エロくて超豪快な暴君ど真ん中。顎を砕いて巨大船でトンズラも絞殺。

文字数 1,885文字

中国の富と権力がこの男に集約されて、ほぼ万能。殺されちゃったけど。

《隋》 煬帝(569~618)

隋の第2代皇帝・煬帝(楊広)は、数多い中国の暴君の中でも代表格だ。「煬帝」は後の唐朝によってつけられた追諡で「煬」は「天に逆らい、民を虐げる」というような意味。皮肉にも煬帝が陳(589年、隋によって滅ぼされた南朝最後の王朝)の後主に送った諡号と同じである。


煬帝は初代隋皇帝・文帝(楊堅)の次男。兄の楊勇が皇太子であったが、煬帝は家臣に讒言させるなどして兄を陥れつつ、自分は両親の前で品行方正な孝行息子を装った。


実際、乱倫なところがあった兄の楊勇は廃嫡され、煬帝はまんまと皇太子となった。文帝が亡くなると煬帝は晴れて皇帝となるが、下記のような「煬帝が文帝を弑殺した」という言説も広く行われている。


「死の床についていた文帝は、ようやく煬帝の本性に気づく。煬帝が文帝の寵姫・宣華夫人に手を出そうとしたことを知ったのだ。文帝は激怒し、再び後継者に指名するべく廃太子の楊勇を呼びよせようとする。しかし、煬帝にそれを察知され、毒殺された」


しかし、煬帝からすれば、ほどなく死ぬであろう文帝を殺す必要があっただろうか。並ぶものがないほどの美女だっという宣華夫人に思わず手を出してしまった、というのはありそうな話ではあるが、文帝が死ねば手に入れられるし、実際、煬帝はそうしている


いずれにしろ、猫をかぶる必要がなくなった煬帝は、やりたい放題であった。まず、兄を殺害し、その男子もすべて殺した。そして、暴君の御多分にもれず、大宮殿や大庭園の建設を開始する。


また河北と江南をつなぐ大運河の建設のため、100万人以上を動員。建設を急ピッチで進めるため女性まで徴発した。


この運河の開削は以前から行われていた歴史的な事業で、全長2000キロメートルに近い大運河は中国の南北をつなぎ、後世に多くの利益をもたらしている。


しかし、運河が完成してまず煬帝がやったことは、建造していた龍舟という、高さは13メートルの4階建て、長さは60メートルという巨大な船に乗って行幸をすることであった。この金銀玉石で飾られた龍舟に数千隻の船が付き従い、船の漕ぎ手や引き手(船につないだ綱を岸から引く)だけでも8万人が必要だったという。


また、煬帝は突厥の威服を目的に、50万の兵士を引き連れて北方に巡幸した。この時は「観風行殿」なるものを建造させている。これは百人以上が乗車(?)できたという車輪がついた移動式の宮殿。また、「六合城」という、一夜にして組み立て、分解が可能な巨大な城を作らせ、それを運ばせた。これらの威容に、突厥の河汗も驚愕したという。


これに限らず、煬帝は盛んに行幸して国庫や民衆に多大な負担を強いた。

それでも隋の国力は盛んであったが、致命的だったのは高句麗遠征の失敗である。煬帝は、高句麗に三度も攻め込むが攻略に失敗。人心は離れ、ついに反乱が発生する。


そんな中で「夢をもう一度」というわけでもなかろうが、背く気配を見せる突厥を再び驚かしてやろうと、煬帝は再び北方の巡幸を行う。しかし、逆に数十万の突厥軍に攻撃され、雁門城に包囲されてしまった。流れ矢が煬帝の近くまで飛んでくる事態に、煬帝は末子を抱いて泣きわめくだけだったという。


もはや煬帝を積極的に救おうとする者はおらず、救援部隊もなかなかやってこない。そこで部下の進言に従って多大な褒賞を約束して兵士に奮戦を促し、援軍を募った。何とか撤退に成功したが、煬帝はいったん危地を脱すると、約束を反故にして一部にわずかな褒賞を与えただけだった。


各地で反乱が発生し、抑えが効かない状態になると、煬帝は首都・長安からの避難を計画。都にとどまるように諫言する者もいたが、煬帝は諫言した男の顎を打ち砕かせた後に斬り殺し、龍舟にのって江南に移った。


長安は唐の初代皇帝・高祖(李淵)によって陥落した。にもかかわらず、遠く江南にいる煬帝は国事に関する上奏を一切禁止して現実逃避。滅びの恐怖におびえながら、酒色に溺れる日々を送る。


最終的な破局は身内から起こった。望郷の念に駆られた親衛隊(多くが長安の出身者であった)で兵変が発生する。兵士たちが煬帝の寝所に乗り込んできて、まず、煬帝の裾に取り付いて泣きじゃくる12歳の末子が斬殺された。


煬帝は以前から自殺用の毒酒を用意させていたが、毒薬係はすでに逃げ去っていて毒のありかもわからない。煬帝は斬首されること拒否。身に着けていたマフラーを兵に手渡し、それによって縊り殺された

関連書籍

『隋の煬帝』宮崎一定/著(中公文庫BIBLIO) 

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