれてしまう。
 己にうち勝つことができれば自然と相手バッターもアウトにとれる。結果、それがチームの勝利につながる。
 だからこそ──。
 だからこそ、俺はものすごく大事な感情を、グラウンドに、マウンドに、置き忘れたまま、ドロップアウトしてしまったような、そんな気がした。もしかしたら、本当の意味で無邪気に、我を忘れて野球に没頭したことが、俺にはないのかもしれないと思った。
「さて、次は昨日行われた、プロ野球ドラフト会……」アナウンサーの声に、我に返った。思わず、ぴくりと反応してしまう。
 オトンがさすがの反射神経でリモコンをつかみ、チャンネルを変えた。適当にボタンを押したせいか、子ども向けのアニメが流れはじめた。なんとも気まずい空気がたちこめた。二日目のカレーのにおいといっしょにうっすら漂っている妙な雰囲気をごまかすように、あわてて話題をひねり出した。


→⑧に続く

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