第7話 磯川に「未来文学新人賞」を選ぶ、そう告げようとした日向だが
文字数 3,183文字
虫王プロジェクトのために集めた十人のスタッフのうち、十人全員が反対した。
スタッフだけでなく、日向の知り合いも全員反対した。
いや、一人だけ賛成した人間がいた。
――誠がやってみたいって言うなら、やってみれば? たとえ世界中の人が反対しても、あなたが成功するって信じてるなら私は賛成よ!
あのとき、背を押してくれたのは真樹一人だけだった。
――いままでは、俺はこうしたいって自分の意見を言った上で相談してきたでしょ? 私にできることは、あなたの人生のサポートよ。誠の人生の主役は誠なんだからね。まずはあなたの意思を聞かないと、なにもアドバイスできないよ。
ふたたび、真樹の言葉が日向の脳裏に蘇った。
「小説と虫は違うよ……」
無意識に日向は呟いた。
「え?」
ライターが怪訝(けげん)な顔を日向に向けた。
「あ、すみません。ところでライターさんは、アントニオ猪木(いのき)を知ってますか?」
日向はライターに質問した。
「もちろんです。伝説のプロレスラーですからね。リアルタイムではないですが、『YouTube』で猪木さんの異種格闘技戦とか観ていました。それがなにか?」
「そうそう、その異種格闘技戦のことを言いたかったんです。猪木さんがボクサーや空手家と戦ってきたから、いまの総合格闘技ブームがあるんです。僕が虫王の企画を思いついたのは、猪木さんの発想です。異種の最強同士が戦って王者を決める。カブトVS.サソリ、クワガタVS.タランチュラ……絶対に、ヒットするという確信がありました。当時の猪木も、異種格闘技戦の発想を口にしたら全員に反対されたそうですから」
不意に、磯川の顔が浮かんだ。
日向が「未来文学新人賞」を受賞してデビューすることに、磯川は反対している。
磯川が反対した理由には、説得力があった。
日向の胸に迷いが生じ始めたのは、それからだ。
だが、それは磯川の考えではないのか?
「未来文学新人賞」でデビューしても、日向の長所を殺すようなことはしないのではないのか?
磯川が「阿鼻叫喚」を評価してくれているのは嘘ではない。
評価しているからこそ、文芸第二部ではなく自分のところでデビューさせるために……。
「なるほど! 『世界最強虫王決定戦』誕生のルーツは、猪木さんの異種格闘技戦だったのですね!? お忙しいところ、貴重なお時間を頂きましてありがとうございました」
ライターの声に、日向は頭から磯川を追い出した。
「こんな感じの内容で、大丈夫ですか?」
日向は訊ねた。
「十分ですよ! とりあえずインタビュー記事のゲラが出たらPDFで送りますから、ご確認お願いします」
日向はライターをエレベーターの前まで見送ると、事務所に戻りふたたび応接室ソファに腰を戻した。
「勘違いしたらいかんば~い」
椛がニヤニヤしながら、さっきまでライターが座っていたソファに腰を下ろした。
「なにが?」
「たまたま虫のDVDがヒットしただけで、別に社長が凄かわけじゃなかですけん。インタビューの依頼がきたからって、調子に乗ったらいかんよ」
椛がのど飴を口に放り込み、憎まれ口を叩いてきた。
「お前な……」
テーブルの上の日向のスマートフォンが震えた。
「あ! 磯川って、愛人の名前ね?」
椛が言いながら、スマートフォンに手を伸ばした。
「馬鹿。そんなのいないよ。磯川さんは出版社の人だ」
日向は椛より先に、スマートフォンを手に取った。
『日向です』
『お忙しいところ、申し訳ありません。いま、ビルの近くの『ブロッサム』というカフェにいます。十五分でもいいので、お時間を頂けますか?』
「え!? 『ブロッサム』にいるんですか!? いきなりこられても、先約があるのですが……」
この前もそうだったが、磯川はまったく相手の都合を考えない男だ。
『私なら大丈夫です。お仕事が忙しいのなら、先に済ませてください。読まないといけないゲラがあるので、いくらでも時間を潰せますから』
日向は磯川の強引さにため息を吐いた。
「なにか、急用ですか? 返事をする期限の一週間まで、まだ三日もありますよ」
『わかってます。私のことは気にしないで、お仕事を優先してください』
「そんなこと言われても……」
日向は、言葉の続きを吞(の)み込んだ。
ちょうどいい機会だ。
日向の気持ちは、「未来文学新人賞」の最終選考の結果を待ちたいという方向に傾いていた。
そう思ったのは、磯川を信用できないからではない。
やはり、最初に応募した「未来文学新人賞」に懸けてみたいと思ったのだ。
その結果、最終選考で落ちたとしても悔いはなかった。
自分の直感を信じて決めてほしいという、真樹の言葉が決め手となった。
「いま、すぐに向かいます」
思い直して、日向は言った。
『え? 私なら、本当に大丈夫ですよ。無理しないで、先にお仕事を済ませてください』
「いえ、俺も磯川さんに話がありますから。五分くらいで行けます。三十分くらい、『ブロッサム』で出版社の人と打ち合わせしてくるから」
日向は電話を切ると真理に言い残し、事務所を出た。
「もしかして、作家になれると!?」
あとを追ってきた椛が、エレベーターに乗ろうとした日向の腕を摑んだ。
「いまから、それを断ってくる」
「え? なんば言いよっと? 社長、頭がおかしくなったとじゃなかとね!? 社長が作家になるとは、カラスが白鳥になるくらい奇跡的なことばい?」
「もう、お前は人より時間がかかるんだから、事務所に戻って台本を覚えてろ」
日向は椛の肩を軽く小突き、エレベーターに乗り込んだ。
☆
「ブロッサム」に入った日向は、巡らせていた首を止めた。
窓際の席に座っていた磯川が手を上げた。
日向は頭を下げ、磯川の席に向かった。
「すみません、アポなしで押しかけてしまいまして」
磯川が柔和な笑顔で言った。
「ホットコーヒーをください」
日向はウエイターに注文し、席に着いた。
「早速ですけど、答えは決まりました」
日向は切り出した。
「その前に、これをどうぞ」
磯川が五センチほどのシャーロックホームズ像をテーブルに置いた。
「なんですか? これ?」
日向は視線をホームズ像から磯川に移した。
「文芸第三部の新人賞……『ホームズ文学新人賞』の受賞者に差し上げるトロフィーです。どうぞ」
磯川がホームズ像を日向に差し出しながら言った。
「ずいぶん小さなトロフィー……っていうか、俺はこれを受け取るわけにはいきません」
日向はホームズ像を磯川の前に置いた。
「それは、ウチからはデビューしないという意思表示ですか?」
磯川がレンズ越しに日向を見据えた。
「すみません。俺のことを買ってくれて、いろいろアドバイスをくれたのに」
日向は頭を深々と下げた。
「顔を上げてください。日向さんが謝る理由はなにもありませんから。むしろ、謝るべきは横槍を入れた僕のほうですよ。すみませんでした」
今度は、磯川が頭を下げた。
「そんな……顔をあげてください。俺は磯川さんには感謝しています。ただ、正直に言えば『未来文学新人賞』のブランドに魅力を感じている自分がいます」
日向は正直な思いを口にした。
それが、自分を高く評価してくれた磯川にたいする礼儀だ。
「日向さんは正直ですよね。でも、それが普通ですよ。伝統あるメジャーな『未来文学新人賞』とマイナーな『ホームズ文学新人賞』では受賞の価値が違いますからね」
磯川の言葉は、皮肉には聞こえなかった。
「本当にすみません」
ふたたび、日向は詫(わ)びた。
(次回につづく)
スタッフだけでなく、日向の知り合いも全員反対した。
いや、一人だけ賛成した人間がいた。
――誠がやってみたいって言うなら、やってみれば? たとえ世界中の人が反対しても、あなたが成功するって信じてるなら私は賛成よ!
あのとき、背を押してくれたのは真樹一人だけだった。
――いままでは、俺はこうしたいって自分の意見を言った上で相談してきたでしょ? 私にできることは、あなたの人生のサポートよ。誠の人生の主役は誠なんだからね。まずはあなたの意思を聞かないと、なにもアドバイスできないよ。
ふたたび、真樹の言葉が日向の脳裏に蘇った。
「小説と虫は違うよ……」
無意識に日向は呟いた。
「え?」
ライターが怪訝(けげん)な顔を日向に向けた。
「あ、すみません。ところでライターさんは、アントニオ猪木(いのき)を知ってますか?」
日向はライターに質問した。
「もちろんです。伝説のプロレスラーですからね。リアルタイムではないですが、『YouTube』で猪木さんの異種格闘技戦とか観ていました。それがなにか?」
「そうそう、その異種格闘技戦のことを言いたかったんです。猪木さんがボクサーや空手家と戦ってきたから、いまの総合格闘技ブームがあるんです。僕が虫王の企画を思いついたのは、猪木さんの発想です。異種の最強同士が戦って王者を決める。カブトVS.サソリ、クワガタVS.タランチュラ……絶対に、ヒットするという確信がありました。当時の猪木も、異種格闘技戦の発想を口にしたら全員に反対されたそうですから」
不意に、磯川の顔が浮かんだ。
日向が「未来文学新人賞」を受賞してデビューすることに、磯川は反対している。
磯川が反対した理由には、説得力があった。
日向の胸に迷いが生じ始めたのは、それからだ。
だが、それは磯川の考えではないのか?
「未来文学新人賞」でデビューしても、日向の長所を殺すようなことはしないのではないのか?
磯川が「阿鼻叫喚」を評価してくれているのは嘘ではない。
評価しているからこそ、文芸第二部ではなく自分のところでデビューさせるために……。
「なるほど! 『世界最強虫王決定戦』誕生のルーツは、猪木さんの異種格闘技戦だったのですね!? お忙しいところ、貴重なお時間を頂きましてありがとうございました」
ライターの声に、日向は頭から磯川を追い出した。
「こんな感じの内容で、大丈夫ですか?」
日向は訊ねた。
「十分ですよ! とりあえずインタビュー記事のゲラが出たらPDFで送りますから、ご確認お願いします」
日向はライターをエレベーターの前まで見送ると、事務所に戻りふたたび応接室ソファに腰を戻した。
「勘違いしたらいかんば~い」
椛がニヤニヤしながら、さっきまでライターが座っていたソファに腰を下ろした。
「なにが?」
「たまたま虫のDVDがヒットしただけで、別に社長が凄かわけじゃなかですけん。インタビューの依頼がきたからって、調子に乗ったらいかんよ」
椛がのど飴を口に放り込み、憎まれ口を叩いてきた。
「お前な……」
テーブルの上の日向のスマートフォンが震えた。
「あ! 磯川って、愛人の名前ね?」
椛が言いながら、スマートフォンに手を伸ばした。
「馬鹿。そんなのいないよ。磯川さんは出版社の人だ」
日向は椛より先に、スマートフォンを手に取った。
『日向です』
『お忙しいところ、申し訳ありません。いま、ビルの近くの『ブロッサム』というカフェにいます。十五分でもいいので、お時間を頂けますか?』
「え!? 『ブロッサム』にいるんですか!? いきなりこられても、先約があるのですが……」
この前もそうだったが、磯川はまったく相手の都合を考えない男だ。
『私なら大丈夫です。お仕事が忙しいのなら、先に済ませてください。読まないといけないゲラがあるので、いくらでも時間を潰せますから』
日向は磯川の強引さにため息を吐いた。
「なにか、急用ですか? 返事をする期限の一週間まで、まだ三日もありますよ」
『わかってます。私のことは気にしないで、お仕事を優先してください』
「そんなこと言われても……」
日向は、言葉の続きを吞(の)み込んだ。
ちょうどいい機会だ。
日向の気持ちは、「未来文学新人賞」の最終選考の結果を待ちたいという方向に傾いていた。
そう思ったのは、磯川を信用できないからではない。
やはり、最初に応募した「未来文学新人賞」に懸けてみたいと思ったのだ。
その結果、最終選考で落ちたとしても悔いはなかった。
自分の直感を信じて決めてほしいという、真樹の言葉が決め手となった。
「いま、すぐに向かいます」
思い直して、日向は言った。
『え? 私なら、本当に大丈夫ですよ。無理しないで、先にお仕事を済ませてください』
「いえ、俺も磯川さんに話がありますから。五分くらいで行けます。三十分くらい、『ブロッサム』で出版社の人と打ち合わせしてくるから」
日向は電話を切ると真理に言い残し、事務所を出た。
「もしかして、作家になれると!?」
あとを追ってきた椛が、エレベーターに乗ろうとした日向の腕を摑んだ。
「いまから、それを断ってくる」
「え? なんば言いよっと? 社長、頭がおかしくなったとじゃなかとね!? 社長が作家になるとは、カラスが白鳥になるくらい奇跡的なことばい?」
「もう、お前は人より時間がかかるんだから、事務所に戻って台本を覚えてろ」
日向は椛の肩を軽く小突き、エレベーターに乗り込んだ。
☆
「ブロッサム」に入った日向は、巡らせていた首を止めた。
窓際の席に座っていた磯川が手を上げた。
日向は頭を下げ、磯川の席に向かった。
「すみません、アポなしで押しかけてしまいまして」
磯川が柔和な笑顔で言った。
「ホットコーヒーをください」
日向はウエイターに注文し、席に着いた。
「早速ですけど、答えは決まりました」
日向は切り出した。
「その前に、これをどうぞ」
磯川が五センチほどのシャーロックホームズ像をテーブルに置いた。
「なんですか? これ?」
日向は視線をホームズ像から磯川に移した。
「文芸第三部の新人賞……『ホームズ文学新人賞』の受賞者に差し上げるトロフィーです。どうぞ」
磯川がホームズ像を日向に差し出しながら言った。
「ずいぶん小さなトロフィー……っていうか、俺はこれを受け取るわけにはいきません」
日向はホームズ像を磯川の前に置いた。
「それは、ウチからはデビューしないという意思表示ですか?」
磯川がレンズ越しに日向を見据えた。
「すみません。俺のことを買ってくれて、いろいろアドバイスをくれたのに」
日向は頭を深々と下げた。
「顔を上げてください。日向さんが謝る理由はなにもありませんから。むしろ、謝るべきは横槍を入れた僕のほうですよ。すみませんでした」
今度は、磯川が頭を下げた。
「そんな……顔をあげてください。俺は磯川さんには感謝しています。ただ、正直に言えば『未来文学新人賞』のブランドに魅力を感じている自分がいます」
日向は正直な思いを口にした。
それが、自分を高く評価してくれた磯川にたいする礼儀だ。
「日向さんは正直ですよね。でも、それが普通ですよ。伝統あるメジャーな『未来文学新人賞』とマイナーな『ホームズ文学新人賞』では受賞の価値が違いますからね」
磯川の言葉は、皮肉には聞こえなかった。
「本当にすみません」
ふたたび、日向は詫(わ)びた。
(次回につづく)