(1/2)呉勝浩『爆弾』の冒頭を無料公開!
文字数 4,943文字
発売1週間前を記念して、特別に冒頭を先行公開いたします!
都民1400万人を人質にとる無差別爆破テロ。
犯人と思しき男は、名前も、動機も、そしてテロの目的すら明かさないーー。警察は爆発を止めることはできるのか。
既に書店員さんから「今年No.1ミステリ」「破壊力満点の面白さ」と熱い感想が届いている期待作。
その最初の衝撃を、ひと足先にご覧ください!
日曜日の秋葉原はこんなにも混むのかと、細野ゆかりは気が滅入った。JR総武線のホームからエスカレーターで下りるあいだも、肌が接する距離で誰かがそばにいる状態だった。地上に着いて山手線の利用客と合流し、人口密度は息苦しさを覚えるほどにふくらんだ。追い抜いていく男性と肩がぶつかって立ち止まりそうになり、すると背中にちがう誰かがぶつかってきた。慌てて謝るゆかりに目もくれず、その人は去っていった。改札を抜けるとコスプレをした女の子たちが笑顔を振りまいている。男の子もいた。話には聞いていたが、実物を前にするとむしろ現実味が薄まった。足早に通りすぎ、脇汗がにじんでいることに気づく。
九月にしてはむしむししていた。気温より、街の発する温度のせいだとゆかりは思った。一部の通りが歩行者天国になっていて、多くの人が行き交っていて、それぞれがそれぞれの楽しみを抱えているのがはっきりと感じとれ、妙に居心地が悪かった。仲良しグループのイベントにまぎれ込んだ余所者の気分だ。
あんなフリフリのスカートでなく、噓くさい眼帯などせず、ふつうのメイクでふつうの服をふつうに着こなすほうが可愛いのに──。ゆかりはそれこそが「ふつう」だと信じていたが、この街では負い目になった。うつむき、スマホの地図アプリを確認しながら進んだ。
西日が、ごてごてしいビルを赤く染めつつあった。ふと立ち止まり、ふり返ってみると、歩行者天国はビルの谷間にできた縁日のようだった。奥のほうに高架があって、走り去る電車の窓が夕日を反射していた。祭りの終わりを惜しむような雰囲気と、夜を待ち望む期待とがうねり合い、不思議な熱を醸している。
ゆかりは歩道へ身を寄せ、それから軽く唇を嚙んだ。
ここへきた目的はサークルの飲み会だ。引っ込み思案なゆかりは学部で友人をつくれておらず、入学時に勧誘されて入ったサークルだけを頼りにしていた。だが飲み会は、気が重い。成人する前から内緒で飲まされているアルコールは体質に合わないのかまったく美味しいと思えない。酔って明るくなるわけでもなく、ただただお金がかかるだけ。とはいえ、たまには顔をださないと、ほんとうに居場所がなくなってしまう。忘れられてしまう。
たった数時間じゃないか。
そうは思えど、集合場所が近づくにつれ鬱の虫が全身にじっとりと張りついた。体調が悪い気すらしてきて、これを理由に断れないかと弱気がよぎる。一方でみなと会い、おしゃべりのなかに身を置きたいと望んでいる自覚もあった。今日は比較的気心の知れた顔ばかりだ。世話好きのあの子なら三十分に一回は話をふってくれるだろう。さすがに二年も経って、ゆかりに多くを求める者などいない。ありきたりな話でも、オチのないエピソードでも「ふんふん」と聞いてくれる。悪い人たちではないのだ。けれど──。
スマホがメッセージを着信し、ゆかりはドキッとした。嫌な予感を抱きながら、そっと開くと案の定だった。世話好きの子が、風邪でこられなくなったというのだ。
「あ、細野さん!」数メートル先にサークルメンバーが集まっていた。こっち、こっち! 手をふられ、ぎこちなくふり返す。笑みをつくった瞬間、心の隅の、暗い場所から声がする。
いま、この街に隕石が落ちてしまえばいいのに。
第一部
1
なんだかあんた、くつろいでるね──。
等々力功がそう話しかけると、男は照れたように顔をほころばせ、頭をかいた。黒い苔を生やしたようないがぐり頭。その下で、広いおでこがてかっている。太い眉、無精髭が目立つ二重顎。頰はぷっくり張りがある。
初めてじゃないの? こういうところ。
ええ、まあ、お恥ずかしながら。
男の返事を聞きながら、臨場した制服警官から受け取ったメモを見る。角張った字で男の名が書いてある。スズキタゴサク、四十九歳。
「やめようよ、こういうの」わざと乱暴に、等々力はメモをスチール机へ投げた。
「何がです?」男が目を丸くした。太った身体に、くりっとした瞳が忌々しいほど似合っている。
「名前。ほんとのやつを教えてよ」
「あ、刑事さん、ちがいます。よく疑われるんですけども、わたし、ほんとにスズキっていうんです。正真正銘、スズキタゴサクっていうんです」
「あのさ」等々力はため息まじりにいった。「調べたらすぐわかるよ、そんなもん。噓でも怒る気はないし、罪が重くなるわけでもない。べつに軽くもならないけど、ただ、仲良くやらないかって話でさ」
男が丸い目を剝き出しにした。仲良く、ですか。感心したようにそうつぶやいた。刑事にも取調室にも動じている様子はまったくない。採取した指紋がデータベースに引っかかる確率は高そうだった。
「まあいいや」
パイプ椅子にもたれ、机のメモを握りつぶす。背後から取り調べの記録をとっている後輩の視線を感じた。真面目にやれと咎められている気もしたが、これといった感情は生まれなかった。
「で、スズキさん。酔っ払って酒屋の自動販売機を蹴りつけて、止めにきた店員を殴ったってのはほんとなの?」
「ええ、そっちもほんとです。天地神明に誓って真実です。面目ない話ですけど」
「殴った店員の歳恰好は憶えてる?」
「はい。歳はわたしと似たり寄ったりで、わたしより痩せていて、ポロシャツを着て、あと髪の毛が、わたしよりもたくさんありました」
髭はなかったですとスズキは付け足す。さきほど刑事部屋で顔を合わせた酒屋店主の、過不足ない紹介だった。
「じゃあスズキさん、今日はなんで酔ってたの?」
「家でチューハイを三本飲んだんです。刑事さん、ペナントレースは観ますか? 野球です。デイゲームです。わたしドラゴンズのファンで、巨人が大嫌いなんですよ」
東京ドームの、ぜったいに負けられない大事な試合で、プレイボールからテレビにかじりついてたわけなんです。それがですね、蓋を開けてみたらジャイアンツに五対一の大負けで。五対一ですよ? 百歩ゆずって負けるのは仕方がないとして、六本もヒットを打って一点しかとれないってのはどうなんですかね。まあ慣れっこではあるんですけど、なんだか今日は無性に頭にきちゃって。ふがいなくって泣けてきて。終わったあとも、だんだんむしゃくしゃしちゃってね。コンビニの缶チューハイじゃおさまらないぞってなっちゃって。それで近くの酒屋で上等な酒を買おう、頭にきたから奮発するぞって決めたんです。ところが酒屋の前まできて、そこでようやく気がついたんです。お金がないってことにです。ポケットに財布がなかったんじゃないですよ? 財布にお金がなかったんです。千円札の一枚も、百円硬貨の一枚も。まいっちゃいますよね。恥ずかしくって、たまらなくなって。それでつい、目の前の自販機に当たり散らしてしまってね──。
「お店にも店員さんにも、恨みなんてありません。申し訳ないと思ってます。でも、そういうことって、誰しもときにはあるんじゃないかと思うんです」
「あったとしても、じっさいに殴ったりはしないんだ、ふつうは」
ああ、なるほど、おっしゃるとおりですね。スズキは大げさに首肯し、たははと笑う。そのさまに力が抜けた。平和だ、この国は。
「殴られた店の人、自販機のへこみと治療費さえ払ってくれたら騒ぐ気はないといってるんだけどね」
「そうなんですか。それはとても助かりますが、けどだいたい、お幾らくらいかかるんですかね」
「さあ。おれは自販機メーカーでも医者でもない。まあ、十万も包めば恰好がつくんじゃないか」
「十万かあ」
スズキはのんびり天を仰いだ。ぱっとしないセーター、安っぽい上着。見るからに金なしだ。千円札が一枚も入っていない財布には信憑性があり、野球中継を観られる自宅の実在は怪しく思える風体である。正直なところ警察に、この程度の傷害を立件する意欲はない。少なくとも等々力には皆無だ。それが被害者の望みでもある以上、さっさと丸くおさめるのがみなにとっての幸せだろう。
スズキに、金さえあれば。
「十万は、逆立ちしても不可能です」自嘲気味に、予想どおりのことをいう。
「幾らならいける?」期待せず訊く。「どうかなあ」と、とぼけた調子で訊き返してくる。「刑事さん、貸してくれません?」
呆れてため息も出なかった。スズキは根っからのくずらしい。後ろで若い巡査の伊勢が、苛立ちのままノートパソコンを乱暴にタイプしている。
「じゃあ、こういうのはどうですか? わたし、刑事さんの役に立つんで、それでなんとか被害者の方を説得してもらうというのは」
「役に立つって──」皮肉な笑みが込み上げた。「交通整理でもしてくれるのか?」
「とんでもない。そんなこと、よけいに事故を増やして終わりです。我ながら不器用で、取り柄のひとつもない男です」
ひと呼吸置いて、
「ただわたし、昔から、霊感だけはちょっと自信がありまして。だからこう、何か事件が起こるのを、事前に予知して伝えられるかもしれません」
まだ酔ってるのか? 等々力はあらためてスズキを見たが、彼の頰に朱は差しておらず、呂律が危ういわけでもなく、むしろほんとうに酔って暴れたのかというくらい素面に見えて、皮肉な笑みが引っ込んだ。
「当てがあるのか? どこかで窃盗の計画を耳にしたとか、ヤクの取り引きを知ってるとか」
「いえいえ、まさか。そんな恐ろしい世界に関わる度胸なんてありません。生まれてこのかた、しがない小心者でやってきました。でも、そう──ところで、いま何時ですか?」
「──十時だ。あと五分で」
「そうですか。うーん、ちょっと何か、閃きそうな気がします。なんだろう。事件が起こる気配です。ああ、これはどこかなあ、秋葉原の辺りかなあ。たぶん、そこまでひどいもんじゃないと思うんですけど」
「おい、何をいってる?」
「十時ぴったり、秋葉原のほうで、きっと何かありますよ」
「いいかげんにしてくれ。冗談になってない」
「でも刑事さん、十万円、貸してくれないんでしょう?」
「簡単にいうな。こっちも安月給なんだ」
「わたしはずっと、給料なんてありゃしません」
スズキが肩をすくめた。
「死人みたいなもんです」
「あんた──」
等々力は、初めてスズキを正面から見た。「ほんとの名前、なんてんだ?」
「タゴサクといってるじゃないですか。なんの役にも立たない、タゴサクです」
地響きを、等々力は感じた。もちろんそれは錯覚だった。だがふいに、予感のまま、後ろの伊勢をふり向いた。目が合うや、短気な後輩は足早に取調室を出ていった。
向き直った先で、スズキがへらへらとしていた。いかにも間抜けな顔つきだった。卑しい面だ。だがやはり、酔ってるようには見えなかった。
「野球は、何時から?」
二時ですとスズキは即答した。チューハイは何本だっけ? 三本です。試合が終わったのは──。五時です。
「三本で、よく足りたな」
「金がないんです。驚くほど、ないんです」
まるで胸を張るように、スズキはいった。
「なのに上等な酒を買いにいったのか」
「酔っ払ってましたから」
「たった三本で、酔いはさめないままなのか」
「近ごろのコンビニは、キツい酒を置いてます」
「──通報は八時過ぎだ。試合が終わってから三時間は経ってる」
スズキはにこにこしている。人畜無害な大黒さまのように。
「あんた、なんのつもりだ?」
ドアが開く。荒々しく風が吹き込み、同時に伊勢が飛んでくる。血相を変え、等々力の耳もとに叫ぶいきおいでささやいた。
秋葉原で爆発です。詳細は不明。
「刑事さん」
スズキがいった。変わらない笑みのまま、
「あなたのことが気に入りました。あなた以外とは何も話したくありません。そしてわたしの霊感じゃあここから三度、次は一時間後に爆発します」