◆NO.5 信長への臣従 ~戦国朝倉家の7大 if (イフ)その2
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永禄12年(1569年)正月、義景は信長からの上洛要請を拒否します。
その結果、信長に敵視されてしまいます。
翌年から織田軍の攻撃を受け、4年後には滅亡を迎えました。
もしも足利将軍からの上洛要請であれば、義景は応じたはずです。
ところが、要請は信長からでした。
Q.もしも義景が信長の上洛要請を受け入れていたら……
これに応じることは、信長への臣従を意味したと考えられます。
後発の戦国大名である織田家への屈服は、朝倉家のプライドに関わります。
義景としても、要請拒否がただちに越前侵攻に繋がるとまでは考えておらず、見通しが甘かったようにも思います。
上洛した上で信長に面従腹背し、様子見をするという手もあったはず。
A.大河ドラマ『麒麟がくる』で、義景は副主人公格になっていたかも知れません(もういいって)。
それはともかく、少なくとも朝倉家は、もう少し長生きしたでしょう。
信長の立場からすると、浅井・朝倉連合軍に手こずることもなく、史実よりスムーズに畿内を制圧していったかもしれません。
義景はひとまず、例えば徳川家康のような立場になったでしょうか。
越前は要所で、朝倉家は名門ですので、信長にとって邪魔だとすると、最初から潰すつもりだったのかもしれません。
佐久間信盛、松永久秀など、信長の家臣や臣従した者たちの末路を考えれば、あまり世渡り上手でない義景が、家を守れたかどうか疑問もありますが、数年後の滅亡はなく、一乗谷も炎上を免れたのではないでしょうか。
一乗谷が燃え落ちず、そのまま残っていたとしたら……
朝倉家が滅びなかったら、北ノ庄城における柴田勝家とお市の悲劇も……
この辺でやめておきましょう。
『酔象の流儀 朝倉盛衰記』では、吉家が織田との融和路線を主張しますが、義景以下、家臣団が対立路線を選び、織田家との全面対決に突き進んでゆくことになります。
でも、義景が信長との対決を選んだ本当の理由は、よくわかりません。
物語では、側室の過去と関わりを持たせていますが、現実の世の中は本当にちょっとしたことで、行き違いが生じ、増幅し、取り返しのつかない事になったりしますから、意外に些細な理由だったのかもしれませんね。
