◆No.10 英雄宗滴の死~戦国朝倉家の7大 if (イフ)その7
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天文24年(1555年)9月、朝倉宗滴が加賀侵攻中に発病し、死去してしまいます。
享年79歳。
当時としては十分に高齢であり、天寿を全うしたと言えるのかも知れません。
信長が越前侵攻を開始する15年前です。
宗滴が94歳で信長を迎え撃つというのは、少し無理がありそうですね。
でも――
Q: 朝倉宗滴がせめてあと数年、長生きしていたら……?
A: 越前と加賀、さらには畿内の歴史が変わったのではないでしょうか。
宗滴の生涯は加賀一向一揆との戦いに明け暮れました。
この最後の戦では、宗滴が病に倒れた後も、朝倉軍が勝利していました。
宗滴にあと数年の寿命があれば、加賀平定が成ったかも知れません。
史実でも、10年後には宗滴なしで、加賀半国を制圧しています。
信長も苦労していますし、加賀一向一揆は簡単な相手では全くないのですが、もしも信長の越前侵攻まで、朝倉家が10年にわたり、越前に加えて加賀をもよく治めていたなら、国力が違っていたはずです。信長も最初から朝倉家を敵に回さず、融和路線を選んだ可能性もありそうです。
朝倉は本願寺と長らく対立していましたから、伊勢長島や石山の本願寺と対決するために、朝倉家を盟友として選んだかもしれません。
もしも宗滴が信長台頭のころまで生きていたとしたら、高齢のため戦場には出なくても、その存在だけで朝倉家の支柱となり、やすやすと滅ぼされはしなかったと思います。
よくあるパターンですが、家格と実力において、宗滴は別格の存在であり、その後継者を得られなかったことが、朝倉家の不幸といえそうです。
『酔象の流儀 朝倉盛衰記』で、宗滴は自分の後継者として、死後の朝倉家を支える<宗滴五将>を残して世を去ります。
物語で、主人公の山崎吉家は、いつしか本人も気付かぬうちに、かつての宗滴のような人物となってゆくのですが、同名(一門)衆でもない吉家は、師の宗滴ほどの大きな力を持ち得ず、家中の分裂と家臣たちの裏切りを止められないまま、織田との最終決戦を迎えることになるのです。

※柳ケ瀬付近