『Cocoon 修羅の目覚め』/夏原エヰジ 1巻まるっと太っ腹試し読み⑫
文字数 9,792文字

十二
瑠璃は水中を漂っていた。
不思議と息苦しさは感じない。だが、仄暗い水は刺すように冷たかった。生気を失った瑠璃の体は、どこまでも力なく沈んでいく。
暗闇の中で、誰かが呼ぶ声が聞こえた。
その声は穏やかで、温かかった。
瑠璃は底なしの闇に堕ちながら、探るように手を伸ばす。ふと自分の体に目をやると、幼子の体であった。瑠璃は自分が涙を流していることに気がついた。
辺りは途方もなく広がる闇ばかりで、何もない。誰もいない。圧倒的な孤独と恐怖が、瑠璃に覆い被さってきた。たまらなく悲しかった。
泣きじゃくりながら、水を搔いてもがく。涙は出る端から水に溶けていき、声を上げようとしても、泡がぼこぼこと空しく出るばかり。揺らめく水面は遥か彼方で、もがけばもがくほど、瑠璃を嘲笑うかのように遠ざかっていく。
独りぼっち。
その事実が瑠璃の心と体を蝕み、力を奪っていった。
幼い瑠璃は泣き続けた。
どこからか、先ほどの声がしたような気がした。
必死に声の主を探す。大好きな声だった。しかしまわりにあるのは、やはり暗闇。
瑠璃は心まで幼子になったように、泣くことしかできなかった。次第にもがく力もなくなっていった。暗く冷たい水に身を任せるように、底へ底へと沈んでいく。
すると、声が優しく、瑠璃の中に響いてきた。
「……。もう大丈夫だ。起きなさい」
瑠璃は目を覚ました。
視線の先には見覚えのある天井があったが、頭は模糊としていて、どこだかはっきりと思い出せない。
しゅんしゅんという音が響いている。視線を横に向けると、古い獅子嚙(しがみ)火鉢の上で湯が沸いていた。部屋は火鉢の熱で暖められているようだ。
ぼんやりする頭で、瑠璃は、季節が冬に近いことを何となく感じ取っていた。
ゆっくり、深く、息を吐き出す。ふと、腹の上に重みを感じて、頭を少しだけ起こした。
豊二郎と栄二郎が、布団をかけられた瑠璃の腹を枕にして、くうくうと寝息を立てていた。二人とも泣きはらしたかのようにまぶたが腫れている。
瑠璃は静かに目をつむった。
長い夢を見ていた。恐ろしく思うと同時に、心がじんわり温かくなる夢だった気がする。
──もう少しだけ見ていたかったな。
瑠璃は薄れていく夢の余韻に浸った。
すると、栄二郎がぱち、と目を開け、瑠璃を見つめた。栄二郎はしばらくきょとんとしていたが、いきなり叫んだかと思うと瑠璃の首筋に抱きついた。
「花魁んっ」
栄二郎は泣きだした。涙腺の箍が外れているのだろう、尋常でない泣き方である。
これに豊二郎も目を覚ました。目を開けている瑠璃と、すがりついて泣いている栄二郎を見比べる。ややあって、嬉しいような泣き顔のような、くしゃくしゃの表情を浮かべ、豊二郎も泣き始めた。
瑠璃は大泣きする双子にため息をつきつつ、笑みをこぼす。しかしあまりにも大きな声で泣いているので、次第に辟易し始めた。おまけに、栄二郎は無意識に瑠璃の首を絞めている。
「うるせえ」
栄二郎をどけようとしたが、押し返そうとすればするほど、栄二郎は首を強く絞めてきた。
「てめ、鼻水つけんじゃねえよ。ていうか、首、絞まってるんですけど……っ。ああもう泣くなっ」
声を張り上げたところで、部屋の襖が勢いよく開いた。
錠吉と権三だった。双子の泣き叫ぶ声を聞いてすっ飛んで来たのか、ひどく慌てた顔をしている。
目覚めた瑠璃を見て、錠吉は心底ほっとしたように眉を下げた。いつも冷静な錠吉の意外な表情に、瑠璃はちくりと胸が痛む心持ちがした。
権三が目の端に涙を浮かべ、泣き顔に笑顔を重ねながら、栄二郎を瑠璃から引きはがす。
そんな五人の様子を、出窓に座った炎がにんまりと見ていた。
「よかった。花魁、ほんとによかったよう。このまま起きなかったらどうしようって、どこか遠くに行っちゃうんじゃないかって」
少し落ち着きを取り戻した栄二郎が、しゃくりあげながら言った。
「たった今お前に殺されかけたけどね」
瑠璃は意地悪に笑ってみせた。
権三が瑠璃の肩に綿入りの褞袍(どてら)をかけ、体を起こすのを手伝ってやる。錠吉は白湯を作ってくれた。
「ここは、黒羽屋の寮か?」
白湯を受け取りながら聞く。
大見世である黒羽屋は、吉原の外、今戸(今戸)と根岸に遊女が養生するための寮を持っていた。
寮にはそれぞれ地下通路があり、黒羽屋にある瑠璃の部屋まで一直線に繫がっている。任務のたびに隠し通路を使っていたため、寮の内装を記憶していたのだった。
「ええ、根岸の寮です。花魁は三月も眠ったままだったんですよ」
錠吉が答える。すでに時節は霜月になっていた。
「そりゃあ……随分と長寝しちまったね」
お勢以どんに大目玉くらっちまわあ、と瑠璃は苦笑いした。頭がずきずきするのを感じながら、白湯をすする。
目覚めた時から、あの夜のことを思い出していた。四人の顔を眺め、ひっそりと息を吐く。
「皆、無事だったんだね」
男たちは複雑な表情で顔を見あわせた。一拍の間を置き、権三が瑠璃に向かって小さく頷いた。
「深手を負ってはいたんですが、何とか生きてました」
「おいらが倒れた時、花魁、楢紅を呼んで仕掛を投げてくれたよね。あれで、なんでか止めを刺されなかったんだ」
栄二郎はまだしゃくりあげている。
瑠璃は考えこむように少し黙ってから、ゆっくり話し始めた。
「わっちもあの時は、なにがなんだかわからなかった。気づいたら楢紅を召喚してたんだ。なんで楢紅の仕掛をお前にかけようと思ったのかもわからない。でも、そしたらお前の体は、仕掛ごと見えなくなったんだよ」
炎が出窓から降り立ち、瑠璃に向かって歩いてきた。
「楢紅にはそういう力もあったということじゃろう。お前はそれを、本能で理解したのかもしれんな」
瑠璃はふと、豊二郎を見やった。豊二郎は真っ赤に泣きはらした目で、ずっと何か言いたげに瑠璃を見ていた。
「豊、お前……」
口を開いた時、部屋の襖が開けられた。入ってきたのはお喜久だった。
「起きたんだね、瑠璃。まずは一安心だ」
言葉とは反対に、普段と変わらない表情で瑠璃の顔を眺める。
「あっ、そうだ。見世にも花魁が起きたこと知らせに行かなくちゃ。楼主さまも、そりゃあ心配してるんだから」
立ち上がろうとした栄二郎を、お喜久は制した。
「知らせは後でもいい。それより瑠璃が起きたからには、まず事の次第を話そう」
裾を払い、瑠璃の正面に座る。
男四人は不安げに瑠璃をうかがった。瑠璃は口を引き結び、思い詰めた顔つきでお喜久を正視している。
お喜久は静かに口火を切った。
「津笠の上客だった、丸旗屋の佐一郎とかいう男だがね。あれは大したクズだったよ。そもそも津笠に近づいたのは、くだらない賭け事のためだった」
「賭け?」
瑠璃は眉根を寄せた。
「小見世や中見世で遊ぶのに飽きた佐一郎は、贔屓の幇間と賭けをしたんだ。大見世の呼び出しと馴染みになるには面倒な手順がいる。それをすっ飛ばして、初会で妓を落とせるかどうか、とね」
「そんな、まさか」
「運悪く目をつけられたのが、津笠だった。優しそうな顔をしているから簡単だとでも思ったんだろう。初会で身請け話なんて前代未聞のことをして、まんまと津笠を落とした。どうやらそういう芝居は、大の得意だったらしい」
津笠の話を疑いなく聞いていた瑠璃にしてみれば、信じがたい事実であった。視界がぐにゃりと曲がった気がした。
「だって、佐一郎は身請け金の工面と、まわりの説得に走りまわってたって……」
「ああ。確かに、津笠を請け出そうと奔走していた。遊びとはいえ、賭けに勝って持ち上げられて、気分がよくなったんだろう。純粋に自分を慕う津笠にほだされたのかもしれない。奇しくも大店の跡継ぎ、津笠のような売れっ妓の身請け金でも、難なく用意できていた。だが気持ちは、そう長く続かない」
男たちは皆、俯いていた。
「大店として名高い丸旗屋に、いくら大見世の三番人気だからといって女郎を嫁がせるわけにはいかないと、親族一同、番頭から手代まで猛反対したそうだ」
丸旗屋の中では、多額の身請け金を払うというなら、佐一郎に跡を継がせるべきではない、という声まで上がっていたのだった。
「売れっ妓として華々しく誉めそやされても、所詮は色を売る女、ってわけかよ」
瑠璃は湧き上がる激情をぐっと吞みこみ、低くうなった。
お喜久は瑠璃の言葉には答えない。
「浮かれて暴走する佐一郎に、親族は縁談を勧めた。相手は呉服問屋の大店中の大店。商売を広げたい丸旗屋にとってみりゃ願ってもない話だ。縁談を受けなければ跡を継がせない、と佐一郎を脅してね。我を通そうとしていた佐一郎も、跡継ぎの話はなしだと言われて焦り、あっさり縁談を承諾した」
元から不純な動機で津笠に近づいた佐一郎は、その分醒めるのも早かった。津笠を身請けするために準備していた金は、結納に使われたそうだ。
「でも、でも。佐一郎はずっと津笠に贈り物を欠かさなかったじゃないですか。本当は身請けを諦めていなかったんじゃ」
瑠璃は語気を強めて食い下がる。
「丸旗屋は反物を売っているんだよ。人気のある津笠が自分のとこの商品を着て道中をしてくれれば、店の売り上げに繫がる。黒羽屋抱えの津笠御用達、ってね」
間髪入れずに放たれた冷淡な言葉に、瑠璃は放心した。
「それじゃ、まるで……」
──人形じゃないか。
佐一郎は身請けを早々に諦めてからは、津笠に対して店を大きくするための利用価値しか見出さなくなっていたのだ。
「身請けを取りやめることは黒羽屋も聞かされていなかった。だが、佐一郎はいつからか、他の見世にも出入りをしていたようでね」
大見世の遊女を敵娼とすれば、それ以外の遊女を買うことは許されない。しかし佐一郎の女癖は、津笠と結ばれる約束を反故にした頃から元に戻っていたのだった。
ある日の道中、佐一郎と目があった時のことが、瑠璃の脳裏に思い起こされた。佐一郎は角町辺りに立っていた。黒羽屋に行くなら、大門から一番手前の十字路を右に曲がるだけで済む。仲之町の奥まで行く必要はないのだ。
あの時もそうだったのか、と思うと、その時点で何ら不審に思わなかったことが情けなくなった。
「他の見世で遊んでいたことは、どうやら津笠も気づいていたようだ。でもそれ以上に、佐一郎がお前に気移りしていることを、津笠は心配していた」
お喜久は言って、権三を横目で見た。
「え……」
やにわに自分の名前を出され、わけがわからなくなった。お喜久と同じく、問うような視線を権三に向ける。
権三は俯き加減に口をへの字に曲げ、言いよどんでいたが、そのうち絞るように言った。
「津笠さんが、自嘲気味に笑いながら言ってたんです。佐一郎は自分から花魁に乗り換えるつもりなんだ、って。花魁は誰よりも綺麗だから仕方ないことだ、でも佐一郎は浮気心を隠そうともしないんだ、と……」
権三は大柄な体に似合わず心優しい性根の持ち主であり、遊女たちから愚痴や相談を受けることが多かった。
津笠は酒に酔っていたらしく、抱えていた思いをつい口にしてしまったのだろう。慌てたように、忘れておくんなまし、と言って去っていったという。権三はよくある痴話喧嘩の類だと思い、瑠璃と津笠の仲も承知していたため、誰にも話さずにいた。
「初め、賭けの対象はお前だったんだ。吉原一と評される妓を初会で落とせば箔がつく。でもさすがに難しいと思ったからこそ、佐一郎は津笠を選んだんだ」
「何だよ、それ……」
佐一郎の目がつぶされていたのは、他の女を見てほしくないという津笠の心情の表れだった。津笠の心には、いつしか瑠璃への嫉妬と猜疑心が生まれていたのだ。それを一人、溜めこんでいた。
瑠璃は動揺を隠せなかった。
「津笠とお前が戦った時に浮かんでいた結界は、私が仕込んだものだ。津笠が失踪して思うところがあったから、万一に備えてお前の白無垢に手を入れておいたのさ。籠目の紋には邪を祓う力がある」
お喜久は瑠璃の様子を見つつ、話を戻した。
「祝言の日取りも決まってしまえば、佐一郎にとって津笠は厄介な存在でしかない。事の次第を話して切れ状を渡そうとしたが、津笠は受け取らなかった。連日登楼して金を積んでみても、津笠は頑として首を縦に振らない……元々そういう気質の男だったんだろう。佐一郎はとうとう自棄を起こして、津笠を絞め殺しちまったのさ」
瑠璃の顔がこわばった。手が自然と首に触れる。
津笠に見せられたのは、幻ではなかった。佐一郎に殺された津笠が、死の間際に見た最期の記憶だったのだ。
「死骸は、贔屓にしていた幇間と芸者に金を握らせ、柳行李(やなぎごおり)に体中の骨をへし折って押しこめさせた。ご丁寧に、空の行李とまわし芸用の壺、三味線箱を持ってくるよう、文にしたためてね。そうして何食わぬ顔で見世を出た」
いわく、佐一郎が変死したことを知った幇間が泣きながら面番所に飛びこんできて、すべてを白状したそうだ。
死骸を担いでふらついてしまえば、見世の者に怪しまれる。そのため佐一郎たちは、裸にした津笠の血抜きをして壺に入れ、髪を削ぎ落として三味線箱に詰め、手わけして持ち出した。吉原から出た後、三人は人気のない山奥で死骸をバラバラに刻み、埋めたのだった。
幇間は津笠さんの祟りだ、自分も殺される、とおびえきっていた。
黒羽屋の若い衆が言われた山奥を探したところ、原形も留めず無残にばらされた津笠の死骸が発見された。
瑠璃は狼狽し、吐き気を催した。怒りと哀しみがこみ上げてくるも、言葉にならない。動悸が激しくなり、目に映るすべてのものが、緩やかに湾曲していった。
七歳から吉原に閉じこめられていた津笠にとって、佐一郎は救いの光だった。
心から愛し、愛されていると信じて、その気持ちを胸に抱くように大切にしていた。それを当の本人に目の前で破り捨てられた津笠の心境は、どれほどのものだっただろうか。切れ状を差し出されても譲らず、挙げ句、愛する男に手をかけられた津笠の胸の内は、いかばかりであっただろう。瑠璃には計り知ることなど、到底できなかった。
「津笠は、黒雲のことを知っていたんだろう」
お喜久が問いかける。瑠璃は口を閉ざしていた。
「秘密を洩らしたからと、今さらお前を責めるつもりはない。ということは、津笠は妖も見えていたんじゃないかい。それだけの素質を持っていたのか、それとも……」
──前を向いたまんま、全然おいらに気づいてくれなかったんだ。
ふと、瑠璃は長助の言葉を思い出した。
津笠は、佐一郎の心が離れていくのを痛いくらいに感じていた。健気な気持ちを、まるで嘲るように遠のいていく佐一郎の姿を見て、ゆっくりと心が壊れていった。
対して瑠璃はあらゆる男の心を奪い、佐一郎までをも魅了しているのに、それ自体には大した関心も持たずにいた。錠吉たちや妖たちに囲まれ、大事にされ、安穏とした日々を当然とばかりに過ごしていた。
そんな瑠璃と一緒にいる時こそ、津笠は真の孤独を感じざるをえなかった。佐一郎の話題を出された時などなおさらだったはずだ。
瑠璃に非はないと内心ではわかっていても、哀しみと焦燥が染みこんだ津笠の心の遣り場は、誰かを妬み、憎むことをおいて他になかった。心根のまっすぐな津笠だからこそ、脆さと危うさも表裏一体に存在していた。そうして袖引き小僧が見えなくなるほどに、心が澱んでしまったのだろう。
鏡越しに見た津笠の顔。わずかな間だったが、それは憎しみに蝕まれた顔だった。
──あの時、どうして気づかなかったんだ。いや……。
瑠璃は褞袍の襟を搔きあわせ、ぐっと握りしめた。
息が荒くなっていく瑠璃を、栄二郎が気遣わしげにのぞきこむ。錠吉も権三も、伏し目がちに瑠璃の様子をうかがっている。
「おいらのせいなんだ、おいらが……」
消え入りそうな声がして、瑠璃は豊二郎に目を向けた。豊二郎の顔は青くなり、膝の上に作った握り拳が震えている。
錠吉が、二の句が継げないでいる豊二郎の背にそっと手を添えた。
お喜久は豊二郎を見てから、再び瑠璃に視線を戻した。
「豊二郎は白無垢道中の前日に、佐一郎を見張っていた。夜中、津笠が鬼となって現れて、佐一郎を呪い殺すのをたまたま見ちまったのさ。豊二郎もそういう力が生まれつき強いからね、そのまま取りこまれてしまったんだ……普通ならそんなことはありえないんだが、妖を見るだけの力を津笠が持ってたなら、納得だ」
瑠璃は震える豊二郎を哀しげに見つめた。
津笠の角や気配が初めのうちは隠れていたのも、力が圧倒的だったのも、恨みの力に加えて豊二郎を取りこんでいたからだったのかもしれない。
「お前が何か悔やむ必要なんてないよ。津笠を殺したのはわっちだ。自分の中に尋常でない力があるのはわかっていたが、わっちがあんな化け物じみた力を持ってたばかりに、津笠にもお前にも辛い思いをさせちまった」
視線を布団の上に転じ、小さく言った。
瑠璃の沈んだ瞳を見て、男たちは何と声をかければよいかわからず、一様に押し黙った。
部屋には重い空気が立ちこめた。しゅんしゅんと、湯の沸く音だけが鳴っている。
「炎。お前、何か知ってるんだろ。わっちのこの力が何なのか……違うか?」
瑠璃の発言を受けて、一同の視線は一斉に炎に集まった。
しばらく置いて、炎は静かに口を開いた。
「ああ、知っておる。どうしてお前のような女子が、そんな力を持っているのか。お前が失っている、幼い頃の記憶もな」
瑠璃はともに暮らしてきたさび柄の猫を、言葉なく見つめた。
物心ついた時から、自分が普通の女子とは根本から違うこと、炎が何かを知っているのではないかということも、予感はしていた。今まで聞こうとしなかったのは、勇気がなかったからである。
聞いてしまえば、これまでの暮らしに戻れなくなるのではないか。自分という存在が、大きく覆されてしまうのではないか。
漠然とした不安が、尋ねることを阻んでいたのだった。
炎も、どこか逡巡しているようだった。
「話す必要もなかろうと、話す機会がなければその方がよいと思っておった……が、それも限界のようじゃ。お前には図らずも、儂の変化を見せてしもうたしの」
嘆息し、わずかにかぶりを振る。
「昔。途轍もなく昔の話じゃ。この世には、三体の龍神がおった」
やがて炎は、訥々と語りだした。
「三つの龍は時を同じくして生まれ、互いに均衡を保っておった。しかしこの中の一体がまこと、邪悪で強大な力を持っていてな。天変地異をもって山を、里を荒らし、破壊の限りを尽くしておった。数えきれない命が奪われ、この世は混乱を極めた」
一同は固唾を吞んで、炎の話に耳を傾けた。
「太古の昔から、他の二体は邪悪な龍と戦っておった。しかしそのうちの一体、廻炎は戦いの中で力を奪われ、そして人に救われた。力を失った龍は若い雌猫の死体に魂を移し、人に邪龍を鎮めるための知恵を授けた」
「それが……炎なの?」
栄二郎が聞く。
炎は静かに瞬きをしてみせた。
「一人の男が立ち上がり、生き残っていた龍神、蒼流とともに、悪道に走った龍に立ち向かった。蒼流は激しい戦いに力尽き、消滅した。男は自ら鍛えた黒刀に、戦いで弱まった邪龍を封印した。それがお前の持つ妖刀、飛雷じゃ。飛雷とはそもそも龍神の名。そしてそれを封印したのは、お前の遠い先祖なんじゃよ」
瑠璃は目を瞠った。またも頭が混乱し始めていたが、黙って話を聞くより他になかった。
「男はとある刀工一族の長じゃった。一族はその後隠れ里にひっそりと暮らし、飛雷の封印を代々守ってきた。長い時を経て、一族に女の赤子が生まれた……赤子の魂は、消滅したはずの蒼流のものじゃった」
猫の目が瑠璃を見つめる。
「女子が五つになった時。里から、女子の姿が消えた。妖刀もなくなっていた。やがて、女子は妖刀とともに大川で見つかることになる。心の臓に、飛雷の力を半分宿してな」
今や部屋の中は完全に静まり返っている。炎の声だけが、厳かな響きを持って聞こえてくるようだった。
「飛雷が妖刀と花魁の体内で、半分ずつになったということか。でも、なぜそんなことに」
「一族は……生みのご両親は、どうしているんだ」
静寂を破り、錠吉と権三が口々に問う。
炎は過去を辿るように目をつむった。
「……いずれ、わかる時が来るじゃろう。瑠璃が記憶を取り戻せばな。今はまだ時機でない」
言うと、瞳を改めて瑠璃に向ける。
「その胸にある傷は、飛雷がつけたものじゃ。三点の痣は封印の証。痣が広がるほどに飛雷の力を手にすることができるが、今回のことを思えば、危険なのは説明するまでもないじゃろう」
瑠璃は閉口し、ひたすら呆然としていた。
自分の生い立ちを聞かされているはずなのに、どこか他人事のような心持ちがしていた。唐突に途方もない話を聞かされたところで、受け止めることなどできるはずもなかった。
目には混乱と、恐怖が入りまじっていた。
「じゃあ」
ぼそりと、うめくように言う。唇がわななく。声は、言葉を紡ぐことを臆しているかのようだった。
「じゃあわっちは、その蒼流って龍の、生まれ変わりなのか?」
何も知らずに生きてきた自分がそら恐ろしくなった。すがるような目で炎を見る。
違うと、言ってほしかった。
「……ああ」
炎は低い声で答えた。
「お前が生まれてきた時は、儂も大層驚いた。龍神の転生が人の女子であるなど、思いもしなかったからな。じゃが、お前の持つ気も魂も、やはり儂の兄弟分のもので間違いない。お前は蒼流の宿世。さらに心の臓には、飛雷が半分封じられている」
恐れていた答えに、瑠璃は胸がふさがっていくのを感じた。瞳が絶望したように、光を失っていく。
「瑠璃。お前が鬼の存在に魅入られているのはわかっておる。それはお前自身の心なのか、それともお前の中の龍がそうさせているのか、はっきりとは言えぬが……」
しばしの間口をつぐんでから、炎は告げた。
「あの時、お前の心は津笠が放つ闇に大きく傾いだ。だから飛雷の封印が弱まり、力が暴れだしたのじゃ。鬼が抱える闇に浸り、寄り添うのはよい。それはお前にしかできぬことかもしれん。じゃが、吞まれるな。闇に吞まれれば、飛雷につけ入る隙を与え、お前という存在は消え失せてしまうであろう」
瑠璃は俯き、何かを握りしめるように、胸元に拳を当てた。長い漆黒の髪が、さらさらと掛布団に落ちる。美しい顔はおののき、苦悶の色に覆われていた。
「わっちが……斬ってしまったんだ、津笠を……」
龍神の力など持っていなければ、こんな思いをせずに済んだのだろうか。鬼退治という使命さえなければ。
──ふざけるな。そもそも津笠が鬼になったのは、わっちのせいでもあるだろう。
津笠が鬼となった怨恨の中には、少なからず瑠璃の存在が絡んでいた。そのことから目を背けようとした自分自身に、失望した。
津笠はもうこの世にいない。ともに笑うことも、励ましあうことも、二度とできないのだ。揺るがぬ事実が、瑠璃の心を地の底まで叩き落とす。
「わっちがいなかったら、津笠の運命は変わっていたのかな」
誰も、何も言わなかった。言葉を発すること自体が躊躇われているようだった。
部屋は長く、暗い静寂に閉ざされていった。
夏原 エヰジ(ナツバラ エイジ)