「神楽坂つきみ茶屋 禁断の盃と絶品江戸レシピ」 第1章試し読み

文字数 23,665文字

第1章「禁断の盃と豆腐百珍」



 激変した翔太、いや、自らを〝玄〟と名乗った男は、物珍しそうに部屋を歩き回り、目についたものに驚きの声を上げている。

 テーブルに並んだ料理に鼻を寄せ、「こりゃすげぇ。珍しい食いもんばっかじゃねぇか」と感嘆し、電灯を見上げて「灯りが火じゃねぇ!」と叫び、身に着けたシャツを引っ張って「こんな生地の着物、見たことねぇよ!」と不思議がる。

 これはどう考えても、文明開化以前に生まれた人間のリアクションだ。

 翔太、いきなりどうしたんだ? まるで別の人格が宿ったみたいだ。

 飲んだ酒には異状がないはず。自分も飲んだから間違いない。まさか、禁断の盃を使ったからなのか……? いや、まさかそんな非科学的なことが起きるわけがない。

 もしかして翔太は、普段とは別人格が現れてしまう病だったのだろうか?

「とりあえず医者に診てもらおう。夜間病院を調べるから」

 不安で胸がつぶれそうになった剣士は、急いでスマホに手を伸ばした。

「医者? 俺はどこも悪くねぇよ。いたって元気でぃ」

 鼻の下を人差し指でこすった翔太が、その場に立ったまま大きく伸びをする。

「ああー、やっと出られた。滅法長かったなぁ。しかも夕餉時ときたもんだ。こいつはいいねぇ」

「出られた?」

「おうよ。ずっと閉じ込められてたからな」

「閉じ込められてたってなんだよ! 気味の悪いこと言わないでくれよ! やっぱ病院、いや、救急車だ!」

 剣士が再度スマホを操作しようとしたら、「うぁぁっ!」と翔太が悲鳴を上げた。

「どうしたっ?」

「頼む! それをどっかに捨ててくれっ!」

 翔太は部屋の隅を指差している。金の盃だ。

「俺はその盃でえらい目にあった。お武家様に毒見をさせられたんだ!」

「毒見……?」

 穏やかではない話だ。翔太の妄想かもしれない。

 青ざめて震える彼を見ていたら、パニクっていた頭がクリアになってきた。

 すうーっと、その場で深呼吸をする。

 自分がしっかりしないといけない。今はとりあえず、翔太に刺激を与えないようにしよう。

 剣士は金の盃を拾い上げ、古い木製の棚に仕舞った。

「これで大丈夫だ。翔太、毒見ってどういうこと?」

 なるべく落ち着いた声で話すように努力する。

 すると、彼は畳の上でどっしりと胡坐をかいた。

「何度も言わせんなよ。俺は翔太じゃなくて玄。江戸の料理人だ。小さな店だけどよ、味には自信があった。たまに、待合に料理を届けてたんだ」

〝待合〟とは、芸者遊びの場を提供する店のこと。要はお茶屋の別名だ。

 江戸時代の花街では、座敷だけを提供する〝待合〟に、〝置屋〟から芸者を呼び、〝料理屋〟から仕出し料理を届けさせていたという。待合と料理屋が一体となり、料亭として定着したのは戦後のことらしい。つきみ茶屋も、江戸時代に待合として創業した店だ。

「ある夜、待合の部屋に膳を運んで出ようとしたら、金の盃で酒を飲めって客人から言われたんだ。毒見だよ。お偉いお武家様だったから、断れるわけがねぇ。一気に飲んださ。その途端に胸が苦しくなって目の前が真っ暗になって、そのまんまぶっ倒れて……。まあ、毒で死んじまったんだな」

 あっさりと言ったが、彼の顔は青ざめている。

 死、という言葉に剣士は戦慄を覚えた。

 翔太、マジでどうしちゃったんだ。なんでこんなことに……。

 焦燥感を募らせる剣士にはお構いなしに、彼は別人のように話を続ける。

「それで俺の魂は、あの盃に閉じ込められちまったのさ」

「盃に?」

「そう。まるで長く使った物に宿る付喪神みたいにな。もうずいぶん長いこと、あの中にいた気がするねぇ。なんたって、齢二十七で死んでから、ずーっといたんだからな。たとえるなら、女子の腹の中で丸くなってる赤子って感じだ。あんまり長かったもんだから、生きてた頃の記憶が曖昧になっちまった。自分が料理人だった頃のことしか覚えてねぇ」

「もしかして、記憶障害ってやつなのかな……?」

 思わずつぶやいた剣士と、自分は玄だと言い張る男の視線が絡み合う。

「……いや、ほかにも覚えてることがあるぞ。お前さんを見てたら思い出した。お雪さんだ。お雪さんの顔だけは、今もはっきり覚えてる」

「お雪さんって?」

「置屋から呼ばれてた女芸者だよ。滅法な別嬪さんでな。三味線も踊りの腕も最高でよ。旦那衆から引っぱりだこで……俺もお雪さんにホの字だった。いつかお雪さんのために最高の膳を作るのが、俺の夢だったんだ」

 どこか遠くを見ていた翔太が、いきなり剣士の顔を覗き込んだ。

「お前さん、名前は?」

 それすら覚えていないのか! これはかなりの重症だ……。

 ますます重くなった胸を手で押さえながら、「剣士」と小声で名を教える。

「剣士かい。どうもお前さんの顔が気になる。お雪さんの面影があるんだよ。特に目元だな。ぱっちりした目がよく似てるねぇ」

 翔太の整った顔が、どんどん迫ってくる。

 近い。近いって!

 ずりずりと後ろに下がりながら、剣士は思い出していた。

「お雪って、ここの二代目女将の名前だ」

 先祖代々の名が連なる古い巻物で、見た記憶があった。「お雪は神楽坂で有名な人気芸者だったが、後に月見家の二代目と結婚した」と、今は亡き祖父からも聞いたことがある。

「なんだって? じゃあ、ここは神楽坂の待合なのかい?」

 目を剝いた相手を、剣士も凝視する。


 もしや、本当に別人の魂が乗り移ったのか?


 馴染み切っていた翔太の顔が、まったくの別人に見えてきた。

「なあ、教えておくれよ。ここは待合の〝つきみ〟なのかい?」

 翔太の真剣な眼差しは変わらない。

 こうなったら彼を玄という男だと思って、とことん話に付き合ってみよう。

 覚悟を決めて向き合った。

「そうです。今は待合じゃなくて、〝つきみ茶屋〟って名の料理屋で」

 もう潰れたんだけど、と続けようとした剣士の声は、相手の大声にかき消された。

「ってこたぁ、お前さんはお雪さんの子孫だ! そうなんだろ?」

「……そう、だと思います」

「そうか、お雪さんは月見の旦那に身請けされたのか。そいつはよかった。ちょっと残念だけど、お雪さんにとっちゃあよかったよ……」

 目頭を押さえた相手が、ふいに顔を上げた。すっと立ち上がり、両親の遺影の前に行く。ちなみに、線香やお供え物のようなものは一切置いていない。置いてあるのは、薄刃包丁の入った箱だけだ。

「このふたりは誰なんだい? こっちは包丁の箱だな。なんでここにあるんだい?」

 翔太なら知っていて当然のことを、天才俳優ばりに自然な態度で訊ねてくる。だが、今は仕方がない。話に付き合うと決めたのだから。

「……両親です。もう亡くなりましたけど。包丁は父の形見です」

「お前さんのお父っつぁんも料理人だったんだな?」

「ええ、店の六代目でした」

「じゃあ、お雪さんの子孫だな。ありがたいねぇ。お雪さんの血を残してくれて。……なあ剣士、姉妹はいねぇのかい?」

「いません。ひとりっ子なんで」

 ……って、翔太なら当然知ってるだろ! 早く正気に戻ってくれよ!

 内心でツッコんでみたが、彼は「残念だねぇ……」と頭を垂れる。

「女ならもっとお雪さんと似てたかもしれないのに。まあ、お前さんだけでも生まれてくれてよかったよ。親御さんに感謝しないとな」

 南無南無と言いながら、翔太は遺影に向かって手を神妙に合わせる。

 しかし次の瞬間、くるりと振り返って剣士に叫んだ。

「おい、俺が死んでからどのくらい経ったんだっ?」

 んなこと知るか! と叫びそうになったが、あまりに真剣な眼差し、しかも大事な友である翔太の顔で言われたので、つい答えてしまった。

「ここは創業から百七十年以上続いていた店です。あなたがお雪さんを知ってるってことは、少なくとも百七十年くらいは経ってると思われます」

「……そりゃあ大変だ。とんでもねぇ未来じゃねぇか。俺は百七十年も封印されてたのかよ……」

 茫然とする相手を前に、剣士は考えていた。

 お雪と懇意にしていたというこの男は、本当に翔太ではなく、江戸時代の末期に生きた料理人なのかもしれない。

 なぜなら、先祖のお雪の話など、翔太にしたことがなかったからだ。

 限りなくトンデモな話なのだが、剣士は彼の言葉を信じつつあった。

「あなた、本当に翔太じゃないんですね?」

「だから玄だって言ってるじゃねぇか。玄米の玄」

「なんで盃から出られたんですか?」

「その盃をたった今、使ったやつがいたからさ。だから俺は、そいつに乗り移ったってわけだ」

「乗り移った……?」

 ショックで剣士の身体が硬直した。

 初めは心の病かと思ったが、そうではなかった。

 翔太の身体に、江戸時代の料理人の魂が憑依してしまったのだ。

 オカルトには興味がなかったけど、そうとしか考えられない。

 代々封印されていた金の盃。その不吉な言い伝えは本当だった。

 あれは、絶対に使ってはいけない盃だったのだ!

「翔太は……あなたが憑依した男の名前です。翔太はどうなったんですかっ?」

 剣士は今にも摑みかからんばかりの勢いで、玄に詰め寄った。

「さあな。俺も人に取りつくのなんて初めてだからよ。どうにも勝手がわからねぇ」

「まさか、あなたの代わりに盃に封じ込まれたとか?」

「いや、大丈夫だ。その翔太ってやつは俺の中にいるよ。それはちゃんと感じる。盃に閉じ込められたわけじゃねぇし、あの世に行っちまったわけでもねぇ。だから安心しな」

 言葉だけで安心などできるわけがない。まさか、もう二度と翔太に会えないのか? そんな現実、絶対に受け入れられない!

「翔太を出してください! 頼むから戻して! お願いだから!」

 必死な剣士だったが、玄は困った表情で「悪いけど、どうしたらいいのか俺にもわかんねぇんだ」と頭を搔き、窓に映る自分をじっと見た。

「まさか、こんな男前のやつに取りつくとはなぁ……。しかも前髪の一部が真っ白だ。俺も毒見の恐怖で、一瞬で髪が白くなったんだったっけな」

 ひとしきり髪をいじった玄は、テーブルの上に目を戻して言った。

「ところでよ、腹が減ってんだ。ここにあるもん、食ってもいいかい?」

 はあ? なに吞気なこと言ってんだよ!

 そう言ってやりたいのだが、どうすれば翔太が戻ってくるのか見当もつかない。とりあえず、翔太に憑依した玄の相手をするしかなかった。

「酒も久しぶりに飲みてぇなあ。でも、盃は絶対に駄目だ。盃で酒を飲むのだけはごめんだね。毒見を思い出すんだ。この猪口を使わせてもらうよ」

 どっかりと座って翔太の猪口を手にした玄は、勝手に徳利から酒を注ぎ、ぐいぐいと飲み始めた。


「そうかそうか、あれから百七十年も経ったのか。それじゃあ、刺身が日持ちするようになっても不思議じゃあねぇな。さっきは鮪の脂身、捨てちまって悪かった。あの頃は生で食える脂身なんてなかったんだよ。港から運んでくる間に傷んじまう。生ぐせぇしヘタすりゃ当たって死ぬし、鍋にするくらいしか食えなかったもんさ。だけど、コイツはちっとも臭くねぇわな」

 玄は、皿に残っていたひと切れのトロの刺身に鼻を寄せている。

「今は冷蔵保存の技術が発達してますから。昔は氷で冷やすくらいしかできなかったと思いますけど」

「便利になったもんだねぇ。こっちの小皿は醬油と山葵。刺身用かい?」

「そうですけど」

「俺の頃は、醬油に辛子で刺身を食ったもんだけどな。山葵も悪くねぇわな。どれどれ、っと。──うぉぉ、うめぇーーー! なんだいこの脂は。とろんってとろけちまったよ!」

 トロを食べて悶絶している玄を、剣士は半ば呆れながら見ていた。

 食べたかったふた切れの貴重なトロ。ひと切れは玄に捨てられ、もうひと切れは彼の胃袋に消えてしまったのである。

 なんて勝手な男なんだ……。

 翔太を戻したい一心で同席している剣士のことなど気にもせずに、玄は「うめぇなぁ」と酒を飲み、舌鼓を打っている。

「で、こっちはなんだい? こんな食いもん、見たことねぇわ」

 冷えて固くなったピザのことだ。

「ピザ」

「ひざ! そりゃたまげた。人の足を食うのかよ!」

「膝、じゃなくてピザ。小麦粉で作った生地にチーズやハムを載せて焼いたもの。日本じゃなくて西洋の料理です」

「ちーず? はむ? なんだいそりゃ」

 いちいち面倒だが、要するに牛乳や肉を加工したものだと説明する。ついでに、日本は黒船来航以降に開国して世界各国と貿易を始めたこと。江戸幕府は消滅して江戸は東京という地名になり、今ではアメリカやヨーロッパの文化にも溶け込んでいること。何度か世界大戦が起こったが、復興を遂げたことなど、近代日本史についてざっくりと説明した。

「……そうかい。俺の時代は長崎に阿蘭陀船が入るだけだったけど、今は違うんだな。あれから百七十年も経ってんだもんなぁ。江戸や幕府が変わっちまったって、驚きゃしないよ……」

 と言いつつも、どこか寂し気だった玄は、「よっしゃ!」と膝を叩いて気合を入れた。

「いっちょ、ぴざってやつを食ってみっか」

 切れ目の入ったピザのピースを摑み、ひと口だけ齧ったのだが……。

「なんだいこりゃ! 食えたもんじゃねぇぞ」と不機嫌そうに喚き、ピザを皿に戻す。

「ああ、冷えて固くなっちゃったから。温めたらもっと美味しくなる……」

「そういう問題じゃあねぇよ。舌が痺れる。毒でも入ってんじゃねぇか?」

 玄は恐ろしそうに皿を睨んでいる。

「そんなバカな。あなたが食べ慣れてないだけですよ」

「お前さんこそ、料理人の舌を馬鹿にすんなよ。不自然な痺れがするんだよ。こりゃあ天然もんじゃねえな?」

「加工したものですけど。……あ」

 ふいに、玄の舌が痺れた理由を思いついた。

「もしかしたら、玄さんは添加物に過剰反応したのかもしれません。現在の食品、特に加工食品には、長期保存のために化学調味料や添加物が入ってるから」

「添加物だか天下人だか知らんけどよ。いいかい、江戸の食ってのは、旬の素材を生かすことが大事なんだ。野菜も魚も食べ頃ってのがあるんだよ。こんな得体の知れねぇ食いもん、江戸っ子が食えるかってんだ。お前さん、いつもこんなもんばっか食ってんのかい?」

「まあ……」

「そりゃあ駄目だな。身体が鈍っちまう。それになんだよ、この珍妙な着物は。ごわごわして風通しが悪くて、股間が締めつけられてかなわねぇ」

「ああ、ジーンズのことですか? それが今の一般的な服で……」

「ふざけんじゃねぇぞ。男はふんどしに着物だろうが。ここは無茶苦茶だ。なにもかもが粋じゃねぇんだよ!」

 無茶苦茶なのはそっちだろ? そもそも粋ってなんだよ? 今をいつだと思ってんだ。ウザいオッサンだなあ。いや、二十七って言ってたから、オッサンって歳じゃないんだろうけど。

 剣士はすでに、うんざりし始めていた。

 前髪の一部が白くなり、目の奥に光を宿した玄。見た目は翔太とほぼ変わらないのに、言動がかけ離れすぎて眩暈がする。

「お前さん、ここの跡取りなんだろ? ちゃんと旬の素材で料理しねぇと」

「いや、僕は料理なんてしません」と即座に否定した。

「この下にある割烹、つまり日本料理屋だったつきみ茶屋は潰れました。両親が亡くなったからです。僕は店をワインバーに変えるんですよ」

「はあ? わいんば? なんでぃそれは?」

 とんでもなく面倒だが、要は「葡萄酒と西洋料理を出す店」だと告げる。

「今あなたが乗っ取ってる男、翔太と店を新しくするんです。だから翔太を返してください。どうかお願いします」

 畳に手をついて頭を下げた剣士の前で、玄はすっくと立ち上がった。

「駄目だ駄目だ。わいんばなんて俺が許さねぇ。お父っつぁんが遺した店だろう。しかもよ、お雪さんの頃から続いてんだろ? お前さんが継がねぇでどうすんだよ!」

「僕は刃物が怖くて包丁が使えないんです!」

 剣士も立ち上がって玄と向き合う。

「なんだとぉ?」

「子どもの頃、包丁で大怪我をしてから刃物が握れなくなったんですよ。あなたが盃で酒を飲めないのと一緒です」

「……だったら料理人を雇えばいいじゃねぇか」

「そんな簡単な話じゃないんです。僕に人を雇うカネなんてない。開店の準備金だけで精一杯なんです。翔太が資金の半分を出して、洋風の料理を作る。僕はその料理に合う酒を選んで提供する。そんなワインバーを経営するって約束したんですよ。翔太は信頼できる大事な友だちで、仕事のパートナーなんです。頼むから戻してくださいよ!」

 必死に訴えた剣士だが、玄は腕を組んで横を向いている。

「そりゃ戻してやりてぇけどよ。……俺だってこの世は久しぶりなんだ。もうちっといさせてくれてもいいじゃねぇか」

 悲しそうに目を伏せた横顔は、女性ファンが騒いでいた翔太のそれだ。

 冷静になった剣士の中に、同情めいた気持ちが湧いてくる。

 武士に毒見をさせられ、二十七歳の若さで死んだ江戸時代の料理人。つきみ茶屋の二代目女将、お雪のために膳を作るのが夢だった男。さぞかし無念だったのだろう。盃に取りついて、封印されてしまったほどに。

「剣士、頼みがある」

 不意に言われ、剣士は「なんですか?」とやさしく応答してしまった。

「この下に店があるんだろ。ちょっと見せておくれよ」

「……散らかってますよ。まだ改装前なんで」

「なんでもいいから頼むよ。俺はよ、立派な料理人になって、お雪さんにうんと旨いもんを食わしたかったんだ。きっと思い残しがあったから、あの世に行けなかったんだろうな。でもって、今は百七十年も経った未来にいる。せっかくなら、未来の料理屋ってヤツを知りたいんだよ」

「もしかして、思い残しが無くなれば成仏して、翔太に戻るんですか?」

 残酷な問いであるのは承知の上で、わずかな期待を込めて尋ねてみた。

「成仏か。そうかもしれねぇなぁ……」

 しんみりとした玄が、「料理もしてみてぇよ。久しぶりに」とつぶやく。

 とりあえず、この人のやりたいことをさせてみよう。それで翔太に戻ってくれるなら御の字だ。

「案内します」

 剣士は、一階の店舗に玄を連れていくことにした。



 電気を点すと、段ボール箱が積んである店内が視界に入ってきた。

 もう使わなそうな食器や乾物類、暖簾などの布物を入れた箱。それに加え、引っ越してきた翔太の未開封の荷物も置いてある。

 ただし、掃除だけはしてあるので、客席や厨房の清潔感は保ってあった。

「ほぉ、思ったよりもずっと狭い店だな。待合の頃はもっと広かったのに」

「言っときますけど、ここは江戸時代からある建物じゃないですから。敷地も狭くなったし、何度も建て替えてるし。ここは築四十五年ですけどね」

 それでも古き良き時代の面影を残す民家の一階。小さな木の門をくぐるとガラスの格子戸があり、開けるとコの字形の小さなカウンターが目に飛び込んでくる。その横は小上がりの座敷席になっていた。

 厨房はカウンターの奥。簾で席からは見えないようになっている。

 二階には台所がないため、剣士はここの冷蔵庫や電子レンジを毎日使用していた。流しやガスレンジで調理をしたことは一度もない。流しでは水を汲むか、その水を沸かしてカップ麵を作るくらいだ。あとは冷凍食品をレンジで温めたり、トースターでパンを焼くくらいである。

 昔から手作りの和食ばかり食べさせられていた反動で、剣士は冷凍ピザやインスタントのラーメンといった、ジャンクな食べ物が好みになっていた。特に、生卵を落としたラーメンがお気に入りだ。とはいえ、食は細く筋肉トレーニングも欠かさないので、体型は維持してある。

 今はジャージの上下ばかり着ていて、服装には無頓着だけど、バーテンダーの頃は毎晩スーツで仕事をしていた。伊達メガネをした人の好さげな剣士を、気に入ってくれた顧客もそれなりにいたが、華やかな翔太のほうが圧倒的に人気があったし、スーツ姿も実に様になっていた。

 その翔太の外見なのに、中身は時代錯誤のオッサンのような玄が、厨房にあるものの説明を求めてくる。

「井戸がねぇぞ! 竈も火鉢もねぇ!」と初めは騒がしくしていた玄だが、次第に「こりゃ驚いた。便利になったもんだなぁ」と感心し、特に気に入った冷蔵庫に張りついている。

「こいつは魔法の箱だよ。魚も肉も保存できる。これなら生鮪の脂身だって安心だ。……おっと、これはもしや、豆腐じゃないかい?」

「そうです」

「こりゃすげぇ! 豆腐は贅沢品だろ。こんなにあるなんてすげぇよ!」

「いや、今は安く買えるんです。量産されてるから」

「はぁー。いい時代なんだなぁ……」

 玄は食い入るように、冷蔵庫の下段に並ぶ豆腐のパックを見つめている。

 このパックはスーパーの特売品。あまりにも安かったため、買いだめしておいたのだ。

(インスタントや冷凍食品だけではタンパク質が不足する。植物性タンパク質が豊富な豆腐がオススメだ。野菜でビタミンも取らないとな)とアドバイスしてくれた翔太は、いつになったら姿を現すのだろう。

 ──そうだ。禁断の金の盃だ。あれをもう一度翔太に使わせたら、元に戻るのではないだろうか? 一刻も早く、翔太を取り戻さなければ……。

 物思いに暮れる剣士に向かって、玄が陽気な声を上げた。

「俺は豆腐料理が得意だったんだ。初めは兄貴と〝煮売り屋台〟をやってたんだけどよ」

「屋台? 煮売り?」

「おうよ。煮売りは〝おかず売り〟のことだ。すぐに食える煮物や焼き物を屋台で売ってたのさ。あのよ、寿司だって天ぷらだって鰻だって、みんな初めは屋台だったんだぜ。俺の作ったおかずは結構な評判でな。御贔屓さんが銭を貸してくれて、兄貴と小さな店を構えたんだ。あの頃は、季節の料理を箱膳で出してたっけなぁ」

 遥かな時代を懐かしんでいた玄が、豆腐のパックを取り出した。

「剣士、俺に料理を作らせてくれ。後生だから」

「でも、材料が……」

「大丈夫。魔法の箱に豆腐と卵、海苔が入ってただろ。それに水と出汁、調味料がありゃあいい。それだけで十分、旨いもんが作れる」

 玄の瞳が爛々と輝いている。

「わかりましたよ」

 彼の思い残しを解消すれば、翔太に戻るのかもしれない。

 一縷の希望にかけて、玄の望みを叶えてやることにしたのだが……。

「悪いけど、このままじゃ動きづれぇよ。この家に着物はないのかい?」

 玄は、とことん厚かましい男だった。

 仕方なく、父親が店で着ていた紺色の着物を貸してやった。処分しようと思っても、なかなかできなかったものだ。

 さらに、父の簞笥の奥から出てきたふんどしも差しだすと、玄はよろこんで座敷席に上がり、剣士の目前で着替え始めた。人前で素っ裸になることにまったく躊躇がないようだ。そのせいなのか、剣士の視線もつい、彼の身体に吸い寄せられてしまう。

 へー、翔太って意外と逞しいんだな。

 ……って、なに考えてるんだよ! こんな非常事態に!

 速攻で前言を撤回してから、着替え終えた玄の立ち姿をあらためて眺める。

 ──おお、よく似合うじゃないか。

 着物姿の玄は、意外なほど男前だった。元がイケてる翔太なのだから当たり前なのだが、威風堂々とした佇まいは、まるで時代もののドラマや映画の主人公のようだ。

「よっしゃ、やったるぜぃ」

 気合を入れた玄は、袖を紐でたくし上げて厨房へ向かった。剣士もあとをついていく。頼む、料理を作ったら成仏してくれ! と祈りながら。

 ところが、思いも寄らぬ珍客が、店に現れたのだった。



「すみませーん」

 入り口から丸メガネをかけた、三十代くらいの小柄な男が顔を出した。

「はい?」

 剣士が歩み寄ると、男はスマホで自身のブログ画面を見せながら、「滝原聡です。ブロガーのタッキーって言えば、わかるよね?」とのたまう。

 タッキー。聞いたことはある。本も出しているグルメ系ブロガーだ。

「ええと、うちは閉店してまして、別の店になる予定なんですけど……」

「はあ? なんだよそれ」

 タッキーは意外に愛らしい眼で剣士を睨み、不快感を丸出しにした。

「アポ取ったのに閉店ってどーゆうこと? 三ヵ月以上も前に行くって言っておいたじゃん」

 もしや、生前の両親が応対したのだろうか。

「それは失礼しました。急な事情で店を閉めることになってしまいまして」

「困るんだよね、こっちはスケジュールぎっちぎちなんだから。せっかく来てやったのにさあ、ないわー。マジあり得ないっしょ。このボクが評価しにきてやったのに」

 なんだよコイツ。上から目線すぎるだろ。

 かなりムカついたが、ここは冷静に応対しておかなければ。

「ご連絡できずにすみません。実はですね」

 店主夫婦が事故で亡くなった、と説明しようとしたそのとき、玄が横からすすっと入ってきた。

「お前さん、ぶろがーってなんのことだい?」

 うわー、ここで余計なこと言わないでくれ!

 剣士は「ちょっとすみません」と断ってから、玄を奥に連れていった。

「あの人は料理屋を巡って店の評価本を出してるんです」

「ひょうかぼん?」

「えっと、江戸の瓦版のようなもので、評価が低いと客足が遠のくんですよ」

「料理屋の番付か。江戸っ子も番付好きでよ。相撲も歌舞伎も東西で番付してたもんだ。〝おかず番付〟なんてのもあったんだぜ」

 玄はうれしそうだ。まるで緊迫感がない。

「あのさあ、客をほっとくってどーゆうこと?」

 業を煮やしたらしきタッキーが、入り口で声を張りあげる。

「板前はいるんじゃん。なんか作れないわけ?」

「いや、この人は板前じゃなくて……」

「作れるぞ!」

 剣士を押しのけて玄が言い切る。

「ちょっ、玄さん!」

 なんとか引き止めようとしたのだが、玄は振り切ってタッキーに近寄った。

「お前さん、豆腐は好きかい?」

「え? まあ、普通に」

「よっしゃ、俺が取っておきの豆腐料理を作ってやる」

「……豆腐だけ?」

「おぅさ」

「なんだよ、豆腐だけなんて貧乏くさいなあ」

 玄を板前だと思い込んだタッキーが、息を吐くように暴言を吐く。

「ああぁ?」と玄の表情が変化した。眉が吊り上がっている。

「貧乏くせぇだと? この野郎、もう一ぺん言ってみろ!」

 板前にあるまじき暴言を返され、タッキーの顔が青ざめる。

「ちょっと待って!」とあいだに入った剣士は、玄から突き飛ばされた。

「お前さんは黙っとけ。料理人は俺だ」

「なんなの? 暴力? ここヤバい店じゃん。ブログに書くから」

 明らかに怯え始めたタッキーが、急いで席を立った。

「うるせぇ! いいからそこに座れっ」

 一喝されて、彼は席に座り直してしまった。

「いいか、豆腐ってのはなぁ、昔はハレの日にしか食えねぇ特別なもんだったんだ。庶民にとっちゃ憧れの食いもんだったんだよ。だから『豆腐百珍』が人気になったんじゃねぇか。貧乏くせぇなんて抜かしたら罰が当たるわ」

「豆腐百珍だって?」

 タッキーがメガネを光らせ、身を乗り出した。

「それ、江戸時代のベストセラーだ。板さん、豆腐百珍の料理作れんの?」

「あたぼーよ。俺は全部作れるぞ。続編の料理も全部だ」

 鼻をひくつかせた玄に、タッキーは興奮気味で言った。

「それって、豆腐料理のレシピが百も載ってる本だよね。続編もあったって、ネットで見たことある。一度食べてみたかったんだ。ねえ、なんでもいいから作ってよ」

「最初からそう言えや。すぐ作ってやっから待っとけ」

「じゃあ、ここで仕事させてもらうからね」

 タッキーは背負っていたリュックからノートパソコンを取り出し、カウンターに置いてパチパチとキーボードを叩き始めた。

 なんなんだよ、この状況は。頭がおかしくなりそうだ。玄がまともな料理を作るとは思えないし、このブロガーも図々しすぎる。……でも、つきみ茶屋は無くなるんだから、どうなってもいいか。こうなったらヤケクソだ。

 剣士は口からの出まかせで、その場を誤魔化すことにした。

「あの、営業はしていないのでお代はいただきません。今、次の店舗のために料理の研究をしているんです。試食として食べていただきますので、ご了承ください」

「うん。なんでもいいから早くしてね。あと、お茶くらい出してもらえる?」

 パソコンから目を離さずにタッキーが答える。

 コイツ! とまた思ったが、「かしこまりました」と頭を下げてしまうのは、バーテンダーだった頃のクセだ。

「玄さん、とりあえず厨房に行きましょう」

「おぅ、俺に任せとけ」

 かくして剣士は、突如舞い込んだ珍客、しかもグルメブロガーに、料理を出す羽目になったのだった。



「──これが竈の代わりだな。火加減も自由自在なんざ、ありがてぇよ。水もここを捻ったら出てくるのか。すげえなぁ」

 飲み込みの早い玄は、すぐに流しやガスレンジの使い方を覚えてしまった。

 彼に言われた通りの食材も調理器具も、剣士が大急ぎで用意した。

「まずは包丁でぃ!」と言われたときは、「見るのもイヤだ!」と抵抗したくなったのだが、この緊迫した状況だと、そうも言っていられない。

 刃先に触れないよう、細心の注意を払って包丁を取り出し、まな板、鍋、おたま、箸なども揃えてやった。これらの器具に関しては、江戸時代から基本構造に変化はないようだ。材質やデザインの激変にはかなり驚いていたが。

 調味料は、酒、醬油、味醂、砂糖、塩、ごま油。これらも江戸時代からあるものばかりだった。

「そうだ。山芋はないのかい? 粘りを出したいんだよ」と言われたのだが、もちろんあるわけがなく、代わりになるようなものとして、じゃが芋の粉である片栗粉を見せた。

「おお、片栗の粉。片栗の球根は粘りが出て丁度いい。俺が生きてた頃も、大和や越前で栽培されてたんだぜ」

 そんな玄の言葉で、片栗粉のカタクリが植物の名前だと知った剣士は、すぐさまスマホで検索をしてみた。

「なんでぃ、その面妖な手帳は」

 珍しそうにスマホを眺める玄に、「なんでも調べられて、遠くの人とも連絡が取れる便利な機械」と説明する。

「うぉぉっ! すげーじゃねえか! ちょっと見せておくれよ!」

「それはあとにして、今は料理をしてください!」

 玄に背を向けて検索した結果、カタクリの疑問はすぐに解決した。

〝江戸時代には豊富だった自生のカタクリは減少し、明治以降に北海道開拓でじゃが芋が大量栽培されるようになったため、片栗粉の材料はじゃが芋に切り替わったのだが、名称はそのまま残った〟とのことらしい。

「なるほど、勉強になるな」と独りごちた剣士の顔を、自分より少し背の高い玄が覗き込む。いつの間にか、手ぬぐいで作ったねじり鉢巻きを頭につけている。

「剣士。俺の我儘を聞いてくれてすまない。お前さんは人がいいねぇ。さすがお雪さんの子孫だ。気に入ったよ」

 などと言いながら、また顔をグイグイと寄せてくる。

 いや、気に入らなくていいから。マジで。それよりも、早く料理を作ってタッキーに出してくれ。それで安らかに成仏してくれ!

 急いで玄から離れた剣士は、ふと思った。

 昔から「大らかでお人好しだ」って言われることが多かったけど、それって僕が「鈍感なマヌケ」ってことなのかもな……。

 剣士はこのトンデモ展開を受け入れている自分が、常識を逸脱したマヌケ者のような気がしてきた。

「こりゃ最高の台所だな。腕が鳴るぜぃ」

 また感嘆の声をあげた玄が、素早く調理に取りかかった。鍋で湯を沸かし、まな板の上に食材をのせる。

 トントントントン───。

 何かを刻む音。漂う出汁の香り。

 割烹が活気づいていた頃のようで、やけに懐かしい。いそいそと手を動かす玄の後ろ姿が、亡き父と重なって見える。

 いや、父さんの着物を着てるから、そう感じただけだろ。

 胸にこみ上げてきた何やら温かいものを、息と共に吐き出してから、剣士は再びスマホを操作し始めた。

 盃、憑依、魂、江戸、料理、呪い、などのワードを散々検索してみたが、翔太と玄に起きたような怪異現象について、何も情報は得られない。

 やっぱり、あの金の盃をもう一度使えば、翔太に戻せる気がする。

 もしくは、玄の思い残しを解消して成仏させてやるか。

 今のところ翔太に戻せる可能性は、このどちらかの手段しかないようだ。あくまでも仮説にすぎないけど。

「玄さん、ちょっと二階に行ってきます」

「おぅ、すぐできっから」

 玄はせっせと調理に励んでいる。

 剣士は二階に上がり、棚に仕舞った金の盃を取り出した。

「うわ、最悪なんですけど……」

 なんと、縁の一部が欠けてしまっていた。欠けた部分から一ミリほどの大きなヒビが、縦に深く入っている。その欠片も盃の中にあった。

 そういえば、翔太がこれを落としたとき、カツンと音がした。あのときに破損してしまったのだろう。

 これじゃあ、酒が半分くらいしか入らないな……。

 今すぐ直したい衝動に駆られて、盃をじっと見つめる。

 まさか、本当に魔力を秘めた盃だったとは、思ってもいなかった。迷信深かった両親の戯言だろうと、どこかで舐めていた過去の自分を、「舐めんな!」と蹴り飛ばしてやりたい。

 翔太、ごめん。絶対に元に戻してやる。僕を信じて待っててくれ。

 祈りを込めて欠けた盃を見つめ続けていたら、一階から大声がした。

「でき上がったぜぃ!」

 剣士は盃を棚に戻し、深くため息をついてから、再び狭い階段を下りていった。



「剣士の分も用意したぞ。やっぱり料理ってやつは楽しいねぇ」

 カウンターの上で、皿から湯気が上がっている。店で使用していた焼き魚用の和食器が、ふたつ用意されていた。

「なにこれ。蒲焼?」

 タッキーが物珍しそうに皿を手に取る。縦に筋が入った長いハンペンのようなものが、こんがりと醬油ダレで焼かれていた。ぱっと見は鰻の蒲焼によく似ている。

「ご名答。これは〝鰻もどき〟って豆腐料理さ。〝豆腐百珍〟のひとつだよ」

「へえー。おもしろいなあ。写真撮っておこっと」

 スマホをいじり出したタッキーから、少し離れた場所に剣士も座る。

「お前さんの皿はこっちだ。さ、冷めねぇうちに食っとくんな」

 玄が皿と箸を剣士の前に置いた。

「いただきます」

 タッキーの声がしたので、自分も手を合わせて箸を取る。鰻もどきの脇を崩して口に入れた。

 揚げた豆腐の生地と蒲焼の甘辛いタレがしっくりと絡み合う。片栗粉でねっとりとした生地は餅のようでもあり、どこか懐かしさのある美味しさだ。

「うん、ウマいです」

「だろ?」と玄がまなじりを下げ、解説を始めた。

「まずは水を切った豆腐をすりつぶす。そこにおろした山芋を入れるんだけどよ、代わりに片栗を入れてみた。あとは卵白と塩を足して混ぜて、海苔の上に平たく載せる。箸で線を入れてあるから、開いた鰻のように見えるだろ。それをごま油で揚げてから、醬油と酒、味醂を混ぜたたれで焼いたのさ」

 なるほど、意外と手の込んだ料理なのか。豆腐生地の弾力もタレの甘辛さもいい塩梅で、食べ応えもある。

 でも、何かが足りない。

「……わかった。あれだ」

 剣士は厨房から山椒の入れ物を持って来た。鰻もどきに振りかけて、またひと口。すると──。

「ウマい! ご飯に載せたら鰻の蒲焼丼と近くなりそう」

「ほほぅ、山椒の粉を足したのかい。そりゃ旨いに決まってるわな」

「ちょっと。客に渡すのが先なんじゃないの? こっちにも山椒くれよ」

 タッキーが文句を言ったので、「正確に言うと、僕はこの店の者じゃないんです」と告げながらタッキーに山椒を渡す。

 噓ではない。自分はもう、つきみ茶屋とは関係ないのだ。その次にワインバーをやる者なのだから。

「どれどれ。──なるほどね。悪くないじゃん。山椒かけた方がイケる」

 鰻もどきを速攻で平らげたタッキーが、お茶をズズッと飲む。

 初対面の傍若無人なブロガーと共にカウンター席に座り、翔太に憑依した江戸の料理人の料理を食べている。

 まさか、こんなにも奇怪すぎる現実が訪れるとは。

 数時間前は、翔太と新店舗の相談をしていたのに。

 ワケがわからなすぎて、剣士の感覚はマヒしつつあった。

「もう一品あるんだぜ」

 楽しそうな玄が厨房に入り、すぐに漆塗りの椀を盆に載せて出てきた。

「こっちは豆腐百珍の〝ふわふわ豆腐〟だ」

 出汁が強く香る澄まし汁の上に、黄色がかった白いものが浮かんでいる。文字通りふわふわとしたものだ。

「ふーん。茶碗蒸しとスフレの中間みたいな感じだね」

 タッキーは再びスマホで写真を撮った。

「すった豆腐に泡立てた卵を合わせて、澄まし汁に流し込んだんだ。これもうめぇぞ。さ、熱いうちに匙で食っとくれ」

 玄が見守る中、まずは汁を飲んでみた。アツッと声が出るほど熱々だ。出汁は京料理のような薄味ではなく、濃厚でしっかりとした剣士の好みの風味である。

 続いて、ふわふわの豆腐を匙ですくって食べる。出汁をしっかりと含んだ美味しいものが、つるりと喉元を落ちていく。

「なんか染みる……」

 思わず声が漏れた。味は茶碗蒸しに近いが、ベースが豆腐なのでもっとしっかりとした食感だ。また出汁をひと口。──ほう、とため息が出る。

 冷凍食品やインスタント食品に慣れてしまった剣士にとって、玄の朴訥な手料理はやけに新鮮だった。

「どうだい、うめぇだろ? 江戸じゃぁ卵も貴重品だったんだ。庶民にとっちゃ、これも豪華なご馳走だったんだぜ」

「出汁が濃いね。昆布とカツ節を贅沢に使ってる」

 椀を持ったタッキーがつぶやくと、玄が「その通りだ。お前さん、なかなか通じゃねぇか」と破顔した。

「あのさー、ボク、グルメ本も出してるんだよね。板さんさぁ、ボクのこと舐めてたでしょ」

「タッキーさん、失礼しました。今夜はご試食ありがとうございます」

 すかさず剣士が謝っておく。なにしろ異常事態中なのだ。すべてを穏便に済ませておきたい。

「剣士」と玄が声をかけてきた。

「なんですか?」

「お前さんが用意してくれた食材。豆腐はなんか抜けたような味だったけどよ、鰹節と昆布は極上品だった。出汁は料理人の基本だ。素材が良くねぇと話にならねぇ。お父っつぁんはいい料理人だったんだろうな」

 確かに、父の作る料理はすこぶる評判が良かった。

 出汁にこだわり、食材にもこだわる厳しい職人。豆腐だって、玄が使った市販のパック詰めではなく、専門店から取り寄せていた。季節素材の茶碗蒸しも、人気料理のひとつだった。

 ──茶碗蒸し、か。昔は僕のためによく作ってくれたな。

 幼少時、偏食気味だった剣士が好んで食べたのが茶碗蒸しで、父母は中身を工夫して食べさせてくれた。エビ、鶏肉、白身魚、細かく切った野菜。ときにはソーセージだったり、餃子が入っていたこともあった。

 ……どの茶碗蒸しも、例外なく美味しかった。

 両親と過ごした日々が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

 口喧嘩で物別れをしたときの、苦い記憶も蘇ってきた。

(父さんの顔なんて、二度と見たくない)

 ……違うんだ。そんなこと本気で思ったわけじゃないんだ。

 父さん、最後に酷いこと言ってごめん。母さん、いつも心配かけてごめん。

 できることなら、事故が起きる前に戻ってやり直したい……。

「おいおい剣士、泣くほどうめぇのかい?」

 玄に指摘されて、あわてて目の縁を拭った。

「いや、湯気が目に入っちゃって。……玄さん、これ、ウマいです。すっごく美味しい」

「そうか、旨いかい。やっぱり誰かにそう言ってもらえると、うれしいもんだねぇ。ありがたいよ」

 そう言って玄は、コップに入れた日本酒を飲み干した。いつの間にか飲み続けていたようだ。

「まあ、確かによくできてたし、江戸料理ってのも珍しい。悪くはないね」

 食べ終えたタッキーは、そそくさと帰り支度を始めた。

「だけど、接客態度が最悪。特に板さん。だから星はつけられない」

「なんだとぉ! 俺のどこが最悪なんだよっ」

 カウンターの中から飛び出しそうになった玄を、剣士は「玄さん、落ち着いて」と止めに入った。

「そーいうとこだよ。喧嘩っぱやいとこ。ただ……」

「なんでぃ、まだ文句あんのか」

「板さんのキャラも含めて、すべてが江戸っぽい。ほかにどんな料理を出すのか興味が湧いた。店のコンセプトは気に入ったから、また来るよ」

「こんせぷと?」

 キョトンとする玄はスルーして、タッキーに話しかける。

「何度も言いますけど、ここは別店舗として新装オープンするんです。何か決まったらお知らせさせてください」

「じゃあ、ブログのアドレスに連絡して。ごちそうさまでしたー」

 入り口でペコッとお辞儀をしてから、タッキーは出ていった。


 店内に静寂が戻り、どっと安心感が押し寄せる。

「あー、何とか凌げた。でも、もう限界」

 剣士は思わず、カウンターの上につっぷした。

「剣士、いろいろ悪かったなぁ」

 コップに酒を注ぎ足した玄が、隣の席に座る。

「今日はいい日だよ。封印から解かれただけでもありがたいのに、お雪さんの子孫と会えたんだからな。料理も食ってもらえるなんざ、奇跡のようなもんだよ」

 しみじみと言ってから、グイッと酒を飲む。かなりの飲兵衛である。

「俺はやっぱり料理が好きだ。旨いって言ってもらえて、満足……だよ……」

 こくりと玄の首が垂れ、頭から鉢巻きが落ちた。──すうすうと寝息が聞こえる。

 おい、いきなり寝るのかよ。

 勝手に振る舞って疲れたら即寝なんて、まるで子どもじゃないか。それに、こんな薄着のままだと、風邪を引いてしまうかもしれない。

 剣士は仕方がなく、二階の寝室から毛布を運んできた。

 玄の肩にかけようとしたら、むっくりと上半身を起こした。

「あー、オレ、カウンターで寝ちゃってたのか。ごめんな」

 玄の顔を見て目を見張った。

 白かった前髪が栗色の毛に戻っている!

「翔太! なあ、翔太だよな?」

「……なんだよ? それがどうかしたのか?」

「し、翔太───!」

 思わず後ろから抱きついてしまった。

 玄だった翔太が元に戻ったのだ!

「どうした剣士。もしかしてオレ、酒飲みすぎてなんかやらかしたか?」

「いや、そうじゃない。よかった。マジよかったよ!」

 隣に座って着物の胸元を摑み、翔太を何度も揺らす。

「剣士も飲みすぎたのか? なんか変だぞ。あとさ、オレ、なんで着物姿なの? なんでふんどし? もしかして、なんかの罰ゲーム?」

「それは……」

「この料理、剣士が作ったのか? 料理できないんじゃなかったっけ?」

「いや、あの、そうじゃなくて……」

 状況が把握できない翔太は、矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。

 どこから説明していいのかわからず、剣士はしどろもどろになっている。

「うー、なんか頭が痛い。マジで飲みすぎたのか、オレ。金の盃で酒を飲んでから、いまいち記憶が曖昧なんだけど」

 こめかみを指で押さえる翔太が、なんだか痛々しい。江戸の料理人に憑依されていた、なんて、どう説明したら信じてもらえるのだろう?

 考えがまとまらないまま、冷蔵庫から持ってきたミネラルウォーターのペットボトルを翔太に渡した。

「まずは水でも飲んで」

「ああ、ありがとう」

 一気に半分ほど水を飲んでから、翔太は改めて剣士と目を合わせた。

「あのさ、妙な夢を見ていたんだ」

「夢?」

「オレが江戸時代の料理人になった夢。お茶屋に仕出し料理を届けて、客の武士に毒見をさせられるんだよ。横柄で、いかにも偉そうな武士でな。半ば無理やり酒を飲まされて、もがき苦しんで気を失う。酒に毒が入ってたんだ。とんでもなく恐ろしかった」

「もしかしてそれ、金の盃だったんじゃないか?」

 息せき切って尋ねると、「当たり。そうなんだよ」と翔太が答えた。

「でさ、夢の続きがあって。なぜかこの家に江戸の料理人になったオレがいるんだよ。文明の進化に驚いたりはしゃいだりして、剣士を振り回した。断片的な夢だったから、そのくらいしか覚えてないんだけどな」

 相変わらず、翔太はこめかみを押さえている。

 剣士は確信した。

 翔太が夢で見た毒見のシーンは、玄が死を迎える直前の記憶。そして、自分が玄に取りつかれていたときのことも、翔太は夢というカタチで漠然と見ていたのだ。

「あのな翔太、それは夢じゃない。現実だよ」

「……どういう意味だ?」

「落ち着いて聞いてくれ。翔太は、江戸時代の料理人に憑依されたんだ」



 絶句する翔太に、金の盃を使用した直後から、彼の身に何が起きたのか説明した。

 前髪の一部が白く変化したこと。剣士の先祖のお雪を知っていて、彼女に膳を作るのが夢だったと言ったこと。料理が作りたいと熱望されたこと。グルメブロガーが飛び込んできて試食させる羽目になり、豆腐百珍なる江戸のレシピ本の料理を出したことも、詳細に伝えておいた。

「──じゃあ、これを作ったのはオレなのか?」

 剣士が食べ残した豆腐料理を、翔太が恐々と見つめている。

「そう。正確には、翔太に乗り移った玄が作ったんだけど。だからあれは、本当に禁断の盃だったんだよ」

「信じられない……」

「僕だってそうだった。でも事実なんだ。翔太が着物姿なのもそのせい。玄がジーンズを嫌がったから、父さんの着物とふんどしを貸したんだ。で、玄が自分で着つけしたんだよ。僕に着させられるわけがない」

「まあ、それはそうだな」と翔太が腕を組む。

「……今から思えば、骨董品を見たときからおかしかったんだ。なぜかあの盃に魅入られてしまった。剣士の目を盗んで懐に忍ばせたのも、それを磨いて勝手に使ってしまったのも、いつものオレならしないような気がする」

「うん、僕もそう思う」

 思慮深い翔太らしからぬ行動。それは、盃に封印されていた玄の、「もう一度この世で思い残したことをしたい」という、執念によるものだったのではないだろうか。

「だとしたら、なんでオレは元に戻れたんだ? また金の盃で酒でも飲んだのか?」

「違う。玄は盃が怖いから絶対に使わなかった。コップで酒を飲んで、そこでうたた寝をして、起きたら翔太に戻ってたんだ。あ、もしかしたら……」

 剣士は自分が立てた仮説を説明することにした。

「思い残しが無くなれば成仏できるかもって、玄さんが言ってたんだ。彼は得意の豆腐料理を作って、お雪の子孫に当たる僕に食べさせた。それで満足して成仏したんじゃないかな」

 なんとなくの推測だが、そうであればいいという願望でもあった。

 しかし、「本当にそうなのか?」と、翔太は疑わしそうに首を傾げる。

「さっきから身体が重い。自分のではない鼓動を感じる。ほら」

 手を引かれた剣士は、翔太の左胸にその手を置く。

 ──ドクン、ドク。ドクン、ドク。ドクン、ドク──

「うわっ」

 驚いて手を離す。ふたつの心臓音が重なっているように感じたのだ。

「な? その玄ってやつ、まだオレの中にいるような気がする」

 いかにも気味が悪そうに、翔太が自分の胸を撫でる。

「……マジかよ」

「信じたくないし、はっきり言って恐ろしいよ。だけど、どうすることもできないんだから、今は受け入れるしかない」

 そういえば、玄も「翔太は自分の中にいる」と断言していた。ということは……。

「まさか、翔太が寝てるときが玄さんの現実で、玄さんが寝ると翔太に戻るのか?」

 翔太が見た断片的な夢は、玄が体験していたリアルだったのだ。だとすれば、今は玄が夢の中で翔太と自分の会話を聞いているのかもしれない。

「それを確かめるには、オレがもう一度眠ってみるしかないな。起きてオレなら玄は成仏した。そうじゃないなら……」

 ──また玄が現れる。そんな奇妙すぎる現実、考えたくもない。

「まあ、なるようにしかならん。オレでいられることを願って寝るよ。頭も痛むし」

「もう遅くなっちゃったしな。上の部屋で寝よう。翔太の部屋、新しい布団の用意してあるから」

「助かる。それから、金の盃をもう一度使ってみたい。あれが玄の魂の器だったわけだろ? また使わないと封印できないんじゃないか?」

「それが……」

 盃の縁が欠けてヒビが入ってしまったと翔太に告げると、「それは困るな」と顎に手を置く。

「今夜、俺が取った行動を忠実に再現したい。そのせいで憑依されたわけだからな。さっき飲んだ酒を完璧な形の盃で飲んでみたいんだ」

 翔太ならそう言うだろうと思っていた。剣士とは異なり、彼は「なんとなく」という動機では動かない。理論的に思考して行動する男なのだ。

「だったら、金継ぎでもしてみる? 欠けた部分を金継ぎで修復すれば、元の盃と同じようになるんじゃないかな」

 金継ぎとは、漆の樹液を使って壊れた器を修理する、日本古来の技法だ。欠けた部分に漆を塗って固めてから、表面に金粉を施す。陶器はもちろん、ガラス器にも使用可能な伝統技術だった。

「なるほど、金継ぎか。さすがは剣士、老舗料理屋の息子だ」

「翔太だって老舗料亭の息子だろ」

「オレは剣士と違って、親との相性が悪すぎて家を飛び出したクチだから」

「僕だって、父親とは仲がいいとは言えなかった」

「いや、お前はオレとは違う。ちゃんとご両親を信じていたし、本当は大事に想っていた。ずっと感謝もしていた。家業を継ぐのが嫌だっただけで、親父さんが嫌だったわけではない。そうだろ?」

 翔太はやけに真剣だ。

 事実、その通りだった。両親を信じていたから、安心して甘えることができたのだと、今ならはっきりと言える。一方、翔太は複雑な家庭に育ったため、自分の父母に対して否定的だった。

「大丈夫だ。剣士の想いは、ご両親にもちゃんと伝わっているよ」

 たまらなく柔和な表情と声で、翔太が言った。

「ありがとう」と言葉にした瞬間、また目頭が熱くなってきた。

 急いで横を向き、瞬きをして瞳を乾かす。

 異常事態が続いたせいなのか、感情を動かすアンテナが過敏になっているようだ。

「……で、金継ぎの話だが、剣士は技術を習得しているのか?」

「ごめん、してない。でも、近所に金継ぎをやってくれる漆器の店がある。そこも江戸から続く老舗なんだ。頼んでみようか」

「そうだな。では、早速だが明日行ってみることにしよう。ところで、この料理なんだが……」

 カウンターの豆腐料理を翔太が睨んでいる。

「剣士は食べたんだよな?」

「食べたよ」

「どうだった?」

「悪くなかった。素朴な豆腐料理だけど、普通に美味しかったよ。江戸時代も現代も、和食ってそんなに変わってないんだな」

 すると、翔太がやや尖った口調で言った。

「だが、センスが悪い。盛りつけも雑すぎる。料理ってのは見た目も大事なんだ。視覚から受け取る情報が、味に直結するんだよ。同じ調理法で作った料理でも、どんな盛りつけだったのか、どこで誰とどんな雰囲気で食べたのか、それらの情報が美味しさの重要なファクターになるんだ。仮にも料理人なら、もっと考えてほしいよな」

 普段は穏やかな翔太が、珍しく苛立っている。憑依された相手が作ったものだから、余計に気に入らないのかもしれない。

「……悪い。オレ、かなり疲れているようだ。玄に憑かれているからなのか? なんてな」

 笑えないジョークだった。

「ここであれこれ考えてもしょうがない。とりあえず、今夜は欠けた盃で寝酒をしてみるよ。あと、催眠用の音楽だ」

「ああ、翔太お気に入りの」

「そう。あれを聴くとすぐ寝てしまうんだ。毎晩聴いていたせいだろう。パブロフの犬だな」

 川のせせらぎや風の音、小鳥の囀りなど、自然音をベースにしたヒーリング用の曲。剣士も翔太から教えてもらい、スマホでダウンロードしてあった。確かに、あれを聴くと自分も眠くなる。

 剣士は翔太と共に厨房を片づけ、二階の居間に上がった。

「半分しか入らないけど、これで酒を飲んでおく」

 翔太は欠けた金の盃で酒を飲み、何やら真剣に祈っている。

「これでアイツが封印されることを願うよ」

「そうだね。僕も祈っておく」

 剣士も「玄さん、どうか成仏してください」とその場で手を合わせてから、寝支度を整えた。

「じゃあ、また明日な」

 ストライプ柄のパジャマに着替えた笑顔の翔太が、両親の部屋だった隣の和室へ入っていく。剣士も「おやすみ」と答え、自室で床に就いた。

 やがて、隣の部屋から薄っすらとBGMが流れてきた。翔太のお気に入りヒーリング・ミュージックだ。それを聴きながら、剣士はもう一度願った。

 どうか明日は、平凡な日常が過ごせますように。

 起きたら翔太に、おはよう、と言えますように──。



 リアルな小鳥の囀りで目覚めたのは、朝九時を過ぎた頃だった。

 剣士はぼんやりとした頭で寝間着からジャージに着替え、洗面所へと向かう。歯を磨いたあたりで重要なことに気づき、その場から駆け出した。

「翔太!」

 大急ぎで翔太の部屋をノックする。

 反応がないのでそっと戸を開けると、窓の下に布団が畳んである。その横に、なぜか体長一メートルほどのぬいぐるみが置いてあった。巨大でモフモフなカピバラのぬいぐるみだ。どこにも翔太の姿はない。

「おい! 翔太!」

 二階のトイレや風呂場にも、居間にも人の気配はない。

 ってことは、一階にいるのだろうか?

 廊下から階段へ向かおうとしたら、下から味噌汁の香りが漂ってきた。

「もしかして、朝メシ作ってくれたのか?」

 期待と不安が交錯する気持ちを抱え、階段を下りて厨房に入ると……。

「この寝坊助が!」

 振り向いた翔太がクワッと口を開く。

「朝餉なんぞとっくにできとるわ。とっとと食いな」

 前髪の一部が白い。瞳から怪しい光が放たれている。そして、紺の和服姿。これはもしかして──。

「玄、さん?」

「おうよ。ほかに誰がこの家にいるってんだい?」

 がっくりと剣士の肩が落ちた。

 玄は成仏などしていなかったのだ。

 昨夜、翔太は金の盃で酒を飲んだのに、効果がなかったということになる。やはり、盃を金継ぎしないと駄目なのか……。

「なにぼやっとしてるんだい。俺はとっくのとうに起きて、ここらの埃を払ってよ。水拭きまでしたんだぜ。庭にも出てみたけどよ、空が澱んでるねぇ。俺が生きてた頃とは空気も水も違う。なんとも言えねぇ臭いがする。文明開化とやらで、いろんなところが汚れちまったのかね。それに、お天道さんの光が強烈で、江戸じゃねぇみたいだ」

 ぶつぶつとつぶやいているが、剣士は相手をする気になれない。

「さあ、お前さんの朝餉だよ」

 玄が厨房に重ねてあった漆塗りの盆に、朝食をのせて差し出した。

 剣士はこの現実を受け入れざるを得ないと諦め、静かにため息をついて盆を受け取った。

「台所にあるもん、勝手に使わせてもらったぜ。たんと食いな」

 海苔で巻いた大きなおにぎりが三つ。豆腐の味噌汁。それに、青菜の煮びたしの入った小鉢が添えてある。

 ──ん? 青菜?

「これ、なんですか? 野菜の買い置きなんてしてなかったはずだけど」

「ああ、庭に生えてた蔓紫だ」

「ツルムラサキ?」

「知らねぇのかよ? 粘り気があって旨いぞ。粘る葉物は栄養があるんだぜ。そうそう、ドクダミも生えてたから今度天ぷらにしてやるよ。紫蘇もミョウガも三つ葉もあった。お前さんちの庭は葉物が豊富でいいね。さすが料理屋の庭だ」

 家業に関心のなかった剣士は、庭に何が生えているのかすら、把握していなかった。

 とりあえず、いただくか。せっかく作ってくれたんだし。でも……。

「玄さん、おにぎりがデカすぎる。今の時代のおにぎりは、この半分くらいの大きさなんです。三つも食べられませんよ」

「なんだって?」

 玄が目の玉を引ん剝く。

「江戸っ子はよ、一日に米を五合は食ってたんだぜ。なのに三つくらいも食えないなんざ、情けねぇよ。お前さんも江戸っ子だろうに」

「江戸っ子じゃないです。東京っ子」

 言い返しながら、カウンター席に座っておにぎりを頰張る。

 ──ウマい!

「なんだこれ、ただの塩むすびなのにめっちゃ美味しい。この茶色いのってオコゲなんだ」

 コシヒカリが絶妙な加減で炊かれている。ところどころに交じった焦げの香ばしさと、天然塩のマイルドな辛さが相まって、食欲に火をつける。

「そりゃそうさ。飯炊きが得意な俺が、土鍋でじっくり炊いた米だからな。あのなんだ、つまみのついたガスなんとかってやつ」

「ガスレンジ」

「そうそう。それの火加減を操るのがしんどかったけどよ、音を聞いてさえいりゃ、火の入り具合なんざすぐわかる」

 玄に炊飯器の使い方は教えていなかった。厨房の棚から土鍋を引っ張り出してきたのだろう。

「この蔓紫、ちょっと土臭いけど味つけが濃いからイケる。ホウレン草の煮びたしっぽい。──味噌汁も出汁が利いててウマい」

 こんな和の朝食を取るのは久しぶりだった。ここ最近は遅く起きて、朝昼兼用の食事としてインスタントラーメンばかり食べていたので、土鍋でふっくらと香ばしく炊き上げた米の美味しさが、胃の隅々に染み渡る。

 米が倉庫に積んであるのは知っていたが、それを炊いて食べる気にはなれないままでいた。亡き父を思い出してしまうから、だったのかもしれない。

「玄さんの料理、やっぱ染みるよ」

 でも、おにぎりは一個で十分だった。

「海苔も極上品だから、ちょっと炙ったらいい香りでよ。お前さん、やっぱりここは日本料理屋のままがいいよ。わいんばに変えるのは考え直してくれないかい? 俺が料理を作るからさ」

「もー、やだな玄さん、無理に決まってるじゃないですか」

 玄の言葉は軽くスルーしておいた。ここは改装して、翔太とワインバーをやると決めたのだ。そのためにも、早く玄をどうにかしなければ。

「そうだ。玄さん、昨日夢を見ませんでしたか? 身体の主の翔太に戻って、僕と話す夢」

「生憎だけど、俺は夢なんざ滅多に見ない性分でな。朝までぐっすり寝させてもらったよ。起きたら横にでっかい鼠の作り物がいて驚いたわ」

「ネズミ……?」

 それは、布団の横にあったカピバラのぬいぐるみだろう。ってことは、翔太はモフモフのぬいぐるみと寝ていたのか。いわゆる抱き枕ってやつだ。

 翔太がカピバラに抱きついて寝ている姿を想像し、剣士は頰を緩めた。普段はクールで見た目にも気を遣う翔太だけに、ギャップが面白い。

「なに笑ってんだい。さ、食ったら出かけるぜ」

「はい?」

「神楽坂を案内しておくれ。江戸の頃からどんだけ変わったのか、この目で確かめたいのさ。そうしねぇとこの世に未練が残る。思い残しがあると成仏できねぇからよ」

 おい、マジかよ……。

 剣士は頭を抱えたくなった。勝手に物事を進めようとする玄を、どう扱ったらいいのか見当もつかない。しかも玄は、夢の中で翔太の言動を見ていないという。乗り移られてしまった翔太がどれほど迷惑をこうむるのか、知る由もないのだろう。

「味噌汁、お代わりするかい?」

 途方に暮れる剣士には気づきもせずに、玄は明るく言ったのだった。




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