「雨を待つ」⑧ ――朝倉宏景『あめつちのうた』スピンオフ 

文字数 2,104文字

「なぁ、大人になって、泣いたことある?」
「なんや、いきなり」オトンがリモコンを置いて、怪訝(けげん)そうな表情で俺を見すえた。
 たしかに、あまりに唐突で、不自然な質問だった。アニメの甲高い声優の声が、甘ったるく響いていた。
「いや……、昨日、才藤が泣いてて」結局、ドラフトの話題に戻ってしまった。「それが、なんや……、意外で」
「才藤って、サードの子やな。指名受けた」
 オトンの視線から逃れ、目を伏せた。右の靴下の先がだいぶ薄くなっているせいで、親指の爪が透けて見えた。
「まあ、ぱっと思いつくのは、お前が生まれたときやな。あれは、泣いた」
 聞かなければよかったと、とたんに後悔した。子どものころ、さんざん父親に言いふくめられたのだ。
 ええか? お前は、生まれたときから、体格に恵まれてたんやで。困ってる人がおったら、助けてあげなあかん。せやから、騎士ってつけたんや。
 そのころ、父親はまだガンをわずらう前で、正義感のかたまりみたいに暑苦しかった。これぞ消防士のかがみという印象で、人助けへの熱意にあふれていた。小学校のとき、ケンカになった同級生を突き飛ばしたことがあったが、それを知ったオトンは俺をぶん殴った。弱い者いじめをしたらあかん、お前は騎士やろ。
 それにしても、ストレートに名前をつけすぎだと思う。俺はため息をついて、オトンの向かいの椅子に座った。
「それは、うれし涙やろ? 悲しかったり、悔しかったりで、泣いたことはあんの?」
 すぐ向かいに、オトンの顔がある。じゃがいもみたいにごつごつした、男らしい顔立ちだ。息子の俺もよく似ている。
 子どものころは、お前の顔のどこがナイトやねんと、よくからかわれた。ナイト君フィーバーが巻き起こった夏には、ネット上で、「騎士」ではなく、「田舎侍」だと、顔面にふさわしくないキラキラネームを揶揄された。
「悲しくて泣いたことだって、そりゃ、あるで」鼻のわきを小指でかきながら、オトンが答えた。「あれは、まだ現場出はじめて数年くらいの、新米のころやったな。火事でちっちゃい子どもが二人、逃げおくれてな、亡くなった。まったく関係ない家のことなのに、泣いたわ。めっちゃ、泣いた」
 実に淡々とした表情と口調だった。オトンはずずっと音をたててお茶をすすった。一方の俺は、やっぱり聞くんじゃなかったと、ひどく後悔していた。
 ガンから復活して以来、父は酒とタバコをやめた。かつての男気あふれる熱意はかげをひそめ、すっかりおとなしく、丸くなってしまった。俺が昨日、プロ入りを果たしていたら、この人は泣いただろうか?
「まあ、お前が、甲子園で働くのを拷問やって思うのももっともやけど、これも修行と思って、いったん野球を外から見てみるのも、ええかもしれへんで」
「えっ……? 聞こえてたん?」
「グラウンドキーパーなら、近すぎず、遠すぎず、ええ距離感で野球に向きあえるんちゃう?」
 騒々しいアニメが終わり、CMに入った。今日の夜に放送されるバラエティー番組の告知が流れはじめる。
「それで、また野球やりたなったなら、おそすぎることはないやろうし、グラウンドキーパーが天職やって思う可能性もあるやろ。もちろん、消防官になりたいって思ったんやったら、試験の勉強はじめたらええし。たしか、三十歳くらいまでなら、なれるやろ」
 七時からのバラエティー番組は、十年前にリズム芸で一世を風靡(ふうび)したお笑いタレントの「あの人は今」という内容だった。
 えー、むっちゃ()せてるやん、何なん? 病気したん? 告知でちらっと映った「あの人」を見て、台所に立っていたオカンが独り言を発した。
「なんにせよ、お前はまだ若いっていうことや。よう考えてみぃ。まだ、高校も卒業してへんのやぞ」
「そうやで」と、今の今までテレビに向かって独り言をつぶやいていたのに、急にオカンがこちらの会話に割りこんできた。「あんたは、まだ何にでもなれる。けどな、絶対いつか野球やったほうがええと思うわ、ホンマに。もったいない、もったいない」
 えー、それにしてもさっきの人、ガンちゃうの? 瘦せすぎちゃう? と、オカンはふたたびテレビの話題に戻った。本当に目まぐるしい。いったい、脳のなかがどうなっているのかさっぱりわからない。
(うつ)かもしれへんな。芸能人にも多いやろ」オトンが冷静に応じ、俺に視線を移した。「お前も気ぃつけなあかんで」
 まさか、俺にかぎって、とは思う。けれど、体の強さと心の強さは関係ないのだとわかってもいる。人からはよく、ふてぶてしい、図太いと言われがちだが、それはすべてピッチャーとして大成するために身につけてきた振る舞いだった。「騎士」のキラキラしたイメージから離れたい、という気持ちもどこかしら人格形成に作用したのかもしれないと、今では思う。
 悲劇の甲子園優勝投手、ナイト君は今──。
 そんな番組が二十年後に企画されても、何も不思議ではない。そのとき、おっさんになった俺はあの夏を誇らしく思い出せているだろうか?

     *


→⑨に続く

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