歪んだ北斗七星、平成まで隠された将門信仰。令和こそ将門の時代⁉

文字数 3,703文字

将門は今日も東京を守る。ビルの谷間で。

前回は「平将門」の名になかなか出会えず、「源義家」にばかり巡り会った旅でした。


ただまぁ今回は期待できそう。何たって最初に訪ねる築土神社は、ホームページの冒頭から「平将門を祀る江戸の古社」と堂々と名乗ってるところなんですから。


てなわけで、やって来ました九段下。私も行くのは初めて。地下鉄の駅から地上に上がり、九段坂を登った途中の右側にあるらしい。


ところがそちらから行ってみたら、本殿の裏手からアプローチするような形になるみたい。でもやっぱり、せっかく初めて来たんだから正面から入りたいよね。


そこで表側に回り込んでみました。そしたら、こんな感じ。ビルとビルの間に挟まれるように敷地が確保され、参道の入り口に鳥居が立ってました。その前の道を車が通るので、全体像を撮るために距離を空けるのがなかなか難しい。



 

何かイベントの後だったみたいで、細い通路のような参道では後片付けの最中。おまけに参詣客も多い。人影を避けて撮るのは無理だったので、入り込むままに社をパチリ。


それから何か「説明板」はないか、と探します。神社の由来を記した説明板で、ここの祭神は誰かを調べるのがこれまでの常でしたものね。


……ところが、ない。見つけたのは「ここの狛犬は千代田区内に現存する中では最も古い」と説明されてるものだけで、まぁそれはそれで貴重なものだけど私が探してるのはそれではない!

密かに将門を祀り続けてくれて、ありがとうございます。

結局、ありませんでした。ホームページがあれだけアツい作りなので、「主祭神 平将門」と大々的に書かれた説明板が絶対ある、と期待してたのに、なぁ。


ただ、帰って改めてホームページを見てみたら、明治時代に入って「皇国史観」が広まり、朝廷に反した「逆賊」将門を主神とするには憚られるようになった経緯について、詳しく説明してありました。この神社が将門を祀っていることを再び公言するのは、平成2年になってからであった、と。


これまでも説明して来ましたよね。明治政府は「朝敵」将門を忌み嫌い、弾圧した。所縁の神社などは半ば隠すような対応を余儀なくされた。ここもまたその一つだった、ということのようです。


実際の境内と違い、ホームページはあまりにアツいのでここに転載したかったんだけど、「複写・転載不可」ということなので諦めます。興味のある方は是非覗いてみてください。

http://www.tsukudo.jp/


さて次に移動します。実はこの築土神社、各地を転々として来て現在地に落ち着いたもので、元は違う場所にあった。そして元の地でなければ、例の北斗七星の構成要素にはなれないわけです。


見てみて下さい。現在地で線で繋いでしまったとしたら、これ。これではさすがにいびつ過ぎて、「北斗七星」と名乗るのは憚られるでしょう(笑)。 

現在の築土神社の位置で描いた北斗七星。
元の築土神社の位置で描いた北斗七星。
将門の形跡なくとも、正しい北斗七星のために意外とがんばる邪推作家。

てなわけで都バス「九段下」バス停から「飯64」系統へ。目白通り沿いに走り、JR飯田橋駅のガードを潜って神田川沿いに出たところ、「飯田橋」バス停で下車。ちょっと戻って大久保通りに入り、緩やかな坂を登って歩くと、「築土八幡町」の交差点に出ます。


そう、築土神社は元、ここにあった。と、言うより、最初は例の首塚の場所にあったのが、転々としてここに来たのだそうです。並んで築土八幡神社が鎮座していて、そちらは現在もここに残るのに対し、築土神社だけが再び移動することになった。


それってやっぱり将門を祀ってたから!? 邪推したくもなっちゃうけど、移転したのは1946年というから多分、違う。「皇国史観」を押しつけた明治時代ならまだしも、そういう過去を振り切ろうとした終戦直後なんですから。単に「太平洋戦争で社殿焼失」のためのようです。


せっかく来たのだから築土八幡さんの方にもお参りしておきましょう。町名の元にもなっているし、築土神社が以前ここにあった、今では証しのようなものですから。


実はここ、ずっと以前もお参りに来たことがあった。ただやはり、将門と由縁のある地だったとは知らなかった。境内でちょっと探してみたけど、「将門を祀る築土神社がかつては隣にあった」なんて説明はどこにもありませんでしたね。まぁ当たり前か。

江戸時代最強武士説。平和の時代に二回の実戦、そして見事な切腹。

さて「飯田橋」バス停に戻って再び「飯64」系統に乗り込みます。次は早稲田の水稲荷神社。実はここ、北斗七星の構成要素の中でも最も「?」なところなんですけどね。


神社のホームページによるとここの興りは天慶4(941)年、俵藤太秀郷朝臣が旧社地(現早稲田大学9号館法商棟)の「富塚」に稲荷大神を勧進したことによる、という。藤原秀郷。そう、将門を討ち取った男ですよ。これまで出て来た日本武尊や源義家を「東征」の敵側じゃん!? なんて突っ込んで来たけど、今回はもう本当に敵も敵。仇本人に他ならない


そりゃまぁ、縁も所縁もないわけじゃないですけどね。でもなぁ。あの北斗七星を構成するためここ、無理やり組み込んだ感もなきにしもあらず……


まぁ気を取り直して、とにかく行ってみましょう。


「飯64」は江戸川橋で目白通りから新目白通りに入り、都電荒川線の「早稲田電停」の横を抜ける。その先で、左折。曲がってすぐの「甘泉園公園前」で下車します。坂の反対側はもう神社の入り口です。


階段を上がってすぐ左手に、面白いものが現われます。「堀部安兵衛の碑」。そう、「高田馬場の決闘」で有名な堀部安兵衛(その頃は中山安兵衛)が戦った現場は、ここだったんです。


この決闘で有名になった安兵衛は赤穂藩士、堀部金丸の養子となり、「忠臣蔵」47士の一人として吉良邸に討ち入る。江戸を代表する2大事件の主人公なんですものねぇ。数奇な運命、としか言いようがありません。


ちなみに以前はこの近くにその名も「安兵衛湯」というお風呂屋さんがあって、フォーク・ソングの名曲「神田川」で歌われる「2人で行った横町の風呂屋」とはここがモデルだった、という。

脱線して邪推して勝手に満足という美しい展開。

ちょっと将門から外れてしまいましたね(汗)。その先に水稲荷の説明板があったけど案の定、「将門」どころか「秀郷」の「ひ」の字すら記述はありませんでした。


ただ、鳥居を潜った右手に興味深いものを見っけ。「大黒社」。そう、神田明神の主祭神は大己貴尊でしたよね。どちらも大国主命、同一神です。うーむ、初めて共通の存在を見つけたぞ。邪推がまたもムクムクと頭をもたげます。


ただまぁその前に、神社にお参りを。立派な拝殿ですよねぇ。


鬱蒼と茂った静かな杜の中、どんと現われるこの荘厳さが存在感、抜群! やはり由緒あるお宮なんだなぁ、と伝わって来ます。


ここが立派な木立に囲まれているのも元々、湧水があったから。だからこそ「水稲荷」であり、隣は「甘泉園公園」なわけですな。境内から直接、そちらにも行けるのでせっかくだから足を伸ばしてみましょう。


ここが、そう。

早稲田の街中にいるとはとても思えない、とても静かな公園です。水がちょろちょろ流れている音を聞きながら、庭内を散策していると時間を忘れてしまいそう。まさに「都会のオアシス」の呼び名がぴったりのところですね。

だが、待てよ。将門伝説には水にまつわるものも多かったな。北斗七星の説明でも述べたように将門は妙見信仰に篤かったんだけど、妙見菩薩の化身は竜馬であり、竜は大河の象徴でもある。


そう言えば兜神社だって日本橋川が急カーブを切るほとりに、水利を治めるかのように立っていたな。


かつては「水の都」と呼ばれた江戸。その氾濫を抑えるために、将門所縁のものが各所に配置されたのではないだろうか?


うーん、そう考えると、楽しい。だんだんここも、正当な所縁の地のように思えて来たぞ!


てなわけで、妄想が極限まで膨らんだとこで、いよいよ次回は最後の地、柄杓の取手の先端、鎧神社を訪問します。

書き手:西村健

1965年福岡県生まれ。東京大学工学部卒業。労働省(現・厚生労働省)に入省後、フリーライターになる。1996年に『ビンゴ』で作家デビュー。その後、ノンフィクションやエンタテインメント小説を次々と発表し、2021年で作家生活25周年を迎える。2005年『劫火』、2010年『残火』で日本冒険小説協会大賞を受賞。2011年、地元の炭鉱の町大牟田を舞台にした『地の底のヤマ』で(第30回)日本冒険小説協会大賞、(翌年、同作で第33回)吉川英治文学新人賞、(2014年)『ヤマの疾風』で(第16回)大藪春彦賞を受賞する。著書に『光陰の刃』、『バスを待つ男』、『目撃』、「博多探偵ゆげ福」シリーズなど。

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