はじめての春④
文字数 2,076文字
「東京出身やからって、全員ジャイアンツファンちゃうやろ?」甲斐さんが紺色 のキャップをかぶり直しながら言った。
「まあ……、そうですけど」
「そんなもん、こっちも同じやで。バファローズ、最近だと広島、あとはホークスとか西武 () ファンもおるし。もちろん、大阪とか兵庫出身の巨人ファンもおるしな」
カルチャーショックだった。どうやら、母さんの言っていたことは、すべて東京の人間の抱いているありがちな関西に対する思いこみだったらしい。
「なんだ……、早く言ってほしかった」
母さんの言葉をまるっきり信じてしまったのは、この土地に長く住んでいる知り合いも友達も、まったくいないからだ。
仕事以外しゃべる相手がいないというのは、想像以上にきつい。寮にはもちろん同僚たちが住んでいるのだが、この一ヵ月、あまり交流はなかった。いちばん年齢が近いのは、同じく高卒で入社している、一年先輩の長谷さんだった。
一つ年上だから、きっと仲良くなれると思っていた。いろいろと話しかけたり、仕事のことを聞いたりしていたのだが、いつもすげなくあしらわれ、ひどいときは無視される。
四月からずっとこの調子だった。俺、何か嫌われるようなことをしただろうかと考えても、思いあたる節はまったくない。
唯一可能性として考えられるのは、俺がこのなかで一人だけ関東圏出身ということだ。せっかちな関西人からしたら、どうやら俺の行動はめちゃくちゃマイペースに見え、イライラするらしい。
悶々 () としているあいだに、三回裏のタイガースの攻撃が終わった。あらかじめ控え室を出て、通路に待機していた俺たちは、用具をしまってある小部屋からトンボを取り出した。
関係者通路から、グラウンドに出る。
トンボをたずさえ、いちばん土の荒れが目立つ、一、二塁間の走路に向かった。マイペースと言われないように、きびきびした動作を心がける。
まぶしさに目が慣れるまで、時間がかかる。五月とはいえ、日なたは汗がにじむほど暑い。空一面にうろこ雲がたなびいて、その隙間 () を縫 () うように、日差しが落ちてくる。
満員の観客たちの視線を全身に感じる。ビールいかがですかぁ! と、甲高 () い売り子さんの声が大きく反響した。
入社してすぐ、プロの試合の真っ最中にグラウンドに出たときは、さすがに手足が震えた。憧 () れの甲子園の土を踏めたという感慨 () もあいまって、緊張がピークに達した。右手と右足が同時に前に出て、うまく歩けず、転びそうになった。どんな仕事にも、もちろん「はじめて」はある。けれど、初仕事を数万人の衆人環視のもとで行う職業はそうそうないだろう。
一見してスパイクの痕 () が目立つ箇所にトンボを入れはじめる。すると、至近距離から呼びかけられた。
「あっ、君、悪いけどもっとベース近くの、このあたり、均 () しておいてくれない?」
「はい!」
威勢よく返事をして、顔を上げた。その瞬間、全身が凍 () りついた。
阪神タイガースの選手が、グラブを小脇に抱えて立っていた。
「わっ、わっ、わっ!」と、俺は意味不明な叫び声をあげてしまった。
去年、二千本安打を達成した、レジェンドと呼ばれる大ベテランだ。三十九歳の二塁手で、ここ数年は若手にレギュラーを奪われてしまったが、代打での勝負強いバッティングは健在だった。二十代の中頃は、四年連続で打率三割以上を達成した。首位打者一回、ベストナイン二回、ゴールデングラブ賞四回の超スター選手だ。今日はレギュラーの二塁の若手が不調らしく、先発出場している。
相手は同じ人間だ。でも、俺にとっては雲の上の人だ。そこまで身長は高くない選手だったが、筋肉がものすごい。だぶっとしたユニフォームの上からでも、大胸筋の隆起がはっきりわかる。
「どうしたの? 大丈夫?」
「やります! やってみせます!」
指摘された箇所を一心不乱に均しはじめる。ふたたび、柔らかい声が上から降ってきた。
「君、最近入ったの?」
「は……はい!」
「がんばりなよ」よく日焼けした顔に、白い歯が映えていた。
「はい、ありがとうございます!」
めっちゃええ人やん! 俺の心のなかの声がなぜか関西弁で叫んだ。はじめて選手と言葉を交わした感激がこみあげてくる。
この際、ジャビットくん人形を踏みつけて、阪神ファンに転向してもいいかもしれないと本気で考えはじめた。鼻歌を歌いながら猛然とトンボをかけていると、今度は一転、ものすごいしゃがれ声で怒鳴られた。
「アホかお前! どこに土よせとんねん!」
「ひぃ!」反射的に首をすくめ、トンボを押す手をとめた。
先ほどのナイスガイから、とてつもない豹変 () ぶりだ。何か気にさわることをしてしまったのかと、声のするほうにおそるおそる視線を向けた。
そこに立っていたのは、トンボを小脇にたずさえた一年先輩の長谷さんだった。
→はじめての春⑤に続く
「まあ……、そうですけど」
「そんなもん、こっちも同じやで。バファローズ、最近だと広島、あとはホークスとか
カルチャーショックだった。どうやら、母さんの言っていたことは、すべて東京の人間の抱いているありがちな関西に対する思いこみだったらしい。
「なんだ……、早く言ってほしかった」
母さんの言葉をまるっきり信じてしまったのは、この土地に長く住んでいる知り合いも友達も、まったくいないからだ。
仕事以外しゃべる相手がいないというのは、想像以上にきつい。寮にはもちろん同僚たちが住んでいるのだが、この一ヵ月、あまり交流はなかった。いちばん年齢が近いのは、同じく高卒で入社している、一年先輩の長谷さんだった。
一つ年上だから、きっと仲良くなれると思っていた。いろいろと話しかけたり、仕事のことを聞いたりしていたのだが、いつもすげなくあしらわれ、ひどいときは無視される。
四月からずっとこの調子だった。俺、何か嫌われるようなことをしただろうかと考えても、思いあたる節はまったくない。
唯一可能性として考えられるのは、俺がこのなかで一人だけ関東圏出身ということだ。せっかちな関西人からしたら、どうやら俺の行動はめちゃくちゃマイペースに見え、イライラするらしい。
関係者通路から、グラウンドに出る。
トンボをたずさえ、いちばん土の荒れが目立つ、一、二塁間の走路に向かった。マイペースと言われないように、きびきびした動作を心がける。
まぶしさに目が慣れるまで、時間がかかる。五月とはいえ、日なたは汗がにじむほど暑い。空一面にうろこ雲がたなびいて、その
満員の観客たちの視線を全身に感じる。ビールいかがですかぁ! と、
入社してすぐ、プロの試合の真っ最中にグラウンドに出たときは、さすがに手足が震えた。
一見してスパイクの
「あっ、君、悪いけどもっとベース近くの、このあたり、
「はい!」
威勢よく返事をして、顔を上げた。その瞬間、全身が
阪神タイガースの選手が、グラブを小脇に抱えて立っていた。
「わっ、わっ、わっ!」と、俺は意味不明な叫び声をあげてしまった。
去年、二千本安打を達成した、レジェンドと呼ばれる大ベテランだ。三十九歳の二塁手で、ここ数年は若手にレギュラーを奪われてしまったが、代打での勝負強いバッティングは健在だった。二十代の中頃は、四年連続で打率三割以上を達成した。首位打者一回、ベストナイン二回、ゴールデングラブ賞四回の超スター選手だ。今日はレギュラーの二塁の若手が不調らしく、先発出場している。
相手は同じ人間だ。でも、俺にとっては雲の上の人だ。そこまで身長は高くない選手だったが、筋肉がものすごい。だぶっとしたユニフォームの上からでも、大胸筋の隆起がはっきりわかる。
「どうしたの? 大丈夫?」
「やります! やってみせます!」
指摘された箇所を一心不乱に均しはじめる。ふたたび、柔らかい声が上から降ってきた。
「君、最近入ったの?」
「は……はい!」
「がんばりなよ」よく日焼けした顔に、白い歯が映えていた。
「はい、ありがとうございます!」
めっちゃええ人やん! 俺の心のなかの声がなぜか関西弁で叫んだ。はじめて選手と言葉を交わした感激がこみあげてくる。
この際、ジャビットくん人形を踏みつけて、阪神ファンに転向してもいいかもしれないと本気で考えはじめた。鼻歌を歌いながら猛然とトンボをかけていると、今度は一転、ものすごいしゃがれ声で怒鳴られた。
「アホかお前! どこに土よせとんねん!」
「ひぃ!」反射的に首をすくめ、トンボを押す手をとめた。
先ほどのナイスガイから、とてつもない
そこに立っていたのは、トンボを小脇にたずさえた一年先輩の長谷さんだった。
→はじめての春⑤に続く