『幻告』 五十嵐律人

文字数 29,015文字

   プロローグ


 初めて父親を見たのは、刑事裁判の法廷だった。
 被告人として証言台の前に立つ父親と、その背中を傍聴席から睨みつける息子。
 感動の対面と呼べるシチュエーションではなかったし、むしろ怒りや嫌悪感に支配され、吐き気と共に胃液が込み上げてきた。
 罪に問われていたのは、義理の娘に対する強制わいせつ行為。
 被害者は、当時まだ高校生だった。就寝中の部屋に忍び込み、手足をロープで縛ってから視界を塞いで犯行に及んだ。何が起きたのかを想像することも躊躇われる卑劣な犯罪……。検察官が起訴状を読み上げるのを聞いて鳥肌が立った。
 この男と血が繫がっている。
 何かの間違いだと、願わずにはいられなかった。

 ──お父さんはどこにいるの?
 物心がついた頃から残酷な質問を繰り返し、母を困らせていたらしい。
 事情を話さない母に反発した時期もあったが、反抗期の域を出るものではなく、中学校を卒業する頃には、家族が二人しかいない事実も受け入れた。
 だが、大学三年生の冬。刑事が母を訪ねてきた。
 壁が薄いアパートだったので、話の内容が断片的に聞こえてきた。裏付け捜査に協力してほしい。容疑者は既に逮捕している。前妻への定期的な送金の記録……。そこで物音を立ててしまい、僕は部屋から追い出された。
 余裕があるとは思えないのに、大学に進学することができた。
 僕の誕生日が近づくと、母がよそ行きの服を着て出かけることがあった。
 刑事が帰った後、父親が逮捕されたのかと追及すると、母は視線を泳がせてから頷いた。警察が調べている事件が性犯罪と知り、言葉を失った。
 そして二十一歳の僕は、法廷で父親の顔を見て声を聞いた。
「罪名及び罰条、強制わいせつ、刑法百七十六条。以上の事実につき審理願います」
 裁判官は、黙秘権を告知してから尋ねた。
「検察官が読み上げた事実の中で、どこか間違っているところはありますか?」
「私は……」
 父親の声は震えていた。僕の両手も震えていた。
「そんなことはしていません。本当に、身に覚えがないんです」
 無罪主張が、虚しく響き渡った。


   藍碧のカラス

     1

 ふとした瞬間に、大学時代の記憶が呼び起こされることがある。
 たとえば、バイト先のファミレスでの会話。
 ──宇久井くん。カラスのパラドックスって知ってる?
 大学で心理学を学んでいた女性の先輩スタッフは、習得した知識や雑学を休憩時間の度に僕に披露して反応を愉しんでいた。
 知りません、と首を左右に振れば、
 ──『すべてのカラスは黒い』の対偶は何でしょう。
 大学受験の記憶を呼び起こして、『すべての黒くないものはカラスではない?』と答えた。今ならまず、対偶の意味を訊き返すだろう。
 ──ほらね、不思議でしょ。
 よくわからないまま、そうですね、と相槌を打てば、
 ──カラスを調べなくても、カラスが黒いことは証明できちゃうんだよ。この世界にある黒くないものを大集結させれば、そこで答えが明らかになるわけ。
 休憩室には雑多な『黒くないもの』が置かれていたが、その中にカラスはいなかった。
 ──それこそが、カラスのパラドックスなの。
 先輩の付け焼き刃の説明では、どこに矛盾が生じているのかわからなかった。
『黒くないもの』の定義が曖昧なこと、仮に定義できても、当てはまるものを調べ尽くすのは不可能に近いこと……、その辺りがポイントであったはずだ。
 ただ、カラスのパラドックスという響きは、印象的で記憶に残った。
 その話題が終了したのは、僕が理解を示したからではなく、
「そういや、関西で白いカラスが保護されたよな」と店長が指摘したからだった。ネットで検索するとすぐに記事が見つかり、他の場所でも保護されていることがわかった。
 白いカラスの画像を見て盛り上がっていると、先輩は唇を尖らせて休憩室を出ていった。次は催眠術の実験台にするから覚悟しておいて、と謎の宣言を残して。
 今でも時折り思い出すのは、バイト先で何か事件が起きたとか、その先輩に密かに想いを寄せていたとか、そんなことではない。
 僕自身が黒いカラスの仲間入りをしたからか。
 あるいは──、

 革張りの椅子に背中を預けて、目を瞑っていた。
 静寂に包まれた法廷で入室者を待っている時間が、僕は好きだ。
 誰が最初に法廷に入り、誰が最後に法廷を出ていくのか。法曹関係者や傍聴マニアは答えを知っていても、裁判所書記官という職種に聞き覚えがない者は多いだろう。
 書記官が羽織る法服は、黒衣に徹する衣装でもある。
 裁判が始まる数十分前に書記官が開錠するまで、法廷は固く閉ざされている。事件記録とノートパソコンを抱えて法壇に通じる専用廊下を通り、法廷の照明と開廷ランプを点灯させる。傍聴席側の扉も開錠して機器のセッティングを終えれば、開廷の準備が整う。
 あとは、耳を澄ましながら一休み。
 風呂敷を携えた上出副検事がのそりと入ってきたので、座ったまま頭を下げた。風呂敷の中には、これから裁判が始まる事件の起訴状や、裁判所に提出する予定の証拠が入っている。多くの検事が風呂敷を愛用していて、見た目以上に使い勝手がいいらしい。
 検察官席に座った上出武志は、額の汗をハンカチで拭いながら話しかけてきた。
「相変わらず眠そうだな。ウグイス書記官」
「上出さんは、今日も元気ですね」
 宇久井傑だから、ウグイス。強引なこじつけだ。
「外、めちゃくちゃ暑いぜ。ちょっと歩いたら汗だく」
「お疲れ様です」
「その法服も拷問だよな。クールビズ用の半袖仕様を作ればいいのに」
 上出は、第二ボタンまで開けたシャツの首元をつまんで、パタパタと上げ下げした。シャツの上からでもわかるくらい、引き締まった身体つきをしている。
「厳粛さが損なわれるって苦情が来ますよ」
「熱中症で倒れる方がまずいだろ」
「それなら、素肌に法服スタイルを許してくれませんかね」
「はは。どこの露出狂だ」
 豪快に笑う上出は、五年ほど前まで、僕と同じ書記官として裁判所で働いていた。副検事選考試験──司法試験を経ずに検察官の職務に従事するための試験──に合格して検察庁の人間になった。裁判所と検察庁のどちらの内部事情にも精通している、珍しい存在だ。
 四十代後半らしいので、僕より二回り近く年上である。
「法服を着ていると、真夏のカラスの大変さが実感できます」
「ああ。確かに、カラスっぽさはあるよな。俺は、ゴミ袋って呼んでたけど」
 ポリエステル製の生地で、袖付きのマントに似た形状。羽織って正面をボタンで留めれば脛辺りまで隠れるから、黒いゴミ袋を被っているように見えなくもない。
「神聖な制服なのに」
「カラスも、たいして変わらないと思うが」
「神の使いって伝承が残っているくらいですから」
「裁判官が神様ってわけか」
「まあ、あの人たちも法服を着てますけど」
「カラス界のヒエラルキーだな」
 傍聴人が入ってきたため、机を挟んでの会話は打ち切った。更生保護施設のボランティアが十人くらいで見学に来る予定だと、事前に総務課から教えられていた。裁判の公開は憲法上の要請なので、傍聴を拒む余地はない。
 時計を見ると、開廷まで十分ほど時間が残っていた。上出は、ずいぶん早く入廷したことになる。さっきの雑談は前置きだったのかもしれない。そんなことを考えながら手元の書類を並べ替えていたら、上出が近づいてきた。
「なあ、宇久井書記官」
「どうしたんです? 改まって」
 声を潜めて、「今日の事件のことなんだけどさ……」
「万引き窃盗ですよね」
 起訴状を見て答える。正確には、もう少し厄介な罪名だが。
「烏間さん、何か言ってなかった?」
 担当裁判官である烏間信司の名前を上出は口にした。
「何かって?」
「公訴事実とか、被告人のこと」
 起訴状からは二つの情報が読み取れる。一つは、誰が起訴されたのかを明らかにするための情報で、氏名、生年月日、住居、本籍、職業が記載されている。もう一つは、審理の対象を明確にするための情報で、これを公訴事実と呼ぶ。
 裏を返せば、この二つの情報しか起訴状に記載されていない。
 被告人が犯人と特定された理由や、事件が起きた経緯を裁判官が知るのは、公判期日──すなわち、法廷で刑事裁判が始まったあとだ。それまでは、熱心にニュースを追いかけている視聴者の方が、裁判官より詳細な事情を把握していても不思議ではない。
「まだ証拠も見てないんだから、疑問を持つ段階じゃないですよ」
 裁判官が裁判の審理を通じて抱く認識を〝心証〟と呼ぶ。心証の積み重ねによって当事者の主張の当否を判断するのが、裁判のあるべき姿だ。
「万引きおばちゃん、前回も南陽地裁で有罪をくらってるんだ」
「担当が烏間部長だったんですか?」
「いや。違うけどさ……」
 言葉を濁した上出を見て、懸念事項があるんだろうなと察した。
「珍しく弱気ですね」
 万引きおばちゃんこと仁保雅子は、約一ヵ月前に起訴された。
 起訴状を受理したからといって、直ちに裁判が開かれるわけではない。起訴後、書記官は関係者の連絡調整を行い、検察官は提出する証拠の精査を進め、弁護人は被告人との接見を通じて弁護方針を固め、第一回公判期日を迎える。
 その間、裁判官が事件の情報に接する機会は、起訴状を確認する際しかない。予断や先入観を排除するために、新聞にすら目を通さない裁判官もいるらしい。
「まあ、出たとこ勝負だわな」
 上出は、刑事訴訟の大前提を理解した上で、裁判官の感触を確かめようとしている。
「……荒れるかもしれないんですか?」
「カラスが囀らなかったら、問題なく終わる」
「脅かさないでくださいよ」
 烏間信司は、一部の人間に〝カラス〟と呼ばれている。そこにはおそらく、名前だけではなくさまざまな意味が含まれている。法服の色合いも、その一つだろう。
「書記官は、まだいいじゃないか。俺なんか、胃に穴が空きそうだよ」
「何も起きないことを祈ってます」
「祈るだけじゃなくて、説得してほしいくらいだ」
 いつの間にか、弁護人席に泊川弁護士が座っていた。公平中立であるべき裁判所の職員が検察官と過度に打ち解けるのはいかがなものかと、意見交換会でベテラン弁護士から嫌味を言われたことがある。
 開廷の時刻が近づいてきたので、刑務官が待機する部屋に内線をかけて、被告人を法廷に連れてくるよう頼んだ。
 検察官席に戻った上出は、眉間にしわを寄せて、書類を睨んでいる。起訴状を読む限り、ありふれた万引き事件という印象しか受けない。何を心配しているのだろう。
 カラスの囀り……。久しぶりに、その言葉を聞いた。
 烏間の裁判で波乱が起きることは珍しくない。手続の正確な記録も書記官の仕事なので、イレギュラーが生じると非常に困る。死活問題といってもいい。
 刑務官が、被告人を連れて入ってきた。
 検察官、弁護人、被告人。あとは裁判官が姿を現せば期日が始まる。
 願わくば、つつがなく閉廷を迎えられますように。

     2

『烏間裁判官の法廷にはドラマ性があるが、ルール軽視の訴訟指揮はいかがなものか』
 一ヵ月ほど前──。そんな問題提起から始まる記事が、有名な傍聴ブログに掲載された。どの事件を傍聴したのかは伏せた上で、手続の進め方についての烏間の発言を抜粋しながら批判的な検討が加えられていた。
 裁判の流れが事細かに言及されており、刑事訴訟法や刑事訴訟規則の条文を確認するだけでも一苦労だっただろう。
 ただ、烏間が刑事裁判のルールを軽視しているのかについては、何件も事件を共にしてきた書記官として首を傾げざるを得ない。
 ルールを守りながら、抜け道を探している。
 おそらく、これが適切な分析だ。
 書記官席は、法壇の正面に位置している。背後の扉が開く音がしたので、関係者の動きに合わせて立ち上がり礼をした。裁判官が入廷すると、法廷の空気が緊張感を帯びる。
 全員が着席したのを確認してから、事件記録を法壇に上げた。
 南陽地裁刑事部の部総括である烏間信司は、白髪が交ざった頭髪と、彫りの深い端整な顔立ちが目を引く。法服を着ているとなおさら頭髪の灰色が際立ち、法壇に座るだけで絵になるし、独特な雰囲気が醸し出される。
「傍聴人、結構集まってるね」烏間が低い声で呟いた。
 裁判員裁判や大きく報道された事件でもない限り、傍聴席はまばらにしか埋まらないし、ありふれた窃盗事件や薬物事件なら、傍聴人がゼロの場合も多い。
「前に報告した、更生保護施設のボランティアです。気になりますか?」
「いや、被告人が威圧されなければいいけど」
「弁護人には伝えてあります」
「問題は、弁護人が被告人に伝えているか」
 刑務官に手錠を外されながら、被告人は傍聴席に視線を向けていた。ぼさぼさの髪、鼠色のトレーナーとスウェットパンツ、かさついた唇は病人のようだ。
 傍聴席側の壁に設置されている掛け時計を見てから、烏間は開廷を告げた。
「開廷します。被告人は、私の正面にある演台の辺りに立ってください」
 被告人は、烏間の発言に反応して顔を上げた。
「証言台のことですか?」
「そうです。よくご存じですね」
「何度も来ている場所ですから。あっ……、余計なことを言ってすみません」
 口元に手を当てて、被告人は頭を下げた。
「あなたの話を聞くための裁判でもあるので、遠慮せず自由に喋ってください」
「そうなんですか?」
「本当は、きちんと名前で呼びたいのですが。まだ人定質問が済んでいないので、もう少しだけ名無しの被告人でいてください」
「はあ……」
 困惑した表情を浮かべながら、被告人は証言台に近づいた。
 この時点で、烏間の訴訟指揮の特殊性が現れている。多くの裁判官は、「被告人は証言台の前に立ってください」と短く指示を出すに留まる。証言台の場所がわからなければ、弁護人や書記官が案内する。被告人の発言も、必要最小限のものしか許容しない。
「団体の傍聴人がいますが、緊張していませんか?」
「はい、大丈夫です」
 正面から見ると、胸から下が証言台に隠れてしまうくらい被告人は小柄だった。
「人違いがないか確認していきます。お名前は?」
「仁保雅子です」
「生年月日は、いつですか?」
「昭和──」
 続けて、住居、本籍、職業を、起訴状と照らし合わせながら確認していく。仁保雅子は、四十五歳で、更生保護施設に住む無職の女性であることが明らかになった。
 通常は、このまま検察官が起訴状を朗読する手続に移る。
「人定質問は以上です。ようやく、あなたを仁保さんと呼べます」
 背後に座る烏間は、微笑を浮かべているはずだ。
「これから、仁保さんに対する常習累犯窃盗被告事件の審理を行っていきます。まず初めにこの法廷にいる関係者について説明するので聞いてください。私は裁判官の烏間信司です。検察官や弁護人の主張を聞いたり、採用された証拠を見たりして、あなたが罪を犯したのかや、有罪であるとすれば、どういった刑を科すのが相当かを判断します。次に、あなたから見て左側にいるのが──」
 検察官、弁護人の役割を紹介してから、「私の前に座っている彼は、手続の流れや当事者の発言を記録しています」と書記官の説明まで烏間は口にした。
「何か、質問はありますか?」
「いえ……。ご丁寧にありがとうございます」
 前科があるからこそ、これまで経験した裁判との違いに戸惑っているのだろう。
「前置きはこれくらいにして、検察官に起訴状を朗読してもらいます。そのまま聞いていてください。それでは、お願いします」
 立ち上がった上出は、「公訴事実──」と切り出した。
「被告人は、平成二十七年十月八日、南陽簡易裁判所において窃盗罪により懲役十月に、平成二十九年十一月七日、南陽簡易裁判所において窃盗罪により懲役一年に、令和元年五月九日、南陽地方裁判所において窃盗罪により懲役二年にそれぞれ処せられ、いずれもその頃、前記各刑の執行を受けたものであるが、さらに常習として、令和三年七月十五日、南陽市時田町二丁目十八番地所在の株式会社ロメイン二階売り場において、同会社代表取締役、木野達郎管理のネックレス等四点、販売価格合計三万四百円を窃取したものである。
 罪名及び罰条、常習累犯窃盗。盗犯等の防止及び処分に関する法律三条、二条、刑法二百三十五条」
 抑揚のない口調で、上出は起訴状を読み上げた。
「ずいぶん早口ですね」
 烏間の指摘に、「問題がありますか」と上出は返した。
「誰に向けた起訴状朗読なのか考えたことは?」
「この裁判で審理する対象を明らかにするためです」
「そうですか」
 答えになっていない気がしたが、烏間もそれ以上は追及しなかった。
「仁保さん。わかりにくいところはなかったですか?」
「大丈夫です」
「では、黙秘権という権利があることはご存じですか?」
「言いたくないことは言わなくていい……」
「はい。最初から最後まで黙っていても構いませんし、特定の質問にだけ答えて他の質問には黙っていることもできます。ただ、質問に答えた場合には、その答えが仁保さんにとって有利になるか不利になるかを問わず、証拠になります。証拠になるというのは、判断の資料になるということです。答えるかどうかは、よく考えてから判断してください」
「わかりました」
 烏間は、小さく咳払いをした。
「それでは、検察官が読み上げた事実についてお訊きします。まず、常習累犯窃盗という、非常にわかりにくい名称の罪については理解していますか?」
「何度も万引きを繰り返したので、重く罰すると……」
「そうですね。一定の期間内に窃盗罪による服役を三回以上経験した人が、さらに窃盗行為に及ぶと、常習累犯窃盗として重い刑罰を科されます」
「はあ」
 窃盗罪の法定刑は一月以上十年以下だが、常習累犯窃盗罪の法定刑は三年以上二十年以下と、懲役刑の下限と上限が一気に跳ね上がる。
 窃盗罪のポイントを三つ貯めると、四回目は特典で重く罰せられる。ただし、ポイントには有効期限がある。そんな変わった制度だ。
「検察官が前科について述べたのは、その要件との兼ね合いです。とはいえ、今回の裁判で審理するのはアクセサリーの窃盗に限られるので、難しく考える必要はありません」
 法律用語は、とにかく回りくどい。殿堂入り窃盗罪、窃盗中毒罪、繰り返し窃盗罪……。常習累犯窃盗罪も、その辺りの罪名に変更してしまえばいいのに。
 説明を終えた烏間は、仁保に尋ねた。
「それを踏まえて、先ほどの事実の中で、どこか間違っているところや訂正したいところはありますか?」
「ネックレスや指輪を、店から持ち出したことは間違いないのですが……」
 泊川弁護士の方を見てから、仁保は続けた。
「それが欲しかったわけではなく、刑務所に入るために持ち出してしまいました」
「なるほど。弁護人のご意見は?」
 恰幅のいい泊川佑志は、机に手をついて答えた。
「被告人と同様です。公訴事実記載の日時及び場所において、被告人がネックレス等を店から持ち出したことは争いませんが、それは刑務所に入るための行動であり、被告人には不法領得の意思が認められないため、無罪を主張します」
 不法領得の意思……。これも回りくどい法律用語シリーズの一つだ。
 窃盗罪は、財産権の不当な侵害を処罰する犯罪だ。そして、窃盗罪が成立するには、財物から経済的な利益を得ようとする意思──不法領得の意思──が必要だと理解されており、今回の事件では、その要件を欠いているという主張である。
「検察官。今日は、どこまで進められますか?」
「同意書証の取調べまで、お願いします」
 刑事裁判の進行は、認め事件か否認事件かによって大きく変わる。
 被告人が罪を認めている認め事件の場合は、初回の公判期日で実質的な審理をすべて終わらせて、次回で判決宣告という流れをたどることが多い。一方、否認事件では、争う範囲や内容によってレールが分岐していく。
「弁護人も、そういった進行でよろしいでしょうか?」
 今回は否認事件なので、どのレールを選ぶべきか烏間は見極めようとしている。
「はい、結構です」
「それでは、仁保さんは弁護人の前の席に戻ってください」
 傍聴席を見ると、小声で話している者や、首を傾げている者がいた。
 被告人の主張がどうして無罪に結びつくのか、疑問に思っているのかもしれない。店から商品を持ち出した事実は争わないが、刑務所に入ることが目的だった──。
 この先は法律の解釈論になる。裁判は大学の講義とは異なるので、烏間も傍聴人に対して法解釈を一から説明したりはしない。
「次に、証拠調べの手続に移ります。まず、検察官に冒頭陳述をしていただきます。これは、どういった証拠や事実に基づいて有罪の結論を導くのか……、そのストーリーを述べてもらう手続です。仁保さんも、よく聞いていてください」
「わかりました」
「検察官、お願いします」
「はい」再び、上出が立ち上がる。
「被告人は、南陽市内で出生し、高校を卒業後、サービス業や製造業等の職を転々としていました。婚姻歴がありますが、夫とは死別しており、犯行時は居住地で暮らしていました。起訴状に記載した前科三犯の他、同種前科二犯、同種前歴二件を有しています」
 想像していたよりも前科前歴が多く、少し驚いた。
 前歴とは、逮捕されたが、検察官が起訴しなかった場合につく。万引きの場合、一度目は警察での厳重注意、さらに行えば検察に送致されて「次はないぞ」と最終通告を受ける。起訴猶予という形で前歴がつくのは、この段階だ。それでも改心せずに繰り返すと、満を持して起訴に至る──。
 このような形で、厳重注意、起訴猶予、起訴と、処分がレベルアップしていくことが多い。つまり、起訴された万引き事件は、それだけで常習的な犯行だと予測できてしまう。
「前刑の服役が終了した後、被告人は更生保護施設で生活していましたが、わずか三ヵ月で本件犯行に及びました。動機は、日々の生活を送るのに充分な蓄えがあったにもかかわらず、所持金を減らすことを惜しんでアクセサリーを手に入れようとした。検察官としては、そのように考えています」
 着飾るためのアクセサリーを欲して、対価を支払わずに店から持ち去った。検察官が主張する動機が認定されれば、窃盗罪の成立が否定される余地はなくなる。
「ロメインは、婦人服を扱うセレクトショップで、アクセサリー類の販売も行っています。被告人は、入店後すぐに二階に上がり、アクセサリーの物色を始めました。そして、店員の隙を見計らって商品を上着のポケットに入れ、起訴状記載の犯行に及びました。被害品は、指輪、ネックレス、ブレスレット、イヤリングの計四点です。なお、その際の被告人の行動は、防犯カメラの映像に記録されています。被害品は、手に取れる状態で陳列されていて、防犯タグ等も付いていませんでした。その後、被告人が時田町交番に出頭したことで、本件犯行の各事実が明らかになりました」
 犯行態様は、かなりシンプルなものだ。防犯カメラの映像から、被告人の犯行であることが立証できると検察官は判断したのだろう。
「──以上の事実を立証するため、証拠等関係カード記載の、甲号証及び乙号証の取調べを請求します」
 再び、烏間が手続の流れを被告人に説明した。
「今、検察官が述べたストーリーが認められるかは、それを裏付ける証拠の有無によって決まります。アクセサリーの販売価格、店の名前や所在地、犯行時刻……。争いがない点は検察官が請求した書面などから認定して、争いがある点については掘り下げて調べていくわけです。ですので、まず弁護人に請求証拠に対する意見をうかがいます」
「証拠意見書を提出します」泊川が立ち上がって発言した。
 今回の事件では、アクセサリーを店外に持ち出したところまでは争いがないため、多くの証拠に同意の意見が述べられた。不同意とされたのは、被告人の弁解が記載された調書、交番で対応した警察官の調書、被告人の金銭状況に関する報告書などだった。
「同意された書証を採用するので、検察官は内容を紹介してください」
「甲一号証は──」
 被害店舗で実施した実況見分の結果、被害品の照合結果、被害届の記載内容、防犯カメラに記録されていた被告人の動きなどについて、上出は述べていく。
 書証を受け取り「今日できるのは、ここまでですかね」と烏間は確認した。
「はい」
「次回以降の進行について、ご意見はありますか?」
「被告人の認識が大きな意味を持つ事件ですので、被告人質問を先行して実施するべきだと考えます。必要であれば、そのあとに追加の立証を検討します」
 上出の発言に、「弁護人としても、その進行で構いません」泊川も同意した。
「わかりました。少し待ってもらえますか」
 紙を捲る音が、しばらく背後から聞こえてきた。烏間が書証の内容を確認しているのだ。その間、上出は腕を組んで目を瞑っていた。
「仁保さん」烏間が声をかける。
「はい」
 俯いていた仁保は、顔を上げて法壇を見た。
「一点、確認します」
 泊川がペンを手に取る。上出の目つきも険しくなっていた。
 そして、烏間は訊いた。
「仁保恵一さんが亡くなったのは、何年前のことですか?」

     3

 閉廷後、法廷には僕と烏間と、更生保護施設のボランティア八人が残った。
「先ほどの裁判は、いかがでしたか?」
 精一杯の明るい声で見学者に尋ねたが、少し待っても反応はない。
 さて、どうしたものか。
「烏間部長は、手続の説明を丁寧に行う裁判官ですが、それでも疑問に思われたやり取りがあったかもしれません。事件については一般論の範囲でしかお答えできませんが、この機会にぜひ質問していただければと思います」
 国民が直接参加する裁判員制度が始まって以降、日常生活とは縁遠い裁判に関心を抱かせるのが急務であるとして、裁判所はあれこれ手を尽くしてきた。
 制度自体は、パンフレットや映像を通じて周知できる。けれど、聞き慣れない法律用語と同じくらい、手続を主宰する裁判官はなじみがない存在だった。そこで、裁判官が受け答えする機会が増やされ、今回のような傍聴後の質問会も実施されるようになった。
 ──宇久井くん。総務課も手一杯だから、うまいことお願いするよ。
 事前に申請があった場合に限られるので頻繁に開かれはしないものの、慣れない進行役を担わされることになり、今日は朝から気が重かった。
「よろしいでしょうか」茶色いフレームの眼鏡をかけた女性が手を挙げた。
「はい、どうぞ」
「刑務所に入るためにアクセサリーを盗んだと被告人は言っていましたが、その主張が認められると、彼女は無罪になるのでしょうか?」
 弁護人は、不法領得の意思が欠けることを理由に無罪を主張した。刑法を学んでいなければ、ぴんと来なくても仕方がない。
「無罪というと、真犯人が別にいるようなケースを想定する方が多いです」
 烏間が答えた。手続に関する質問は書記官である僕が、法律論や裁判官への質問は烏間が担当する。そうあらかじめ決めておいた。
「店から商品を持ち出したことは認めていましたよね」女性は首を傾げる。
「あなたの左手首に巻かれている腕時計を、私がこっそり外して持ち出したとしましょう。転売するための行為だったとすると、何罪が成立すると思いますか?」
「……窃盗罪、ですよね」
「正解です。では、トイレに流すために持ち去ったとしたら?」
 口元を緩めた見学者が何人かいたが、おそらく烏間に冗談を言った自覚はない。
「それも、窃盗だと思うんですけど……」
「この場合は、器物損壊罪が成立すると考えられています」
「ああ。聞いたことがあります」
「器物損壊は、他人の物を破壊する犯罪で、窃盗よりかなり軽い刑罰が定められています。これは簡単に言えば、財物を利用する意図で行われる窃盗の方が、強い非難に値すると理解されているからです」
「へえ……。私は、トイレに流される方が嫌ですけどね。だって、転売なら取り戻せるかもしれないけど、トイレに流されたら汚物まみれなわけでしょう?」
「ちょっと、やだ。想像しちゃったじゃない」
 他の見学者から笑い声が起きた。
「それなら、壊すためだったと言い訳した方が得ってことになりませんか?」
 質問者とは別の女性が発言し、「悪知恵が働くわね」と誰かが言った。
「難しいのは、被告人の内心をどう明らかにするかです」烏間が冷静に答える。
「本人に訊くしかないんじゃないですか?」
 再び、茶色の眼鏡の女性が口を開いた。
「それだと、噓をついた人間が得する結果を招いてしまう。たとえば、持ち去った腕時計を家の天井裏に隠していたら、警察がやってきたとしましょう。これからトイレに流そうとしていたという主張は、受け入れられると思いますか?」
 考える素振りを見せながら、女性は答えた。
「実際に流していないなら、ただの言い逃れなんじゃないかしら。その機会は、いくらでもあったはずだし……」
「そうですね。では、あなたがすごい勢いで追いかけてきたので、コンビニのトイレに駆け込んで流した場合は、どうでしょう?」
 隣の者同士で話し合う声。クイズ大会のような雰囲気になってきた。
「うーん。それだと、器物損壊?」
「でも、逃げきれないと観念して、証拠隠滅を図った可能性もあるわよ」
 話し声が収まるのを待ってから、「それが、内心を明らかにして、噓を見抜く作業です」と烏間は言った。「客観的な事実を抽出して、常識や経験則を当てはめながら結論を導く。そうすれば、不合理な弁解に惑わされる可能性は低くなります」
 頷いた見学者は、「いつも、こんなことを考えているんですか?」と烏間に訊いた。
「考えるのが我々の仕事ですから」
「人間不信になりそうですね」
 その呟きに対する烏間の答えはなかった。
 疑心を抱くことに慣れていれば、人間不信に陥ることもない。
「ですので、器物損壊罪と区別するために、窃盗罪が成立するには財物が持つ利益を手に入れる意思が必要だと考えられています。当初の質問に答えますと、刑務所に入る目的で商品を持ち去った場合には、この意思が欠ける可能性が出てくるわけです」
 不法領得の意思という法律用語をかみ砕いて説明するには、烏間でもこれくらいの時間をかける必要がある。
「理解できました。ありがとうございます」
 傍聴席を見渡して、「他に質問はありますか?」と僕は訊いた。
「副代表の高橋と申します」
 手を挙げた女性に掌を向けながら、その表情に不穏な気配を感じた。
「先ほどの被告人は、私たちの施設で更生を促していました」
「お知り合いだったんですね」
 前刑の服役を終えた後は、更生保護施設で生活していたと冒頭陳述で述べていた。
「住居を提供して、仕事も紹介しようとしていたんです。それなのに、彼女はまた罪を犯した。その目的が何であろうと、商品を持ち去って迷惑をかけたのは事実です。正直、私は彼女に裏切られたと思っています」
「事件の内容についての発言は控えてください」
 烏間が制しても、副代表を名乗る女性は口を閉じなかった。
「何度も同じような犯罪を繰り返していると、検察官も言っていましたよね。窃盗癖が矯正できないなら、もっと長く刑務所に入れておくべきじゃないんですか?」
「それは意見ですか? 質問ですか?」
「裁判官の考えを聞かせてください」
「そういった事情も踏まえて刑罰を決めています」
「ですから、それでも更生しないなら」
「再犯の防止は、我々が積極的に関与すべき事柄ではありません」
「なっ……」
「私は、裁判官がなすべき役割を果たすだけです」
 嫌な予感が的中してしまった。裁判官と傍聴人が口論になったと知られたら、総務課から小言を言われそうだ。
「ご自身の役割をどう考えているんですか」
「罪を犯したかを見極めて、有罪の場合は適切な刑を決定する」
 今の説明で納得するとは思えなかったので、割って入ることにした。
「あのですね」当たり障りのない返答を捻り出す。「烏間部長が言ったように、再犯防止に繫がる矯正教育は、刑務所が所管する事項でもあるわけです」
「そんなの、責任放棄じゃない」
「ですから……、裁判所には、裁判所の役割がありまして」
「さっきの裁判も、被告人を甘やかしすぎています。黙ってる権利なんて彼女にはないんですよ。ちゃんと、自分が犯した罪と向き合わせて──」
 逆効果だったらしい。自身の人生経験を前面に押し出しながら、憲法に定められた黙秘権すら無視した持論が展開される。刑事裁判のあるべき姿。裁判官の職責。被告人の処遇。
 女性が副代表を務める施設の名称を確認したくなる。
 責任を転嫁しているのは、そちら様なのでは?
 だが、自分の身分を思い出す。ピンチを切り抜ける魔法の言葉は──、
「ご意見、賜りました」

     4

 鼻息を荒くした副代表の怒りが静まってから一同を見送り、傍聴席に忘れ物がないことを確認して、脱いだ法服を木の柵にかけた。
 証言台の椅子に座り、「苦情が出たら部長のせいですよ」と文句を言った。
 法壇は証言台よりも一メートル以上高い場所にあり、自然と見上げる恰好となる。
「爆発させたのは、宇久井くんの一言だった」
「いやいや、僕は部長の失言を取り繕おうとしてですね」
「失言?」
 背もたれに身体を預けると、椅子の前脚が浮いた。
「再犯防止は、裁判所が積極的に関与すべき事柄じゃない。言いたいことはわかりますし、正論でしょうけど、ちゃんと説明しないと誤解を招きます」
「なるほど、誤解ね」
「ただでさえ、裁判所は血が通ってない組織だと思われてるんですから」
「血が通ってる組織なんてないよ」
「比喩です」と返すと、
「じゃあ、更生保護施設の役割は?」と訊かれた。
「行き場がない社会復帰者を一時的に保護して、住居や仕事の環境調整をする。再犯防止の後方支援を担う施設です」
「そこで奉仕する人に更生の意義を説くのは、釈迦に説法だろう?」
「正しく理解していたら、あんな質問しませんよ」
 もちろん、有罪判決の宣告をもって、裁判所がお役御免になるわけではない。
 だが、刑罰の執行や矯正教育を担うのは刑務所や保護観察所の関係者で、裁判所は一定の限度で後見的に関わるにすぎない。
「最後の人は、裏切られたとも言っていたね」
「親身に接していたからこそ、逮捕されて思うところがあったのかもしれません。わざわざ傍聴しに来たくらいですし」
「起訴されただけで、まだ有罪は宣告されていない」
「無罪の可能性、ありそうなんですか?」気になっていたことを訊いた。
「宇久井くんの見解は?」
「書記官に法律論を訊かないでください」
「争点は、仁保さんが店から商品を持ち去った動機」
 烏間と傍聴人の質疑応答を聞きながら、あれこれ考えていた。
「不法領得の意思を争っても、ほとんど退けられるイメージがあります。よっぽど変な物を盗めば別でしょうけど、今回はアクセサリーですし」
「金銭的な価値も流通性も高いから、自分の物にしたり、転売する意思が推認されると」
 不法領得の意思が否定されるのは、悪戯で私物を隠した場合や、自転車や傘をごく短期間無断で借りたような場合だと記憶している。
「あとは、生活状況次第だと思います」
 被告人の資力に関する証拠も検察官から請求されたが、弁護人が不同意の意見を述べたため、採否が保留されている。
「どういう意味で?」
「懲役刑は、ご褒美じゃなくて刑罰です。多くの自由を奪われて、刑務作業まで強制される。その代わりに得られるのは、屋根付きの寝床と三食の食事だけ……。普通に考えれば、釣り合う対価じゃない。そこに魅力を感じるのは、極限まで追い詰められた人くらいです」
 刑務所で衣食住の面倒を見てもらおうなんて発想は、なかなか出てこない。
 外で雨風に晒されながら、炊き出しで飢えをしのぐ。そのような極貧の生活を送ってようやく……、といったところだろうか。
「金銭的に困窮していなかったら、万引きもしないんじゃないかな」
「手持ちのお金を減らすのを惜しんで盗む人もいます」
 貧困や節約のために盗む者もいれば、スリルを味わうためだけに盗む者もいる。つまり、万引きの動機は多岐にわたる。商品という明確な報酬が存在するからだ。お情け程度の対価しか得られない刑務所での生活とは、その点が大きく異なる。
「被告人の主張は潰せると、検察官も考えた。資力関係の報告書を証拠請求している以上、ある程度の蓄えはあった可能性が高い」
「無一文なら、報告書なんて作りませんよね」
 検察官が請求するのは、有罪のストーリーに整合する証拠がほとんどだ。
「生活が苦しくて刑務所に入りたいと考えた。そんな主張を被告人が捜査段階でしたから、検察官は裏付けをとって報告書にまとめた。夫が事故で亡くなったときに受け取った保険金がまだ残っているとか……、まあ、その辺りかな」
「ああ。だから、いつ亡くなったかを訊いたんですか?」
 烏間の唐突な問いに対して、八年前に交通事故で死亡したと仁保雅子は答えた。資力が争点になることを見越して、あらかじめ確認したのではないか。そう思ったのだ。
「いや、違うよ」
「じゃあ、何のために?」
「提出された調書に、死別した夫は刑務官だったと書かれていた」
「へえ……。あっ、そうか」刑務官の配置場所として真っ先に思い浮かぶのは、刑務所だ。「じゃあ、夫が働いていた職場に何度も受刑者として……」
「面白い繫がりだと思ってさ」
 偶然ではないとしたら、どういうことになるのだろう。
「最初に捕まったのは、いつなんですか?」
「記録上だと七年前」
 起訴には至らなくても、逮捕された事実はデータベースに登録される。
「うーん。でも、孤独を紛らわすために罪を犯す人もいますから。きっかけは夫の死だったのかもしれないけど、刑務官っていうのは無関係な気がします。関係があるとしたら……、亡霊探しとかですかね」
「オカルト的な主張を披露されるのは困る」
「もしかして、もう動機に見当が?」
「まだ何も考えてないよ」
 わからないではなく、考えていない。
 当事者の主張が出尽くすまで、裁判官は答えを出さない。それは裁判官が料理人の役割を担っているからだ。主張や証拠といった食材は、検察官や弁護人が準備する。
 どんな料理ができあがるかは、食材の質と料理人の技術の掛け合わせで決まる。
「あんなヒントまで出したのに?」
「ヒントじゃなくて釈明」
「同じことです」
 検察官の冒頭陳述を聞き、提出された証拠に目を通して、今後の展開を予想する。そこには烏間が着目すべきだと考えた視点が抜け落ちていた。だから、夫が死亡した時期を被告人に確認した。──弁護人に立証を促すために。
 上出がカラスの囀りと呼んでいたのは、当事者を誘蛾灯のように導く訴訟指揮だ。
「優秀な書記官と組めて嬉しいよ」
「今のやり取りで、褒められる要素ありました?」
「臆せず議論に応じてくれるだけで、いろいろ刺激を受けられる。部長なんて役職につくと話し相手を見つけるのも一苦労だ」
「こんな態度で話してるのがバレたら、身の程をわきまえろって叱られます」
 南陽地裁刑事部では、一人の裁判官に対して二人の書記官が割り振られている。上司部下の関係ではないと言われているが、書記官が裁判官に指示を仰ぐ機会は多い。年配の書記官と若手の裁判官が組んでも、その構図は変わらない。
「主任も首席も、期待していると言ってたよ」
「満足していないから、期待ってプレッシャーをかけるわけです」
 経験が浅い新人書記官。この時点で見放されていたら、お先真っ暗だろう。
 席を立つ素振りを見せないので、「戻らなくていいんですか?」と烏間に訊いた。
「次の記録は準備してる?」
「一応、持ってきました」
「それなら、このまま待っていよう」
 次の期日まで、まだ十五分以上ある。先ほどの事件について考えたかったが、裁判官室に戻ってくださいとは言えない。法服を手に持って、証言台を離れた。
 そこで、傍聴席の扉が勢いよく開いた。
「あっ。部長発見」
 ベージュのブラウスと、ブラウンのチェック柄スカート。真夏なのに秋のような色合いの服装で法廷に入ってきたのは、裁判官の千草藍だった。
「どうしたの? 千草くん」
「部長の事件で保釈請求が出されて、久米くんがてんやわんやです」
 久米尚人は、今年採用されたばかりの事務官だ。身体拘束の解放に繫がる保釈は、急いで処理しなければならない事務なので、烏間を探し回っていたのだろう。
「次の裁判が終わったらやるから、記録を机に置いておいて」
「了解です」
 藍は、僕が立っている柵の方へ近づいてきた。
「傑。今日の同窓会って、何時だっけ?」
「六時半」
「じゃあ、六時に一階で待ち合わせね」
 烏間の前ですべき話ではないと思ったが、細かいことを気にしない性格なので仕方ない。用事は済んだはずなのに藍は立ち去らず、木の柵を摑んで僕の足元を指さした。
「紐、ほどけてるよ」
「ほんとだ」
 右足の靴紐がほどけていたので、屈んで結び直した。顔を上げると藍は最前列の傍聴席に座っていて、「前から思ってたけど、傑の靴紐の結び方って変だよね」と言って笑った。
「そう?」
「輪っかが下側に来ちゃってるじゃん。あべこべ蝶結び」
「ほどけにくい結び方なんだよ」
「この状況で言われても、説得力ゼロだと思わない?」
「いいから、早く戻りなよ」傍聴席側の扉に顎を向けると、「今度、結び方を教えてあげるね」ようやく藍は立ち上がって、茶色がかった髪を揺らしながら法廷を出ていった。
「相変わらず、仲が良いね」
 藍の背中を見送りながら、烏間は言った。
「同級生なので」
 藍と僕は、同じ大学の法学部に通っていた。任官初日に挨拶回りをしたときには、ほぼ全員がそのことを知っていた。先に働いていた藍が言いふらしたからだ。隠すようなことではないのだが、裁判官と書記官という立場もあって、たまに気まずい思いをする。
「周りにいるのがおじさん裁判官ばかりだから、仲良くしてあげてよ」
「藍に甘いですよね」
「というか、どう接したらいいのかわからない」
 突然のカミングアウトに笑ってしまいそうになる。なるほど。そういう悩みもあるのか。椅子に座って記録を整理していたら、ふと思い出したように烏間に訊かれた。
「宇久井くんは、どうして書記官になったの?」
「ずいぶん唐突ですね」
「一緒に働き始めて半年。雑談も解禁する頃合いかなって」
 書記官に任官したのは今年の三月。新人書記官は、ベテラン裁判官と組んで指導を受けることが多く、烏間にとってはひな鳥がやってきたという認識だろう。
 けれど僕は、担当裁判官の名前を知ったとき、言葉を失うほど驚いた。
「大学生のとき、回りくどい法律には苦手意識があったんですけど、初めて傍聴した裁判で衝撃を受けて。それから、いろんな事件を傍聴するようになったんです」
「へえ……。傍聴マニアだったのか」
「意外ですか?」
「記録を読み込んでるから、法律か事件に興味があるんだろうなとは思っていた」
「最近は、法律にも興味が出てきました」
 頻繁に裁判所に足を運んで、裁判を傍聴する。〝傍聴マニア〟は、そんな物好きな人たちの呼び名だ。書記官として働いていると、常連さんの顔は自然と覚えてしまう。
「趣味が高じて仕事になったわけか」
「というより、だんだん物足りなくなって」
「物足りない?」
「傍聴席に座っていると、大事な瞬間に限って被告人の顔が見えないんです。罪状認否も、被告人質問も、証言台の前に移動させるから」
「背中しか見えない」
「はい。罪を認めて反省の言葉を口にしたり、逆に無罪主張をする被告人が、どんな表情を浮かべているか。正面から見るために、この特等席に座りたいと思いました」
 背後に座る裁判官以外の全員を、書記官は見渡すことができる。
「宇久井くんらしいというか、ユニークだね」
「面接で話したら呆れられました」
「私が面接官だったら、裁判官を勧めたかもしれない」
「能力もなければ熱意もないので。それに、同じ目線で被告人を見たかったんです」
 本音を漏らすと、烏間は興味深そうに僕を見下ろしていた。
「それで、目的は達せられた?」
「どうですかね。もう少し、経験を積ませてください」
「仕事熱心なのはいいことだ」
 証言台に立つ被告人を正面から見つめる度に、僕はいつも思う。
 あのとき、無罪主張をした父親は、どんな表情を浮かべていたのだろう。

     5

 いくつもの事件を傍聴しているうちに、法廷には序列があることに気付いた。言葉遣いや慇懃な態度から察する必要はなく、立場に応じて椅子が使い分けられている。
 裁判官は、頭の上まで背もたれがある革製の椅子に座る。検察官や弁護人の椅子も革製だが、背の部分が少し低く、革の種類も異なる。そして被告人席には、病院の待合室にあるような長椅子がぽつんと置かれている。
 法廷によって微妙な差異はあっても、この序列が入れ替わることはない。
 書記官には、検察官や弁護人と同等の椅子があてがわれる。けれど、位置が悪い。被告人を正面から観察できる特等席は、恰好の的にもなり得る。
 重罰を宣告された瞬間、反省と自責の仮面をかなぐり捨てる被告人が、稀にいるらしい。彼らが裁判官に襲い掛かろうとしたとき、両者の間にいるのが書記官だ。
 法服を羽織り直して、仁保雅子の公判期日調書をパソコンで作成していると、風呂敷を抱えた上出が速足で近づいてきた。検察官も、裁判官ごとに担当が割り振られるので、烏間、上出、僕の三人は、毎日のように法廷で顔を合わせる。
「検察庁に戻ったんですか?」
 ハンカチを額に当てている上出に訊いた。
「記録を忘れたんだ」
「ああ。お疲れ様です」
 裁判所と検察庁は徒歩で十分程度。炎天下での追加の一往復は、なかなかに災難だ。僕が傍聴後の対応で冷や汗をかいている間に、上出は日差しで汗をかいていたらしい。
「烏間さん──」法壇に座ったままの烏間に上出は声をかけた。「さっきの被告人質問、何か意味があったんですか?」
「意味を持たせるのは、検察官と弁護人の役割」
 僕の質問に答えたときより、さらに素っ気ない反応だった。被告人の有罪を立証しなければならない立場にある検察官は、裁判官の発言に敏感にならざるを得ない。
「そう思ってるなら、当事者に任せてもらえませんかね」
「有罪だと確信して起訴したんだろうから、堂々としていればいい」
「勘弁してくださいよ」
 有罪率と無罪率が拮抗していれば、上出もここまで神経質にならないだろう。
 九十九%を超える有罪率が、無罪は許されないという強迫観念を検察官に持たせ、有罪になっても仕方ないと弁護人を諦観させている。そんなことはないと否定する者もいるかもしれない。けれど、法廷の中心で裁判を眺めてきた僕の目には、そう映っている。
「終わった期日より、次の心配をするべきじゃないかな」
「この事件も、何か気になってると?」
「そうじゃなくて。ほら」
 上出の視線を追って、僕も傍聴席の出入口を見た。
 車椅子に乗せられた若い女性が、木の柵に近づいてきた。その車椅子を押しているのは、見覚えがある男性弁護士だった。
「被告人ですか?」
 腰を浮かせながら、上出に尋ねた。
「ああ。取調べのときは、あんなのには乗ってなかった」
「車椅子のまま証言台についてもらいますよ」そう確認すると、烏間は頷いた。
 裁判の進行に何らかの配慮が必要な場合は、事前に弁護人や検察官から情報を得ている。この事件は、起訴直後に保釈請求が認められて、被告人が留置施設から自宅に戻っている。保釈された後、交通事故にでも巻き込まれたのだろうか。
 だが、被告人を間近で見て、骨折とかそういう問題ではないと気付いた。
 長袖のシャツとロングスカート。肌がほとんど隠されているため、書記官席から見たときは、季節外れな恰好としか思わなかった。だが、伏せていた顔を上げた被告人と目が合い、足を止めてしまった。
 驚くほど瘦せ細っていた。浮かび上がった頰骨、尖った顎、ぎょろりと動く目。
 骨と皮──。肉が削げ落ちている。
「あの。どこに座らせればいいですか?」
 加納弁護士に訊かれて、自分の役目を思い出す。被告人は、再び顔を伏せていた。一人では歩けないほど、体力が低下しているのかもしれない。
「最初から証言台の前にお願いします。今、椅子を退かしますので」
 もともと置いてあった椅子を柵の方に寄せて、車椅子のままいられるようにした。
 被告人の体調が明らかに悪そうだったので「受け答えはできそうですか?」と加納弁護士に確認したところ、「長時間の審理は難しいかもしれません」と返された。
 加納灯は、三十代後半くらいの弁護士だ。物腰は柔らかなのだが、背が高く目つきが鋭いので面と向かって話すと威圧感を覚える。
「耐えられなそうだったら、すぐに声をかけてください」
 返答がないまま、僕は書記官席に戻る。
 烏間は、「時間になってから開廷しよう」と僕に言った。開廷時刻まであと三分ほどある。重苦しい沈黙が法廷に流れた。

【公訴事実】
 被告人は、令和三年七月十日、南陽市春日居町三丁目十五番地所在のサニー薬品春日居町店売り場において、同店店長会田勝則管理の化粧水等八点(販売価格合計一万四千円)を窃取したものである。
【罪名及び罰条】
 窃盗 刑法二百三十五条

 手元の起訴状の写しを見て気付く。
 先ほどの烏間との議論で、言及し忘れた窃盗の動機があった。
 窃盗症──クレプトマニア──という精神疾患を抱えた者による窃盗行為。識者の間でも定義が分かれているようだが、経済的な利得を得ることが主たる目的ではなく、窃盗自体の衝動を制御できず、反復的に実行してしまう症状と理解されている。
 そして、女性の対象患者の半数近くに摂食障害の合併が認められ、特に若年層はその傾向が強いらしい。一般的には摂食障害には拒食タイプと過食タイプがあり、両者は必ずしも相反する症状ではなく、拒食期から過食期に移行することもある……。
 書記官の養成課程での研修中、クレプトマニアの治療を数多く行ってきた専門家の講義を受ける機会があった。興味深かったのは、この分野の第一人者である医師でさえ、摂食障害とクレプトマニアが合併しやすい明確な理由はわからないと述べたことだった。
「それでは、開廷しましょうか」
 背後から聞こえてきた烏間の声に反応して、僕は視線を上げた。
「体調は大丈夫ですか?」
「──はい」
 俯いたまま、か細い声で被告人は答えた。
「お名前は、何と言いますか?」
「篠原、凜です」
 誰かが立ち上がれば、声が搔き消されるのではないか。それくらいの声量だった。
 市内在住、年齢は二十三歳、職業は無職であることを確認した。
「これから、篠原さんに対する窃盗被告事件の審理を行っていきます。その具体的な内容が書かれた、起訴状の謄本というものは受け取っていますか?」
「はい」
「検察官が起訴状を朗読するので、そのまま聞いていてください」
 関係者の役割についての説明が省略された。被告人の体調に配慮して、審理時間を短縮しようとしているのかもしれない。
 目を通したばかりの起訴状の文言を、立ち上がった上出が読み上げていく。先ほどの仁保の事件の公訴事実に比べれば格段に短い。
「宇久井くん」烏間に呼ばれ、驚いて振り返る。
「被告人、まずいかも」
 確認を求めているのだと気付き、立ち上がる。俯いているだけのように見えたが、証言台に近づくと篠原凜の荒い呼吸が聞こえてきた。起訴状の朗読も、途中で打ち切られた。
「篠原さん?」
「ごめんなさい」
「えっ」
「──ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
 謝罪の言葉。僕に向けられたものではない。膝の辺りを見つめて、呟き続けている。
 法壇に視線を向ける。烏間のところまで声は届いたはずだ。
「私の声が聞こえていますか? 篠原凜さん」
 烏間が呼びかけるが、反応はない。
「弁護人。篠原さんの容態は?」
 加納弁護士は、「ここ数日、不安定な状態ではありましたが──」と言葉を濁らせた。
「検察官。何か把握していますか?」
「捜査段階では服薬や通院の事実は知らされていませんし、取調べでの受け答えにも支障はありませんでした。保釈後の状態については把握していません」
 立ち上がったまま、上出は答えた。警察や検察の落ち度ではないと弁明するように。
「とはいえ、このまま続けるわけにはいきませんよね」
「……はい」
 烏間の決断は早かった。
「わかりました。今日の審理はここまでとして、次回期日は追って指定します。どのように進めていくのか、後日話し合いましょう。救急車を呼ぶ必要はありますか?」
 誰も答えないので、「弁護人に訊いています」と烏間は付け足した。
「そこまでは必要ないと思いますが」
「でしたら、責任を持って病院に連れていってください。いいですね」
 車椅子の傍で屈んだ加納は、被告人の耳元で何か囁いてから、「診察の結果は、後ほどお知らせします」と立ち上がりながら言った。
 法廷の障害物にぶつからずに通路まで出られるよう、車椅子を誘導した。その間、篠原凜は一言も発しなかった。
 エレベーターまで見届けてから戻ると、上出が烏間に事情を説明していた。
「瘦せ細ってはいました。でも、あの手の被告人じゃ珍しいことじゃない。そうですよね? 通常の留置施設で勾留していましたが、自力で歩けていました」
「車椅子も、取り乱したのも演技。そう言いたいわけ?」
 烏間が訊くと、上出は頷いた。
「今後の立証を見越した、弁護人の指示かもしれません」
「弁護人がいない場で先入観を植え付けようとするのは、あまり感心しないね」
「そういうわけじゃ……」
「主張は法廷で聞くから、弁護人と情報共有をしておいて」
 篠原凜の裁判は、十分もかからずに終わってしまった。開廷前に預かっていた証拠調べの手続で使う書面を上出に返したら、不服そうに受け取られた。
 一番上の書面には、被告人の略歴が書かれている。篠原凜は、一年前に窃盗罪で執行猶予判決を受けており、今回の事件はその猶予期間が満了する前の犯行が起訴された。
「執行猶予中の再犯なんですね」
「ああ」上出は書面を風呂敷に包みながら、「今回の裁判で有罪をくらえば、ほぼ間違いなく執行猶予が取り消される。刑務所行きを免れるためなら、あれくらいのパフォーマンスはするだろうさ」と続けた。
 実刑判決を回避する唯一の方法は、被告人の汲むべき事情を主張して、再度の執行猶予を求めることだ。だが、再犯に及んでいる以上、更生のチャンスを棒に振ったと判断されても致し方なく、再度の執行猶予はなかなか認められない。
「同情を誘うための演技には見えませんでした」
 精神的に不安定な状態をアピールしたと、上出は疑っている。
「副検事になって一番驚いたのは、被告人は裁判官の前では違う顔を見せるってことだよ。表の顔しか見てない書記官には、わからないかもしれないけど」
 上出は、風呂敷を持ち上げて法廷を出ていった。僕たちが見ているのは、検察官や弁護人が切り取った被告人の一面にすぎない。どちらが表の顔なのか……。
「宇久井くん。記録返すよ」
 烏間の声に反応して顔を上げる。傍聴席には誰も座っていない。
「いろいろありましたね」
「無罪主張と、期日の延期……。ベテランの書記官でも連続で経験した人はいないと思う。勉強になっただろう。運がいいね」
「嬉しくありません」
「どう調書にまとめるのか迷ったら相談して」
「はい。とりあえず作ってみます」
「じゃあ、あとはよろしく」
 木製の扉が軋む音がする。静寂を保つことが求められている空間だからか、些細な物音でも必要以上に響く。振り返ると、そこにまだ烏間が立っていて驚いた。
「忘れ物ですか?」
「ああ、いや。仁保さんの次回期日って、いつにしたか覚えてる?」
 メモを見て「九月八日です」と伝える。烏間は、礼を言ってから扉を閉めた。
 椅子に座って、高い天井を見上げる。
 南陽地裁の法廷の照明には、ステンドグラスパネルがはめ込まれている。リーフ模様で、青や緑を基調とした淡い色合い。他の照明を消してカーテンを閉めると、ステンドグラスの影が天井から落ちる。
 庁舎を紹介するホームページでは、『藍碧法廷』と洒落た名称がつけられていて、それを知った藍に「私の法廷なんだよ」と自慢されたことがある。
 今日は、先ほどの二件以外に事件は入っていない。空いた時間で立ち会った裁判の調書を作成したり、明日以降の事件の準備をする。その繰り返しで手続を進行させて、判決宣告という刑事裁判のゴールを目指す。新しい事件が次々と起訴されるので、コンスタントに処理していかないと身動きが取れなくなる。
 仁保雅子も、篠原凜も、今後数年の人生が烏間の判断で決まる。刑務所に収容されるか、社会に戻ることができるか──。両者の違いは大きい。
 書記官になって、半年。何十件もの事件を抱えて忙しさに追われているうちに、緊張感が薄れてきていることに気付いた。所詮は他人事だと最後は割り切らないと、心が持たない。任官当初に上司から言われたその言葉を、僕は都合よく解釈していた。
 けれど、烏間は違う。
 人生の重大な局面に関わっていることを自覚して、一つ一つの事件に向き合っている。烏間に良い印象を抱いていない検察官や弁護人は、おそらく多くいる。上出も、担当裁判官の外れくじを引いたと愚痴をこぼしていた。だがそれは、被告人の適切な処遇を最優先に考えて、自身にも他者にも妥協を許さないからだ。
 その結果たどり着いたのが現在の訴訟指揮ならば、少しくらい調書の記載が煩雑になるのは受け入れようと思える。もちろん、物事には限度があることを前提に。
 傍聴人の出入口と当事者の出入口を施錠した。
 機材の電源を切って、事件記録の上にノートパソコンを載せて持ち上げる。
 がらんどうの法廷。
 どうして、こんなに心が落ち着かないのだろうか。いつもは心地よく感じる法廷の静寂が何かを訴えかけてくる。いや……、わかっている。
 仁保雅子が無罪主張をしたからだ。重なった。あのときの父親の背中と。
 ──本当に、身に覚えがないんです。
 罪状認否において、あの男はそう答えた。弁護人は顔色を変えず、検察官の視線が鋭くなり、傍聴席から冷笑交じりの鼻息が聞こえた。
 誰も信じていないと悟ってしまった。血が繫がっている僕ですら。
 忘れられない。被告人を見下ろす裁判官の視線が。
 思わず苦笑する。無罪主張を引きずるなんて、書記官失格だ。
「さてさて、戻りますか」
 そんな独り言すら響いてしまうので、法廷での長居は禁物だ。
 法壇の扉のドアノブを捻って押したが、なぜか開かない。烏間が鍵を閉めたのだろうか。いや、そんなはずはない。まだ僕が残っているのに。
 古い法廷なので、建て付けが悪くなっているのかもしれない。腕に抱えていた荷物を机の上に置いて、もう一度扉を押した。力を入れたら、少しだけ奥に動いた。
 やはり鍵が掛かっているわけではない。烏間が立ち止まっていたのも、開き方に違和感を覚えたからだろう。それなら、忠告してくれればよかったのに。管理担当者に直してもらおう。裁判官が入廷する際に扉が開かなかったら、さすがに恰好が付かない。
 一気に開けようと思い、肩を使って体重をかける。どうして急に状態が悪くなったのか。反対側から押し返されているような手応えだ。
 だが、そこで急に抵抗がなくなった。
 扉が勢いよく開く。
 身体を止めることができず、そのまま前方に倒れ込んだ。
「うわ!」間抜けな声が出る。
 目を瞑って右手を前に伸ばし、訪れるであろう衝撃に備える。
 しかし、何も起こらない。奇妙な感覚に包みこまれる。
 温水プールに飛び込んだように。
 どこまでも沈む。
 重くて軽い。身体が等速で動き続ける。
 なんだ、これ?
 目を開こうとする。
 ダメだ。瞼がびくともしない。
 遠くから音が聞こえる。誰かに呼ばれている。
 ああ。本当に、今日はついてない。

     6

 意識を取り戻したとき、目の前には油淋鶏があった。
 複数の男女の声、食器同士がぶつかる音、頭上で流れる安っぽい音楽。やけに騒々しい。それに、僕は椅子に座っている。
「──ねえ傑、聞いてる?」
「えっ」
 藍の声。反応して顔を上げる。視線を合わせてから、妙な感じがしたので全身を眺めた。幾何学模様がちりばめられた深緑色のワンピース。青りんごの形をした両耳のピアス。
 法廷で話したときとは服装が違う。いや、それ以前に……、
「だからさあ、ユーリンチーとユーチューバーって響きが似てるよね」
「…………」
 箸でつまんだ油淋鶏。不恰好な衣は、油を吸ってしなびている。過剰な量のキャベツと、安っぽいプラスチックの食器。見覚えがある。三百八十円の学食油淋鶏。
 別の角度から、野太い声がする。
「ユーチューバーって何?」
「それ本気で言ってる? ヒカキンだよ? 木下ゆうかだよ?」
 円形のテーブルを、僕、千草藍、本橋宗二の三人で囲んでいる。大学の食堂、同じ行政法のゼミに所属する三人。そこまではいい。得体の知れないものは存在しない。
 だが、二人がここにいるのも、僕がここにいるのもおかしい。
「傑は知ってるよね、ユーチューバー」
「ああ……、うん」
 さっきまで、僕は法廷にいた。仁保雅子と篠原凜の公判期日を終えて、法廷から出ようとした。扉が開かなかったので、力いっぱい押した。そのあと、何が起きたのか。
 テーブルに肘をついた藍が首を傾げる。
「心ここにあらずだねえ」
「そんなことより、さっさと喰ってパワポ作ろうぜ」
 今よりもずっと髪が短い藍と、今よりもずっと恰幅のいい宗二。
 二人とも若い。否、若いというより、どう見ても大学生の頃の二人だ。
 そう。勢いよく扉が開いて、身体ごと突っ込んだ。受け身を取れず、顔を床に叩きつけたのだろう。そして、意識を失ったわけか。

 問い一。後頭部ではなく顔を打ち付けても、意識は失うのか。
 答え。あり得なくはないはず。
 問い二。夢は、睡眠中だけではなく失神中も見るのか。
 答え。試したことがないのでわからない。
 問い三。重傷を負って走馬灯を見ている可能性は。
 答え。人生の振り返りなら、油淋鶏の会話からスタートしないだろう。

「判例は調べたんだよな」
 宗二に訊かれて、「ばっちりだよ」と答えた。
 夢だと思う理由は他にもある。この何気ない会話を僕は覚えているのだ。ゼミの中間発表が来週に迫っている。教授に指定された行政法の判例を分析して、検討結果をプレゼン形式で発表する。グループでの僕の役割は、関連する判例の調査と分類だった。
 ポケットから出したUSBメモリを宗二に手渡した。その中に、前日まとめたエクセルのデータが保存されている。
 携帯も取り出して画面を点灯させる。生体認証機能はついていない。パスワードは……、確か「0401」。理由は、単純にエイプリルフールが好きだから。
 ロックを解除して、カレンダーアプリを起動する。
 アプリが赤く強調した〝今日〟の日付には、星印が表示されている。誰かに覗き見られても気付かれないよう、何週間も前に記号だけを打ち込んだ。
 これで確信する。僕が次にどんな行動に出るのか。
 そんなことを考えていたら、「進学組が羨ましいよ。髪色も戻さなくていいし」と宗二が銀に近い髪色の藍に悪態をつくのが聞こえた。
「あんたは、まず瘦せなさい。就活って第一印象が大事なんでしょ?」
「社会人になったら、どうせストレスでやつれるんだ。今のうちにエネルギーを蓄えておかないと損だろ」
 その予言は的中した。ベンチャー企業の営業部に採用された宗二は、毎月の販売ノルマを達成できずノイローゼになり、あっという間に十キロ以上瘦せることになる。
「ロースクールだって大変なんだよ。学費は高いし、司法試験の合格者数はどんどん減ってる。ドロドロの泥船なんだから」
「自信があるから、乗り込むんじゃないのか?」
「それは否定しない」
 一方の藍は、ロースクールでも司法試験でも優秀な成績を収めて裁判官になった。自信家である以上に努力家であり、その才覚を学部時代から発揮していた。
 スリープ状態になった携帯の画面に、眼鏡をかけた大学生の顔が映り込む。黒縁で卵形のフレームは、丸顔を強調していると不評だった。日常的にコンタクトを付けるようになったのは、裁判所で働き始めてからだ。
「傑も就活組なんだから、言い返せよ」
「いや、僕は太ってないし」
「裏切り者が」
 大学四年生の春。企業の説明会は既に始まっていて、僕も宗二と一緒に情報収集に励んでいた。この時点では、自分が公務員になるなんて想像もしていなかった。
「じゃあ、空いてる教室探すか」
 トレーを持って立ち上がった宗二が、資料作りのために移動することを提案した。そこで僕は、記憶に従って申し訳なさそうに口を開く。
「ちょっと待って」
「何だよ。もう食べ終わってるじゃん」
「これから僕たちは、ゼミの発表資料を作ろうとしているわけだよね」
「締切りがヤバいからな」
「それで事前に役割分担を決めた。僕は判例の調査と分類。宗二はパワポの叩き台の作成。藍は本番での発表。完璧なチームワークを発揮している」
「だから?」
「僕は、既に役割を果たしたんじゃないかなって」
 座ったままの藍が、「つまり、パワポ作りは二人でやるべきだと?」と口を尖らせる。
「いやいや、そんな冷徹人間じゃないから。もちろん協力するよ。でも、これからちょっと用事があるんだ。今日だけ免除してくれないかな」
「……用事って?」
 はて。ここで僕は、何と答えたのだったか。沈黙が続くと不自然に思われる。夢で禍根を残す心配は不要なので、素直に答えればいいか。
「傍聴したい事件があってさ」
 藍と宗二が顔を見合わせる。確かに、こんな直球をぶつけた記憶はない。
 だが、すぐに宗二は「ああ」と納得したような表情を浮かべた。
「刑訴か民訴のレポート課題? そんなのあったよな」
「そうそう、刑訴。傍聴して、手続の流れをまとめたレポートを提出しなくちゃいけなくて。ちょうどいい事件が、今日あるっぽいんだよ」
「なんだ。それなら了解。俺と藍で適当に進めておくよ」
 礼を述べて僕も席を立つ。藍は茶色がかった瞳で僕を見上げていた。
 返却口に食器を重ねて食堂を出る。胃がもたれそうなほど濃い味付けの油淋鶏、ぱさぱさの白米。口の中にまだ余韻が残っている。立ち並んだ自動販売機、ベンチに座る名前も知らない学生、原付バイクの走行音。すべてが現実感を伴っている。
 カレンダーアプリは、平成二十八年四月十二日を〝今日〟の日付と表示していた。
 五年前の四月。藍や宗二とゼミの発表の打ち合わせをした日。三年後期から四年前期までの変則的なカリキュラムだったから、この時期に中間発表があった。就活や院試の勉強でそれどころではないと愚痴を言い合っていた。
 すべて覚えている。
 父親の刑事裁判──。第一回公判期日が開かれた日だ。
 その男が父親であることを知ったのは、わずか三ヵ月前。警察は、送金記録という貧弱な糸を手繰り寄せて家まで来た。母が無関係だと悟った彼らは、すぐに帰った。取るに足らない確認作業と引き換えに、知りたくない血の繫がりを僕に突き付けて。
 高校生になった頃から、僕は〝父親〟という単語を意識的に口にしないようにしてきた。それが女手一つで育ててくれた母に対する礼儀のように思っていたし、生殖の仕組みを理解してもなお、父親との繫がりを受け入れたくなかった。
 警察の訪問によって、封じ込めていた存在が浮かび上がってしまった。僕や母を見捨てた人でなしと侮蔑していたが、犯罪者として立ちはだかるとは想像もしていなかった。
 無関心ではいられなくなり、事件の背景を知りたいと思った。
 正しく憎むために。
「僕、あの人の裁判を見てくるよ」
 そう伝えたときの母の表情が、いまだに忘れられない。
 怒鳴られたわけでも、泣かれたわけでもない。口を引き結んで下を向き、それから僕の目をまっすぐ見据えて、「ごめんね、傑」と、ただ一言呟いた。
 容疑を否認していたため、裁判が開かれるまでそれなりの時間がかかった。毎日のように顔を合わせていた藍や宗二にも、父親のことだけは話せなかった。動揺を悟られたくなくて明るく振る舞っていたが、飲み会や遊びの誘いは断っていた気がする。
 父親は僕のことを認識しているのか。被害者の家族と面識はあるのか……。
 憔悴しきった様子の母には、何も訊けなかった。あんな謝り方をさせてしまったんだ。僕よりもずっと、傷ついていたはずなのに。
 父親の名前が『染谷隆久』であることは、刑事と母の会話を漏れ聞いて知った。
 事件の報道は、ネットニュースや地方紙に小さな記事が載ったくらいだった。公開できる情報がほとんどなかったからだろう。この手の事件で避けなければならないのは、被害者を特定できる情報を明らかにすることだ。自宅で起きた家族間での事件なので、犯行場所はもちろん、容疑者の苗字も被害者に結びつく要素になり得る。
 そういった配慮は、報道だけではなく裁判でも徹底される。起訴された人間は名前を持たない『被告人』として、被害者は事前に定めた呼称に従って『A』と呼ばれた。
 だから僕は、いまだに彼女の名前すら知らない。




【五十嵐律人(いがらし・りつと)プロフィール】
1990年岩手県生まれ。東北大学法学部卒業。弁護士(ベリーベスト法律事務所、第一東京弁護士会)。『法廷遊戯』で第62回メフィスト賞を受賞し、デビュー。著書に、『不可逆少年』『原因において自由な物語』(以上、講談社)、『六法推理』(KADOKAWA)がある。大胆なストーリーテリングとたしかな法律知識で読者の支持を集める、ミステリー界の新星。

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