第14話 被害者だったはずの杏奈が語り始めたのは?

文字数 3,317文字

 柏木(かしわぎ)がLINEして五分ほどすると、トリミングショップから杏奈(あんな)が出てきた。
 杏奈は、立浪(たつなみ)達が乗るメルセデス・ベンツのGクラスに小走りに駆け寄ってきた。
 立浪は、柏木の横顔を見た。
 柏木は穏やかな笑顔で、フロントウインドウ越しに杏奈に手を振っていた。
 杏奈を呼ぶとは、いったいどういうつもりだ?
DVを受けていると暴露(ばくろ)されたら、困るのは柏木自身だ。
 弱味を見せたくないから、ハッタリをかましたのか?
だが、そんなことをしても自分の首を絞めるだけだ。
 立浪の脳内に、激しく疑問符が飛び交った。
 ラゲッジスペースの相良(さがら)に視線を移した。
 相良も、怪訝(けげん)な表情をしていた。
 スライドドアが開いた。
「お待たせしました」
 杏奈が、リアシートに乗り込んできた。
「いきなり呼び戻して、悪かったね。立浪さんが、君に訊(き)きたいことがあるらしいから協力して貰えるかな?」
焦るどころか、柏木の表情からは余裕さえ窺(うかが)えた。
「杏奈さん、単刀直入にお訊(たず)ねします。あなたは、こちらの柏木保(たもつ)さんと恋人関係であり、DVを受けていますよね?」
立浪は、核心に切り込んだ。
「いえ、私は柏木さんのマネージャーでDVも受けていません」
 即答する杏奈の言葉に、立浪は耳を疑った。
 ラゲッジスペースの相良も、杏奈を二度見していた。
「杏奈さん、心配しなくても私達がついていますから本当のことを話してください」
 立浪は、強い口調にならないように気をつけながら杏奈を促した。
 杏奈は、柏木の報復を恐れているに違いない。
 DVや虐待の被害者は、無力無抵抗……極度のサレンダー状態になっている場合が多い。
 柏木に反旗を翻(ひるがえ)すと決意した杏奈が、本人を前に萎縮(いしゅく)したとしても不思議ではない。
「本当のことを話しています。どうして、そんな根も葉もないことを訊くんですか?」
杏奈が、質問を返してきた。
「どうしてって……先日、柏木さんから暴力を振るわれていることや交際していることを話してくれたじゃないですか。 その席には彼もいましたし、あなたと同じラウンジで働いているセイラさんもいました。この場所だって、柏木さんは愛犬を溺愛しているから自ら連れてきてトリミングが終わるまで見届けると、あなたが教えてくれたんですよ」
 立浪は矢継ぎ早に問い詰めたい気持ちを抑え、ゆっくりとした口調で事実を並べた。
 いま必要なのは、杏奈をリラックスさせることだ。
「さあ、身に覚えのないことを言われても困ります」
 杏奈が、表情を変えずに言った。
 立浪は、杏奈の落ち着き払った言動が気になった。
 柏木にたいしての恐怖や萎縮から噓を吐(つ)いているのなら、もっと動揺しているはずだった。
「いい加減にしてくださいよっ。僕もこの耳で聞いていたんですよ!? いまになって、どうして噓を吐くんですか!?
それまで黙って事の成り行きを見ていた相良が、我慢ならないとばかりに杏奈を問い詰めた。
「だから、噓は吐いていません」
 杏奈が、冷静な口調で言った。
「そこまで開き直るなら、セイラを呼んで証言して貰(もら)いますよ」
 相良がスマートフォンを宙に掲げた。
「その必要はない」
 立浪が言うと、相良が怪訝な表情で振り返った。
 立浪はヒップポケットから取り出したICボイスレコーダーのスイッチを入れた。
『杏奈さんの一番の願いはなんですか?』
『私は……彼と別れたいんです……』
 ICボイスレコーダーから流れる音声を耳にした杏奈の表情が強張(こわば)った。
 車に乗ってから彼女が動揺を見せたのは初めてだった。
 柏木が、弾(はじ)かれたかのように杏奈を見た。
 だが、彼の表情からは狼狽(ろうばい)や焦燥といった類の感情は窺えなかった。
 決定的な証拠を突きつけられたにもかかわらず、柏木はまだ演技を続ける気か?
往生際の悪い男なのか、それとも単なる馬鹿なのか……どちらにしても、柏木が詰んだのは間違いない。
『それで、警察に駆け込む気ですか? 警察に相談しても、柏木さんにはなんのダメージも与えられませんよ』
『どうしてですか!?
『警察に通報しても、恐らく柏木は初犯でしょうから厳重注意と書類送検で済むはずです。つまり、柏木は刑務所に送られることもなく、いままでとなにも変わらない生活を送ります。なにも変わらないね』
『どうして……私は、こんなにひどい目にあっているんですよ!』
「これは、間違いなく杏奈さんの声です。まだシラを切りますか?」
ICボイスレコーダーを止め、立浪は杏奈に訊ねた。
 それまで無表情だった杏奈が、顔を覆(おお)い泣き始めた。
「ようやく、認めてくれましたか」
「ごめんなさい……私……」
「いいんですよ。柏木さんを前にして尻込みする気持ちはわかり……」
「私……噓を吐いていました……」
 杏奈の予期せぬ返答に、立浪は耳を疑った。
「噓!? それは、どういう意味ですか!?
立浪の疑問を、相良が代弁した。
「私、仕事でミスをして柏木さんにひどく叱られ、それを根に持って……それで、つき合っているとかDVを受けているとかでたらめを言ったんです。そうすれば、有名人の柏木さんに致命的なダメージを与えられると思って……」
 嗚咽(おえつ)交じりに、杏奈が言った。
「それこそでたらめでしょう!? そんな話を、僕達が信じると思って……」
「なら、その顔の傷は誰にやられたんですか?」
 立浪は相良を遮(さえぎ)り、杏奈に質問をぶつけた。
 もちろん、杏奈の話を信用したわけではない。
 杏奈に多くを語らせ、矛盾を衝(つ)いて噓を暴(あば)きたかった。
「彼氏です。もう別れたので元彼になりますけど……暴力がどんどんエスカレートして。柏木さんにある日、顔にできた傷を問い詰められて正直に話しました。そしたら、空いている部屋があるから、とりあえず避難したほうがいいと言ってくださったんです」
 杏奈が、柏木や野原(のはら)が言ったのと同じようなことを口にした。
 柏木は立浪達とずっと一緒にいたので、杏奈と口裏を合わせる暇はない。
 柏木は、話の流れで野原にもいきなり連絡を入れた。
 もちろん口裏を合わせる時間はないし、なにより写真週刊誌に直撃されるとは思っていない。
 もしかしたら……。
 瞬間、心に過(よぎ)りかけた思い……杏奈は本当のことを言っているのではないかという思いを打ち消した。
 表面的に、柏木と杏奈の話に破綻(はたん)はない。
 だが、逆にそれが立浪の違和感を膨(ふく)らませた。
すべてが整い過ぎているような、柏木、杏奈、野原……三人の証言がコピーした文言を読んでいるような気がしてならなかった。
「僕に叱られたというのは、CMの入り時間を伝え間違ったときのことかい?」
それまで無言だった柏木が、杏奈に訊ねた。
杏奈が、力なく頷(うなず)いた。
「たしかに、あのときはかなりきつい口調で叱ってしまったね。一歩間違えば数億の損害になるミスだったから、故意に強く言ったんだ」
「柏木さんは私のためを思って叱ってくださったのに……本当に、申し訳ありませんでした」
 杏奈が涙声で詫(わ)びた。
「いや、僕のほうこそひどく叱ってしまい申し訳なかった。君がそんなに傷ついていたなんて……」
 柏木が悲痛に顔を歪(ゆが)めた。
 恋愛映画でしか聞かないような気障(きざ)なセリフに、立浪の歯が浮いた。
 さすがは、フェミニスト俳優と言われるだけのことはある。
 ドラマや映画で観る柏木の芝居はお世辞にもうまいと言えないが、噓を吐くときの芝居は秀逸だった。
 相良が、困惑した顔で立浪を見た。
立浪も、気持ちは同じだった。
野原や杏奈から柏木がシロだと裏付ける証言しか取れない現実――杏奈の言う通り、叱られた逆恨みで柏木に罪を擦(なす)り付けようとしたのか?
(第15話につづく)

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