寂聴さんの小説を読もう!②/内藤麻里子
文字数 2,263文字
2021年11月9日、瀬戸内寂聴さんが99歳で永眠されました。
1957年に「女子大生・曲愛玲」で新潮社同人雑誌賞、作家としてデビュー後、数多くの小説を世に送り出した寂聴さん。そんな彼女の作家としての人生を、文芸ジャーナリストの内藤麻里子さんが語ってくださいます。
第2回は、寂聴さんの評伝小説をご紹介。
実は、瀬戸内寂聴ほど評伝小説を数多く手がけた作家も珍しい。それらは、瀬戸内というフィルターを通した愛と命の物語である。
前回紹介した「花芯」で文芸誌から干されているとき書き始めたのが、初の評伝小説『田村俊子』(電子書籍、『瀬戸内寂聴全集』第2巻)だ。このタイトルに、「誰?」と思う方が多いだろう。大正初期人気作家となるものの、その地位を捨て恋人を追ってカナダに渡り、最期は中国・上海で亡くなった。一時的でも原稿料で生計を立てた初めての女性作家だ。その数奇な人生を「生きて、書いて、愛欲の惑いにもだえて」と瀬戸内は書く。これは、まさに瀬戸内自身のあり方そのものだろう。
そこからもわかるように、『田村俊子』には瀬戸内自身の声が強くこだまする。俊子に関心を寄せた理由の一つは彼女が誤解されていたからだ。当時さまざまな伝説が流布していて、本当の俊子の素顔は不明だった。「花芯」で誤解を受けた瀬戸内が、俊子への誤解に義憤を感じたのである。例えば、作家と作品の関係を次のように論じる。「作家はその作品に於てまったく架空の観念の所産を、現実以上のリアリティを持ったものとして真実めかして描くことが出来る。(中略)告白しつくせたとじぶんで信じられる罪や恥は生やさしい」。「花芯」批判に対する痛烈な一撃でもある。
ともあれ本書で1961年、第1回田村俊子賞を受賞し、2年後の「夏の終り」(女流文学賞)と共に、瀬戸内という作家を確固たる存在にした。
次いで『かの子撩乱』(講談社文庫)で、歌人、仏教研究家にして作家でもある岡本かの子を取り上げた。夫は漫画家の一平、息子は「芸術は爆発だ」で知られた太郎である。岡本家は夫の一平が、かの子の愛人とされる2人の男性を同居させたと好奇の対象にされたが、実際はどうだったのか。かの子の性格、一平との夫婦関係を読み解き、実態にぐいぐい迫り創作の秘密にまでたどりつく。
息子の太郎に話を聞き、恋人と目された核心の人物にも取材をかける。門前払いもあり得たが無手勝流の突撃取材ながら、時機が合ったのか話を聞くことができた。その過程もつづられており、対象に肉迫する情熱と好奇心に手に汗握る。瀬戸内の評伝小説には、こういう熱情と、それゆえもたらされた果報が詰まっている。『田村俊子』も、思い切った瀬戸内の行動に対して、重要な手紙などの束が塀越しに投げ与えられるという幸運に恵まれた。
やはり無手勝流の突撃取材から始まったのが『女徳』(新潮文庫)である。舞妓、芸妓として数々の愛欲の果て、38歳で出家した高岡智照尼を描いた。この作品は構造的な虚構度は高いが、これでもかと続く主人公・智蓮尼の色ざんげから目が離せない。そして、注目すべきは智蓮尼の得度場面だ。前回紹介した瀬戸内自身の出家を描いた『比叡』の場面の心理描写を思い出させるのである。
『かの子撩乱』と『女徳』の連載は共に1962年に始まっている。同じ時期に連載された小説で、前者はかの子が仏教研究家であったことから仏教について、後者では愛欲の苦しみから逃れるための得度について執筆しているのが、約10年後の瀬戸内の姿を知る者としては運命的なものを感じざるを得ない。
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)
1922年、徳島県生まれ。東京女子大学卒。’57年「女子大生・曲愛玲」で新潮社同人雑誌賞、’61年『田村俊子』で田村俊子賞、’63年『夏の終り』で女流文学賞を受賞。’73年に平泉・中尊寺で得度、法名・寂聴となる(旧名・晴美)。’92年『花に問え』で谷崎潤一郎賞、’96年『白道』で芸術選奨文部大臣賞、2001年『場所』で野間文芸賞、’11年『風景』で泉鏡花文学賞を受賞。’98年『源氏物語』現代語訳を完訳。’06年、文化勲章受章。また、95歳で書き上げた長篇小説『いのち』が大きな話題になった。近著に『花のいのち』『愛することば あなたへ』『命あれば』『97歳の悩み相談 17歳の特別教室』『寂聴 九十七歳の遺言』『はい、さようなら。』『悔いなく生きよう』『笑って生ききる』『愛に始まり、愛に終わる 瀬戸内寂聴108の言葉』『その日まで』など。
内藤麻里子(ないとう・まりこ)
1959年生まれ。毎日新聞の名物記者として長年活躍。書評をはじめとして様々な記事を手がける。定年退職後フリーランスの文芸ジャーナリストに。