第6話
文字数 6,197文字
8 決断
「私につとまるでしょうか……」
と、自信なげに言う表情を見て、
「
と、正木は言った。「その頼りなげな表情に、健気な感じがある。今どきのがっついた女の子にはない古風な顔だ」
何だか、喜んでいいのかどうか、という様子で、それでも、
「もし、お役に立てるようでしたら、やってみたいと思います」
と言ったのは、戸畑佳世子。
シナリオを書いている戸畑弥生の娘の二十歳。女子大生だ。
「あの……ただ、私……」
映画に出ないか、と正木に言われて、今日撮影所へやって来ていた。
「分っとる。大学生だな、今。大学のテストとか、色々考えるようにする」
「ありがとうございます。それだけじゃなくて……」
「何だね?」
二人の話を聞いていた東風亜矢子が、
「お父さん、リストラされたんだよね」
と言った。「あなたも大学の費用だけじゃなくて、アルバイトして稼がないと」
「そうなんです」
と、佳世子はちょっとため息をついて、「父は今、若い女性の所にいるみたいです。前からのことなので、別に驚きませんが」
「でも、その彼女も、お父さんがリストラされたこと、承知してるのよね」
「たぶん……。一緒に暮してれば、いやでも分ると思うんです」
「それはそうね」
「男なんて弱いものだ」
と、正木は考え深げに、「どこかの組織に属していないと、心細くていられない。世の中に、まるで裸で放り出されたような気がするんだろうな」
「いいですね、監督のような芸術家は」
「おい、それは皮肉か?」
正木と亜矢子のやり取りに、佳世子はつい笑ってしまった。
「お二人、とってもいいコンビですね」
「そうね。漫才やらせたら、かなりのレベルよ」
と、亜矢子は言った。
「私――しっかり演技したいです」
と、佳世子は言った。「セリフが一つしかなくても、出て良かった、って思えるに違いないからです」
「その気持が大切だ」
と、正木は肯いた。「ときに、お母さんのシナリオの方はどうだ?」
「あれ? まだ届いてませんか?」
と、佳世子は言った。「ゆうべ電話で話したときは、『今夜中に仕上げる』って言ってたんですけど」
三人がいるのは、撮影所の食堂だったが、
「佳世子!」
と、ちょうどそこへ当の母親が入って来た。
「お母さん、よく分ったね」
「スタッフルームで聞いて来ました」
と、弥生は言った。「遅くなってすみません!」
正木の前にバサッと紙の束が置かれる。
「できたか」
「お目を通して下さい。もちろん、ご指示の通りに書き直します」
「まあ待て。シナリオライターの意志も尊重しないとな。――スタッフルームに寄ったのか。誰かいたか?」
「はい、水原アリサさんがお一人で」
それを聞いて、正木が目を丸くした。
「アリサが来てる? おい、亜矢子――」
「知りませんよ、私」
「ともかく――ちょっと行ってみてくれ。いたらここへ連れて来い」
ご自分でどうぞ、と言いたかったが、亜矢子は何とか思いとどまり、
「分りました」
と立ち上って、食堂を小走りに出た。
スクリプターとは、たいてい走っている職業なのである。
スタッフルームのドアを開けると、本当に(!)水原アリサがちょこんとソファに座っている。
「あら、亜矢子さん」
「どうしたんですか? 食堂にいるって知ってるのなら、来て下さればいいのに」
「やっぱり食堂? 私、あてずっぽうで言っちゃったの」
と、アリサはちょっと笑って、「さっきの人、あなたの言ってた、シナリオライターさんね?」
「そうです。シナリオの第一稿が上って来たので。――アリサさん、食堂で監督が待ってます」
「でも、打ち合せの邪魔しちゃ悪いわ」
「スターをこんな所に待たせとく方が、よっぽど悪いですよ」
亜矢子は、アリサの手を取って、無理やり立たせるようにしてスタッフルームから連れ出した。
「――どうしたんだ」
正木は、アリサを見ると、「忙しいんだろう、TVの方で」
「今日はお休みです」
と、アリサは言って、正木の前に立つと、
「この間はすみませんでした」
と、きっちり頭を下げた。
「おい、お前が謝ってどうする。あの場合、悪いのはTV局の奴だ」
「それはそうですけど……」
二人の話を聞いていた戸畑弥生が、
「何があったんですか?」
と訊いた。
「いや、どうってことないんだ」
と、正木は肩をすくめたが、
「実はですね……」
亜矢子が、あのレストランでの一部始終を話してやると、
「――すばらしいわ!」
と、弥生がすっかり感服の様子で、
「映画のワンシーンみたいですね」
「現実はそう甘くない」
と、正木は言った。「アリサ、あの後大丈夫だったか?」
「ええ。あの男性はむくれてましたけど、文句なんか言わせませんよ」
亜矢子は、前の映画に主演したときは心細げだったアリサが、すっかり強くなっているのを見て、嬉しかった。
「おい、アリサ、新人の戸畑佳世子君だ」
いきなりそう言われて焦ったのは佳世子もだが、母親の方も、
「そんなこと! 正木さん、本当に……」
と、目を丸くしている。
「若くていいわね」
と、アリサは佳世子を見て、「大学生?」
「はい。今、二十歳です」
「おい、アリサ、お前だって二十代だろ」
「でも二十九です。二十歳とは……」
「あら、それじゃ……」
と、弥生が言った。「佳世子のやれるような役がシナリオにありません」
「エキストラでいいんです」
と、佳世子は言った。「私、何の経験もないんですもの」
「いや、使うからには、しっかり役を演じてもらう」
と、正木は言った。「おい、亜矢子」
「はい」
「お前、この第一稿を読んで、この子の役を考えてくれ」
「え……。私、スクリプターですけど」
「分ってる。お前を信頼してるから言ってるんだ」
「監督……。分りました。すぐコピー取って、今日持って帰ります」
「それと、佳世子にできるバイトがないか、この現場で捜してみてくれ」
「アルバイトのことまで……」
「出演しながら、出番のないときはバイトをする。一番能率がいいだろ」
「ありがとうございます!」
と、佳世子は頬を紅潮させて言った。
亜矢子には分っている。佳世子は正木の好きなタイプなのだ。きっと、今度の映画で、有望な新人に育てたいと思っている。
しかし、そのために動くのは亜矢子なのだから……。
「それで監督」
と、アリサが言った。「私の役は?」
「おい、困るじゃないか。お前を出すとなったら、〈ウェイトレスその1〉ってわけにゃいかないんだぞ」
と、苦笑しながら、もちろん正木は嬉しくてたまらないのだった。
そして、「うーん……」と考えていたが、
「――おい、亜矢子」
「分りました」
と、亜矢子はため息をついて、「アリサさんにいい役を考えます」
全く、シナリオの手伝いまでさせられるんじゃたまんないわよ!
と、心の中でグチりながらも、正木にあてにされているのを喜んでいる自分に気付く。
どこまでも損な性分の亜矢子だった……。
「で、監督――」
「うん、分ってる」
と、正木は肯いて、「この第一稿を読んで、大幅な手直しが必要ならそう言うし、基本的にこれで行くとなれば、すぐロケハンやセットのデザインにかかる」
「でも、今回はできるだけ普通の家を使いましょう」
今はカメラの性能も上っているので、本当の家屋の中でも撮れることが多い。
しかし、本当に大変なのは、主演女優を早く決めなくてはならないことだった。
そのスケジュールが出なければ、撮影の予定も立たない。
「――おい、亜矢子」
スタッフルームに、正木と亜矢子は戻って来ていた。
「何ですか?」
「考えたんだが、本間ルミから製作費が出るとなると……」
「あんまり危いことは――」
「分ってる。彼女に損はかけたくない」
と、正木は肯いて、「しかし、考えていたどの女優も、もう一つ、ピンと来ないんだ」
「でも――」
正木の言い方に、亜矢子は一瞬ゾッとした。
「今からオーディションなんて言わないで下さいね」
「いくら俺でも、そんな無茶はしない」
「それならいいですけど……」
と、ホッとしたのも束の間、
「芝居のできる、ぴったりの女優がいないか、劇団を回ってみてくれ」
「は……」
一口に「劇団」といっても、文学座や俳優座、民藝という大手の新劇団の他にも、とんでもない数の劇団がひしめき合っているのが東京である。
「監督、時間が――」
「分ってる。やみくもに当れと言ってるわけじゃない」
「じゃ、どうやって見当をつけるんですか?」
「新聞社に知り合いがいるだろう、芸能欄担当の。演劇担当の記者に訊いてもらえ。今、有望な女優はいないか、ってな」
亜矢子は言い返そうとしたが、諦めて、
「分りました」
「そう情ない顔をするな。とんでもない掘り出し物にぶつかるかもしれんぞ」
言う方は気楽である。
「じゃ、早速……」
仕方ない。一刻を争うと言ってもおかしくないのだ。
新聞記者といっても、芸能ページの担当者なら付合いがあるが、演劇を実際に見て、記事を書くのはまた別の記者である。
「ええと……」
ともかく、近くの喫茶店の奥の席に陣取って、記憶を頼りに、気心の知れた記者を捜してみる。亜矢子が頼みごとをしても、決して無茶は言わないこと、ちゃんと礼はすることを分ってくれている記者もいるのだ。
「――あ、もしもし? ――徹ちゃん? 東風亜矢子です。――どうも。元気にしてる? ――え? そりゃいけないわね。飲み過ぎよ、間違いなく。前から私がそう言ってたでしょ。――うん、それでね、ちょっと相談があって。今、時間ある?」
幸い、亜矢子はたいていの記者に好かれている。といっても、もちろん「仕事上でのこと」だが。
「――誰か、最近よく聞く名前、ない? 女優で、四十前後。――うん、美女とは限らない。主役じゃないけど、出れば必ず印象に残るとか……」
難しい頼みごとなのは承知の上で、
「――うん、もし誰かパッと閃いたら、連絡してくれる? ――よろしく。――そうね、その内、一度飲みましょう」
と、通話を切る。
相手は三秒以内に亜矢子から頼まれたことを忘れているだろう。
「ええと……。M新聞は確か、あのインテリぶってる奴だ。あいつと話すと長くなるからな。後回しにしよう……」
ブツブツひとり言を言いながら、二人、三人とかけて行って、五人目が終ったところで、大きく息を吐くと、
「コーヒー、もう一杯!」
と、オーダーする。
今目の前にあるコーヒーも、ほとんど飲んでいないので、冷めてしまっている。しかし、これ一杯で居座っては、店に迷惑だ。
二杯目が来ると、さすがに一口飲んで、
「おいしい。――いい豆ね」
店のマスターが、
「どうも」
と返事をした。
亜矢子がちょくちょく来るので、顔なじみである。
「大変ですね、仕事」
と、マスターが言った。
「人間を選ぶって、難しいわ」
「そうだ。――今夜のお芝居のチケットがあるんだけど、行けないでしょうね」
「何のお芝居?」
「よく分らないんだけど。――知り合いに頼まれてね、一枚買ったけど、店を閉めるわけにいかないしね」
「どこでやってるの?」
「この表通りから一本入った所に小さな劇場があってね。一度行ったことがあるけど、七、八十人も入ったら一杯って……。いや、いいんですよ。忘れて下さい」
亜矢子はケータイを再び手にしたが、
「――マスター、そのお芝居、何時から?」
「ええと……。ああ、あと十分で始まるって。間に合わないことないでしょうけど」
亜矢子は、これも「運だめし」と、思った。もちろん、役に立つとは思えないが、そこで誰かに会うかもしれない。
「――そのチケット、売って!」
と、亜矢子は声をかけた。
亜矢子がその劇場に駆け込んだとき、もう場内は暗くなっていた。
足下が見えなくて、危うく転びそうになりながら、何とか手探り状態で、空いた席に座る。――ホッと息をついて、汗を拭った。
何しろどこが劇場なのかさっぱり分らず、この辺りをウロウロしてしまったのだ。
狭い階段を地下へ下りたところが、目指す劇場と分ったのは、スタッフの若い女性が、
「もしかして……」
と、声をかけてくれたからだった。
ああ、やれやれ……。
チケット代は、あのマスターが受け取らなかったので、タダで見られることにはなったのだが、果してどんなお芝居なのやら、全く見当がつかない。
舞台が明るくなった。といっても客席とそのままつながっている、せいぜい六畳間くらいの空間。そこに、机が一つと、椅子が二脚あるだけだ。
しかし、舞台が明るくなって、客席の様子が見えるようになると、亜矢子はちょっとびっくりした。
狭いながらも、ほとんど客席は埋っているのだ。そして客が若い。
さては、ひとりよがりの、わけの分らない芝居か? いやな予感がしたが……。
男が一人、舞台に出て来た。
サラリーマンという設定か。白ワイシャツにネクタイ。新聞を手にして、椅子の一方にかけると、のんびり新聞を広げる。
「あなた、卵はどうする?」
と、エプロンを付けた女性がフライパンを手に出て来た。
「スクランブル」
と、男は女の方を見もせずに答える。
「はい」
女が奥へ入って、少しすると、「ハムでいいのよね」
「おい! 今朝はベーコンの気分なんだ。ちゃんと訊けよ」
「ごめんなさい。それじゃ、すぐ――」
「まあ、いいよ。それより、塩とコショウ」
「はい、すぐ」
女が奥と舞台を行き来して、
「コーヒー、アメリカンにしておいたわ」
「トーストが、すぐ焼けるから」
「ミルクは多めに使うわね」
と、朝食の仕度をする。
しかし、男の方は、ろくに返事もせずに、新聞を見ながら、黙々と食べ、飲んでいる。
「――もういい」
と言うと、「上着」
「はい」
「鞄」
「はい」
「おい! 靴の汚れが落ちてないぞ!」
「ごめんなさい。落としたつもりだったんだけど、暗くて……」
男が奥へ入る。女は、
「行ってらっしゃい! ――お帰りは早い?」
返事はなく、女が中途半端に手を振ろうとして、止める。
女は一人残って、机の上の皿を力なく重ねると――椅子にやっと腰をおろす。
亜矢子は、いつしか、この単純な舞台に引き込まれていた。
女は――生活に疲れている。しかし、朝食の仕度をするのを、何一つ現物なしでやってのけていた。
フライパン一つだけは持っていたが、後は皿もスクランブルエッグも、コーヒーカップもトーストもない。それでいて、彼女の手の先に、朝食が
客席には、快い緊張を共有しているという空気があった。
おそらく、ここにいる客の大部分は、この女優のことを知っているのだ。そして、彼女の演技に見とれているのである。
――亜矢子は入口で渡された、コピー一枚の〈解説〉へ目をやった。
〈主演 五十嵐真愛〉
と、そこにはあった。
(つづく)
「私につとまるでしょうか……」
と、自信なげに言う表情を見て、
「
それ
がいい!」と、正木は言った。「その頼りなげな表情に、健気な感じがある。今どきのがっついた女の子にはない古風な顔だ」
何だか、喜んでいいのかどうか、という様子で、それでも、
「もし、お役に立てるようでしたら、やってみたいと思います」
と言ったのは、戸畑佳世子。
シナリオを書いている戸畑弥生の娘の二十歳。女子大生だ。
「あの……ただ、私……」
映画に出ないか、と正木に言われて、今日撮影所へやって来ていた。
「分っとる。大学生だな、今。大学のテストとか、色々考えるようにする」
「ありがとうございます。それだけじゃなくて……」
「何だね?」
二人の話を聞いていた東風亜矢子が、
「お父さん、リストラされたんだよね」
と言った。「あなたも大学の費用だけじゃなくて、アルバイトして稼がないと」
「そうなんです」
と、佳世子はちょっとため息をついて、「父は今、若い女性の所にいるみたいです。前からのことなので、別に驚きませんが」
「でも、その彼女も、お父さんがリストラされたこと、承知してるのよね」
「たぶん……。一緒に暮してれば、いやでも分ると思うんです」
「それはそうね」
「男なんて弱いものだ」
と、正木は考え深げに、「どこかの組織に属していないと、心細くていられない。世の中に、まるで裸で放り出されたような気がするんだろうな」
「いいですね、監督のような芸術家は」
「おい、それは皮肉か?」
正木と亜矢子のやり取りに、佳世子はつい笑ってしまった。
「お二人、とってもいいコンビですね」
「そうね。漫才やらせたら、かなりのレベルよ」
と、亜矢子は言った。
「私――しっかり演技したいです」
と、佳世子は言った。「セリフが一つしかなくても、出て良かった、って思えるに違いないからです」
「その気持が大切だ」
と、正木は肯いた。「ときに、お母さんのシナリオの方はどうだ?」
「あれ? まだ届いてませんか?」
と、佳世子は言った。「ゆうべ電話で話したときは、『今夜中に仕上げる』って言ってたんですけど」
三人がいるのは、撮影所の食堂だったが、
「佳世子!」
と、ちょうどそこへ当の母親が入って来た。
「お母さん、よく分ったね」
「スタッフルームで聞いて来ました」
と、弥生は言った。「遅くなってすみません!」
正木の前にバサッと紙の束が置かれる。
「できたか」
「お目を通して下さい。もちろん、ご指示の通りに書き直します」
「まあ待て。シナリオライターの意志も尊重しないとな。――スタッフルームに寄ったのか。誰かいたか?」
「はい、水原アリサさんがお一人で」
それを聞いて、正木が目を丸くした。
「アリサが来てる? おい、亜矢子――」
「知りませんよ、私」
「ともかく――ちょっと行ってみてくれ。いたらここへ連れて来い」
ご自分でどうぞ、と言いたかったが、亜矢子は何とか思いとどまり、
「分りました」
と立ち上って、食堂を小走りに出た。
スクリプターとは、たいてい走っている職業なのである。
スタッフルームのドアを開けると、本当に(!)水原アリサがちょこんとソファに座っている。
「あら、亜矢子さん」
「どうしたんですか? 食堂にいるって知ってるのなら、来て下さればいいのに」
「やっぱり食堂? 私、あてずっぽうで言っちゃったの」
と、アリサはちょっと笑って、「さっきの人、あなたの言ってた、シナリオライターさんね?」
「そうです。シナリオの第一稿が上って来たので。――アリサさん、食堂で監督が待ってます」
「でも、打ち合せの邪魔しちゃ悪いわ」
「スターをこんな所に待たせとく方が、よっぽど悪いですよ」
亜矢子は、アリサの手を取って、無理やり立たせるようにしてスタッフルームから連れ出した。
「――どうしたんだ」
正木は、アリサを見ると、「忙しいんだろう、TVの方で」
「今日はお休みです」
と、アリサは言って、正木の前に立つと、
「この間はすみませんでした」
と、きっちり頭を下げた。
「おい、お前が謝ってどうする。あの場合、悪いのはTV局の奴だ」
「それはそうですけど……」
二人の話を聞いていた戸畑弥生が、
「何があったんですか?」
と訊いた。
「いや、どうってことないんだ」
と、正木は肩をすくめたが、
「実はですね……」
亜矢子が、あのレストランでの一部始終を話してやると、
「――すばらしいわ!」
と、弥生がすっかり感服の様子で、
「映画のワンシーンみたいですね」
「現実はそう甘くない」
と、正木は言った。「アリサ、あの後大丈夫だったか?」
「ええ。あの男性はむくれてましたけど、文句なんか言わせませんよ」
亜矢子は、前の映画に主演したときは心細げだったアリサが、すっかり強くなっているのを見て、嬉しかった。
「おい、アリサ、新人の戸畑佳世子君だ」
いきなりそう言われて焦ったのは佳世子もだが、母親の方も、
「そんなこと! 正木さん、本当に……」
と、目を丸くしている。
「若くていいわね」
と、アリサは佳世子を見て、「大学生?」
「はい。今、二十歳です」
「おい、アリサ、お前だって二十代だろ」
「でも二十九です。二十歳とは……」
「あら、それじゃ……」
と、弥生が言った。「佳世子のやれるような役がシナリオにありません」
「エキストラでいいんです」
と、佳世子は言った。「私、何の経験もないんですもの」
「いや、使うからには、しっかり役を演じてもらう」
と、正木は言った。「おい、亜矢子」
「はい」
「お前、この第一稿を読んで、この子の役を考えてくれ」
「え……。私、スクリプターですけど」
「分ってる。お前を信頼してるから言ってるんだ」
「監督……。分りました。すぐコピー取って、今日持って帰ります」
「それと、佳世子にできるバイトがないか、この現場で捜してみてくれ」
「アルバイトのことまで……」
「出演しながら、出番のないときはバイトをする。一番能率がいいだろ」
「ありがとうございます!」
と、佳世子は頬を紅潮させて言った。
亜矢子には分っている。佳世子は正木の好きなタイプなのだ。きっと、今度の映画で、有望な新人に育てたいと思っている。
しかし、そのために動くのは亜矢子なのだから……。
「それで監督」
と、アリサが言った。「私の役は?」
「おい、困るじゃないか。お前を出すとなったら、〈ウェイトレスその1〉ってわけにゃいかないんだぞ」
と、苦笑しながら、もちろん正木は嬉しくてたまらないのだった。
そして、「うーん……」と考えていたが、
「――おい、亜矢子」
「分りました」
と、亜矢子はため息をついて、「アリサさんにいい役を考えます」
全く、シナリオの手伝いまでさせられるんじゃたまんないわよ!
と、心の中でグチりながらも、正木にあてにされているのを喜んでいる自分に気付く。
どこまでも損な性分の亜矢子だった……。
「で、監督――」
「うん、分ってる」
と、正木は肯いて、「この第一稿を読んで、大幅な手直しが必要ならそう言うし、基本的にこれで行くとなれば、すぐロケハンやセットのデザインにかかる」
「でも、今回はできるだけ普通の家を使いましょう」
今はカメラの性能も上っているので、本当の家屋の中でも撮れることが多い。
しかし、本当に大変なのは、主演女優を早く決めなくてはならないことだった。
そのスケジュールが出なければ、撮影の予定も立たない。
「――おい、亜矢子」
スタッフルームに、正木と亜矢子は戻って来ていた。
「何ですか?」
「考えたんだが、本間ルミから製作費が出るとなると……」
「あんまり危いことは――」
「分ってる。彼女に損はかけたくない」
と、正木は肯いて、「しかし、考えていたどの女優も、もう一つ、ピンと来ないんだ」
「でも――」
正木の言い方に、亜矢子は一瞬ゾッとした。
「今からオーディションなんて言わないで下さいね」
「いくら俺でも、そんな無茶はしない」
「それならいいですけど……」
と、ホッとしたのも束の間、
「芝居のできる、ぴったりの女優がいないか、劇団を回ってみてくれ」
「は……」
一口に「劇団」といっても、文学座や俳優座、民藝という大手の新劇団の他にも、とんでもない数の劇団がひしめき合っているのが東京である。
「監督、時間が――」
「分ってる。やみくもに当れと言ってるわけじゃない」
「じゃ、どうやって見当をつけるんですか?」
「新聞社に知り合いがいるだろう、芸能欄担当の。演劇担当の記者に訊いてもらえ。今、有望な女優はいないか、ってな」
亜矢子は言い返そうとしたが、諦めて、
「分りました」
「そう情ない顔をするな。とんでもない掘り出し物にぶつかるかもしれんぞ」
言う方は気楽である。
「じゃ、早速……」
仕方ない。一刻を争うと言ってもおかしくないのだ。
新聞記者といっても、芸能ページの担当者なら付合いがあるが、演劇を実際に見て、記事を書くのはまた別の記者である。
「ええと……」
ともかく、近くの喫茶店の奥の席に陣取って、記憶を頼りに、気心の知れた記者を捜してみる。亜矢子が頼みごとをしても、決して無茶は言わないこと、ちゃんと礼はすることを分ってくれている記者もいるのだ。
「――あ、もしもし? ――徹ちゃん? 東風亜矢子です。――どうも。元気にしてる? ――え? そりゃいけないわね。飲み過ぎよ、間違いなく。前から私がそう言ってたでしょ。――うん、それでね、ちょっと相談があって。今、時間ある?」
幸い、亜矢子はたいていの記者に好かれている。といっても、もちろん「仕事上でのこと」だが。
「――誰か、最近よく聞く名前、ない? 女優で、四十前後。――うん、美女とは限らない。主役じゃないけど、出れば必ず印象に残るとか……」
難しい頼みごとなのは承知の上で、
「――うん、もし誰かパッと閃いたら、連絡してくれる? ――よろしく。――そうね、その内、一度飲みましょう」
と、通話を切る。
相手は三秒以内に亜矢子から頼まれたことを忘れているだろう。
「ええと……。M新聞は確か、あのインテリぶってる奴だ。あいつと話すと長くなるからな。後回しにしよう……」
ブツブツひとり言を言いながら、二人、三人とかけて行って、五人目が終ったところで、大きく息を吐くと、
「コーヒー、もう一杯!」
と、オーダーする。
今目の前にあるコーヒーも、ほとんど飲んでいないので、冷めてしまっている。しかし、これ一杯で居座っては、店に迷惑だ。
二杯目が来ると、さすがに一口飲んで、
「おいしい。――いい豆ね」
店のマスターが、
「どうも」
と返事をした。
亜矢子がちょくちょく来るので、顔なじみである。
「大変ですね、仕事」
と、マスターが言った。
「人間を選ぶって、難しいわ」
「そうだ。――今夜のお芝居のチケットがあるんだけど、行けないでしょうね」
「何のお芝居?」
「よく分らないんだけど。――知り合いに頼まれてね、一枚買ったけど、店を閉めるわけにいかないしね」
「どこでやってるの?」
「この表通りから一本入った所に小さな劇場があってね。一度行ったことがあるけど、七、八十人も入ったら一杯って……。いや、いいんですよ。忘れて下さい」
亜矢子はケータイを再び手にしたが、
「――マスター、そのお芝居、何時から?」
「ええと……。ああ、あと十分で始まるって。間に合わないことないでしょうけど」
亜矢子は、これも「運だめし」と、思った。もちろん、役に立つとは思えないが、そこで誰かに会うかもしれない。
「――そのチケット、売って!」
と、亜矢子は声をかけた。
亜矢子がその劇場に駆け込んだとき、もう場内は暗くなっていた。
足下が見えなくて、危うく転びそうになりながら、何とか手探り状態で、空いた席に座る。――ホッと息をついて、汗を拭った。
何しろどこが劇場なのかさっぱり分らず、この辺りをウロウロしてしまったのだ。
狭い階段を地下へ下りたところが、目指す劇場と分ったのは、スタッフの若い女性が、
「もしかして……」
と、声をかけてくれたからだった。
ああ、やれやれ……。
チケット代は、あのマスターが受け取らなかったので、タダで見られることにはなったのだが、果してどんなお芝居なのやら、全く見当がつかない。
舞台が明るくなった。といっても客席とそのままつながっている、せいぜい六畳間くらいの空間。そこに、机が一つと、椅子が二脚あるだけだ。
しかし、舞台が明るくなって、客席の様子が見えるようになると、亜矢子はちょっとびっくりした。
狭いながらも、ほとんど客席は埋っているのだ。そして客が若い。
さては、ひとりよがりの、わけの分らない芝居か? いやな予感がしたが……。
男が一人、舞台に出て来た。
サラリーマンという設定か。白ワイシャツにネクタイ。新聞を手にして、椅子の一方にかけると、のんびり新聞を広げる。
「あなた、卵はどうする?」
と、エプロンを付けた女性がフライパンを手に出て来た。
「スクランブル」
と、男は女の方を見もせずに答える。
「はい」
女が奥へ入って、少しすると、「ハムでいいのよね」
「おい! 今朝はベーコンの気分なんだ。ちゃんと訊けよ」
「ごめんなさい。それじゃ、すぐ――」
「まあ、いいよ。それより、塩とコショウ」
「はい、すぐ」
女が奥と舞台を行き来して、
「コーヒー、アメリカンにしておいたわ」
「トーストが、すぐ焼けるから」
「ミルクは多めに使うわね」
と、朝食の仕度をする。
しかし、男の方は、ろくに返事もせずに、新聞を見ながら、黙々と食べ、飲んでいる。
「――もういい」
と言うと、「上着」
「はい」
「鞄」
「はい」
「おい! 靴の汚れが落ちてないぞ!」
「ごめんなさい。落としたつもりだったんだけど、暗くて……」
男が奥へ入る。女は、
「行ってらっしゃい! ――お帰りは早い?」
返事はなく、女が中途半端に手を振ろうとして、止める。
女は一人残って、机の上の皿を力なく重ねると――椅子にやっと腰をおろす。
亜矢子は、いつしか、この単純な舞台に引き込まれていた。
女は――生活に疲れている。しかし、朝食の仕度をするのを、何一つ現物なしでやってのけていた。
フライパン一つだけは持っていたが、後は皿もスクランブルエッグも、コーヒーカップもトーストもない。それでいて、彼女の手の先に、朝食が
見えて
いた。客席には、快い緊張を共有しているという空気があった。
おそらく、ここにいる客の大部分は、この女優のことを知っているのだ。そして、彼女の演技に見とれているのである。
――亜矢子は入口で渡された、コピー一枚の〈解説〉へ目をやった。
〈主演 五十嵐真愛〉
と、そこにはあった。
(つづく)