巻ノ三 妖人正雪(三)承前(四)
文字数 4,321文字
宮本武蔵、有馬喜兵衛、塚原卜伝、関口柔心、陳元贇、柳生十兵衛三厳、宍戸梅軒――
人間を捨てた外道たちが、最強の覇者を決める勝ち抜き戦でしのぎを削る!
「小説現代」の人気連載、夢枕獏さんの「真伝・寛永御前試合」が待望の再開!
最強の漢はだれか――ぜひご一読ください!
イラスト:遠藤拓人
(三)承前
この時、すでに川端十郎兵衛は片膝立ちになって、左手に刀の入った
その眼の前に、やはり片膝立ちになった金井半兵衛がいる。
奥野文雄と竹中象次郎は、腰を浮かせてはいるものの、刀に手をかけているわけではない。
胆力だけで、金井半兵衛が、三人を押さえ込んでいるのである。
もとより、奥野文雄も竹中象次郎も、燃やされた証文が偽物とわかっている。
本気で、川端十郎兵衛の
ただ、当座の金子が、幾らかなりとも手に入ればよいと考え、この
肚をくくってのことではない。
正雪は無言のままだ。
「ぬぬっ!」
と、川端十郎兵衛が唸ったところで、
「いやいや、そこまで、そこまで……」
そう言う者がいた。
丸橋忠弥であった。
忠弥は、ずずっと膝で前へ出て、
「まずは、丸く、丸くでござる。まあるくここのところは、なあ……」
穏やかな声で言った。
しかし、その穏やかさの中に凄みがある。
「金を積まれて、ただお帰りになられるというのも、武士としての矜持が立ちますまい。なあ、川端どの。こなたが本日、この張孔堂を
丸橋忠弥はそう言って、両手を持ちあげ、
「これ」
ぽんぽんと、二度ほど打ち合わせた。
「お客人に用意のものを──」
すると、ほどなく廊下を踏む足音が近づいてきて、障子戸が開いた。
道場生と思われる三人の男が、それぞれ両手に、膳を掲げ持って中に入ってくると、それを並べてゆく。
その三人が引っ込むと、すぐに別の三人がやってきて、同じように膳を並べてもどっていった。
全部で六膳、かたちはいずれも丸く、その上に、焼いた鯛、汁もの、香のものが載せられている。
さらに、全ての膳に、杯と瓶子が置かれていた。ほのかに漂ってくる香りからして、瓶子に入っているのは酒であろうと思われた。
三膳と三膳、それが向きあうかたちで並べられている。
向きあった膳の距離が、少し近いのは、瓶子を手にして伸ばせば、相手が猪口を手にして手を伸ばす──それで充分互いに酌をしあいながら、酒のやりとりができるからであろう。
焼けた魚の匂いには、まだ熱がこもっているところを思うと、つい直前までこの膳のための準備がなされていたのだろう。
「ささ、ここは丸く、丸く。そのため、この丸橋が、ほれこのように丸い膳まで用意させておきました」
しかし──
「むうむ……」
すでに立ちあがっている川端十郎兵衛は、膳を見下ろしながら低く唸っているだけだ。
「御案じめさるるな。どの膳の食べものにも、毒など入ってはおらぬ。もちろん、酒にも、器にもな──」
ここで、あえて丸橋が器と口にしたのは、酒には毒はないが、杯の方に毒が塗られていることがあるからだ。
「御心配なさるはごもっとも──」
もともと、川端十郎兵衛は、正雪に、
〝師の不伝に毒をもったのではないか〟
そういう疑いをかけている。
出された食事に毒がもってあるかもしれぬと考えるのは当然のことだ。
「御心配なれば、お客人がた、皆それぞれお好きな膳の前に、座すればよかろうと存ずるが──」
丸橋忠弥の声は、今は優しい。
「なおも御心配なれば、我らのいずれかが酒を飲んだら飲む。我々が箸をつけたものに、御自身も箸をつける。それでよかろう。さらに不安があれば、川端どのが食えと言うたものを、この丸橋が先に口にいたしまする故、それでいかがか──」
丸橋忠弥が川端十郎兵衛の顔を覗き込むと、
「失礼つかまつった」
川端十郎兵衛は、頭を下げ、自分の足元の膳の前に座し、
「毒味にはおよばぬ」
そう言って、手にしていた刀を脇に置いた。
すると、自然に竹中象次郎、奥野文雄がその左右に並んで座した。
「では、我らも──」
丸橋忠弥がうながすと、正雪が中央に座し、その左右に金井半兵衛、丸橋忠弥が座した。
正雪と川端十郎兵衛が、中央で向きあい、その左右で、金井半兵衛と竹中象次郎、丸橋忠弥と奥野文雄が向きあうこととなった。
(四)
食事が始まった。
はじめ、川端十郎兵衛たちは、動きがぎこちなかった。
箸で鯛の身をつまみ、口まで持ってゆく動作も、それを口に入れて嚙み、吞み込む動きもかたかった。
しかし、丸橋忠弥と金井半兵衛が熱心に酒をすすめるので、それを口に運んで飲むうちに、だんだんと言葉も発するようになり、途中からは笑い声まであげるようになった。
だが──
この最中、ひと言も口にせぬ男がひとりいた。
それが、由比正雪であった。
正雪は、静かに、ただ黙ってそこに端座し、丸橋忠弥と金井半兵衛に注がれた杯で二杯の酒を、数度に分けて飲んだだけであった。
食べものにも、ほとんど箸をつけなかった。
いや、食事が始まった時、ひと箸ふた箸、鯛の身をつまんで食べている。むしろ、鯛に先に箸をつけたのは正雪であったと言っていい。酒も、正雪が先に口にした。そうすることによって、主である正雪が毒味をしたことになり、川端十郎兵衛たちも、それを見てから鯛に箸をつけ、酒を飲むようになったのである。
しかし、その後正雪は、食べものも、酒も、ほとんど口に運びはしなかった。
ただ、時おり箸を鯛に伸ばす。
その動作、優雅である。
まるで、やわい小さな雪が地に触れるおりのように、すうっと箸が降りてきて、鯛の身を少量つまみ、それを口に運ぶ。それを嚙んでいるのかいないのか、見ている者にはわからない。
まさか、口の中で消化しているわけでもあるまいが、しばらくして、白い喉の中央にある喉仏がただ一度上下するところを見れば、どうやら吞み込んではいるらしい。
そして、その後、赤い唇に、あるかなしかの微かな笑みが点る。
酒を飲む時も同様だ。
吞み込んだ後、喉仏が動いて、赤い唇に、
ほ、
と笑みが点るのである。
その時以外は、ただ、何を眺めるということもなく、そこに座している。
その眼は切れ長で、鼻の両脇に、よく切れる刃物の先をあてて、左右の
肌の色は白く、唇は薄く赤い。
その正雪のたたずまい、この世のものというよりは、妖しの気配をその身に纏っている。
妖人、そう言ってもいい。
三人の相手をしているのは、丸橋忠弥と金井半兵衛だ。
特に、丸橋忠弥は賑やかだ。
「ささ、お飲みくだされ──」
と酒をすすめれば、川端十郎兵衛も、それを拒まぬようになっている。
先般、証文を焼かれた時は驚いたが、もとより偽の証文である。
欲に負けて、川端十郎兵衛と共にやってきただけだ。
三人で十両、そして、ただ酒とただ飯にありつけた。首尾は、上々と考えればいいのだ。
だから、自然に笑みも増えている。
「長い諸国行脚の旅、さぞやご難儀なされたことであろう」
酒を注ぎながら、丸橋忠弥、このようなことまで口にした。
「ささ、杯を空けられよ。なかなかいける口ではござらぬか──」
丸橋忠弥が、さらに酒を注ぐ。
それを川端十郎兵衛が飲む。
「おう、お酔いになられましたか。お足元がおぼつかのうござるよ」
酔うてはいるが、足元がおぼつかぬも何も、十郎兵衛は座しているのである。
「いや、そこまでではござらぬよ」
そう言って、十郎兵衛は、杯を干す。
「いやもう、かなり、そのお身体、揺れておりまするぞ」
「いやいや」
十郎兵衛が、杯を膳にもどし、箸をとって鯛を口に運ぶ。
その時であった。
丸橋忠弥が、ふいに腰を上げ、右足を前に出し、右手を伸ばして、それを十郎兵衛の後頭部にまわし、手前に引きよせた。それと同時に、今まさに、十郎兵衛が口に運んでいる箸の尻を、左手でおもいきり突いたのである。
十郎兵衛が右手に握った箸の先は、当然、自身の口中に向いている。その箸の尻を、右手ごと突き押されたのではたまらない。
しかも、丸橋忠弥の右手によって、頭部を引きよせられている。
箸の先は、
ずぶん、
と、十郎兵衛の喉の奥に潜り込んだ。
「おごっ!?」
と、十郎兵衛は声をあげた。
「おごごごごっ!!」
横倒しになって、口の中に潜り込んだ箸を抜こうとしたのだが、抜けなかった。
十郎兵衛の上に馬乗りになった丸橋忠弥が、さらに、箸を口の中に押し込んでいたからである。
「ほれ、十郎兵衛どの、やはりお足元がおぼつきませぬな。自らお転びになり、倒れた拍子に、箸が喉に──」
言いながら、膝で、箸の尻を突く。
「な!?」
「く!?」
奥野文雄と竹中象次郎は、立ちあがろうとしたのだが、両手を広げて、金井半兵衛がそれを制している。
「川端どのは、お転びなされたのじゃ。今、丸橋がその手当てをしておる。お騒ぎにならるるな。お静かに、お静かに。川端どのはお転びなされただけじゃ」
金井半兵衛、ふたりの顔を交互に見やり、
「これで、十両、そなたらふたりのものじゃ──」
そう言って、
「なあ」
にいっ、と凄まじい笑みを浮かべた。
川端十郎兵衛、口から夥しい血を、畳の上へこぼしている。
奥野と竹中は、これで、完全に気を制せられてしまった。
川端十郎兵衛は、張孔堂の息のかかった医師のところへ運び込まれ、奥野文雄と竹中象次郎は、そのまま、正雪の門下に加わってしまったのである。
このような噂を、大久保彦左衛門は耳にしていたのである。
(つづく)
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